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静かなる線路の証言

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月17日
  • 読了時間: 38分
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— 静岡清水線S01〜S15 連続長編 —

プロローグ

午前5時台の空は、まだ色を選びかねていた。黒と群青の境い目に、かすかに乳白が滲む。静岡鉄道・静岡清水線の車両基地を離れた一番列車が、新静岡のホームへとすべり込む。金属の車輪がレールと交わる瞬間、冷たい火花が、現実と虚構の境界に灯る。

この日、事件は時計ではなく切符で始まる。正しい券面、正しい日付、正しい打刻。しかしその区間は、今日この線で売られないはずの、古い時代の名残だった。

人は、日常へ向かうために電車へ乗る。だが、たった一枚の切符が、十五の駅に沈んだ証言を掘り起こし、街の静脈から微量の毒を循環させる。やがて、終点で鳴る発車ベルは、誰かの告別の音になる。

これは、沿線が全員でついた嘘の物語だ。

第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘

1

午前5時56分——始発のベルが、まだ眠りの残滓をまとったホームで震えた。駅務室から顔を出したのは、配属二年目の駅員・佐伯隼人だ。雨上がりの線路は濡れた鱗のようで、蛍光灯の色を斑に反射している。

「おはようございます」清掃の女性に軽く会釈しながら、佐伯は改札機のランプの点検を終え、回収ボックスに溜まっていた券片を素早く束ねる。手触りで紙質の違いがわかるほど、彼はここでの仕事に馴染んでいた。束の真ん中で、指が止まる。

一枚、紙が厚い。それだけでなく、印字の黒が薄く、文字のエッジが角張っている。券面——

新静岡 → 狐ケ崎発売日:本日発売機:自動券売機

(……狐ケ崎?)この線の運賃表では、区間表示に「狐ケ崎」を終点として切る券は、既に一般販売の一覧から落ちているはずだ。近年の機器更新で、利用の少ない区間直行券は統合された。なにより、券売機の機番表記が古い。五年前に廃棄された機種名のフォーマットに見える。

佐伯は窓口端末のログにアクセスした。始発前後に買われた切符の一覧。そこに**「新静岡→狐ケ崎」はない。つまり、この券は出所不明**。だが、日付は今日、印字は生きている。マイクロ文字の位置も合っている。偽物と言い切るには、技術が良すぎた。

ホームを監視するモニターに、黒いコートの男が映る。背の高い、四十前後、細身。列の最後尾に立ちながら、一度だけ改札口のカメラをまっすぐ見た。見られた気がして、佐伯は無意識に姿勢を正す。男は目線だけで距離を測る種類の人間だ。

「佐伯、始発、発車」無線の声に、佐伯は短く応じる。車両は扉を閉じ、静かに動き出す。線路が朝の街へ延び、その向こう側で、今日という日の最初の嘘が確定する。

2

窓口に女性が現れた。黒いダウン、襟元に白いスカーフ。声は驚くほど落ち着いている。

落とし物の切符が届いていませんか?」「どの区間の切符でしょう」「新静岡から……狐ケ崎です」

佐伯の指先がわずかに強張る。「——今日、その区間の販売は……」「知っています」女性は言葉を遮った。「だからこそ、お尋ねしているんです。可能性を捨てたくないので」

女性は名乗らなかった。ただ、狐ケ崎という単語を口にする動作が、人には見えない糸を手繰り寄せるように正確で、練習の跡があった。彼女は現実の仕様を知っている。にもかかわらず「狐ケ崎」を発音する。その矛盾は、わざとでなければ生まれない。

「お名前を」「水城(みずき)真耶」即答。小さな革の名刺入れが、佐伯の視界にちらつく。法曹関係者が好む、薄いフォントの名刺のように見えた。

「切符は……こちらの可能性があります」佐伯は業務マニュアルのぎりぎりを踏む線で、回収ボックスから問題の一枚を取り出した。水城は、触れない。目だけで読み取る。「有効ですか」「券売機ログとの整合が取れません」「現認は?」「回収時、私は改札に立っていました。通過の事実はあります」

水城は、微笑むでもなく口角だけを少し上げた。「ならば、その切符は証拠です。私に返還できますか」「紛失物であれば——」「私が落としたと断言はしません。『誰かが落とした』切符が、私にとって必要だと言っているだけです」

