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長編小説『龍勢の風、草薙に鳴る』

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月18日
  • 読了時間: 68分


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プロローグ:風見

 木の鳥居をくぐると、いつも少しだけ温度が下がる。八月の光は容赦がないはずなのに、玉砂利の白と杉の影が、過剰な輪郭をやさしく溶かす。草薙神社の拝殿には、人の気配が薄く漂っていた。鈴緒に触れると、掌の汗が縄に吸われていく。二礼二拍手一礼。言葉にならないものを、風の側に渡す所作だと祖父は言っていた。

「風が決める。人は託すだけだ」

 草薙朔は、祖父・源十郎のその口癖を思い出し、境内の端に目をやる。そこには、黒ずんだ木製の箱が縛られている。龍勢の胴を固定する古い台、火床の遺物だ。今は使われていない。数年前、落下傘が想定外の軌道を描いた事故があり、奉納は中止になった。誰も怪我はなかったけれど、祈りが現実の規制に触れたとき、祭りはひとつの季節を失う。朔が東京に出たのも、その少し後のことだった。

 電話が鳴ったのは梅雨の終わりだった。父が倒れた、と妹の環が言った。間に合わなかったという報せは、線香の匂いに包まれた座敷で受け止めるしかなかった。父は寡黙だった。祖父の背を追い、龍勢保存会の手伝いを続けた人だった。台所に置きっぱなしの工具箱。新聞の端に残されたガムテープのべたつき。どれもが、火薬ではなく日常の匂いを持っている。

 葬儀が過ぎ、初盆の支度に追われ、少しだけ空が高くなったころ、保存会の志村兼三が訪ねてきた。頬の深い皺は、長年の風と火に削られてできた線に見えた。

「源十郎の孫っ子よ。戻ってきたか」

「一時的に。仕事は向こうで続けるつもりです」

「そうか。なら、これを預かってくれ」

 志村が差し出したのは、黒い布に包まれた巻物だった。布の色は煤の深さで、ところどころに火の粉が落ちたような斑点があった。

「祖父の……ですか?」

「お前の親父さんじゃ開けなかった。開けられなかった。源十郎が最後に封をした。『風が変わったら、これを解け』とよ」

 風が変わる、という言葉が笑い話に聞こえないのは、この土地で育った証拠だ。日本平から下りてくる風は、季節ごとにかすかな癖を変える。海の湿り、川の匂い、街の熱。龍勢の軌道を決めるのは設計と火薬の配合だけじゃない。最後に押すのは、いつも目に見えない指先だった。

「来年、奉納を再開できるかもしれん。安全基準が改訂される。若い技術者が入ってきた。神社も、もう一度、風を試したいと言っておる」

 志村はそう言って、巻物を卓上に置いた。布の端に結われた麻紐は、きつく二重にかけられている。朔は手を伸ばしかけて、引っ込める。開けることは、何かを決めることだ。映像の編集室で、最後のカットを選ぶときの、あの取り返しのなさに似ていた。

「いつでもいい。ただ、風は待ってくれん」

 志村は立ち上がる。襖際で振り返り、ぽつりと付け加えた。

「源十郎は、最後に失敗した。誰も口にせんだけで、あれは失敗だった。お前が開けるのなら、失敗の形から見てくれ」

 襖が閉まると、家の中の音が増えた。掛け時計、冷蔵庫、廊下を渡る風。巻物はそこにあり、朔はそこにいた。外で、一本の杉が大きく鳴って、どこかでセミが落ちた。

 その夜、朔は夢を見た。闇の底から浮かび上がる一本の白い線。上るほどに太くなり、やがて花のようにひらく。けれど花弁は紙ではなく、布でもない。見えない何かの、撓(たわ)みだけでできている。

 目が覚めると、窓の外に風鈴の音がした。朝の光は、まだ尖っていない。朔は巻物の前に座り、麻紐に指をかけた。風が変わったのか、自分が変わったのかはわからない。ただ、どちらでも、いいのだと思った。

第一章:途絶の年/帰郷

 草薙駅で電車を降りると、ホームの端に夏草が巻きついていた。小さな駅は、何度も見送ってきたはずなのに、戻ってきたときの匂いは別物だ。改札を抜け、商店街を抜ける。ガラス戸の中、扇風機が首を振り、焼きそばの鉄板がわずかに焦げる。中学生が部活帰りの顔でラムネを買っている。朔は歩幅を合わせるように、呼吸を遅くした。

 家は相変わらずだった。玄関の棚には、祖父が集めた古い火薬缶のラベルが並ぶ。英字と漢字が混じるラベルは、どれも時代遅れの気取った顔をしている。居間の畳は、祖父と父の座り癖のままへこみ、座卓には火傷の跡が二つある。子どものころ、ここで落下傘に文字を書いた。祭りの年、誰かの願いの言葉を。

 草薙神社の龍勢は、祈雨の伝承から来ていると祖父は言っていた。空へ伸びる線は祈りで、開く花は受け止めだ。願いは上に放つのではなく、広げて落とす。地上に戻す。その思想は、朔の仕事にもどこかで影を落としていた。映像はスクリーンに上げられるが、最後は観客の胸に落ちる。落ちない映像は、ただ眩しい。

 葬儀のあの日、保存会の男たちが線香の煙の向こうで肩を寄せ合い、朔を見る目は遠慮と期待の中間だった。「戻ってくるのか?」と誰も訊かない。そのかわりに「今年の風はむずかしい」とか「川があのあたりで曲がった」とか、風の話しかしない。問いは風の話に紛れ、返事もまた、風に紛れる。そういう土地だった。

 夜、朔は巻物の封をゆっくり解いた。布の中から現れたのは、黒い和紙を何枚も継ぎ合わせた細長い巻き紙。薄く、軽い。表紙には墨で「風洞」とある。祖父の書は、相変わらず頑固な起筆を持っている。

 一枚目をひらく。そこには、龍勢の胴の設計図が描かれていた。カラス口で引いた円と直線。火薬室、導火線、平衡板(トリム)。見慣れた構造のはずなのに、各所に赤い印が打たれている。印は、祖父の指の跡のように小さく確信的で、余白は潔い。図の端に、細い文字で書かれていた。

——風は測れぬ。されど、風の通り道はつくれる。

 次の紙には、竹の撓みを測るための簡易治具が描かれていた。竹を同じ条件で撓ませ、戻りの速度を測る。朔は思わず笑う。祖父はアナログの塊だったが、やっていることは実験工学だ。

 さらにめくると、紙の端が空白になっている箇所があった。上部に「禁——」とだけ書かれ、途中で途切れている。墨の濃さが他より浅い。筆が止まったのか、わざと空けたのか。朔は布に巻き戻し、深く息を吐いた。祖父の「失敗」の形が、ここにあるのかもしれない。

 翌日、朔は神社に向かった。境内では、宮司の八重樫瑞穂が草を刈っていた。額にかかった髪を手ぬぐいで拭い、朔に気づくと微笑んだ。

「お帰りなさい、草薙さん」

「ただいま戻りました」

「お父上のこと……残念でした。草薙家の火が絶えたように見えて、でも、火は絶えないものですね」

 宮司の言い回しは、いつも少し詩のようだ。朔は頷いた。

「保存会から巻物を預かりました」

「黒い巻物、ですね。志村さんが、あなたにしか開けないと言っていました」

「開けました。まだ全部は読めていません」

「急がずに。風は急ぎ足に見えて、実は待ってくれます」

 宮司は視線を遠くの杉にやり、続けた。

「奉納再開の件ですが、許認可の基準が厳しくなりました。技術者の月岡さんが、手を貸してくださることになっています。祈りの形は守りたい。でも、人の命はもっと守らないと。……そういう会議を続けています」

「祈りの形、と命」

「両方の編集長は、いつだって風です」

 そこに、白い軽トラックが入ってきた。降りてきた男は、作業着に眼鏡。手には風速計。月岡遼だった。彼は朔に向かって軽く会釈すると、境内の四隅に三脚を立てはじめた。

「あなたが草薙朔さんですね。月岡です。はじめまして」

「はじめまして」

「風の癖を、定量で取っておきたいんです。祈りに敵意はありません。ただ、祈りが相手に届くための手順を整えたい」

 言葉は乾いているが、声はやわらかかった。朔は、映像現場で何度も聞いた種類の声だと感じる。感情を押し殺すための平板ではなく、熱を内部に保存している声。

「祖父の巻物に、風洞という言葉がありました」

「風洞?」

「竹を撓ませ、戻りを見る。通り道はつくれる、と」

 月岡は一瞬黙り、笑った。

「面白い。祖父さんは、風を『流体』として触っていたのかもしれない」

「でも、巻物には空白がありました。『禁——』で止まっている」

「禁じ手か、禁足地か、禁則……。どれにしても、触るべきところに触れている」

 宮司が口をはさんだ。

「草薙さん、保存会に顔を出していただけますか。志村さんも、あなたに見せたいものがあるそうです。風は、誰かひとりの所有物ではありませんから」

 その帰り、朔は安倍川の土手に出た。川面を渡る風が、髪の根を撫でる。遠くでかすかに雷の音がした。雨は、まだ降らない。空に向かって、祖父がやっていた癖を真似て、指を立てる。湿りは上がり、風は下がる。線を描けば、東から西へ、わずかに角度をつけて吹いている。目をつむると、白い線が浮かぶ。あの夢の線だ。

 ポケットの中のスマートフォンが震えた。新聞記者の澪からだった。高校の同級生で、文化祭で一緒に映像を撮った仲だ。メッセージには短く、「戻ってきた?」とだけある。朔は「戻った」と返し、「龍勢のこと、また書くの?」と送る。澪は「もちろん」と返してきて、「でも、今回は祈りの話だけじゃ終わらない」と続けた。

 どんな話だ、と打とうとして、朔は手を止めた。風が、土手の上に置かれたペットボトルを転がし、草の影をちぎっていく。遠くで、誰かが口笛を吹いた。旋律は、どこにでもある流行歌のサビ。だが、風に切られて、知らない曲みたいだった。

 夜、家に戻ると妹の環が夕食を用意していた。冷やしトマトと茄子の味噌炒め、白いご飯。テレビの音を消して、二人で箸を進める。

「巻物、どう?」

「読んだ。全部はまだ」

「学校で、地域学習の授業に『龍勢』を入れたの。子どもたちは、上がるところより『落ちてくるところ』に興味を持ったよ」

「落ちてくるところ?」

「空から何が降りてくるのか、怖いけど見たい。自分の名前が降りてきたらうれしい。……落ちることを、受け止めたいのかも」

 朔は頷いた。祖父の言う「受け止め」の思想が、世代や言葉を越えて残っているのが、わずかに可笑しく、うれしい。

「保存会に行ってくる」

「行ってきなよ。おじいちゃんの友だち、みんな待ってる」

 環は箸を置き、「おかえり」と言った。何に対する言葉か、朔は問わなかった。ただ、その言葉が家の空気を変えた。風鈴が鳴り、二人は同時に目を上げた。

 玄関の方から、かすかな風。戸の隙間が、息をしている。


第二章:黒い巻物と禁じ手

 保存会の集会所は、神社の裏手、杉林の影が午後になると濃く落ちてくる位置にあった。古い平屋の引き戸を開けると、埃っぽい涼気が出迎えた。壁には色褪せた写真が並び、白黒の龍勢、笑っている若い祖父、火床を囲む見知らぬ顔。畳の上には低い長机が二つ、茶色の丸椅子がいくつか。水屋のステンレス流しが、静かに鈍い光を返している。

「おう、朔」

 志村兼三が、湯呑みを片手に腰を上げた。頬の皺の奥に、眠っていた火がゆっくり立ち上がるような目の光が宿る。

「来たか。座れや。……月岡くんも、もう来てる」

 振り向くと、作業着の男が簡易ホワイトボードの前に立ち、マグネットで固定した図面に何本もの赤い線を引いていた。月岡遼。境内で見たときと同じ落ち着きだが、今は目に測定器のような緊張が滲んでいる。

「草薙さん、こんにちは。今日は保存会の皆さんと、設計に関する“共通の言葉”を少し整えたいと思っています」

 共通の言葉。朔はその響きが嫌いではなかった。祖父は、言葉を少なくすることで通じ合う人だったが、現代は言葉を多くして誤解を減らす時代だ。どちらも風に似ている。多すぎても、少なすぎても、目に見えないまま通り過ぎる。

「その前にだ」

 志村が咳払いをひとつ置く。

「お前のじいさんの巻物のことを、皆に話せ」

 朔は鞄から布包みを取り出し、畳にそっと置いた。黒い布。煤の斑。麻紐は、昨夜からもう結び直してはいない。布を解き、巻紙を少しずつ広げる。畳の上で紙が呼吸するように鳴った。

