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長編小説『龍勢の風、草薙に鳴る』2

  • 山崎行政書士事務所
  • 3 時間前
  • 読了時間: 37分


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第八章:祖父の失敗、父の選択

 朝の台所に、最後まで言われなかった言葉の匂いが残っていた。味噌汁の湯気と、新聞のインクと、納屋から運び込まれた木の油。朔はコップの水を半分ほど飲み、座卓の端に祖父の巻物を置いた。黒い布の縁は、昨夜よりやわらかく感じる。“禁”の点は相変わらず長い。だが、その手前で止まっていたのは、祖父だけではなかった。

「——父さんが、その先を開かなかった理由を、知りたい」

 思いの声は音にならず、指の中で乾いた。環が廊下から顔を出す。いつもの“先生の顔”ではなく、妹の顔だ。

「今日、納屋の天袋、見る?」

「見る。あと、志村さんに“父の夜”を聞く。祖父の“失敗の夜”の後を」

 環は頷き、エプロンの紐を結び直した。

「お父さんね、“受け止める方”に回った気がする。

「どういうこと?」

「あとで話す。まずは天袋」

     *

 納屋は、朝の光を長い時間で吸う。天袋の木戸は古く、取っ手を引くと、埃と共に乾いた時間が降りてきた。朔は脚立に上り、箱を三つ降ろす。青い麻紐の結び目は父の癖——堅いのに解けやすい。中は、古びた8ミリフィルム、茶色い封筒に入った罫紙、そして名もない録音カセット

 環がカセットレコーダーを持ってきた。電池を入れると、赤いランプが小さく点る。朔は巻物の“禁”の頁をいったん布で包み直し、録音機の前に座った。再生。最初に、空気の擦れる音。次に、父の声。思いのほか若い。

『——録れてるか? 源十郎(親父)の失敗のあと、俺らは火床を片付けた。志村が言う。**“受け止め直す”**って。手の汗で、祈りの残骸を。……俺は、あの夜、巻物を開けなかった』

 環が息を止める気配が伝わる。朔は目を閉じ、父の声に時間を合わせた。

“開けない”にも手順がある。やめるにも手順があるように。俺は**“受け止め図”を、紙でも言葉でもなく、“人の配置”で覚えた。誰が、どこで、何を言わずに立つか。“受け止めの沈黙”ってやつだ。親父の長い点は、俺には“沈黙の場所”**に見えた』

 テープの途中で、古い茶碗の触れ合う音が入る。台所で録ったのだろう。続く声は少し低い。

『——朔。お前がこれを聞くころ、俺がいなくても、怖がらなくていい。やる前に“座る”んだ。火床も、人の心も。“やる”と“やめる”の間に、“座る”**がある』

 朔は停止ボタンに手をかけず、次のノイズの長さを待った。父の言葉は、祖父の長い点の手前に置かれている。“開けなかった”のではなく、“開けない”を選んだ。その選び方が、父の仕事だった。

「——辞書に入れよう」

 環が囁く。澪のノートがないので、朔は自分の手帳に項目を立てた。

【受け止めの沈黙】・言わない配置。・立つ場所/向き/声を出さない人の順序。・“説明の前”に置く。

【座る(名詞)】・“やる”と“やめる”の間にある体の位置。・火床/人心/図面に共通する基準点

 父の声はもう一度戻る。少し笑う。

笑いの角度は、俺には**−1°にしかできない。志村は−2°が上手い。宮司は−1°で静かに落とす。誰の角度がその日に合うか**は、風と同じだ。——選ぶ役が必要だ。俺は、選ぶ役に回ることにした』

「選ぶ役」

 朔は呟き、父の職能をようやく扱える言葉で掴んだ気がした。“禁”の点は、ただ止めるためではない。“選ぶ”ための間を作るために長い。父はそこへ自分の居場所を移した。

巻物は、お前が開け。俺は開けない。開けないで、“選ぶ”をやる。——それが、俺の受け止めだ』

 再生が止まる。小さな“カチッ”が、朝の光に消えた。

     *

 青い紐の箱の二つ目。罫紙には、父の字で短い言葉が並ぶ。“誰が”“どこで”“どちらを向くか”。地図ではないが、図面にも見える。**“声なし”という赤い印は、何度も出てくる。“立ち続ける人”の名前は複数書かれ、傍らに“笑いの相性”**と鉛筆の薄いメモ。「志村:海苔。宮司:湯気。環:」。

 朔は思わず笑い、環は「うん」と頷く。

「お父さん、**“人の地図”**を作ってたんだね」

「そうだ。父は**“受け止め図(人版)”**を書いてた。紙じゃなく、人材で」

 紙束の一番下に、封筒が一通紛れていた。差出人はない。中にはたった一行。

“やめる紙”は、最初と最後に読む。

 父の癖字だった。最初に読む理由は、皆で共有した。最後に読む理由は——“次回の最初に繋ぐ”ためだ。やめるは完結ではなく、連結にする。“待つ熱”を未来に渡す。父はその導線を、言葉の隅で作っていた。

     *

 午後、朔と環は集会所に向かった。志村と月岡、宮司、澪がすでに座っている。机の上には、父の頃の保存会の出欠帳が開かれていた。志村が指で一つの欄をなぞる。

草薙 修(お前の親父)。——“仕掛け担当”から**“配置担当”**に、字が変わるのが、この年からだ」

「やっぱり、そうなんですね」

 朔は録音カセットの話をし、**“受け止めの沈黙”“座る”**の項を見せた。澪は素早くノートに写し、辞書の索引に“父の言葉”のタグを追加する。

“開けない”を選ぶ。——強い選択だ」

 月岡が静かに言う。技術者は、開けることが仕事だ。開けないを選ぶには、別の責任を背負う覚悟がいる。

「父さんは、**“選ぶ役”**に回った」

「**“選ぶ役”**ね」

 宮司が柔らかく繰り返す。

「祭祀には、“言わない合図”を選ぶ人が要る。声の角度が合っているか、笑いの位置が責任のない笑いか。——“禁”の手前に並ぶ短い線の濃さを、その日に合わせる」

 志村が腕を組み、遠くを見る。

「修は、“禁”の点を伸ばすのが上手かった。……伸ばすってのは、待てるってことだ。**“座る”**の時間を、いつも真ん中に置いた」

“やる”と“やめる”の間の“座る”