佐伯は、視界の端で黒いコートの男がモニターから消えるのを見た。この切符は、誰のものだ。そしてそれは、どこへ行こうとしている。

「本件、上長に確認します」「お願いします」水城は一歩下がり、窓口前の線から靴先を越えないよう厳密に立った。その姿勢は、の意味を知っている人間のものだった。

3

駅務室の扉の内側で、佐伯は鉄道警察隊に連絡を入れた。担当の警部補・真壁は、朝から無口だったが、要点を外さない男だ。

「券面の写真を。……ふむ。機番の表記が古い。ただし日付は今日。印字は最新のインクリボンの滲み方に近い。つまり、古いレイアウトに新しいインクを通している」「そんなこと、できますか」「できる人間がいる」

真壁は続けた。「君の前に現れた女性は?」「水城真耶と名乗りました」「名字の音で検索が引っかかる。県内の弁護士に水城という姓は見当たらない。だが、旧姓または職務上の通称はあり得る。ひとまず任意照会の対象にしよう」

「黒いコートの男も気になります」「線の人間だ。乗り慣れの視線だな。……始発から二本目、日吉町で降りる可能性が高い」「なぜわかるんです」「君の駅の監視モニターは、まだ古い型で残像が出る。男は振り返ってカメラを見た。夜勤明けの警備員か、下見だ。いずれにせよ、自分の輪郭をカメラに刻む癖を持つ」

真壁は電話越しに短く息を吐き、言った。「切符は預かっておきなさい。本人確認が曖昧なまま返せば、証拠疎失になる。女性は再び現れる」

佐伯は受話器を置いた。ホームの端で、朝の光が線路を一本の鉛筆に変え、街の白地図に薄い線を描いていく。その線の上で、誰かがを運ぶ。

4

午前6時42分。二本目の電車が到着した。佐伯はドーム型カメラの映像を確認しながら、改札に立つ。黒いコートの男は——戻ってきた。今度は改札の外から構内放送のスピーカーを眺め、何かのを測っている。(音の届く範囲……タイミングを見ている?)

男はさっと視線を切り、窓口の水城を見た。二人の視線が、一瞬だけ重なる。——知り合いか?いや、違う。知らない二人が、互いに「知らないふり」を上手くやった視線だ。

佐伯は、呼気を整えた。「お客様、なにかお探しでしょうか」男は柔らかく笑った。「運行情報を」「本日は平常運転です」「なら、三分の遅れは?」「……どちらの駅でしょう」「草薙」男は答え、肩にかけた細身のカバンを直す。(なぜS10を口にする?)S10=草薙——森の踏切と三分の誤差。まだ掲出前の駅務連絡に、保線の点検で一時的に徐行が入る可能性が書かれていた。内部連絡に近い情報だ。(どこで知った? 線の中に、もうひとりいる)

男は切符を買わずに、踵を返して去った。残されたのは、言質だけ。「三分の遅れ」その数字は、今日の後半、別の駅でアリバイの材料になる。

5

午前7時を回った頃、窓口に高校生が駆け込んだ。制服の襟が少し曲がっている。「忘れ物の切符って、来てませんか!」佐伯は目を細める。「区間は?」「新静岡→狐ケ崎です!」

——二人目。佐伯は慎重に問う。「どうして、その区間の切符を?」「……賭けです。友達が『そんな券面もう売ってない』って言うから、古い機械でまだ出せるか試そうって」「古い機械?」「長沼の車庫の近くで、バイトの先輩が持ってて……」少年はそこで言葉を飲み込む。佐伯は、**長沼(S06)**という単語に心がざわめく。車庫の盲点。(廃機の券売機を、個人が? いや、部品だけ抜き取って、券面を偽造……)

「君の名前は」「杉浦。杉浦怜」佐伯は記録用紙に走り書きし、真壁に回線を繋いだ。「長沼に旧券売機の部品が流れている可能性があります」真壁は低く唸った。「線路は見えてきた。だが、それだけでは事件にならない。誰かが、それを使って何をしたかだ」

「——誰かが、どこかで、その切符を落とした」佐伯の口から、言葉が零れる。「わざと落としたんだよ」真壁の声が硬くなる。「そして、拾う相手は、決まっている

6

午前8時20分。駅前の路地裏に、制服の巡査から連絡が入る。「切符が落ちてました。裏に、赤いペンで『S09』と」(——S09、県立美術館前。彫像が見ていた手口)佐伯は、血潮が早まるのを止められない。(始発で入ってきた狐ケ崎の切符。二本目で「草薙三分」を口にした男。路地に置かれた『S09』の赤文字)バラバラのピースが、駅番号でだけうっすら繋がり始めている。