「『風洞』。源十郎らしいな」

 志村が低く言うと、集会所の隅で団扇をあおいでいた男たちが、うなずくともなく視線を寄せた。祖父の名は、畳の上でもう一度、生き物になった。

「ここだ」

 朔は、墨の浅い文字の箇所を指で示した。‘禁——’で止まった空白。紙の白は、他の面よりわずかに新しいように見える。そこだけ時間がためらっている。

「禁、の先は何だろうな」

 月岡が膝を寄せて、目を細めた。

「禁手か、禁則か、禁足か」

「“禁釣”ってのもあったな」

 後ろで誰かが笑い、小さな笑いが連鎖してすぐに消えた。志村が口を開く。

「源十郎は、落下傘に手ぇいれたんだ」

 畳の上の空気が、少し重くなった。誰も団扇を動かさなかったが、風が止んだわけではない。音が少ない方向に、音が集まっていく。

「手を入れる?」

 朔が訊くと、志村は頷いた。

「落下傘の“開き”を、風じゃなく、人の側で整えようとした。……いや、そう言うと誤解になるか。『風を選ぶ』つもりだったのかもしれん」

「選ぶ?」

「風を読んで祈るのが、これまでの龍勢だった。源十郎は、読みの先に“仕掛け”を置こうとした。開く角度、布の撓み、骨の節、香の湿り……落下傘に埋め込む“間の工夫”だ。真ん中に小さな漏斗(じょうご)を作って、空気の流入を遅らせる。縁に見えん程度の重しを入れて、回転を抑える。紙の繊維を一枚だけ逆に貼って、ひらきの初速を抑制する……。どれも“禁じ手”って呼ぶほどのもんじゃない。だが、あの時は、ひとつだけやり過ぎた」

 志村は湯呑みを置き、目を落とした。

「“風を待つ”代わりに、“風をつくる”をやった」

 朔は月岡を見る。月岡は、眉間の皺を深くして、少しだけ微笑んだ。

「風洞の発想に近い」

「風洞?」

「文字通り“風の通り道”。じいさんは、落下傘の中央に細い筒を仕込んだ。筒、って言うと大げさだが、紙を巻いた細い嵩(かさ)。そこへ火床から登る熱の柱を通す。上昇流を、意図して“吸い上げる”。自然通風の逆手取りだ」

 志村が、指で空中に筒を描く。畳の上に、見えない線が立った気がした。朔の脳裏に、昨夜の夢の白い線が一瞬灯る。

「結果、どうなったんです?」

 朔が訊くと、志村は言葉を選ぶ間だけ、遠くの蝉の声が濃くなる。

「上がりすぎた」

 短い答え。長い余白。

「落下傘は、美しく開いた。誰も見たことのないほどにな。まるで布が息をするみてぇに。だけど、開いた高さが高すぎた。風の層が変わる、あの上まで行っちまった。地上の読みと、上空の読みは違う。ほんのわずかな北寄りの風に掴まれて、花は予定より遠いところに落ちた。人は無事だった。だが、“祈り”は外れた。受け止めが、できなかった」

 祈りが外れる。朔の胸に、その言葉が硬い鉛玉のように入ってきた。外すな、と祖父は言っていたわけではない。だが、外さないために、余白を残せ、と言っていた気がする。外さないことと、制御することは、似て非なる。編集室で、観客の涙の“場所”を作るときの、あの感覚。誘導と共鳴。祖父は、その境界を踏んだのか。

「それで、『禁——』の先は……」

 月岡が静かに続ける。

「『禁風』(きんぷう)かもしれませんね」

「禁風?」

「“風に禁じる”って意味じゃない。“風を禁ずる工夫”を、禁ずる——二重の禁。……推測ですけど」

 志村は小さく笑った。

「そうだな。あの夜の後、源十郎は巻物を閉じた。『風洞』の頁は残し、『禁』の先は空けた。……“やってはならねぇ工夫”がある、ってことだけ、残したんだ」

 集会所に風が戻った。団扇の紙が鳴り、隅の水屋で水滴が落ちる音がした。

「——で、だ」

 志村が姿勢を正し、畳に手をついた。

「もう一度やる。もう一度上げる。だが今度は、“風をつくる”んじゃねぇ。“風の通り道を用意する”。そっちだ。源十郎の“風洞”の頁は、残してくれとる。そこから先を、お前らの言葉で、いまの世の道具で、作り直す。祈りの形は守る。人の命はもっと守る。……そうだろ、宮司さん」

 いつの間にか、八重樫瑞穂が引き戸の外に立っていた。白い半襦袢に浅葱の袴、額の汗を手拭いで押さえながら、微笑む。

「ええ。私たちが守るべきは、祈りと命。どちらも“気配”からできているから、言葉がいる。だから、今日の話は嬉しい」

 月岡がホワイトボードに近づき、ペンをキャップから抜く。

「では、“風洞”の再解釈から、共有しましょう。三つの軸で考えます。『材料』『形』『手順』。材料は竹と紙、糊、水分。形は胴、落下傘、骨、縁の処理。手順は点火から開傘までの時間配分。ここに“測定”を足します。風速、湿度、温度、気圧、そして、地上と上空の“差”」

 朔は、自分の胸の底がゆっくり温まるのを感じた。祖父の直感の頁が、現代の言葉で組み直される。彼らの言葉で。編集室でやってきたことに似ている。誰かが撮った断片を、一本の流れにする作業。削るのではなく、通す。

「紙は何を使ってた?」

 月岡が問うと、志村が即答した。

「三椏と楮の合い。厚みは三番。冬紙。よく鳴く紙だ」

「湿りは?」

「夜露でやられるからな。前の晩に蔵から出して、朝の風にだけ当てた」

「糊は小麦?」

「小麦。祖父さんは糯米も混ぜた。粘っこくして、割れても繊維で持たせる算段だった」

「骨は?」

「竹の皮側を外に。芯は抜かない。撓みは治具で合わせた。……なぁ、朔。お前、あの治具、見たか?」

 朔は頷いた。巻物の図にあった、竹の撓みを測る治具。祖父の手の形をした器具。

「あります。家に。祖父の納屋に」

「持ってこれるか?」

「もちろん」

 月岡はペンを走らせ、ホワイトボードに「治具再現」と書く。続けて、もう一本、線を引いた。

「上空の風のデータは、当日、ドローンで取ります。上げる高さと時間で層が変わる。地上の風速計と、合わせて“差”を見る。……そして、『禁風』の逆、つまり“風をつくらない工夫”の徹底。落下傘の中央は開けない。漏斗は作らない。代わりに、縁の“撓み”で開きを揃える」

「縁の撓み?」

「紙の縁に、ごく微細な“撓み記憶”をつける。折筋じゃない。“撓み”です。竹骨の節で紙がわずかに遅れて引かれるように、繊維の方向をずらして貼る。あとは、糊の“薄さの地図”を作る。均一な強度は美しいが、開く瞬間は“不均一さ”が合図になります。最初に開いてほしいところは薄く、最後に支えるべきところは厚く。——これは“人が風にお願いするための構成”。風を殴らない。撫でる」

 撫でる、という言葉に、朔の胸がひびく。祈り方の動詞が、構造の動詞になる。祖父の指先が、紙の縁を撫でる光景が浮かぶ。

「安全の話をしましょう」

 八重樫が一歩進み、畳に膝をついた。

「許認可の基準は、昨年よりも厳格になりました。火薬量の上限、落下地点の半径、避難計画、医療待機、予備日程の設定……。『祈り』の時間は、行政の言葉で『計画』に訳されます。それを、嫌わないでいてください。翻訳の仕事は、神職の務めでもあるけれど、現場の皆さんとの“共同の祈り”でないと意味がない」

 志村が頷いた。

「避難ルートの図を、今年は子どもにも読めるように書き直そう。絵にする。色で塗る」

「記者の視点も、共有したい」

 入口の陰から澪が顔を出した。いつの間にか来ていたのだ。肩から布のトートを提げ、ノートを抱えている。

「書かせてほしいのは“失敗の形”です。成功は、誰もが美しく語ります。でも、私たちが向き合っているのは“外れた祈りの残骸”でもある。そこに、今年の意味がある。新聞の紙面は、祈りを“公共”にする場だと思ってる。だから、禁じ手の話も、“禁風”の頁も、隠さず書きたい」

 志村は目を細め、ゆっくりと笑った。

「お前は昔から、痛いところを真っ直ぐ突くな」

「痛いところは、痛いまま光に当てたほうが治りが早いから」

 澪の声は柔らかいのに、刃先がある。朔は、文化祭の編集室で夜を明かした記憶を思い出した。映像の“傷”を残すか消すかで彼女と言い合った夜。あの時、傷を残すことに決めて、観客が泣いた。あれは、風を撫でる選択だったのか。

「——よし」

 月岡が手を打った。空気が一度、緊張から解放される。

「“今日の宿題”を決めます。朔さんは、治具と巻物の高解像度写真。志村さんは、紙と糊の配合の“口伝”を可能な限り文字に。宮司さんは、許認可のチェックリストの最新版。澪さんは、‘禁’の頁についての当時の証言集め。僕は、地上と上空の風の相関データのモデルを作ります。……そして、皆で“言葉の辞書”を作る。『祈りの形』を、紙の厚さに、『受け止め』を、半径と動線に。翻訳は、美しい裏切りになり得る」

 美しい裏切り。朔は、それを胸の中で反芻する。裏切るのは、古い言葉か。古い“やり方”か。いずれにせよ、祖父の頁は空白のままだ。そこに、いまの彼らの言葉を置くことが、裏切りであり、継承である。

 集会所を出ると、夕立の匂いがした。杉の葉が湿り、遠くで雷が鳴る。安倍川の土手へ回り道をし、朔は風に指を立てる。湿りは上がり、風は下がっている。白い線が、また浮かぶ。指先が、ほんの少しだけ震えた。

     *

 夜、納屋に入る。祖父の棚は、整然と乱雑だ。古い火薬缶、竹の束、紙の巻、糊の壺。金槌、鉋、カラス口。奥の壁に掛けてあった布袋の中から、朔は治具を取り出した。木の枠に、竹をはめ込み、一定の力で撓ませる仕掛け。戻りの速度を目盛りで測るための、小さな金属の針。指で触れると、木はまだ油を吸っていた。祖父の手が、ここで止まり、ここで動いた。

 スマートフォンのライトで巻物の“風洞”の頁を撮る。細部が、画面上で別の表情を見せた。紙の裏透け、墨の濃淡、筆の入り。‘禁’の字の“点”が、ほんの少し長い。祖父のためらいが、筆の下に残っている。写真をクラウドに上げる。月岡に送る。澪にも送る。数秒後、返信が鳴った。

 《受け取りました。美しい。禁、の点が長いの、気づきました?》

 澪だ。朔は短く《気づいた》と返し、続けて《長い点は、最後の迷いか、それとも、最初の決意か》と打った。澪からは《両方》と返ってきた。画面の黒の向こうで、彼女がわずかに笑っている気がした。

 軒先の風鈴が鳴る。環が台所から顔を出す。

「雨、来る?」

「来る。強いやつ」

「じゃあ、明日、子どもたちに“雨の授業”できるかな。雲の高さ、風の層。龍勢の話に繋げられる」

 環は嬉しそうに言って、また引っ込んだ。朔は治具を膝に置いて、祖父の指を真似て枠を撫でる。木は、まだ教える準備ができている。彼もまた、準備ができているのだろうか。

     *

 翌朝、神社の境内は、雨に洗われて光っていた。杉の幹から褐色の水が筋になって落ち、玉砂利が鈍い白になっている。月岡が三脚を拭き、風速計を拭い、濡れたウレタンの匂いが立ち上る。志村は軒下で紙を広げ、湿りを指で測っている。紙は、湿るほど鳴きやすく、美しく、そして、壊れやすい。

「湿りは、いまは敵だ」

 志村が指先を見せる。紙の繊維が指の跡にわずかに貼り付いている。

「でもな、紙は一度濡れたあとに、強くなる。繊維が腹を括る。——人間と同じだ」

 宮司が笑った。

「なら、今日の雨は祝福ですね」

「祝福も、予定表に書けるといいんだがな」

 月岡が風速計を立てながら、ぼそりと言う。朔は笑い、治具を出した。志村が目を丸くする。

「おお……それだ、それだよ。源十郎のやつ」

 竹をはめる。撓ませる。戻りを見る。針が揺れて、静かに止まる。一本、また一本。竹は、見た目の均質さを裏切る。微妙に違う。違いは、音の高さでわかる。撓む音、戻る音。祖父は耳で選別した。朔は耳を澄ませる。自分の耳が、祖父の耳に届くかどうか、不安になる。突然、志村が言った。