 澪が書きながら顔を上げる。

「記事にする。“座る”を主語にする。“上げた”でも“やめた”でもなく

座った

 環が、子どもに言って聞かせるように口にする。

座ったから、受け止められた

 机の縁に、静かな肯定が流れた。

     *

 夕刻、保存会の古参——前章で腕を組んでいた男が、集会所の戸口に現れた。渋紙色の作務衣。少し逡巡してから、口を開く。

「——修のこと、話す時だな」

 志村が頷く。男はゆっくり座り、湯呑みを受け取る。

「源十郎のあの夜の後、村は割れた。“もうやめろ”と“やり方を変えろ”だ。修は何も言わなかった。代わりに、“立つ”だけやった。火床の反対側“見終えてから”の一歩目に立って、一度も声を出さなかった。人が流れ過ぎそうになると、笑ってうなずく。笑いは−1°。押さない。落とすだけ。それで足が揃う。……あいつは、**“受け止めの沈黙”**を自分の身体でやった」

 澪が、湯呑みの縁を見てから、目を上げる。

“選ぶ役”を、自分の体で先に選んだ」

「そうだ」

 男は湯を飲み干し、短く息を吐く。

「修は巻物を開かなかった。開けなかったんじゃない。“禁”の点の長さを、自分で引き受けた。……その長さは、今日のお前らの短い線に繋がってる。“丸い石”“声の角度”“笑いの位置”“見たら飲む”。——あれは、修の沈黙の地図が、皆の言葉になったんだ」

 朔の胸の奥で、納屋の油の匂いが静かに濃くなる。父の仕事が、言葉に翻訳される瞬間に立ち会っている。翻訳は裏切りだ。だが、誠実な裏切りは、沈黙を社会に渡す

「……ありがとうございます」

 朔は深く頭を下げ、祖父の巻物をそっと机に置いた。“禁”の頁は開かない。今日は、**“座る”**の頁を開く日だ。

     *

 夜の境内。提灯が灯り、影の川が細く流れる。丸い石が静かに湿り、“やめる紙”が柱の陰で揺れている。志村が火床の端に手を置き、月岡が風を測り、宮司が“やめる会議”の紙を胸に当てる。澪は記事の冒頭を心の中で組み、環が子どもの声の高さを思い出す。朔は、父の立ち位置に立ってみた。“見終えてから”の一歩目。声を出さず、笑う−1°足が揃うのが、足の裏でわかる

 そこへ、保存会の古参がふらりとやってきて、朔の横に立った。何も言わない。二人は同じ方向を見た。“受け止めの沈黙”は、孤独ではない。同じ沈黙で隣に立つ人がいると、沈黙は合図になる。

「朔」

 志村が呼ぶ。返事をせず、顎だけで合図する。志村は笑い、短く頷いた。**“座る”**が共有されたのだ。

「——辞書の索引に、“父の選択”を追加しよう」

 澪が呟く。項目はこうなった。

【父の選択】・“開けない”を選ぶ勇気。・“選ぶ役”として、沈黙の配置に立つ。・“座る”を最初に決める。・“やめる紙”を最初と最後に読む導線を敷く。

 宮司が拝殿の前で一礼する。灯りの火は低く、風は指を撫でる。撫でながら、通り過ぎ、また戻る。戻る風は、受け止めの稽古をしている。

 朔は心の中で父に話しかけた。「巻物は、俺が開く。けれど、“座る”は一緒に決めていく」。返事はない。代わりに、足の裏がひとつ賢くなった気がした。

     *

 帰り道、環が並ぶ。足音は砂利に吸われ、鳴きは足と一緒にいる。

「ねぇ、朔」

「ん?」

「**“受け止めの沈黙”**って、子どもにどう説明する?」

 朔は少し考えて、笑った。

「**“静かな旗”**って言う。——音の出ない旗を持ってる人が、前にいるから、安心して歩けるって」

 環は目を丸くして、それから満足げに頷いた。

“静かな旗”、いいね。旗の角度は−2°

「先生、**−1°**の旗もあるよ。父さんが持ってた」

「そうだね。——角度を選ぶ役がいる」

 二人は笑い、家の玄関の前で足を止めた。風鈴が鳴る。**“座る”**の音だ。

     *

 夜、朔は布団の中で**“禁”の頁を思い浮かべる。長い点は、相変わらず長い。だが、怖くはない。点の手前で、短い線が増えた。“座る”“受け止めの沈黙”“静かな旗”“選ぶ役”“最初と最後にやめる紙”。祖父の失敗は、父の選択で沈黙の地図になり、いま、皆の共通語**になりつつある。

 翻訳は裏切りだ。けれど、誠実な裏切りは、沈黙を共有に変える待つ熱は木に残り、座るは人に残る。風は決める。人は託すだけだ。——託す前に“座る”

 遠くで、一本の杉が大きく鳴った。どこかで、短い口笛。旋律は同じなのに、今夜の角度で落ちてくる。−1°か、−2°か。——明日の風が、選ぶ


第九章:風を読む人々

 午前と午後の境が、境内の砂利でゆっくり擦れた。杉の梢は淡く、鳥居の額は光を浅く返す。今日の稽古は、“風を読む人々”のために組まれている。を個人の胸から共同のリズムへ移す日だ。

「役割表、配る」

 志村兼三が、薄いカードを束で掲げた。紙面は小さく、言葉は短い。肩書ではなく動詞で書かれている。

  • 座る人(基準)

  • 旗を立てる人(静かな旗/−1° or −2°)

  • 声を落とす人(声の角度 −2°)

  • 影を向ける人(足元照明 −3°)

  • 笑いを置く人(責任のない笑い A/B/C)

  • 水を差し出す人(「見たら飲む」)

  • 図を止める人(更新停止→静止画)

  • 数字を止める人(“できる理由”を削り“やめる合図”を見る)

  • 沈黙を守る人(受け止めの沈黙/言わない配置)

名前じゃなく、動詞で呼ぶ」

 宮司・八重樫瑞穂が続ける。祭祀は役職では動かない。体の動きで動く。座る落とす向ける置く差し出す。それぞれの動詞は、同じリズムに並び替えられる。

 朔はタブレットで**“受け止めの沈黙マップ(ver.0.9)”を表示した。境内図の上に、言わない合図の位置が薄い○で示される。拝殿前の柱の影、丸い石の一歩手前、火床の対角線上、救護テントの入口。○の中には矢印ではなく、線の切れ目がある。そこでは声が出ない**。そこに立つ人は旗を立てるだけだ。

「“静かな旗”の角度は?」

 環が子どもに問うように言うと、若手が声を揃える。

−2°。ただし父の位置は**−1°**」

 笑いが薄く起きた。笑いは合図になる。志村が“笑いの置き場”の丸印を三つ、砂利に紐で結ぶ。丸い石の外周に、笑いはずらして置く。石と笑いが重なると、目線が上に跳ねすぎるからだ。