「目をつむれ」

 言われるまま目をつむる。雨が軒から落ちる音が強くなる。杉の葉が擦れる音。遠くの車の走る音。志村の声が低く、湿りに通る。

「音は、撓みの“速さ”だ。戻りの“迷い”だ。お前の耳は、映像屋の耳だろ。音を“意味”で切る耳じゃなく、音を“時間”で切る耳だ。時間の耳は、こいつに向いてる」

 朔は、竹の撓む音を“時間”で切る。撓みの時間、戻りの時間、迷いの時間。針が止まる時刻だけでなく、止まる前の躊躇の長さ。どの竹が、祈りを真ん中で受け取るか。どの竹が、縁で最後の支えになるか。目を開けたとき、志村が頷いていた。

「選べる」

 月岡が横から、手帳に短くメモする。

「“時間耳・選別”。辞書に入れておきます」

「辞書?」

 朔が聞くと、月岡は笑った。

「“共通の言葉”の辞書。工学と言い伝えと信仰の、翻訳辞書です」

 翻訳辞書。朔の胸が軽くなる。言葉は、裏切ることがある。でも、翻訳は、誠実な裏切りたり得る。

     *

 午前の遅い時間、雨はあがり、雲が高くなった。澪がやって来て、傘をたたみ、ノートを開く。

「“禁風”の話、もう少し聞かせて」

 志村は、落下傘の骨を一本、手に取り、撫でた。

「源十郎は、風の柱に甘えた。いや、甘えようとした。上昇流を“呼び込む”仕掛けだ。あれは、神様に近づくための梯子のつもりだったのかもしれん。だが、梯子は、上にかけるもんだ。横に伸ばすもんじゃねぇ。横に伸ばせば、人の頭の上をまたぐことになる」

「“またぐ”」

 澪がペン先を止める。

「祈りが人の頭をまたぐのは、失礼だ」

 志村の言葉は、硬く、柔らかかった。

「だから、禁じた。……禁じたのに、頁に残した。残したから、私たちは今日、その言葉の上で、別の梯子を作れる」

 澪はノートを閉じ、しばらく黙って境内を見た。杉の幹に、雫がまだ残っている。拝殿の鈴緒が濡れて、色が深い。

「ありがとう」

 澪は小さく頭を下げた。

「紙面では、“禁風”の文字はそのまま出す。でも、センセーショナルな見出しにはしない。“梯子”の話を書く。……読者に、祈りが“戻ってくるもの”だと伝えたい」

 戻ってくるもの。朔は、祖父の「受け止め」を思い出す。空へ伸びる線と、地上にひらく花。上がることは、戻ることの前段だ。映像も同じだった。スクリーンに上げて、観客に戻す。

     *

 夕方、集会所に戻って、小さな試し貼りをした。縁の撓み記憶。糊の薄厚の地図。紙の繊維の向きを、わずかにずらす。志村が指で押さえ、月岡が時間を測る。朔が記録する。澪が写真を撮る。宮司が祈りを、言葉の長さで測る。

「祈りの言葉は、何秒くらいがいい?」

 月岡が冗談めかして問うと、宮司は真顔で答えた。

「“願い”は短く、“受け止め”は長く」

 皆が笑った。笑いは、畳の上でよく転がる。笑いは、風の練習になる。

 外が薄暗くなるころ、環が差し入れを持って来た。おにぎりと漬け物。冷たい麦茶。

「先生、子どもたちに“風の層”の話をしてきた」

 環は嬉しそうに報告する。

「“上の風と下の風は、同じじゃない”って言ったら、みんな『なんで?』って。だから、階段を使って説明した。上に行くほど廊下の風が違う学校があるって」

 朔は笑った。環の授業は、いつも物が見える。

「“禁風”の話も、いつか子どもたちにする?」

「するよ。『やっちゃいけない工夫もある』って。理由も一緒に。——“またぐのは失礼”って」

 志村が、目尻を指でこすった。

「やれやれ、小学生に説教される未来が見えるな」

 笑いがまた転がる。月岡が時計を見た。

「今日の“宿題”は、良いところです。皆さん、お疲れさまでした。明日は、上空風のテストをします」

「ドローン、落とすなよ」

 志村が釘を刺すと、月岡は肩をすくめた。

「風に聞いておきます」

     *

 家路、朔はポケットの中の巻物の写真をまた開いた。‘禁’の点が、夜の黒の中で、ひとつの星みたいに見える。長い点。短い言葉。大きい余白。彼は歩きながら、親指で画面を拡大し、縮小し、目を閉じた。点は、祖父の息継ぎだ。余白は、彼らの呼吸の場所だ。そこに、いまの言葉を置く。置いて、風に渡す。渡して、戻してもらう。

 玄関に入ると、環の「おかえり」が、今日も空気を変えた。風鈴が鳴り、台所から湯気がのぼる。夕食の匂いの向こう側で、雨の名残りの湿りが、まだやわらかく家を包んでいる。朔は、祖父の棚に向かい、治具を静かにもどした。

 明日の風は、まだ誰にもわからない。だが、通り道はもう少し見える。“禁風”の頁は、今夜も空白のまま、灯りを吸っている。空白は、怖くない。空白は、選べる。空白は、受け止めのための余白だ。

 彼は窓を開け、指を立てた。夜風が指を撫でる。撫でられながら、彼は小さく呟いた。

「風は、決める。人は、託すだけだ」

 祖父の声が、静かに重なった気がした。遠くで、一本の杉が大きく鳴り、どこかで、セミが遅れて鳴いた。


第三章:風洞の教え

 朝の境内は、濡れた杉の香りがまだ低く漂っていた。雨上がりの空は薄い青に裂け目のような白雲を浮かべ、鳥居の上を横断していた。拝殿脇の空き地に、折りたたみテーブルが三つ、簡易テントが一張り、三脚が四本。月岡は早くから来て風速計と温湿度計を校正し、志村は紙束を抱え、宮司は許可書類のバインダを机に並べていた。

「朔、これだ」

 志村が厚手の封筒を差し出した。古い茶色の封筒には「紙・糊・口伝(案)」と油性マジックで書かれている。中には、志村の字でびっしりと書かれたメモが入っていた。三椏・楮の混比、粘度の目安、季節ごとの水の含ませ方、糊の炊き方、塩梅の見極め。ところどころに赤字で「やらない」「禁(失敗)」と記されている。

「“禁”って書いてあるところは?」

「やっちゃいけねぇところだ。例えば、夏に紙を急乾かしすると表面だけが固まって、中身が泣く。泣く紙は、声はいいが、破けやすい。だから“急乾は禁”。それから、糊に砂糖を混ぜて“延び”を出すやつが昔いたが、虫が喜ぶから禁だ」

 志村はおどけて肩をすくめた。朔は封筒を覗き込みながら、メモの余白に祖父の巻物の切り抜きを思い出す。そこに続く言葉を、今度は彼らが書き足している。

「“辞書”、少しずつ出来てきました」

 月岡がホワイトボードを運び、太いペンで見出しを走らせる。

【共通語彙(ver.0.3)】・“受け止め”=落下予測半径(R)と動線(D)の計画。・“撓み記憶”=紙縁の微小塑性を残すこと。折り目ではない。・“時間耳”=竹の撓みと戻りを、時間の“迷い”で選別する方法。・“風洞”=風を生む仕掛けではなく、風を通す道筋の設計。・“禁風”=風を作ろうとする工夫を禁ずる。梯子を横にかけない。

 志村が「梯子、うまいこと言うな」と笑うと、宮司がバインダから一枚を取り出して机に置いた。

「今日の主題は三つです。ひとつは“紙の試し貼りの系統化”。ふたつ目、“地上と上空の風の差の測定運用”。三つ目、“避難計画を子どもにも読める図にする——『受け止め図』の試作”。許認可上も、広報上も、ここが要になります」

「子どもでも読める図、ね」

 朔は頷いた。映像の仕事でインフォグラフィックを何度も作ってきた。情報は削るのではなく、意味を階層に分ける。読ませたい順に景色を作っていく。祖父の“受け止め”を、図で表す。

「まずは、上空の風を取る」

 月岡がドローンをケースから出し、プロペラを取り付ける。バッテリーの残量を確認し、気流の安定を待つ。澪がいつの間にか現れ、メモ帳と小型カメラを構えた。

「記事タイトルは決めた?」

 朔が冗談めかして訊くと、澪は「決めてない」と首を横に振る。

「けど、紙面の柱は決めた。“祈りを翻訳する人たち”。あなたたちをそう書く」

「持ち上げすぎないでくれ」

 月岡が笑い、スロットルをほんのわずかに上げる。ドローンは砂利の上からふわりと浮き、杉の枝に触れない高さでホバリングした。風速の数字がタブレットに並ぶ。地上1m、5m、10m……そして50m、100m。湿度と温度、気圧もグラフに描かれる。

「上空は東成分が少し強い。地上は南西。層の境目はだいたい80m付近。実際の上げ高さは、火薬量の上限を守ると70〜90mのレンジに収まるはず。すると、ちょうど層の境目に当たりやすい。——ここで“横の梯子”をかけると、掴まれる」

 志村が短く息を吐いた。

「やっぱり、あの夜は上に引かれたんだな」

「そうです。上昇流を吸い上げる仕掛けが、層の境目で風の指を引いた。だから“つくらない”。代わりに、降りてくる設計にする。落ちることを最初から織り込む。——これは宗教的にも、設計思想的にも一貫してます」

 宮司は「落ちることを受け止めるのが祈り」と、静かに繰り返した。

「では紙」

 志村は水屋の脇から紙の束をいくつか持ってきて、机に広げる。三椏多め、楮多め、冬紙、夏紙。それぞれに小さなラベルがついている。糊も並ぶ。小麦糊、冷ましたて。糯米を混ぜたもの。ほんの少し寒天を足したもの。

「今日は“撓み記憶”のテストをする。縁の糊を薄くする“薄地図”、繊維の方向をわずかにずらす“繊維逆目”、骨の節位置を半目ずらす“半節”。それぞれ単独と組み合わせ。十二パターン」

 朔はノートを開いた。表を作る。縦軸にパターン、横軸に“開きの順序”“開きの安定”“破断の兆候”“音”“時間”。時間はミリ秒まで記録するが、最終的な“評価”は人の感覚も残す。数字の合間に「気配」を書ける欄も用意した。

「気配?」

 澪が覗き込むと、朔は笑った。

「祖父の巻物で一番強いのは、図じゃない。余白にこぼれた、あの“気配”だから」

 志村が嬉しそうに頷く。

「源十郎もそうだった。“紙が鳴く”とか“糊の息”とか、そういう言葉を残す。数字じゃないが、数字に先行する合図ってもんがある」

 テントの下、実験は小さな儀式のように始まった。志村が紙を切り、朔が薄地図を描き、月岡がタイマーを構え、宮司が破断時の飛散に備えてガードを持つ。澪は一歩引いて全体の写真を押さえ、ときどき近寄って細部を撮る。

 最初の一枚は、薄地図のみ。縁の一部の糊を薄くする。骨をセットし、志村が指で合図を送る。月岡が「よし」と小さく言って、引く。紙は鳥の羽のように躊躇してから、意図した方向へわずかに先に開いた。音は低く、短い。

「いまの“気配”は?」

 澪が問うと、志村は「ためらいの後押し」と表現した。朔はそのまま欄に書く。ためらいの後押し——開く直前、紙が一瞬ためらい、薄い部分が“押される”ように先に滑る感じ。

 二枚目は繊維逆目のみ。開きは速いが、終盤の収束に少しばらつきが出た。音は軽い。志村は「子どもの笑いの後の息」と書かせた。わかるようで、わからない。だが、欄に残す。

 三枚目、半節。骨の節を半分ずらす。開きが美しい。ゆっくりと均一に広がり、最後に腰を据える感触。音は一度だけ強く鳴り、すっと消える。宮司が「一礼」と呟き、皆が笑った。

「組み合わせよう」

 薄地図+半節。繊維逆目+薄地図。三者合わせ。破断はない。だが、三者合わせは開きが早すぎ、終盤の安定が揺れた。志村は首をかしげる。

「“やり過ぎ”は、いつも美しい。だが、美しいだけで足りない」

 朔は欄に「美しさの過剰(要抑制)」と書き、祖父の“禁”の点を思い出す。

 昼過ぎ、風が少し強くなった。テントの天幕がパンと鳴る。上空の風は東寄りが増し、層は下がってきている。月岡がグラフを見せた。

「午後の二時から四時が危ないレンジ。層が下がると、地上の読みとズレる。——奉納当日は、午前の上げに寄せたスケジュールにしましょう」

 宮司が手帳に赤丸を付ける。

「祭礼の式次第も、時間を前倒しにするには関係者への調整が必要です。でも、やります。祈りは時間の中にあるから」

「“受け止め図”、そろそろ描こうか」

 朔は、持参したタブレットをテーブルに置き、白いキャンバスに黒い線を引いた。境内の正面図。鳥居、拝殿、杉、火床の位置。避難動線は三色に分け、子どもが直感的に追えるよう矢印は太く、カーブは丸く。テント、救護所、水、消火器の位置もアイコンで示す。落下予測半径Rは、風のデータに応じて二重円で表現。内側は通常、外側は最大想定。言葉は少なく、絵に任せる。

「よく出来てる」

 澪が身を乗り出す。

「記事でも図を使っていい?」

「もちろん。でも、当日の“更新”が必要だ。風は動くから、図も動いた方がいい」

「動く図」

 月岡が呟き、笑う。

「ライブ・マニュアル。QRで当日の更新が読めるようにしよう」

 宮司が「神社の掲示にもQRを貼ります」と丁寧に書き込む。

 そこへ、保存会の若手が二人、汗を拭きながら走ってきた。髪は短く、腕は日焼けしている。

「志村さん! 火床の柱、一本割れてました。十年前のやつ、そのままにしてたので」

「おう、見せてみろ」

 境内の隅、砂利の上に横たえた柱は、木口に蜘蛛の巣のような細い割れが走っていた。真ん中ではなく、やや端。志村はしゃがんで、指の腹で割れを撫でた。

「“乾き割れ”だ。雨の後に急に乾いたな。危ない。交換だ」

「代えの材料は?」

「ある。蔵から出す。ただ、組み直しの時間はかかる。安全優先。——お前ら、“口で待つ風”は信じるなよ。“手で待つ風”をやれ。手は手順だ」

 若手が「はい!」と返事した。言葉の熱が、境内の湿りに溶けていく。

 午後、雲が濃くなり、またひと降り来そうな空気が流れてきた。実験は一時中断。皆でテントの下に入る。冷たい麦茶が回り、環が持ってきたわらび餅が机の上に置かれた。

「先生、子どもたち、図で目が変わったよ」

 環は朔の肩越しに“受け止め図”を見て言った。

「“落ちてくるところを見る”って言ってた子が、“みんなで受け止める場所に行くんだよね”って。言葉が変わると、意識が変わるね」

「言葉が先に行くことが、時々ある」

 宮司が頷く。

「祈りは、言葉が先に立つ。体は後から追う。だから、言葉を用意するのは、大事な下ごしらえ」

 雷が遠くで鳴った。風は冷たく、濡れた杉の匂いがまた強まる。テントの屋根を叩く最初の大きな粒が、音に輪郭を与えた。

「——会議、やる?」

 澪が笑って言う。皆が笑い、自然と円になった。志村が口火を切る。

「今年の“禁”の線引きを、皆で確認する。“風をつくらない”。“上昇流を使わない”。落下傘中央に漏斗を作らない。骨の節に仕込みを入れない。糊に重石を混ぜて回転を殺さない。紙の縁に重みを留めない。……代わりに、“撓み記憶”と“半節”で開きを揃える。——異論あるやつ?」

 誰も手を上げなかった。月岡が付け加える。

「“禁”は“怠け”を意味しない。やらないからこそ、やることが増える。上空風の測定、時間帯の最適化、紙と骨の調整、受け止め図の機動更新……やることは山ほどある」

「新聞は“禁”の話、どう扱う?」

 志村が澪に問う。澪は短く答えた。

「見出しではなく、本文の骨にする。“禁”は失敗の遮蔽ではなく、失敗への通路。梯子のかけ方の話として書く」

「梯子」

 志村が三たびその言葉を味わうように言った。

「梯子を横にかけるな、か。——源十郎、聞いてるか?」

 雷鳴がやや近くなった。雨脚が強まり、砂利の上に丸い弾痕が増える。テントの中は人と紙と木の匂いで満ちて、朔はふいに祖父の納屋の気配を思い出した。手の届く距離に道具と材料と人の息がある、あの密度。

「朔、録れてるか」

 月岡が笑う。朔はタブレットの録音ボタンを指で示して頷いた。

「全部、録ってる。“辞書”に起こす」

「“辞書”に、“笑い”の項目も作っておけ」

 志村が言うと、環がすかさず「“笑い”は風の練習」と書いて、皆が小さく拍手した。

 夕方、雨が上がると、空は洗い流されたように澄んだ。上空の風は西へ寄り、層の境目は再び上がった。月岡が最後にドローンを上げ、データを保存する。境内の端では若手が新しい柱の据え付けにかかっている。木槌の音が乾いた空に響き、鳥居の影が長く伸びた。

「ここから、試射の段取りに入る」

 月岡が皆を見渡す。

「本番の前に二回。小さく一回、少し大きく一回。安全区域を確保し、受け止め図は試射版を作る。地元に周知。——朔さん、映像も“試写”をやります? 初見の人に見てもらって、読み順を修正する」

「やろう。紙面の読者の目線も借りたい」

 澪が頷き、「地元の保育園の先生に頼む」と電話帳をスクロールしはじめる。宮司は自治会の連絡網を手に取り、志村は倉庫の鍵を腰に提げ直した。

「——行くぞ」

 志村が言った時、朔はふと境内の端に立つ古い火床の台に目をやった。黒ずんだ木。祖父の時代の名残。そこに手のひらを当てると、ざらつきの向こうから、温度がじんわりと返ってきた。湿った木が、ゆっくりと乾いていく熱。祖父の“禁”の点は、たしかに長い。だが、その長さは“迷い”の長さであると同時に、“待つ時間”の長さだ。待つことが、通り道を描く。

「おい、朔」

 志村の声に振り向く。

「手伝え。柱の“直角”、お前の“映像の目”で見ろ」

 朔は返事をして駆け寄った。水平器の泡はわずかに右に寄り、柱の足元に薄い紙を挟む。泡が真ん中に戻る。柱は、空へ真っ直ぐに伸びた。

     *

 夜、家に戻ると、環は台所で水出しの麦茶を仕込んでいた。冷蔵庫の音、換気扇の低い唸り。二人で簡単に夕飯を食べ、居間の畳で向かい合う。朔はタブレットに今日の“辞書”の項目を整理し、写真や音声を紐づけた。環は職員室向けに“受け止め図・学校版”のプリントを作る。避難訓練のワークシートと絡めて、子どもたちが自分の言葉で図の意味を書けるように欄を作っていた。

「うちのクラス、今年の“祈りの言葉”を考えたいって」

「何を祈る?」

「“みんなで受け止められますように”。たぶん、それが最初」

「いいね」

 窓の外で、風鈴が鳴った。昨日よりも軽い音。湿度が下がったのだろう。朔は祖父の巻物の写真を開き、“禁”の点をまた拡大した。点は夜の中で小さな星のように光り、余白は宇宙のように大きい。そこに、彼らの言葉が、少しずつ置かれていく。

 メッセージが鳴った。澪からだった。

《保育園、OK。試射の日の午前、先生が子どもたち連れて来られるって。受け止め図の“読む順序”を、子どもの視線で試そう。》《あと、“禁風”の小見出しは“梯子を横にかけない”で行く。》

 朔は《了解》と返し、《“笑い”の項目も辞書に追加した》と付け加えた。澪から、すぐにスタンプが返ってくる。笑って泣いている顔だ。彼は少し笑い、画面を閉じた。

 天井の木目がゆっくり流れ、祖父の声が遠くでかすかにする気がする。「風は決める。人は託すだけだ」。託す、の中には準備が含まれる。託すからこそ、準備がいる。準備は、風洞の内側を掃くこと——風を作らず、通すこと。

 電気を消すと、部屋の暗さが柔らかく寄ってきた。外では、杉が息をしている。明日の風は明日の風。けれど、通り道は、もう描きはじめた。長い点の先に、短い線を、一本ずつ。

 朔は目を閉じ、指を立てる癖を布団の中で真似した。風は、指を撫でた。撫でられながら、彼は眠りに落ち、夢の中で白い線がまたひらいた。今度は、上に伸びるほどではなく、地に広がるほどに、美しく。受け止めの場所が、静かに増えていく夢だった。


第四章:許可と祈りの距離

 朝いちばん、宮司・八重樫瑞穂の机に、バインダが三冊積み上がった。背表紙には油性で太く「安全計画(案)」「避難・医療動線」「関係機関連絡網」とある。境内に差す光はまだやわらかいが、紙の束はすでに夏の午後みたいに重い。

「今日が山です」

 宮司が静かに言った。声は穏やかだが、紙の端を揃える動きには微かな切迫があった。

「市の危機管理課、消防、警察、保健所。四者調整を一気に通す。——“祈り”の形を“手順”の言葉に、最後まで翻訳しましょう」

 志村は腕を組み、「翻訳は裏切りで、誠実な裏切りで……だったな」と笑ってみせた。月岡はホワイトボードに今日の議題を書き出し、朔は“受け止め図(ver.0.9)”をプリントして透明ファイルに挟む。澪は肩に小型カメラ、環は学校版のワークシート束を抱えて入ってきた。

「子どもたちの“読む順序”フィードバック、持ってきたよ」

 環がプリントを差し出す。“①赤の道→②水色のひとやすみ→③緑のひとだまり”。彼らが描いた矢印は太く、曲がるところに小さな丸が描かれている。「ここで見上げる」というメモが添えられていた。

「“見上げる”を手順に入れるか」

 朔がつぶやく。見るための時間。受け止めるための姿勢。避難図に“余白の時間”を入れる発想は、役所にどう届くだろう。

「届かせます」

 宮司は即答した。

「“立ち止まる”は危険に見えるが、管理された“立ち止まり”は混乱の防止になる。見上げる行為は“祈り”と“確認”の両方を満たします。——言葉にします」

     *

 午前十時。市役所・危機管理課の会議室。冷房がよく効いて、壁の時計の針がやけに乾いた音を立てている。長机の中央に、宮司のバインダと“受け止め図”、月岡の風データ、志村の「紙・糊・口伝(案)」が並んだ。

 担当係長は四十代半ば、めがねの奥の目は親切で慎重だ。最初に資料を上から順にめくり、言った。

「まずは、ありがとうございます。——“祈りの翻訳”という言い方は、個人的には好きです。ただし、私の役目は“リスクの翻訳”です。祈りが社会に接続されるときの摩擦を、先に測る」

 月岡が頷く。

「“禁風”は徹底します。上昇流を利用しない。落下傘中央に仕掛けをしない。落下予測半径Rは、地上・上空の風差モデルで動的に見直す。実測はドローンで二時間前から、十五分間隔。——当日の“ライブ・マニュアル(QR)”で避難図も半径Rも更新します」

「QRの更新頻度は?」

「十五分。風の層が下がる時間帯(二時〜四時)は五分」

 係長はメモに“5min”と書き、顔を上げた。

「では“立ち止まる”は、いつ、どこで?」

 宮司が“受け止め図”を示す。境内に三つの“ひとだまり”を設け、最短動線ではなく“最適動線”へ人の流れを誘導する。拝殿前ではなく、杉の列の手前。鳥居の前ではなく、左右の玉垣の陰。そこに“見上げる”ための印を置く——丸い石を三つ、等間隔に埋める案。足元の目印は子どもが喜び、同時に大人の速度を落とす。

「“見上げる石”ですね」

 係長は笑わず、しかし否定もせず言った。

「人流シミュレーションは?」

「簡易モデルですが、作りました」

 朔がタブレットを開き、アニメーションを再生する。鳥瞰図の境内に、小さな点が流れては止まり、丸い石の場所でわずかに背が伸びる(見上げる)。点はふたたび動き、受け止め半径の外側で広く散る。画面右上には“風層:高”“R通常:35m/最大:52m”“更新:00:05”と表示。係長はしばらく見て、「良いですね」と小さく言った。

「“見上げる”に意味があると伝われば、人は雑に走らない。——ただし、QRが読めない人はどうする?」

「掲示板を境内三か所に。手でめくる“パタパタ板”の更新を役員が担当します」

 宮司が答えると、志村が「手で待つ風、だ」とつぶやいた。係長は頷く。

「消防とのすり合わせで、半径Rと消火・救護導線の交錯を詰めてください。——総じて、危機管理課としては“概ね妥当”。ただし条件付き。試射二回の結果と、当日の風の“リスケ判断権限”の明確化。誰が、何分前に、どうやって“やめる”を決めるのか」

 部屋が少しだけ硬くなった。誰が、やめるか。

 宮司は一呼吸置いて、まっすぐ言った。

「私です。宮司が“やめる”を言います。——祈りの名のもとで危険を選ぶことはしません。基準は“上空風の層が70m以下に下りた場合”“突風の予測が確からしい場合”“Rが受け止め図の最大を超える場合”。——迷うときはやめる。迷わないときだけ、やる」