「——風を取ろう」

 月岡遼が指を立てる。今日はドローンではなく、係留気球。糸は境内の内側に張り、軽い器を風に委ねる。気球の上部に小さなセンサー。地上1m、5m、10m、30m……そして80m。層の厚みがグラフの青で描かれ、時間の横軸に薄い呼吸の波が現れる。

「上は西、下は南西。境目は86m。午前は白い窓」

「受け止め半径R、通常35m、最大52m——今日は48mで回す」

 数字が出ても、誰も慌てない。数字は座る前には動かない。宮司が“やめる紙”に目をやり、紙は風に小さく揺れる。迷うときはやめる。宮司。宣言の位置は変えない。目線を固定する基準点だ。

     *

 最初の稽古は、影の川から始めた。足元照明の角度を**−3°**に倒す。影は細く長くなり、足は影に沿って滑らかに進む。遠吠えにならない拡声器の声が、影の川と同じ速度で流れる。

「影は歩幅のメトロノームだ」

 朔が言う。影が消える場所に小さな灯りを追加する。消える場所は不安の場所。灯りを足す。辞書の“影”の頁に、さらに一行が加わる。

【影=歩幅のメトロノーム】・足と同じ速度で流す。・消える場所は不安。灯りを足す。

 次は。**−2°で落とす人が丸印の位置に立ち、短い言葉を、押さず、落とす。「見たら右へ」。落ちた声は砂利の鳴きと同じ速度で人の足に着く。遠吠えにはしない。志村は声の角度を−1°にしてみせ、父の位置を再現する。落ちすぎない声は、“座る”**の前段になる。押さない声は、笑いと相性が良い。

「笑い、Aから」

 宮司の合図で、“責任のない笑い A(食べ物)”が置かれる。「海苔って、絶対くっつく日がある」。笑いは薄く広がり、丸い石の外周で自然に止まる。止まりすぎない進みすぎない今ここに戻る声の高さが、砂利の鳴きと重なる。

「B(道具)」

 団扇、提灯、下駄——音や影のある笑い。志村は団扇で自分の顔をあおいで「団扇って、叩くときだけ強くなる」とぼそり。笑いがもう一度、薄く転がる。足元照明の角度が**−3°、声が−2°、旗が−1° or −2°**、影が長く、砂利が鳴く。多重リズムの同期が、聴覚と視覚と触覚の間に張られていく。

「C(失敗)——責任のない

 澪が一歩前に出て、自分のうっかりを短く話す。「昨日、マスクを二枚重ねて付けて、息が“やめる”寄りになった」。笑いが起き、すぐ消える。消え方が良い。残り香が少ない。受け止めの前に、空気を洗う。

     *

 ここからが今日の核——“風の合奏”の稽古だ。個々の合図が同じ拍に乗るかどうか。月岡が手首のメトロノームを外し、皆に見せてからポケットにしまう。

外の拍は、風が持っている。内の拍は、人が合わせる」

 彼はそう言って、四つの拍を説明する。

  1. 上空の拍(層の呼吸)

  2. 地上の拍(砂利の鳴き/影の川)

  3. 人流の拍(“見たら笑う→飲む→右へ”の周期)

  4. 声の拍(−2°の落下/−1°の座り)

四拍子に見えるが、三拍目が長い。——**“見たら飲む”**が呼吸を回復させるから」

 朔は図を描く。三拍+伸びる第三拍。祈りの拍は、受け止めで伸びる。伸びるから、上げすぎない

 稽古は、まず人なしで。灯りと声と影と砂利だけで拍を合わせる。次に十人。丸い石の前で笑い→飲む→右へ。子ども役の若手が跳ねそうになった瞬間、静かな旗が**−2°で落ち、受け止めの沈黙が一拍ぶん、空気から余分な速さを剥ぎ取る。砂利が一緒にいる**音で鳴き、足は影の川に沿って進む。

「——座る

 宮司が手を挙げ、全員がその場で短く立ち止まる。メトロノームのない一拍。ここで誰も説明をしない。沈黙が配置されている。再び動き出すと、息は整い、声は落ち旗は立ち影が向き水が差し出される。拍は合い、風がそれを許す

     *

 休憩。環がおにぎりを配り、志村が塩を小皿に落として回す。澪は“辞書”を増補する。今日だけで、いくつも項目が増えた。

【四拍の祈り】・上空/地上/人流/声。・三拍目(飲む)が長い。・メトロノームは使わない。外拍=風に合わせる。

【静かな旗の交代】・**−2°**を基本。**父の位置=−1°**を混ぜる。・旗を持つ人は“座る人”の近くに立つ。

【受け止めの沈黙(配置)】・言わない合図。・説明の前歓声の後に置く。

 澪は項目の端に、鉛筆で薄く書く。「“やめる紙”は、最初と最後に読む」。父の一行が、辞書の脚注になった。

     *

 午後、小さな風の裏切りが来た。さほど強くない南東の切り返し。影の川が短く乱れ、丸い石の手前で子ども役の一人がふっと走りたい足になった。志村の目がすぐに動き、旗の角度が**−1°に変わる。落ちすぎない。そこへ“声の拍”半呼吸遅れで落ち、「見たら飲む」が先に**置かれた。三拍目を前倒し。足は止まり、笑いが薄く起き、影の川が再び長くなった。

「良い“裏切り返し”だ」

 月岡が記録し、朔が図に赤で書く。拍の前倒しは、やめるの前段にも似ている。止めるのではなく、戻す。戻ってから、行く。戻る座るの中に含まれていることを、皆の体が思い出す。

 宮司が**“やめる会議”のトリガを静かに読み上げる。「層70m未満」「突風・高」「Rが外円超過」。迷いの前に読む。読むことで、迷いの手前に座る**を置く。

     *

 夕方、風は再び白く軽くなり、境内に低い音だけが残った。最後の稽古——“風を読む”の引き継ぎ。今日参加できなかった役員に、体の辞書を渡す方法。

読み合わせはしない」

 志村が言った。

“座る”合わせをする。——座ってから、一つずつ置く」

 役割表をもう一度、動詞で配り直す。座る人が真ん中に入り、旗を立てる人がその隣、声を落とす人が半歩後ろ、水を差し出す人が更に半歩後ろ。図を止める人は、朔の肩越しに**“ライブ・マニュアル”の画面を見る位置。数字を止める人は、月岡の袖を一度だけ引けば良い距離。沈黙を守る人は、丸い石の手前**で立つ。そこは、風の曲がり角だ。