 係長は、短く、はっきりと頷いた。

「いいですね。——“やめる責任”が宣言されることは、社会にとって最大の安全です。署名欄に、宮司名で」

 ペンの音が静かに響いた。祈りは、ひとつ現実に近づいた。

     *

 消防の会議室は、赤いヘルメットと訓練用の人形が壁に並ぶ場所だった。担当の隊長は五十代、日焼けした顔に笑い皺が深い。

「“禁風”はありがたい。上に引くやつは、たとえ成功しても腹が冷える。地上の読みが効かなくなる」

 月岡が“風差モデル”を説明し、志村が火床の更新(柱の交換、アンカーの増し締め、火床の周囲の砂利入れ替え)を報告する。受け止め図の消火器位置は、隊長が一本一本指差し確認し、角度まで指定した。「この角度からなら人が被らない。ここは“風下”の消火器の方が先に利く」

「医療は?」

「救護テントを“見上げ石”の向こう側に。見上げる場所を通過してからの動線に置きます。——“見終えてから”救護へ」

 宮司の説明に、隊長は眉を上げた。

「“見終える”を手順に入れたのか」

「はい。“見る”は事故を起こす行為にもなり得ますが、制御された“見る”はパニックを抑えます」

 隊長は腕を組んで、天井を一度見てから「面白い」と笑った。

「図面の“意味”が通ってる。——ただ、現場では“見上げる”が“立ち止まり過ぎる”に変わることがある。役員をそこに立たせろ。『はい、ありがとう、次は右へ』って、声を出す人間が必要だ」

「“声”」

 朔がメモに書き足す。辞書に入る言葉だ。人を動かすのは、矢印だけじゃない。声の質、声の方向、声の高さ。祖父の“耳”が、別の形で呼び戻される。

「試射の日程は?」

「一回目、今週末の午前。二回目、来週半ばの午前。——どちらも風の層が高い時間帯に寄せます」

「了解。隊員を一個分隊出す。——終わったら、“やめる会議”もやろう。やらない検討をちゃんとやるのが、やる検討よりむずかしいときがある」

 “やめる会議”。澪が小さく頷き、ノートに丸をつけた。

     *

 警察の窓口は、冷たくも温かくもない“手続きの色”をしていた。交通規制の範囲、警備員の配置、ドローン飛行の際の第三者上空回避策、撮影と報道の位置。担当警部補はチェックリストを読み上げ、宮司がひとつずつ“翻訳”して返す。朔は“報道の視線”について聞かれ、澪と顔を見合わせた。

「報道は“見る権利”を持っていますが、見せ方は“受け止め”に従います。——撮影の位置は“見上げ石”の外側。受け止め図の更新に合わせて移動します」

「SNSは?」

「QRの更新と同時に、神社公式で“現在の半径R”“見上げ石の位置”“役員の声の方向”を短く流す予定です」

 警部補は「役員の声の方向?」と首を傾げた。月岡が“声の矢印”を地図に描いてみせた。拡声器の指向性、反響の方向、車道からの騒音。矢印は紙の上で音の川になり、警部補は少し驚いたように笑った。

「そこまで考えるんだな。——認めます。あとは当日、私が“やめる”が必要と判断したときの連絡ルート。宮司さんから直で私に。逆も」

「承知しました」

 短い握手。書類に控えめな印がついた。

     *

 保健所は、白と銀の匂いがした。救護の配置、熱中症対応、AEDの位置、医師・看護師の待機、搬送ルート。担当の保健師は柔らかな口調で、しかし厳密に問う。

「“見上げる”時の首の角度、日差し。——子どもには帽子を推奨、大人にも日傘や手ぬぐいを。水は“見上げ石”のすぐ脇に置く。——“見たら飲む”。合言葉にしましょう」

「“見たら飲む”」

 環が笑って復唱し、先生口調でメモした。「水の合図」。辞書にまた項目が増える。

「祈りの後は“おにぎり”を配ります。塩分の補給と“行事の終わり”を味で記憶してもらうために」

 宮司の提案に、保健師は目を細めた。

「いいですね。体の“受け止め”も設計してある」

 澪が横で目を伏せ、短く息をついた。取材メモに“味の記憶=受け止めの完了”と書き、ペン先を止める。

     *

 調整を終えて神社に戻ったとき、空は少し白く霞んでいた。風はある。層は高い。試射の予行をやるには十分。若手が火床の周囲を清め、砂利を均し、柱の足元に白い紙を敷く。志村が紙を撫で、月岡が時刻を刻む。宮司は“やめる権限”の宣言を小さな紙に書き、拝殿前の柱に貼った。

『迷うときはやめる。宮司』

 朔は、祖父の巻物の写真をポケットに入れ、境内の端に立つ。澪が隣に来た。

「“やめる”の紙、載せていい?」

「載せよう」

「人は、宣言された“やめる”に安心する」

 二人は、しばらく杉を見た。葉のさざめきが風の方向を描いている。白い雲が流れ、光が途切れ、一度だけ境内が涼しくなった。

「朔」

 呼ぶ声に振り向く。月岡が、紙と骨の最終確認をしていた。縁の“撓み記憶”は薄すぎず、厚すぎず。半節は、骨の表情を静かに揃えている。糊は乾きすぎず、湿りを含みすぎず。志村が耳で最後の一本を選び、「時間耳」で頷く。

 そこへ、保存会の古参の一人——白髪で背の高い男が、少し険しい顔で近づいてきた。

「おい、志村。——こんな“図面だらけの祭り”が、ほんとうの龍勢か?」

 場の空気が、薄く張った糸みたいに震えた。志村は立ち上がり、まっすぐ答えた。

ほんとうを守るために、図面がいる。“風をつくらない”ために、言葉がいる。——源十郎も、巻物を書いた」

「じいさんの話を楯にするのは簡単だ」

 古参は低く言った。澪が一歩、朔より後ろに下がる。宮司は黙って二人を見た。月岡は、工具をそっと机に置いた。

 志村は、怒らなかった。笑いもしなかった。ただ、ゆっくりと言った。

の点は、長いままだ。俺たちはそこに、“やらない”と“やる”を並べて置いた。“やめる紙”も貼った。——それでも“祈り”じゃねぇと言うなら、お前の祈りを教えてくれ。俺は聞く」

 沈黙が数秒、風よりも遅く流れた。やがて古参は鼻で笑い、肩をすくめた。

「……“やめる”を先に張ったのは、悪くねぇ」

 それだけ言って、踵を返した。背中は少しだけ丸く見え、志村は小さく息を吐いた。「歳をとると、の点が長くなる」と、誰にも聞こえない声で言った。

     *

 試射一回目——の前の“やめる会議”が始まった。円座。紙の中央に“条件”が三つ書かれ、赤鉛筆が置かれる。

(1)上空風の層が70m未満に下りたら中止(2)突風予測の信頼度が“高”になったら中止(3)R最大が受け止め図の外円を超えたら中止

「異論?」

 宮司の問いに、誰も手を上げない。澪が静かに録音を回し、朔は“辞書”に“やめる会議”を記入する。

【やめる会議】・“やめる”は恥ではない。祈りの最初の形。・“やめる”の宣言は、一人称で(私はやめる)。・“やめたあと”の行列(受け止め)は別途用意しておく。祭りは終わらない。形が変わるだけ。

 月岡が時計を見て、「層は85m」と言った。風は南西。湿度は下がる。温度は上がる。条件は満たす。やめる紙の上に、そっと影が伸びて、消えた。

「——やろう」

 宮司の声は、祈りの前の鐘の音みたいに短く深かった。

     *

 点火の直前、境内は不思議な静けさに包まれた。人が少ない試射の日にも、静けさは生まれる。見に来た保育園の子どもたちが“見上げ石”のそばで小さく跳ね、先生が帽子の紐を直す。救護テントの氷水がカランと鳴り、志村の指が骨を撫で、月岡の口が数字を唱える。澪がカメラを胸に当て、朔が息を整える。

 ——火。

 線香の先が導火線の細い黒に触れ、短い白い煙が立つ。祖父の納屋の匂い。紙の息。糊の囁き。竹の筋肉。風の手。白い線が、朔の内側に浮かぶ。上に伸びるための線ではなく、地に広がるための線。

 あがる。

 音は短く、深く。胴は素直に空を選び、薄い雲の手前で力を使い果たし、**開く。**撓み記憶が順番にほどけ、半節が骨を揃え、薄地図が花弁に合図を送る。ゆっくり、均一に、最後に腰を据える。風は、触りすぎない。人は、撫でるだけ。花は、降りる。

 受け止め半径Rの内側に、最初の布片が落ちた。白地に青い字。環のクラスの子が書いた「見たら飲む」。次は「ありがとう」。次は「迷うときはやめる」。布片は風に翻り、地面の上で落ち着く。子どもたちが見てから動き、役員の声が「はい、ありがとう、次は右へ」と優しく押す。

 受け止められた。

 拍手は小さく、しかし厚かった。誰も叫ばない。誰も泣かない。静かに、笑う。体の奥が温まる種類の笑いだ。澪はシャッターを切らず、ただ一度息を吐いた。

「——美しい“抑制”」

 彼女の言葉に、月岡が小さく頷く。

「“禁風”の美学、ですね」

 志村は空を見上げて、祖父の名を口に出さなかった。ただ、手の上で紙片を撫で、「鳴きがいい」と言った。

     *

 終わってからの“やめる会議”——やらなかった“やめる”の復習が行われた。条件は満たしていた。だが、何が“迷い”だったか。誰がどこで迷い、迷いがどこでほどけたか。

「私は、子どもたちが“見上げ石”の前で一瞬横を向いた瞬間に、迷いました」

 宮司が言った。保育園の先生が帽子を直した短い時間。役員の声が“音の川”に乗り遅れた一拍。

「次は、“声”の角度を二度、手前に振る」

 月岡が地図に小さく矢印を足す。朔は辞書に“声の角度(−2°)”と書く。志村は「紙の薄地図、外周をほんの気持ち薄く」と呟く。ほんの——数値ではない単位。だが、現場はそれを測れる。

「新聞は、どう書く?」

 志村が澪に問う。澪は少し考え、ゆっくり言った。

「“やめる紙のある祭り”。——見出しはそうする。“上げた”ことを主語にしない。“受け止めた”ことを主語にする」

 志村は、目尻の皺を深くした。

「いい見出しだ」

     *

 夕暮れ。境内は片付けの音に満ち、空は薄い橙に染まった。“受け止め図(ver.1.0)”は赤鉛筆の小さな修正で更新され、QRの向こうの“ライブ・マニュアル”も書き換えられた。“辞書”の頁は増え、祖父の巻物の“禁”の点は——相変わらず長い。しかし、その長さが、少しだけ違って見えた。待つための長さ。選ぶための長さ。

 朔は拝殿の脇で、環と並んで座った。環は子どもたちの感想を読み上げる。「“見たら飲む”を言えた」「“みんなで受け止めた”」「“おじさんの声が気持ちよかった”」。声。水。受け止め。——身体で覚える言葉。

「ねぇ、朔」

「ん?」

「“祈りの距離”って、近くなったのかな、遠くなったのかな」

 朔は少し考えて、笑った。

測れる距離になった。だから、近づいたり、離れたり、選べるようになった」

 環は納得したように頷き、風鈴の音に耳を澄ませた。風は、今日も指を撫でる。撫でられながら、彼らは準備を続ける。やめるの準備も、やるの準備も。祈りは、翻訳され、裏切られ、しかし守られる。

 拝殿の柱に貼られた小さな紙——『迷うときはやめる。宮司』が、わずかに揺れた。揺れは、風の通り道がきちんとある証拠だった。

 朔は立ち上がり、境内の端の、黒ずんだ古い火床の台にそっと手を置いた。ざらつきの奥の温度は、今日も確かに戻ってくる。受け止められた熱は、次の朝のために、木の中に少しだけ残る。

 祈りは、届くために、地上へ降りる。届いた祈りは、体のどこかに残る。として。として。として。——そして、ときおり、紙の長い点として。

 風が鳴った。杉が応えた。誰かが遠くで、短く口笛を吹いた。旋律は、どこにでもある歌のサビ。けれど、風に切られて、今日の歌になっていた。


第五章:火床(ほどこ)を組む夜

 夕暮れが引き際を迷い、境内の地面は昼の熱をひそかに手ばなそうとしていた。杉の影は細く伸び、やがて線ではなく面になり、鳥居の額の文字が少しずつ墨に戻ってゆく。拝殿の脇に置かれた作業台の上には、油の浮いた鉋、手鉤、角尺、水平器、そして祖父の納屋から持ち出した古い金槌が並んでいた。金槌の木柄には、手汗が染みて黒光りする部分と、まだ白い部分がはっきり残っている。握ると、手のひらの中に誰かの体重が乗る感覚がした。

「夜の仕事だ」

 志村兼三が言う。声は昼と同じだが、息の置き方が違う。昼は人に聞かせる声、夜は木に聞かせる声。保存会の若手が二人、柱の足元に砂利を敷き直し、角材を回している。月岡は風速計を片づけ、代わりに小さな照度計を出した。宮司は白い作務衣に着替え、袖を括って手拭いを腰に差している。澪はカメラを胸からはずし、今夜はあえて記録を最小限にすると宣言した。

「火床は、写真より言葉で残したい」

 そう言って、澪は小さなノートを開き、“辞書”の項目を新しく作る。

【火床(ほどこ)】・火を置く床に非ず。火を迎える床。・直角は“上の線”ではなく、“下の面”で取る。・“鳴き”の良い砂利を敷く。踏んだ音で迷いがわかる。・“夜の声”は木に向ける。木は夜の方が素直に聞く。

「まずは面だ」

 志村が膝をつき、角材の据え付け位置に手を当てた。水平器の泡はゆっくり左右を行き来し、やがて真ん中でため息のように止まる。朔は手元のライトを低く構え、影を薄くする。影が薄くなるほど、木は素直になる。

「火床は“組む”と書くが、ほんとは“聴く”なんだ」

 志村はそう言って、角材の腹を二度、軽く叩いた。木が返す音は乾いているが、尖ってはいない。「よし」と短く頷き、若手に合図を送る。打ち込み。楔。噛み合い。金属音は出さない。音が出るのは、何かが逃げている証拠だと祖父が言っていた。

 月岡は足元の砂利を手で掬い、耳元に持っていく。静かに揺すると、砂が互いを擦る小さな高音が生まれる。彼は目を閉じた。「この砂利は軽い」と言い、志村が「雨上がりで乾きが早いからな」と答える。

「“鳴き”は?」

「高すぎず、低すぎず。——“迷いの音”が少ない」

 澪はノートに書く。“迷いの音”という言葉は、先日の“時間耳”の延長線にある。音は時間を連れてくる。夜は、その時間を見せる。

 火床の四隅が座った。志村が柱の足元に白い紙を一枚敷く。紙は、湿りを吸ってわずかにしっとりしている。角材と土と砂利、そして紙。紙は意味を持ちすぎる。だが、ここでの紙は“間”だ。木と地面をいきなり触れ合わせない、言葉のような緩衝。

「紙は“挨拶”だよ」

 志村がぽつりと付け足す。宮司が笑って「神道っぽい」と返した。

「こいつは宗教じゃなく、生活だ」

 志村は肩をすくめて、次の部材を持つ。長い胴受けは、古い台から外したものを手入れして再利用する。朔は雑布に油を少し含ませ、表面を拭う。乾いた木の毛羽立ちが落ち、肌理が出る。触れていた人間の時間が、目に見えるようになる。

「——朔」

 背中から呼ばれ、朔は振り返る。志村の目が夜の光に細く光っている。

「お前のじいさんの“失敗の夜”、話す時が来たな」

 若手の手が止まり、月岡のライトがわずかに震える。宮司は静かに座り直し、澪はノートのページを新しくした。環は、遅れてやって来て縁側に腰を下ろし、膝に手を置く。

「風は、決める。人は、託すだけだ」

 志村は祖父の口癖を、ひとつひとつ噛みしめるように繰り返した。

「……あの夜も、そう言った。源十郎は。だが、あの夜は“託し方”を間違えた。風に“梯子”を渡しちまったんだ。上昇流を頼る仕掛けを、落下傘の芯に忍ばせた。紙の漏斗——お前も巻物で見たろ」

 朔は頷く。禁の点。空白。

「火床は完璧だった。面は座り、音は良く、砂利は鳴いた。——だから、油断した。風は良かった。だから、甘えた。火はゆっくり上がり、胴は素直で、開きは見事だった。見事すぎた。布は息をして、花は、紙とは思えんほどに“広がり”で自立した。美しかった。美しいものは、時に、人の背中を押す。——その押しが、高すぎた」

 志村は木槌を置き、指で空を指した。夜の濃さが指先で止まり、白い息が少しだけ出た。

「層の境目で、風が“横の梯子”を掴んだ。花は遠くへ。受け止めの半径は越えた。人は無事だった。だが、“祈り”は地に戻らなかった。受け止められない祈りは、空に残る。——あれは、痛い」

 澪のペン先が止まる。紙の上に書かれた文字は、今夜に限って、ほんの少し震えた。

「源十郎は、その夜、巻物を閉じた。『禁』の点を長くしてな。——“やるな”の点は、長い方がいい。すぐには切れないからだ。俺らは今、その点の手前で仕事をしている」

 静けさが、境内の草の先にまで染み込んだ。志村は立ち上がり、「仕事に戻るぞ」と短く言った。

 火床の胴受けに合わせる支えを、若手が差し込む。朔は角尺で内側の角度を確認し、月岡は水準の数字を記録する。宮司は刃が木に入る瞬間を見届け、澪は音の“迷い”の位置に丸をつける。環は、子どもたちに説明するための比喩を心の中で試している。——“火床はベッドで、火は眠りに来る”。眠りを深くするために、ベッドは平らで、堅すぎず、柔らかすぎず、きしみを少なくする。子どもたちなら、きっとわかる。

「受け止め図の“夜版”を出す」

 朔はタブレットを取り出し、昼間の図に、夜の“光の川”を足した。仮設灯の位置、役員のランタンの動線、拝殿の提灯の明滅。人は光に従う。矢印よりも、光の方が早く身体に届く。澪が覗き込み、「これは紙面では伝わりにくい」と唸る。朔が「だから当日は動画で」と笑い、澪も笑う。「記事のQRは動画に飛ばす。紙の向こうに、光を置く」

 志村が手を止め、古い台の縁に親指を引っかけた。爪の内側に木粉がつく。親指で丸め、鼻先に持っていく。乾いた木の匂いの中に、微かに油の古さが混じる。誰かが塗った油だ。志村は目を細める。「源十郎の……いや、あれはお前の親父の時代の油だな」と呟き、油の記憶を鼻の奥にしまい込む。

「——志村さん」

 若手のひとりが手を挙げる。日焼けした額に汗が溜まり、顎が光る。

「“鳴きのいい砂利”って、どうやって選ぶんですか」

 志村は笑った。

「踏め。踏んで、音を聞け。——音が“先に行き過ぎる”砂利は、足が遅れる。音が“後ろに残る”砂利は、足が迷う。いい砂利は、音が“足と一緒にいる”。足音と音が離れない。——それが“鳴きのいい砂利”だ」

 若手は目を輝かせ、砂利の帯を何度も行き来した。足音と、砂の囁きと、夜の虫の声が、境内の平面に薄い波紋を作っていく。

「辞書に入れてよ」

 環が澪の肩をつつき、澪は“砂利の鳴き”の項目を作る。

【砂利の鳴き】・足音と一緒にいる音。・先に行く音は人を急がせ、後ろに残る音は人を躊躇させる。・良い鳴きは“受け止め”の歩幅を揃える。

 夜が本格的に来た。拝殿の方から、宮司が提灯に火を入れ、丸い光がいくつもの小さな月を作る。光は風に揺れ、揺れが影を呼ぶ。影は、木の形をたしかにする。影がくっきりすると、人は自分の位置を知る。

「“影の辞書”もいるな」

 朔が呟くと、澪は笑って“影の辞書”の頁を増やした。

【影】・位置感覚の補助線。・影が消える場所は、不安の場所。灯りを足す。・影が濃い場所は、休む場所にもなる。

 火床の上に、試験用の短い胴を仮置きする。重さは軽い。だが、形は本番と同じだ。月岡が角度を測り、志村が“鳴き”を足元で確かめ、朔が水平器の泡を覗き込む。泡は微かに左へ寄り、木の下に薄紙を一枚滑らせる。泡が戻る。戻りすぎない。戻らなさすぎない。

「——このくらいの“戻り”が、今夜の正解だ」

 月岡が言う。声は木に向いている。木は夜の方が素直に聞く。澪はその言葉を丸ごと書く。

 作業は折り返しを過ぎ、手は疲れてきたが、心はほどけない。途中で手を止めると、夜はすぐに仕事を奪っていく。だから、止める時は意図して止める。手を組み、息を吐き、立ち上がって空を見る。夜雲が薄く流れ、星が少しだけ顔を出す。杉の先が揺れ、提灯が小さく鳴る。

「休む」

 志村が短く言った。全員が手を離し、各々の水筒を取る。環はおにぎりの包みを開け、塩の匂いが広がる。宮司はお湯を注いで、ほんの少しの味噌汁を作る。塩と出汁の香りが、夜の湿りにすべるように混じる。出汁は、身体の“受け止め”だ。

「“味の記憶”は、やっぱり強いね」

 澪が言い、宮司が頷く。

「儀礼は、匂いと音と味で残る。形の記憶は薄れる。——だから、匂いと音と味を、最初に設計する」

 朔は祖父の巻物を思い出す。図の余白に書かれた“鳴き”“息”“湿り”。祖父は数字の前に匂いを書いた。数式の前に、音の高さを書いた。今夜、その余白が、皆の口で別の言葉になっていく。

「——さて」

 志村が立ち上がり、金槌を手にする。柄の黒光りが、提灯の光を細く返す。朔は祖父の手の形を思い出し、自然に自分の手がその形に寄っていくのに気づく。金槌は“打つ”ための道具ではない。木に“聞かせる”ための道具だ。軽く、二度。間を置いて、もう一度。木は返事をする。

「これで、座った」

 志村の声が夜に溶ける。若手が息を吐くのが聞こえた。月岡は「データ上も座っている」と頷き、宮司は紙を一枚、柱の足元に滑り込ませた。紙は、挨拶だ。

「……志村さん」

 若手がもう一度、遠慮がちに手を挙げる。

「“失敗の夜”のあと、どうしたんですか」

 志村は一拍、黙った。夜がわずかに濃くなる。

「片付けた。火床を。音を聞きながらな。片付けながら、受け止めができなかった“祈り”を、手で受け止め直した。紙は、地面に残らん。拾い損ねた祈りは、手のひらの汗で溶ける。——あの夜、俺らは、手で汗をかくことから、やり直した」

 若手はゆっくり頷き、砂利の上で一歩、前に出た。足音は、一緒にいた。

 作業は終盤になった。火床の周囲に“踏みの帯”を作り、受け止め図の夜版に灯りの記号を増やし、“声の角度”を二度、手前に振る。志村は最後にもう一度、全体を見て、「よし」と言った。よし、は、夜の中で小さく、しかし遠かった。

「——一発だけ、“鳴き”を見る」

 志村が言い、短い乾いた竹を手に取る。火ではなく、音を見るための“打ち”。手のひらほどの紙を一枚、軽く載せ、指で合図を送る。竹が鳴り、紙がわずかに跳ね、すぐに戻る。戻りの速度は、昼と同じだが、音の色は違う。夜の音には湿りがない。湿りがないから、迷いが見える。迷いが見えるから、明日、迷わない。

「鳴きは良し」

 志村が言い、月岡が数字を落とす。澪は“良し”の位置に小さな星印を描く。環は子どもたちに語るための言葉を、ひとつ、心の中で固める。「夜の音は、朝の準備」。

 片付けが始まる。工具は油を拭き、布に包み、箱に戻す。紙の端切れは小さな束にして、湿りを逃す。砂利の上をほうきが一度だけ通る。通しすぎると、鳴きが消える。ほどほどにする。ほどほどが一番むずかしい。ほどほどの加減は、手のひらの熱で決める。

 朔は最後に、古い台に手を置いた。祖父の手が置かれた場所に、自分の手を重ねる。木は温かい。温かさは、火の名残ではない。人の名残だ。火は燃やせば消える。人は働けば残る。残る熱は、次の人の手の中で、形を変える。

「朔」

 澪が呼ぶ。振り向くと、澪はノートを開いて見せた。今夜の“辞書”の頁には新しい項目が増えている。

【禁の点(夜)】・“やるな”の点は、夜に長くなる。・長い点は“待つ”に近い。・点の手前で仕事をする。点の向こうを想像しない。

 朔は笑い、親指を立てた。澪も笑う。宮司が灯りをひとつずつ落とし、提灯の光が順番に夜へ返っていく。最後の一本が消えると、杉の黒が空の黒と溶け合い、風鈴がひとつ、優しく鳴った。

「——終わり」

 志村が言う。言葉は短いが、余韻は長い。若手が深く頭を下げ、工具箱を持って走っていく。月岡はデータを保存し、バックアップし、二重に保存する。宮司は拝殿に一礼し、環は空を見上げて、目を細めた。澪はノートを閉じ、胸に当てた。

 朔は、家路で祖父の巻物をまた開く。禁の点は、今夜も長い。だが、その長さはもう恐ろしい形ではない。待つことの形だ。点の手前にある仕事が増えた。点の手前でしかできない仕事も見えた。風は明日を連れて来る。人は今夜を残す。——その交差点が、火床だ。