 朔は、自分の肩の重さがいつもと違うのに気づいた。**“図を止める”は、押す仕事ではない。引く仕事だ。動いている図を、止める。止めて、静止画に戻す。足が早くなる絵を出さない。“引く勇気”が要る。父の“開けないを選ぶ”**に似ている。

最後に一回だけ、火なしの合奏を

 宮司が告げる。影が伸び、声が落ち、笑いが置かれ、水が差し出され、旗が立ち、図が止まり、数字が止まり、沈黙が守られる。四拍+長い三拍は、長くも短くもない。祈りが地に落ちる前の、座りの時間。拍手は起きない。かわりに、息が合う音がする。

     *

 稽古の後、澪が新聞の見出し案を皆に見せた。「合奏としての“風読み”」サブ:「四拍と“座る”——祈りの拍が長くなる場所」

「いい」

 志村が短く言う。月岡は「三拍目を太字に」と提案し、朔が図の呼吸マークを大きくした。環は学校版に**“座る合わせ”のワークを追加する。「“静かな旗”の角度を選んでみよう**」。子どもたちが**−1°−2°**を自分の足で比べる課題だ。

 宮司は拝殿の柱の**“やめる紙”に手を当て、目を閉じた。紙は静かだが、待つ熱が薄く手のひらに移る。明日に燃えない。明日の前で温まる。“やめる”**は最初の勇気であり、最後の橋でもある。橋は、座るに掛かる。

 朔は、祖父の巻物を今日も開かなかった。“禁”の点は、相変わらず長い。けれど、その手前に並ぶ短い線の密度は、昨日より濃い。風洞は道であり、禁風は態度であり、受け止めは合奏だ。個人の勘は無くならない。だが、共同のリズムに溶ける。溶けた勘は、次の人に渡せる。

 夕闇の中、一本の杉が低く鳴り、境内の端で丸い石が輪郭を失いかける。足元照明が**−3°で一筋、そこに向く。影が戻り、足が戻る。遠くで、短い口笛。旋律はいつものサビだが、今日の拍で落ちてきた。四拍+長い三拍。落ちた旋律に、皆の呼吸**が自然に合う。

 ——風は決める人は託すだけだ。 託す前に、座り旗を立て声を落とし影を向け笑いを置き水を差し出し図を止め数字を止め沈黙を守る。 “風を読む人々”は、こうして一つの合奏になった。

 夜、拝殿の灯が落ちる。最後の一本が消える前、宮司が柱に向かって小さく頭を下げた。“やめる紙”がわずかに揺れ、待つ熱が静かに残る。朔は指を立て、風を受けた。風は、指を撫で、通り過ぎ、また戻る。戻る風は、明日のための受け止めの稽古をしている。


第十章:雨乞いの記録

 図書館の郷土資料室は、午後の光を紙の厚みに合わせて静かに折りたたんでいた。綴じ紐で綴られた町内会誌、わら半紙の回覧、奉納の写真帳、学校だより、神社の古い祭礼控。朔と澪は並んで机を取り、宮司は奥の閲覧台で古文書の複製を捲っている。志村は指先に薄い木工用手袋をはめ、写真の台紙をゆっくり持ち上げた。月岡はノートPCを閉じ、紙の世界のリズムに合わせるため、手帳だけを開いた。環は小学校の記録集から児童の作文を抜き出している。

「“雨乞いの記録”、三度」

 宮司が静かに言った。

「この土地で“祈雨”が公に記録されたのは、明治の末と、昭和二十年代の干魃と、平成初年の少雨。この三つです。どれも、“上げる”より“戻す”に重心がある」

「“戻す”」

 朔は書き取り、ページを繰る。明治の記録は毛筆の達者な字で、「祈雨奉告、降雨受止」とある。受止——受け止め。雨をただ“求める”のではなく、降ってきたものを“受け止める”側の段取りが詳細に書かれている。水甕の並べ方、溝の掃除、田圃への分配路の順番、子どもに最初の一杯を渡す儀のこと。

「“受け止め図(雨)”だ」

 澪がメモに書き、笑った。朔も笑う。祖父の巻物と現在の図が、古い紙と新しい紙の上で重なる。雨の受け止めは、火の受け止めと姉妹なのだ。

「昭和の記録には“音”が多い」

 志村が写真台紙の横にあった書き起こしノートを指す。消防屯所の鐘、寺の半鐘、桶に当たる最初の雨粒の数、屋根瓦の鳴り。四拍+長い三拍が、言葉を持たない時代にも、音として記憶されている。

「“最初の雨は、三拍目に長く降る”」

 環が児童作文の一節を読み上げた。「はじめはポツポツ、つぎにザーッ、そして、おかあさんが“お茶を飲みなさい”と言った」。飲むが三拍目に置かれている。

 平成の記録は写真が多い。ビニールの雨具、学校の水筒、タオル、子どもたちの笑い。笑いはここでも責任のない笑いで、合図になっている。写真の余白に手書きで「見たら飲む」「見たら右へ」と似た言葉が残されているのを見つけて、澪が目を丸くした。

「この町、ずっと“受け止め”の土地だったんだ」

 朔は頷き、辞書に項を増やした。

【雨の受け止め】・祈雨=降らせるではなく、降った雨を戻すための段取り。・最初に子どもへ一杯。・音の拍を記録する(半鐘/桶/瓦)。・**“見たら飲む”**は水にも適用。

「“雨乞いの詞(ことば)”の譜面が残っています」

 宮司が複製の棟札を示す。短い句が七つ、間に**間(ま)**の印。間の長さが句ごとに違う。古い神職は“”で雨を呼んだのだろう。

間の楽譜だ」

 月岡が呟き、四拍の図に間記号を重ねる。三拍目の前後が伸び、祈りの息が長くなる。**“座る”**が、さらに濃くなる。

「雨の拍は、二重になる」

 朔は図を描く。風の四拍の上に、水の四拍が重なり、三拍目が両方で伸びる。伸びの重なりは、立ち止まるの最良の場所を示す。そこに丸い石を置く理由が、古い記録からも補強される。

雨の丸い石

 環が笑い、子どもたちに話す言葉がもう一つできた、とメモする。

     *

 紙の山の間から、志村が一枚の写真を取り出した。昭和二十年代、拝殿前に並ぶ水甕。甕の前には静かな旗のように佇む男が一人。手には旗は持っていないが、おそらく当代の配置担当だ。彼の視線が**−1°**で落ちているのが、不思議にわかる。

「……修(朔の父)に似てるわけじゃない。けど、“が似てる」」

 志村の声に、朔は胸の奥が少し温かくなる。役は血筋ではなく、土地の記憶から生まれるのだ。

「“やめる紙”の前身にあたるもの、ありますか?」

 澪の質問に、宮司が頷いた。古い書付に「御止(おとめ)」の記述。**“止める”**を告げる木札を、最初と最後に掲げた、とある。やめる紙の祖先だった。

「最初と最後に読む」

 朔が父の一行を思い出す。御止の木札やめる紙が、時代を跨いで同じ導線に載る。翻訳が連続している。

「辞書に**“御止(おとめ)”**を」

 澪は項を起こす。

【御止(おとめ)】・止めるを告げる古い木札。・最初と最後に掲げる。・やめる紙の祖。

     *

 夕方、資料室を出ると、空は薄く張った膜のように見えた。湿りがある。降るかもしれない。境内へ戻ると、志村と若手が水甕を三つ運んでいた。租借先の旧家から借りられたものだという。甕は丸く、低く、丸い石とリズムが似ている。

「“雨の受け止め”も、稽古に入れよう」

 宮司が提案する。**“見たら飲む”**は、水でも火でも同じだ。飲むは三拍目。拍の長さを体で覚えるには、が早い。澪はうなずき、記事の小見出しに「水の三拍目」と書き込む。

 座小屋の軒先で、志村が甕の座りを取る。砂利の上に薄く板を敷き、鳴きが一緒にいる音になるまで板を調整する。月岡は甕の口径を測り、“見たら飲む”の動線が人流の拍を乱さないよう位置を微調整する。朔は**受け止め図(雨版)を引く。水→石→声→右への順。“御止”**の位置は最初と最後。

雨が来たら、“やめる紙”は?」

 環が尋ねる。

最初に読む。最後にも読む。——雨でやめる日は、“やめる”を“受け止め”に変える日」

 宮司の言葉に、皆がうなずく。風は決める。雨も決める。人は託すだけだ。託す前に、甕を座らせ石を置き声を落とし旗を立て笑いを置き水を差し出す。火床の夜と同じで、雨の稽古も座るから始まる。

     *

 雲が低くなった。最初の粒が、甕の縁を一度だけ叩く。一拍目。皆が目線で合図を交わし、静かな旗が**−2°で落ちる。二拍目、粒が増え、拝殿の屋根が薄く鳴る。三拍目、甕の中にまとまった音が落ちる。宮司が小さく頷き、環が最初のコップを子ども役**へ差し出す。見たら飲む長い三拍が、喉を通って体に落ちる。四拍目で、右へ。受け止め図は、雨版でも動く。

「——座る

 宮司が合図すると、皆が一呼吸、雨の中で立ち止まる。説明のない沈黙受け止めの沈黙が、水の上にも敷かれる。音が落ち着き、笑いが薄く転がる。責任のない笑い。志村のぼそり「海苔、今日は湿ってる」。皆が笑い、今ここが戻る。

 降りは短かった。“やめる紙”は最初と最後に読まれ、御止の古い導線が今日の柱に重なった。甕の水は薄く溜まり、待つ熱と拮抗する待つ冷が境内に広がる。火と水の二つの待つが同居する夜は、いつもより静かだ。影の川は細く、足の下で砂利が一緒にいる音を立てる。

     *

 片付けの後、朔は祖父の巻物を思い浮かべた。風洞の頁の余白に、もし祖父がもう一行だけ書いていたなら、何を書いただろう。“水路”のことかもしれない。風の通り道と、水の通り道。どちらも“つくる”ではなく、“通す”禁風は、禁水ではない。風を作らないように、水を急がせない座るは、火にも水にも共通の基準点だ。

 澪が肩を並べる。

「見出し、決めた。“雨乞いは“戻す”の稽古”。サブは“水の三拍目と受け止め図”。」

「いい」

 朔は頷き、拝殿の**“やめる紙”**を見た。紙は濡れていない。屋根が守っている。だが、待つ冷は紙に近づき、待つ熱と静かに混ざる。座るの温度は、その二つの間にある。

 風が指を撫で、雨の匂いが遅れて来た。杉が低く鳴り、遠くで口笛。旋律は同じだが、水の拍で落ちてくる。四拍+長い三拍。その上に薄く、雨の三拍が重なる。戻すの重なり。祈りは上げるよりも、戻すことで形になる。

 ——風は決める。雨も決める。人は託すだけだ。 託す前に、座り甕を置き石を置き旗を立て声を落とし笑いを置き水を差し出しやめる紙最初と最後に読む。 雨乞いの記録は、今日の受け止め図の中で、もう一度、生き物になった。


第十一章:言葉にならない祈り

 住民説明会は“稽古会”に姿を変え、午後の光が落ちきる前の境内に、人の輪がいくつも生まれていた。鳥居の額はまだ金を浅く返し、杉の梢は遠い潮のような音で満ちている。丸い石が三つ、等間隔に置かれ、その手前に静かな旗の位置が白い小石で印された。拝殿の柱には、いつもの一枚紙——『迷うときはやめる。宮司』。紙は風に揺れ、揺れるたびに、見に来た人の目がそこへ吸い寄せられる。吸い寄せられて、戻る。戻る視線の速度が、すでに砂利の鳴きに合わせられている。

「本日は“説明”しません。“稽古”をします」

 宮司・八重樫瑞穂が、一礼とともに短く告げる。声は低く、**−1°で落ちる。押さない。落とす。“声の角度”**の見本としての開幕。拍手は起きない。起こさない。代わりに、息が一つ合う。

 広場の端に、自治会の面々、子どもを抱いた親、商店街の人、消防団の古参、学校帰りの高校生、そして、SNSで騒ぎを見て心配になって来た数人の若者。賛成懸念冷笑好奇心。温度の違う視線が、同じ影の川に落とされる。影の川は**−3°で足元を指し示し、丸い石の手前で自然に細る。“座る”**の一歩手前に、皆の足が収束していく。

「順番を変えます。最初に、**“やめる紙”**を読ませてください」

 宮司が拝殿の前に立ち、紙を指でそっと押さえる。読み上げは短い。

迷うときはやめる。宮司」

 風が、紙を一拍遅れて撫でる。その遅れが、今日の四拍+長い三拍の最初の印になる。人の輪の外側で腕を組んでいた男が、ふっと腕をほどいた。何人かの息が、それぞれに深くなる。“やめる”は、恥ではなく最初の勇気だ——と、言葉にしない合意が、紙の前に薄く積もる。