 玄関を開けると、環が先に「おかえり」と言った。言葉は今日も空気を変えた。台所の冷蔵庫が低く唸り、水の音が遠くでして、風鈴が遅れて応える。

「どうだった?」

「座った」

「座った?」

「火床が。音が。人が」

 環は満足そうに頷き、麦茶を二つ、コップに注いだ。塩をひとつまみ、指先でつまんで舌に乗せる。味は記憶の入口だ。朔はコップを持ち、祖父の巻物の“風洞”の頁を眺める。竹の撓み、紙の薄地図、半節、砂利の鳴き、影の川、声の角度、味の記憶。——全部、夜が少しずつ整えていった。

 眠りに落ちる前、朔は指を立てる癖を布団の中で真似た。夜風が指を撫でる。撫でられながら、彼は小さく呟く。

「風は決める。人は託すだけだ。——託す前に、床を整える」

 言葉は薄れていき、夢の中で火床がまた座った。木は動かない。砂利は鳴く。紙は息をする。——そして、朝が、遠くから、静かに歩いてくる音がした。


第六章:火床を組む夜(後半)/紙の腰と“笑い”の設計

 翌晩、境内は前夜よりも少しだけ軽かった。火床は“座った”まま夜を越え、砂利の鳴きは低く整っている。提灯の火が順に点り、影の川は昨日より細く、長く流れた。拝殿の柱には、まだ小さく『迷うときはやめる。宮司』が揺れている。揺れは、風の稽古であり、人の稽古だった。

「——“紙の腰”を仕上げよう」

 志村の合図で、机の上に紙束が積まれる。三椏と楮の合い、冬紙の腰の強いもの、夏紙の鳴きがよく出るもの。糊の壺は浅く、冷えたまま。縁に“撓み記憶”を仕込む薄地図、半節の骨が横に並び、月岡がタイマーと角度ゲージを配置した。

「“腰”は、力じゃない。立ち直る意思のことだ」

 志村が紙をひと撫でし、隅を少しだけ持ち上げて落とす。紙は一拍遅れて床を“噛む”。噛む、は、紙の語彙であり、夜の語彙であり、祈りの語彙でもある。澪は“辞書”の余白に“噛み”の頁を増やした。

【紙の“噛み”】・持ち上げられた直後、床を“探して”戻る動き。・薄すぎると“逃げ”、厚すぎると“固まる”。・噛みがある紙は、落下の終盤で受け止め側に寄る

「今日は、腰=噛み×撓み記憶×半節で見る」

 月岡が式をホワイトボードに書く。数式の形をしているが、等号の先は“耳と指”だった。

「“笑い”の位置も、今夜決めたい」

 宮司が言うと、若手が目を丸くする。笑いは偶然だと思っていたのだろう。偶然を設計することが、儀礼の仕事だ。

「“笑い”は、緊張を解き、歩幅を揃え、目線を上げる。受け止めのための身体を呼び戻す。」

 宮司はそう言って、受け止め図・夜版の端に小さな丸印を三つ付けた。「ここで、役員が短い冗談を言う。上げることと無関係の話題。たとえば『おにぎり、海苔が手にくっつきますよね』とか」

「海苔のほうが祈りっぽいな」

 志村が笑い、境内に笑いの試し音が転がる。笑いは、鳴きの一種だ。笑いが転がる地面は、摩擦がちょうどよい。

「“笑い”を辞書に入れる」

 澪がペンを走らせる。

【笑い(受け止め用)】・“今ここ”へ体を戻す呼吸。・内容は儀礼に直接触れないこと。・笑わせる人の“声の角度”は−2°。押さず、落とす。・笑いが起きたら合図を置かない——次の誘導へすっとつなげる。

「——紙へ戻ろう」

 志村は紙の端を指で押し、薄地図の“薄さの地図”を描く。外周1cmは薄く、内周へ向けて段階的に厚く。糊刷毛の“止め”は、円の四分点より半歩手前で抜く。抜きの位置が、そのまま開きの合図になる。朔は手元のライトを低く構え、毛先が残す微細な光沢の“地形”を目で追う。

「“抜き”が早いと、花は焦る。遅いと、花はふてくされる」

 志村の比喩は、いつも身体を持つ。焦る紙は早く割れ、ふてくされる紙は開かずに重く落ちる。

 半節を合わせる。骨の節を“半目”ずらすだけの、控えめな工夫。控えめは、祈りの態度でもある。大声で祈るのではなく、声の角度を調整すること。月岡は節の位置をメジャでさっと測り、志村は節の“表情”を目で選ぶ。表情の似た骨同士を隣り合わせにしない——似ると、同じ遅れ方で同じ躓きをする。違いは、互いを支える。

「朔、耳で見ろ

 志村が短く言い、朔は目を閉じる。紙の摺れる音、糊の膜が空気を押す音、竹の表面が指にこすれる音。薄地図を引いたところから先に音が立ち、内側へ波が移る。音の順序は、開きの順序だ。順序が合えば、花は座るように降りる

「——良い」

 志村の低い肯定が落ちる。月岡が時間を読み上げる。「初動72ms、第二撓みの揃い+18ms、終盤の腰80ms」。数字の合間に、澪が「ためらいの後押し」「一礼」「息を置く」の語を重ねる。数字と語の網が、紙の上に静かに張られていく。

 環が駆け寄ってきて、先生の顔になる。

「子どもたちには、“紙の腰”をこう説明する。おじぎの戻りだよって。深くおじぎしても、静かに戻れるのが腰。戻れないと、転ぶ。戻れたら、歩ける。——受け止める前に、戻る

 宮司が嬉しそうに頷き、澪は“辞書”に“おじぎの戻り”を足した。

     *

 小さな試射を三本、火なしでやる。糸をつけ、竿で引き、開きの順序と降りのたたずまいだけを見る。境内の風は弱く、上空の層は高い。夜の音は乾いていて、迷いは少ない。一本目、薄地図のみ——ためらいの後押しが見事に出る。二本目、半節のみ——一礼の後に腰が座る。三本目、薄地図+半節——息を置いて、座る。志村は三本目の末尾を指先で軽く押し、紙がいやな音を立てないことを確かめた。

「“いやな音”が出ない。——紙が怒っていない

「紙が怒るの?」

 若手が目を丸くし、朔が笑った。

「怒るよ。選ばれなかったと感じると、紙は怒る。怒った紙は、開くとき“噛み飛ばす”。——撫でておけば、紙は戻る」

 志村が満足げにうなずく。「紙は人だ」と付け加え、澪は“紙は人”の項目を作る。

【紙は人】・怒る。機嫌が良い。疲れる。・撫でられると戻る。・選ばれなかった紙は、次に選ぶ。

「次は“笑い”の練習」

 宮司が、丸印の位置に志村と若手を立たせ、短い冗談の“角度”を稽古する。声は、−2°。押さず、落とす。落ちた声は、砂利と同じ速度で人の足に着く。志村が咳払いをして、「海苔のほうが祈りっぽい」ともう一度言ってみせる。笑いが柔らかく起き、役員の手が自然に“次の方向”を指す。笑いは矢印の前にある。矢印の後ろに笑いを置くと、矢印は転ぶ。

 澪は“笑いの型”を三つに整理した。

(A)食べ物:海苔、塩、冷たい麦茶……を思い出させる系。(B)道具:団扇、提灯、下駄……を帯びる系。(C)失敗:自分のうっかり……責任のない笑いだけを使う。

「“責任のない笑い”だけ」

 宮司が繰り返し、志村が頷く。

「誰も傷つけず、誰も選ばず、誰も置き去りにしない。受け止めの笑いだ」

 環が「先生たちの連絡網にも“笑いポイント”を共有する」とメモし、子どもたちの列を丸い石の前で一度だけ止める手振りを稽古する。「見たら飲む」「見たら笑う」「見たら右へ」。合言葉は短く、等間隔に置く。

     *

 夜半、空気が少し重くなった。遠くで雷。雲は厚くないが、湿りが戻る兆し。志村が紙の束に布をかけ、糊の壺を片づけさせる。「ここから先は、湿りで嘘をつく」。湿りは、熟練者に“できた気”を与える。夜は、ときどき人の耳を甘やかす。

「“やめる”の手前で止める」

 宮司が静かに言い、皆が頷く。火床は座った。紙の腰は出た。笑いの角度は決まった。やめる会議の条件も、拝殿の柱に貼られている。——残すのは、明日の余白だ。

「——終わろう」

 志村の“終わり”は、昨日より短く、しかし余韻は昨日より長かった。工具は拭かれ、布に包まれ、静かに眠る。砂利は一度だけ掃かれ、鳴きが残る位置でほうきを止める。提灯が順に落ち、影の川が細く薄く溶けていく。最後の一本が消えると、夜が音の輪郭だけを残して降りてきた。

 朔は古い台に手を置いた。木は温かい。昨夜の熱ではなく、今夜の待つ熱だ。待つ熱は、朝に強くなる。待つ熱の上に、人はやめるやるを並べる。祖父の“禁”の点は、今夜も長い。長いが、怖くはない。長い点は、待つの時間だ。

 帰り道、澪が肩を並べた。

「記事の見出し、変える。“やめる紙のある祭り”の下に、**“笑いの角度と紙の腰”**をサブに置く」

「角度と腰」

 朔は笑った。体の言葉だ。祈りは体で覚える。体で覚えたものは、紙に戻る。紙に戻ったものは、風に渡せる。

「——明日は、試射二回目」

 月岡からのメッセージが震え、朔は《了解》と返す。澪は《“責任のない笑い”のサンプル、三種そろえた》と送ってきた。環は《丸い石の前で“見たら笑う”をもう一度》と追い、宮司は《“やめる会議”は開始前に五分》と締める。志村は、スタンプ一つ。笑って泣いている顔。いつもの顔。

     *

 翌朝、境内は霧の薄衣に包まれ、音が柔らかくなっていた。火床は静かに座り、紙は布の下で湿りを逃がし、砂利は踏まれる前から鳴きを覚えている。丸い石の上に、朝露が丸く残り、太陽が低い角度でその丸を光らせた。丸い石は、見上げるための目だ。

 役員が所へつき、環が子どもたちを整列させる。澪はカメラを下げ、きょうも撮り過ぎないとわかっている顔で位置を決めた。月岡が上空の層を読み、宮司が“やめる紙”を見てから皆に一礼する。志村は紙の端を撫で、朔は水平器の泡を覗き、泡は真ん中で静かに息をする。

「——“笑い”から始めよう」

 宮司の合図で、志村が丸い石の前に立つ。声は−2°。押さず、落とす。

「海苔ってさ、手にくっつく時と、絶対くっつかない時、あるよな」

 境内に、責任のない笑いが広がる。子どもが笑い、先生が笑い、役員の手がやわらかく右を指す。歩幅が揃う。目線が上がる。今ここが戻ってくる。

 月岡が静かに頷き、志村が紙を持ち上げる。薄地図は乾きすぎず、半節は骨を揃え、糊の“抜き”は遅すぎず。点火の前の静けさは、昨晩の静けさと同じ顔をしている。静けさは、一度練習しておくと、翌日も同じ場所に来る。——祈りは、練習できる。

 火。

 音は短く、深く。胴は素直に空を選び、紙は噛み撓み戻り座りを順に出す。花は、怒らずに降りる。受け止め半径Rの内側に布片が舞い、最初のひとかけが丸い石の近くに落ちた。書かれていたのは「一礼」。次は「見たら飲む」。次は「ありがとう」。役員の声は−2°で落ち、声の川が人の足と同じ速さで流れる。

 受け止められた。

 拍手は短く、厚い。笑いが薄く混ざり、誰も泣かない。泣かないことが、準備の成功を知らせる。泣きは、最後に取っておく。

 “やめる会議”の復習。宮司が「迷いはなかった」と静かに言い、志村が「紙は怒らなかった」と笑い、月岡が「層は高かった」と数字で確かめる。澪はノートにひとことだけ書いた——「やめる紙が、笑った」

     *

 片付けの後、拝殿の陰で朔は祖父の巻物を開く。禁の点は、やはり長い。けれど、長い点の手前に、いくつもの短い線が増えた。薄地図、半節、噛み、声の角度、影の川、笑いの角度、丸い石、見たら飲む。短い線は、長い点の翻訳だ。翻訳は裏切りで、誠実な裏切り。祖父の“禁”は、いま、待つに訳されている。

 朔は指を立て、風を受けた。風は、指を撫でる。撫でて、通り過ぎ、また戻る。戻る風は、受け止めの稽古をしている。祈りは、上がる前よりも、降りた後の方が、言葉になる。言葉になった祈りは、次の朝のために、紙と砂利と木の中に、少しだけ残る