「次に“笑い”を置きます。責任のない笑いです。儀礼と無関係で、体を“今ここ”へ戻すためのもの」

 志村兼三が丸い石の外周に立つ。声は**−2°**。落ちすぎず、押さず。

「海苔ってさ、手にくっつく時と、絶対くっつかない時、あるよな」

 笑いが薄く転がる。転がって、止まる。止まりかたが良い。小さな子が真似して笑い、抱いた親が肩で笑い、高校生が目だけで笑い、SNSで来た若者の口元が、わずかにほどける。笑いに遅れて、声の拍が落ちる。「見たら飲む」。環が水を差し出し、コップが小さく鳴る。その音は三拍目の印で、飲んだ喉に**“座る”**の温度を残す。

「“説明”はしません。触ってください

 朔は糊刷毛を差し出す。薄地図の“抜き”を、住民の手で。一枚の紙の外周1cmにだけ薄く糊を置き、四分点の手前で抜く。抜きが早すぎると、紙は焦り、遅すぎると、紙はふてくされる。ちょうどが、指に残る。指に残る“ちょうど”は、言葉にならない祈りの最初の形だ。言葉にしないで共有できる。

 月岡遼は係留気球の糸を見せる。風の層がどこにあるか、数字ではなく、手首の引っ張りで。引っ張りは強くない。強くないから、やめるの合図を、いつでもここに置ける。電波が切れたら、やめる。言葉は短く、しかし一人称で。

 澪は記者であることをしまって、列の中に立つ。ノートを持たない。拍を受け取る側に回る。**「説明で勝とうとしない」**を、自分から実装する。

     *

 稽古会は、ゆっくりと合奏になっていった。旗を立てる人声を落とす人影を向ける人笑いを置く人水を差し出す人図を止める人数字を止める人沈黙を守る人——動詞で呼ばれた役が、互いの呼吸を拾い合う。

 そのとき、境内の向こうから、求めていなかった音が飛び込んできた。自転車の急ブレーキ。前輪が砂利に横滑りし、少年がハンドルを切り損ねて、丸い石の二歩手前で体勢を崩した。周りの空気が瞬時に硬くなる——はずだった。

 静かな旗が**−2°で落ちる。旗は布ではない。立ち位置と顔の角度と沈黙。それだけで、止まるの合図になる。声が−2°で落ち、「見たら飲む」が三拍目前倒しで置かれる。少年の隣にいた若者(SNSで来ていた)が、自然に水を差し出し、少年は一口飲んで、肩で笑う。責任のない笑いが薄く走り、影の川が一瞬で再びつながった。志村は旗を−1°に寄せ、父の位置で“座る”**の前段を整える。誰も説明しない誰も指示しない言葉にならない合図だけが、正確に連鎖した。

 最初に硬くなりかけた空気が、鳴きのいい砂利を踏む音に戻るまで、二拍。二拍の間に、余計な言葉は一つもなかった。少年の母親が遅れて駆け寄り、深く頭を下げる。誰も「大丈夫ですか」と重ねて言わない。**“座る”**が、もうそこに敷かれているからだ。

 見ていた消防団の古参が、腕を組んだままでぼそりと呟く。

これが、わしらの“受け止め”か

 誰にともなく、しかし全員に聞こえるほどの大きさで。言葉は、それ以上、広がらなかった。合奏の中では、良い言葉ほど短い。

     *

 稽古会が終わると、SNSにまた一本、短い動画が流れた。誰かが撮った、旗の角度が落ちる瞬間と、少年が水を飲み笑う三秒。テロップはつかない。説明もない。そこに、短い文字だけが添えられていた。

言葉にならない祈り

 反響は、前回のような棘ではなかった。無言の合図は、拡大よりも、反芻を連れてくる。「こういう止まり方なら、行ける」「笑いの意味がわかった気がした」「“やめる紙”の位置が先で良かった」。もちろん、別の声もある。「図面が多すぎる」「祭りから遠くなった」。その声も、境内の端に並べた紙皿の丸に、そっと載せた。重しにせず、置くだけにする。置くことが、**“座る”**の練習にもなる。

 澪の連載は、同じ夜に出た。見出しは**「合奏としての“風読み”」、サブは「四拍と“座る”——祈りの拍が長くなる場所」。本文の半分は、動画の三秒の記述で埋まっている。旗が落ちる角度、声が落ちる深さ、水が差し出される手の高さ、笑いが止まる速度。数字はほとんど書かず、しかしは読者に渡る。紙面の隅に、小さく書かれていた。「“やめる紙”は最初に読む**」。

     *

 翌朝の境内は、よく磨かれた器のように音が通った。火床は静かに座り、丸い石の露はわずかで、やめる紙は薄い影を落とした。今日は本奉納の四日前。リハーサルを兼ねた最後の合奏稽古。**“受け止めの沈黙マップ(ver.1.0)”**は、白い紙ではなく、人の体で描かれる。

“座る合わせ”から

 志村が言い、皆が一拍、座る四拍+長い三拍の、最初のゼロ。ゼロは音がしない。ゼロがあるから、一が立つ。静かな旗が**−2°で立ち、声が−2°で落ち、影が−3°で向き、笑いがAから薄く置かれ、水が三拍目に配られ、図が動いてから止まり**、数字が**“やめる合図”の方に目を移し、沈黙が歓声の後**に薄く敷かれる。——全部が終わる前に、宮司が手を上げた。

今日は、“言葉にならない祈り”を一つ、ここに置きます

 宮司は拝殿の柱の“やめる紙”の隣に、小さな白い紙を貼った。墨で、短く一行。

ありがとう

 誰に、なのか、書いていない。だから、誰にでもなった。紙は風に揺れ、“やめる紙”の影と重なったり、離れたりする。重なるときは、“やめる”=“ありがとう”になる。離れるときは、“ありがとう”を言うためにやめるになる。どちらでも、良い。言葉にならない祈りは、たいてい二通りに読める。

 環が子ども用のプリントに、その紙の絵を描いた。“ありがとうの紙”。丸い石の前で立ち止まって見上げるとき、子どもたちはきっと、その紙も一緒に見るだろう。「見たら笑う」「見たら飲む」「見たら右へ」と並べて、「見たらありがとう」。拍を乱さない位置に、短く加える。

     *

 昼、自治会館で小さな議論が起きた。「“ありがとう”は媚びている」という年配の声。「感謝を強制するのか」という若い声。空気が熱を帯びる前に、静かな旗が一本、−1°で立った。旗は言葉を持たない。持たないから、空気の熱を逃がす。宮司は、その旗の影に入るようにして、短く言った。

“ありがとう”は、言う人のための言葉です。——やめるを言う人の手から、**“ありがとう”**が落ちないように、最初から置いておく」

 議論はそこから、怒りの方向に進まなかった。方向が、旗で決まってしまったからだ。言葉にならない祈りは、言葉で言い負かされない沈黙の配置が、言葉の権利を守る。

 澪は会館の片隅で、その様子を記事にはしなかった。自分の胸の合奏にだけ、書きつける。誰が旗を立てたかは、名前ではなく角度として記憶されるべきだ、と。

     *

 夕方、境内をかすめた風が、見たことのない速さで向きを変えた。上空の層は高く、地上の風は一瞬だけへ回り、そのまま西に戻る。その一瞬に、朔の手元の**“受け止め図”の外円が、紙の上で細く震えた。ライブ・マニュアルの画面は更新を待ち、図を止める人の指が、その手前で静かに引く**。止める静止画に戻す。足が早くなる絵は出さない。

“やめる会議”——五分だけ

 宮司が言う。円座。一人称が先に並ぶ。

私は、やめる。層が下りたら」

私は、支える。やめたあとも」

私は、数字を止める。できる理由ではなく、やめる合図を見る」

私は、図を止める。動く絵を止める」

私は、笑う。責任のない笑いで、足を“今ここ”に戻す」

 “ありがとうの紙”は風に揺れ、“やめる紙”の影と重なっている。その重なりを、誰も言わない。言わないことが、今日の祈りだ。

     *

 夜。拝殿の灯が順に落ち、最後の一本が消える前、宮司がもう一度“やめる紙”を読んだ。最初と最後。**御止(おとめ)**の古い導線が、現代の紙で息をしている。

迷うときはやめる。宮司

 紙は、揺れた。揺れて、落ち着いた。待つ熱と、待つ冷が、ちょうどのところで混ざる。志村が火床に手を置き、月岡が空を見て、環が石を撫で、朔が図を閉じ、澪がペンを止めた。皆、座った。**“やる”“やめる”**の間にある、あの位置に。

 その夜、朔は祖父の巻物の“禁”の頁を、やはり開かなかった。代わりに、父の録音をもう一度少しだけ聞いた。『“やる前に座る”』。座る、は名詞でもあり、動詞でもある。**“座る”**が、今夜ほど大きな動詞に見えたことはなかった。

     *

 奉納当日の。境内の空気は、器の内側のように清んでいた。丸い石は乾き、砂利の鳴きは低く整い、影の川は細く長く落ちている。鳥居の額が光を浅く返し、拝殿の柱の**“やめる紙”**が、朝の風を一度だけ拾ってから、静かになる。

 宮司は、最初の一礼を終え、紙に向かった。紙の前で、一人称を選び、声の角度を選び、呼吸を選ぶ。皆が座る四拍+長い三拍ゼロが、空気の底に敷かれる。

迷うときはやめる。宮司

 言葉は短い。短いが、今日の最初の祈りだ。“ありがとうの紙”は紙の横で、重なったり離れたりを続ける。志村の静かな旗が**−2°で立ち、環の見上げる合図が丸い石の上で小さく呼吸し、月岡の数字の目やめる合図だけに照準を合わせ、朔の“図を止める指”は、画面の手前で弓の弦のように張られている。澪は書かない。書かずに、胸のを数える。一、二、(三が長い)、四**。

 言葉にならない祈りが、境内の全員の体に、はっきりと、しかし音もなく、置かれた

 その後に続くものが、上がる線であれ、やめるの宣言であれ、“座る”はもう、ここにある。受け止めは、先に敷かれている。“やめる”も、先に言われている。だから、この朝の風は、選ぶことだけに集中できる。風は決める。人は託すだけだ。託す前に座る。——それが、言葉にならない祈りの、いちばん確かな手順だった。

 拝殿の鈴緒が鳴り、杉が低く応え、鳥居の額がもう一度光った。境内のどこかで、短い口笛。旋律はいつものサビだが、今朝の拍で落ちてくる四拍+長い三拍。落ちてくる旋律に、皆の呼吸が合わせられる。紙は揺れず、旗は揺れず、石が乾いて、砂利が鳴く。座るが、整った。

 ——そして、時間が、ひとつ進んだ。


第十二章:新しい龍胴案

 朝の青が薄く残る境内に、白い紙筒が三本、静かに横たわっていた。竹胴、紙貼り、骨組み、糊の“抜き”が仕上がった、候補A/B/C。いずれも禁風の原則を守り、中央は空洞を“設けない”。しかし、違いは縁と節とにある。今日は、新しい龍胴案を決める日だ。決めると同時に、“やめる”へ分岐する導線も紙と体に実装する。

座る合わせから」

 志村兼三の言葉で、皆が一拍、座る四拍+長い三拍のゼロが境内に敷かれ、静かな旗が**−2°で立ち、拝殿の柱の“やめる紙”**が朝の風を一度撫でる。

 月岡遼はホワイトボードに、三本の差分を簡潔に記す。

  • 案A:薄地図 強/半節 中/縁の撓み記憶 深→ 開きは早い。終盤の腰がやや軽い。降りの姿勢が美しいが、風の層が落ちたときは神経質。

  • 案B:薄地図 中/半節 強/縁の撓み記憶 中→ 初動は穏やか。一礼がはっきり出る。三拍目の“飲む”に合わせやすい。

  • 案C:薄地図 弱/半節 強/縁の撓み記憶 浅→ 開きは遅いが、噛みが強く、最後の座りが安定。風が荒れた日でも怒らない紙

“やめる分岐”はCがいちばん相性がいい

 朔は“受け止め図”の角に小さな枝線を描いた。A/Bで上げる→Cで“上げずに受け止める演目”へ差し替え図を止める人の手前に、この枝線を静止画として残す。動く絵は足を速くする。やめるの枝は、止まった図で示す。

今日は“二重実装”を試す

 宮司・八重樫瑞穂が紙束を配る。紙面の台本と、身体の順序。どちらにも**“やめる”の言葉**が先にある。

  • 紙面:①やめる判断→②“ありがとう”の紙→③“見たら飲む”→④布の配布→⑤“右へ”

  • 身体:①座る→②旗−2°→③声−2°→④笑いA→⑤水(三拍目)

“上げる”も“やめる”も、同じ拍で動く。違いは線ではなく、座り濃さだ」

 志村が、竹胴に掌を当てた。

     *

 最初に案Aの“火なし稽古”。糸をとおし、丸い石の手前に静かな旗、外周に笑い、三拍目に。朔が“薄地図 強”の縁を指で撫で、毛先の“抜き”の光沢を確かめる。初動は見事。ためらいの後押しが短く、一礼がやや浅い。は軽い——美しいが、層が下がった日には神経質だ。澪が“辞書”に淡く書く。