 遠くで、一本の杉が大きく鳴り、どこかで、誰かの笑いが遅れて起きた。遅れて起きる笑いは、良い兆しだった。準備は、まだ続く。やめるの準備も、やるの準備も。——風が決める。人は、託すだけだ。託す前に、笑いを整える。


第七章:安全基準の壁

 市役所の小会議室に、紙の白が積み重なった。背表紙のない資料束が、机の上で低い丘を作っている。宮司・八重樫瑞穂は三冊のバインダを左右に配し、中央に“受け止め図(ver.1.3・夜版)”を広げた。志村兼三は作務衣のまま腕を組み、月岡遼はノートPCを開いて風の層の推移グラフを表示している。朔は映像の“読み順”アニメーションを準備し、澪は小さな録音機を立てた。環は学校版のワークシートを膝に置き、指先で角を揃えた。

 扉が開く。県の安全審査会から派遣された技術委員が二名、保険会社の査定担当が一名、市の危機管理課、消防、警察、保健師——“最後の会”が始まる。静けさは、紙のさざめきに似て、薄く鳴った。

「本日は“総合安全審査・最終回”です」

 危機管理課の係長が冒頭を締める。声はいつも通り親切で慎重だが、机の端で握るペンがわずかに強い。

「議題は四つ。①落下予測半径Rの“最大想定”の根拠、②“やめる権限”の運用と文責、③“ライブ・マニュアル(QR)”の更新体制とオフライン代替、④保険条件と行事中止判断の連動。——そして総括として、住民説明会の運び方」

 宮司が立ち、深く一礼した。

「“祈りと命の両立”を、紙でお見せします」

     *

 ①落下予測半径R——月岡が登壇する。スクリーンには、地上風・上空風・層厚の時系列。試射二回分の実測が重ねられ、風の層が高い午前帯に“白い窓”が開いているのが見える。Rは通常35m、最大52mの二重円。試射の布片の着地点が、内側の円に規則正しく散っている。

「“禁風”は徹底します。上昇流を意図的に使いません。落下傘中央の仕掛けは“なし”。縁は“撓み記憶”で順序を揃える。骨は“半節”。——つまり、風をつくらないための設計です」

 県の技術委員の一人が、資料を持ち上げる。無駄のない眼鏡。声は乾いている。

「“最大想定”52mの根拠を“当日更新”に委ねるのは良い。しかし、“予備日”に南東風が卓越した場合の偏差は?」

 月岡は頷き、スライドを一枚送る。南東風時の偏差楕円。長軸56m、短軸41m。避難動線は北西の一点に収束せず、三つの“ひとだまり”を経由するように配されている。技術委員の眉が、ほんのわずか動いた。

「楕円に“人”の動きを合わせた……か」

人を楕円に合わせるのではなく、楕円に人を合わせる。“受け止め図”の考え方です」

 宮司が静かに補う。技術委員のもう一人が口を開く。

「上空観測のドローン運用。第三者上空回避は?」

「飛行経路は境内の内側、上空観測は上空通行のない時間帯に限定。無人航空機の禁止時間には、係留気球で代替します。——電波が途切れたら“やめる”

 “やめる”が一度置かれると、室内の温度が少し下がる。危機管理課の係長が頷き、消防隊長が「良い合図だ」と呟く。

     *

 ②“やめる権限”の運用と文責——宮司が立つ。拝殿の柱に貼られた一枚紙の写真『迷うときはやめる。宮司』が、スクリーンいっぱいに映る。誰かが小さく笑った。笑いは責任から逃げるためのものではなく、責任に体を近づけるための呼吸だ。

「“やめる”は、恥ではない。祈りの最初の形です。宣言の主体は宮司。判断材料は“上空風層70m未満”“突風予測・高”“R最大が外円超過”。連絡経路は、宮司⇄警察⇄消防⇄危機管理課を直結。——“やめたあと”の行列も用意しています。“受け止めの祈り”として、子どもが書いた布を配る。祭りは、形を変えて続きます」

 保険会社の査定担当が手を上げる。革の手帳。目は正確で、言葉は事務的だ。

「保険条件に“中止判断の独立性”を入れたい。寄付やスポンサー圧力との切断を、書面で担保してください」

 宮司がうなずく。志村が横で笑う。

「スポンサーは村の笑いだ。笑いの角度は−2°でやる。押しはしない」

 場に柔らかい波紋が広がる。査定担当のペン先が止まり、わずかに口角が上がった。

「……その“笑い”の話、契約書には書けませんが、議事録に残します」

     *

 ③“ライブ・マニュアル(QR)”とオフライン代替——朔が前に出る。タブレットに表示された“受け止め図”が、十五分ごとに更新されていく様子をアニメーションで示す。上空の層がわずかに下がったとき、外円が2m広がると、境内の掲示板の“パタパタ板”の数字が「52→54」に手でめくられる。

QRを読めない人がいる前提で、三本立てです。QR更新/掲示板更新/人の声の矢印。——**声の角度(−2°)**は、矢印より先に届く」

 技術委員が頷き、消防隊長が指で地図をなぞる。

声の川は良い。音は足の速さと同じで流れるからな」

 警部補が指を挙げる。

携帯圏外化の可能性は?」

「神社裏手で弱くなります。予備の無線を役員が携行。拡声器は指向性を絞る。遠吠えにはしない」

 “遠吠え”という言葉に、澪が小さく笑い、辞書に足す。

【遠吠え】・広く届くが、誰にも届かない音。・“受け止め”では使わない。

     *

 ④保険条件と中止判断の連動——査定担当の番だ。書類の束が移動し、印字の黒が涼しい。中止判断のタイムライン、第三者証跡、責任の所在、補償の適用範囲。宮司は“やめる会議”の議事録フォーマットを差し出す。冒頭に一人称の宣言欄がある。

私はやめる』

 査定担当が目を細める。

「“私”という主語、良いですね。——それと、落雷警報

 月岡が即答する。

雷注意報→準備中断雷警報→即時中止落雷後30分空白。空白は待つ熱のための時間です」

 志村が横で頷く。待つ熱は、火床に残る目に見えない熱だ。熱は人を焦らせるが、待つに使えば、整う。

     *

 最後の議題、住民説明会——世論の揺れの壁。澪が深く息を吸い、立つ。新聞連載は三回を終え、四回目が今朝の朝刊に出た。見出しは「やめる紙のある祭り」。サブは「笑いの角度と紙の腰」。感想は多岐に渡る。「子どもに笑いを教えるのは良い」「危ないことに笑いを混ぜるな」「祭りが“図面だらけ”になった」と、温度差は大きい。

説明会は“受け止め稽古”です

 澪は壇上で言い切った。記者の声ではなく、町の人間の声で。

図面を配るのではなく、“丸い石”を置く。実物を境内に三つ、屋内には紙皿に丸を描いて。“見たら笑う”“見たら飲む”“見たら右へ”を、子どもと一緒に声に出してもらう。——“やめる紙”は、一番最初に見せる“やめる”を恥から外に出す

 古参の保存会員が腕を組み、少し険しい顔で頷く。彼の中でも“図面だらけ”の抵抗は消えていない。だが、笑いの角度がその頬をわずかにゆるめる。

「**“丸い石”を置けば、**大声を出さなくて良くなる。石が目線を作る

 朔が補足する。映像を流すのではなく、石を触ってもらう。紙の“薄地図”を見せるのではなく、糊刷毛を握ってもらう。触覚は、世論の言葉より早い。

 環が前に出る。先生の声で、短く言う。

「**“見たら笑う”は、**ふざけではありません。体を“今ここ”に戻す手順です。走りそうになる足を、笑いで止める。笑いの角度は、−2°です」

 会場のどこかで、くすっと笑いが起きた。責任のない笑いが、紙皿の丸をやわらげる。危機管理課の係長が、満足げに何かを書き留める。

     *

 会議は、意外な静けさで終わった。反対はなかった。代わりに、条件が加わった。警備導線の“影の川”可視化(足元照明の角度を−3°に)、AEDの“声の矢印”(“ここにある”の声を一定間隔で)、救護所の“見終えてから”動線の再確認。紙は増えたが、言葉は減った。辞書が、厚くなる。

 廊下を出たところで、県の技術委員が志村を呼び止めた。薄い笑い。

「——“禁”の話、読みました。……いい“点”でした」

 志村は驚き、すぐに小さく頭を下げた。

長い点は、待つの形です」

「ええ。点の手前で、ちゃんと仕事をしている」

 短い握手。技術委員は去っていった。志村はしばらく立ち尽くし、やがて空を見上げた。廊下の窓に、薄い雲が流れている。

     *

 その翌日。は、意外な角度からやってきた。SNSに一本の投稿——「神社が“子どもを危険に晒して笑わせている”」。拡散は小さくない。写真は切り取られ、“丸い石”のそばで笑っている子どもたちだけが写っている。文脈が消えた笑いは、刃になる。

 澪は即座に記者ではなく、町の住人として反応した。文字は短い。

“見たら笑う”は、走らないための合図です。

 朔はライブ・マニュアルのトップに短い解説を置いた。“笑いの角度(−2°)=押さない声”“見終えてから右へ”。宮司は公式の掲示板に**“やめる紙”を前面に出し、環は学校の保護者向けプリントに“笑い=呼吸”**の欄を加えた。

 電話が鳴る。一本は「頑張ってください」。一本は「心配です」。一本は「昔に戻せ」。志村はそれぞれに、長い点の話をした。電話口の沈黙が、少しずつやわらかくなる。待つ熱は、言葉でも伝わる。

“説明”で勝とうとしないこと」

 宮司が皆に言った。

“稽古”で示す。——説明会を、稽古会に変えましょう」

     *

 稽古会当日。境内には、紙皿の丸が並び、丸い石が朝露を抱いている。役員の声の川は、−2°で流れる。AEDの場所から「ここにある」が一定間隔で落ち、影の川が足元をやわらげる。志村は糊刷毛を握らせ、薄地図の“抜き”を体験してもらう。月岡はドローンを見せず、係留気球を見せる。「電波が切れたら“やめる”」。宮司は拝殿の柱の**“やめる紙”**を最初に指す。環は子どもたちと一緒に、「見たら笑う」「見たら飲む」「見たら右へ」を声に出す。澪は記者ではなく、列の中に並ぶ。

 古参の保存会員が腕を組み、ゆっくりと列に入った。丸い石の前で、志村が短く言う。

海苔って、手にくっつく時と、絶対くっつかない時、あるよな

 責任のない笑いが、また転がる。古参の頬がゆるみ、口の端が少しだけ上がった。彼は石を見下ろし、そして、見上げた。見上げる角度が、ほんのわずか、**−2°**になった。

 稽古は、説明より早い。体の辞書が、紙の辞書を追い越していく。

     *

 夕方、境内の片隅で“やめる会議・前夜版”が開かれた。円座。中央に紙が一枚。一人称の宣言欄は空欄のまま。宮司が深く息をし、言う。

私は、やめる。——迷ったら」

 志村が続ける。

私は、支える。——やめたあとも」

 月岡は短く。

私は、数字を止める。——“できる理由”ではなく“やめる合図”を見る」

 朔は言った。

私は、図を止める。——更新をやめ、**“静止画”**に戻す。足が早くなる絵は出さない」

 澪は静かに。

私は、書かない。——“やめる”を最後の勇気にしないため。最初の勇気として、書く」

 環は最後に、先生の声で。

私は、笑う。——責任のない笑いで、子どもを“今ここ”に戻す」

 紙は空欄のまま、しかし、言葉は書かれたやめる紙は、今夜も揺れる。揺れは、風の稽古だ。

     *

 夜、朔は祖父の巻物の“禁”の頁をまた開いた。長い点は、相変わらず長い。けれど、その長さの手前に、短い線が増えすぎて、点が怖くない“禁”は“怠け”ではない“禁”は“待つ”だ“待つ”の前に仕事を置く。砂利の鳴き、影の川、声の角度、笑いの角度、紙の腰、丸い石、見たら飲む、見たら右へ、やめる紙。——点の前に、こんなにも道具がある。

 メッセージが震えた。澪から。

《明日の紙面、タイトルは**「点の手前で仕事をする」にする。サブは「“やめる”を最初の勇気に」**。》《“批判”は来る。でも、稽古は、嘘をつかない。》

 朔は短く《了解》と返し、窓の外の風に指を立てた。風は、指を撫でる。撫でながら、通り過ぎる。通り過ぎて、戻る。受け止めの稽古だ。明日は、本奉納の一週間前。は、越えたというより、壁の前に“丸い石”が置かれただけだ。見たら笑う見たら飲む見たら右へ。——そして、迷うときはやめる

 杉が鳴り、夜が深くなる。遠くで、誰かが短く口笛を吹いた。旋律は、やはりどこにでもある歌のサビ。けれど、風に切られて、今日の歌になっていた。




 
 
 

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