【案Aの気配】・焦点の合う美しさ。・風がよい日に、人の心を速くする。・止める絵を手前に置く必要。

 案B半節 強が、骨の表情をそろえ、一礼がはっきり出る。三拍目に“見たら飲む”を置くリズムが合わせやすい。**“受け止めの合奏”**に馴染む胴。若手が思わず「これが好きです」と漏らし、すぐ照れる。澪が微笑んで項を足す。

【案Bの気配】・一礼→座るが読みやすい。・笑い−水−右の合図と相性良。・**“父の位置(−1°)”**を混ぜると、なお良い。

 案C薄地図 弱縁の撓み記憶 浅。開きは遅い。だが、噛みが強く、怒らない“やめる”の枝に差し替えた時、合奏が崩れにくい。水と声と影の三拍目の伸びに従順だ。志村が「“待つ熱”に強い紙だな」と言い、宮司が頷く。

【案Cの気配】・戻る勇気を支える。・“ありがとうの紙”と相性良。・“御止”の古い導線に座る。

本番の第一候補はB代替(やめる分岐)はCAは“上げる”の白い窓が広い日にのみ

 月岡の提案に、全員が異論なく頷いた。“候補”を決めることは、“やめる枝”を太くすることでもある。選べるから、やめられる

     *

 紙面の台本身体の二重実装に入る。朔は“受け止め図(ver.1.4)”を開き、B→Cの切り替えをQRパタパタ板の両方に反映させる設計図を描く。更新の最短は5分やめる判断が走った瞬間は**“停止→静止画”。止めるのはで、進めるのは声の拍**だ。

「**“やめる紙”→“ありがとうの紙”→“水”→“右”**の順は、言わない合図でも通る」

 宮司が合図の順を沈黙マップに落とす。言わない配置が○で並び、の角度が小さく書き添えられる。志村は**“父の位置(−1°)”丸い石の外周に一つ追加する。「“上げる”でも“やめる”でも、ここが座りの鍵になる**」

 環は学校版に**“二重実装カード”を作る。片面が上げる**、片面がやめる。子どもがカードをくるりと返す練習をする。「どっちでも、拍は一緒」。笑った子の口から「見たらありがとう」がふっと出て、澪がそれを書かない。書かずに、胸に置く。

     *

 午後、小さな風の試験。係留気球の糸が軽く揺れ、上空の層は92m。地上は南西。白い窓案Bで“火なし—短い火あり”へと段を上げ、安全半径R=48m受け止め図を動かす。笑いA声−2°水(三拍目)右へ座るが先にあり、一礼が紙に宿り、降りが腰に落ちる。怒らない足は揃い影は流れ図は止まり、**数字は“やめる合図”**を見ている。

 “やめる分岐”の演目に切り替える練習。案Cへ静かに持ち替え、“上げずに受け止める挨拶”を行う。丸い石の前で、“ありがとうの紙”を見上げ、水が配られ、右へ。拍は同じ。“やめた”が“途絶”にならないよう、“受け止め”の形で終える。拍手は起きず、息の合う音だけが長く残る。

やめる枝は“演目”です

 澪が口にした。記事に書く言葉ではなく、ここにいる人の辞書として。“中止”ではなく、“受け止めの演目”言葉を置き換えることで、の分岐が臆病でなくなる。

     *

 日が傾くころ、保存会の古参が竹束を抱えて現れた。「もう一本だけ、父ちゃんに」。志村が笑って受け取り、**“父の位置(−1°)”**に立って竹を撫でる。鳴きは低く、戻りが素直。座るの音だ。

 朔は、祖父の巻物——風洞の頁に目を落とした。もし祖父がここにいたら、何と書くだろう。“風洞は、道。禁風は、態度”。祖父の筆致で響く言葉が、胸の中で輪郭を持つ。“禁”の点は、相変わらず長い。けれど、その手前に並ぶ短い線は、今日も増えた。案B一礼案C怒らない二重実装受け止めの演目点の手前で仕事をする——父の選択は、龍胴にも宿った。

決めよう

 宮司が言う。皆が座り、一拍の沈黙が敷かれる。

第一胴=Bやめる枝=CAは白い窓の日の“予備”

 短い言葉で、新しい龍胴案が決まった。拍手はしない。かわりに、**“ありがとうの紙”に目をやる。一瞬、“やめる紙”**の影と重なり、離れる。二通りの読みが、どちらも祝福になった。

     *

 最後の仕上げは、重さだ。竹胴のに触れ、薄地図を指でなぞり、半節表情を合わせる。糊の抜きは四分点の半歩手前——抜きが合図になる。は**“おじぎの戻り”で確かめ、怒りがないかを耳で嗅ぐ。“鳴き”が足と一緒にいる**まで、砂利の帯を踏み直す。

 は、−2°の落としと、−1°の座りの二層。が先に立ち、が半拍遅れて落ちる。「見たら笑う」「見たら飲む」「見たら右へ」。**“やめる演目”**では、「見たらありがとう」が先頭にくる。順序は違っても、は同じ。四拍+長い三拍。三拍目が長い。

 澪は“辞書”の索引に、今日の頁を増やす。

【新しい龍胴案】・第一胴=B(半節 強/薄地図 中/一礼→座る)やめる枝=C(薄地図 弱/怒らない紙/戻る勇気)予備=A(白い窓の日)二重実装:紙面と身体。“止める図”/“進める声”受け止めの演目:中止を“途絶”にしない言い換え。

 そして、欄外に、鉛筆で薄くひとこと——「点の手前で、座る」

     *

 夜。提灯が順に落ちる前、拝殿の柱の**“やめる紙”が一度だけ揺れ、隣の“ありがとうの紙”と重なった。志村は火床に手を置き、月岡は空を見上げ、環は丸い石を撫で、朔は図を閉じ**、澪はペンを止める。皆、座った新しい龍胴案は、に託される前に、座りに託された。

 遠くで、短い口笛。旋律は、いつものサビ。だが今夜は、Bの拍で落ちてきた。四拍+長い三拍三拍目が、少しだけ長い。**“見たら飲む”**のために。

 ——風は決める。人は託すだけだ。 託す前に、座り胴を選び枝を用意し図を止め声を落とし笑いを置き水を差し出し“やめる紙”と“ありがとうの紙”を最初と最後に読む。 新しい龍胴案は、その全部の短い線でできている。

 
 
 

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