窓口のベルが鳴る。水城が、再び立っていた。「——切符は、まだここに?」「はい」「それで」水城は視線を落として言う。「誰が死んだのですか

佐伯は言葉を失う。「死者がいなければ、これは事件ではない。三分の誤差も、古い券面も、趣味人のいたずらで終わる。あなたが警察に連絡したなら、つまり——死者が出たか、出ると誰かが告げた。違いますか」

佐伯は沈黙した。水城は続ける。「私は、弁護人です」「……名簿にはありませんでした」「弁護人。いまは交通事故調査の民間担当です。『事故』と名がつけば、鉄道会社も、警察も、を排除できない」

「あなたは、何を知っている」「S09」水城は囁いた。「『彫像が見ていた手口』。私は彫像の前で、ある実験を行いました。人の歩幅と、監視カメラの死角と、踏切の鳴動の相関。私が得た答えは——」

言葉はそこで断ち切られた。改札の向こうで、悲鳴が上がったのだ。

7

ホームの端で、男性が倒れていた。倒れた場所は、スピーカーの真下。黒いコート——あの男だった。救急通報が入る。脈は浅い。呼吸はある。佐伯の目に、男の手元が映る。切符。券面には、赤いペンでS13と書かれている。(S13=桜橋。『夜桜に紛れた短絡経路』)なぜ、桜橋。

人垣の向こう、窓口の前に戻った水城は、誰とも目を合わせず、の上に立っていた。その姿は、混乱の只中で位置だけを守る標識のようだった。

佐伯の耳に、真壁の声が飛び込む。「救急と同時に現場を保存。倒れた男の所持品経路最後に接触した人物。それと——」「それと?」「新清水の駅に連絡を。海霧が出始めている。ベル音の反響で時刻感覚が狂う」

「なぜ新清水の話が今」「線ので鳴るベルは、ここでも幻聴になる。誰かのアリバイ使える

8

佐伯は、倒れた男の切符を写真に撮るに留め、触れなかった。男は意識を取り戻し、掠れた声で言う。「狐ケ崎……S09……S13……三分……」羅列。文法を持たない駅番号の連鎖。(お前は伝言をしている。誰に?)

救急隊が到着し、男は担架で運び出される。人の流れが再び動き始めた頃、水城が初めて改札を抜けた。「どこへ」「日吉町」「なぜ」「置いてあるから」「何が」「切符が」水城は振り返らずに答え、軽い足取りで階段を駆け下りた。その後ろ姿に、線路の真上で影の角度を測る癖が見えた。(この人は、測る人だ)

9

午前9時11分。佐伯は、駅務室の白いボードに赤いマーカーで書いた。

  • S01(新静岡):問題券面(狐ケ崎)回収

  • S02(日吉町):路地裏で切符(裏にS09

  • S06(長沼):旧券売機部材流出の疑い

  • S09(県立美術館前):彫像歩幅死角

  • S10(草薙):三分遅延の話題提示

  • S13(桜橋):倒れた男の券面メモ

点は増えた。線も見え始めた。しかし、方向がない。どの点からどの点へ、誰がどう移動したか——鉄道を使えば、時間方向は束縛される。つまり、束縛から外れた動きこそがトリックになる。

そこへ、真壁からの短い連絡。

S08(県総合運動場)で、群衆の消失情報——『小ランニング大会』の集合が、一度に移動している。誰かがまぎれた」

群衆は、匿名性の装置だ。そして、匿名性は、切符移動させる

佐伯は、ボードの空いた余白に一行を書き足した。

“切符は人を運ばない。人が切符を運ぶ。”

文字を書き終えると同時に、駅務室のドアがノックされた。振り返ると、そこに水城が立っていた。手にはビニール袋。中には、二枚の切符。「日吉町の路地裏に二枚あった。ひとつはあなたの問題券、もうひとつは——新静岡→桜橋

(二枚?)佐伯は袋越しに券面を確認した。狐ケ崎行きの古い券面と、桜橋行きの現行券面が、無造作に重なっている。(入れ替え? ダミー? いや、重ね合わせ……)

水城は、袋から二枚目の裏面を示した。赤いペンで、細い字。

“S15”

——終点。新清水。海霧が、発車ベルを歪め始める時間帯だ。

10

「あなたは、どこまで知っている」佐伯の問いに、水城はわずかに首を傾けた。「線路は、最短距離ではないことがある」「……?」「の移動は、線路に従わない。切符もまた、に従う。だから、駅番号の順番どおりに追うのはです」

水城は新静岡のホームに視線を投げる。「S13の桜橋——夜桜短絡経路電線の下にある点検通路。そこからなら、切符別の駅瞬時に移せる。S09の美術館の彫像は、“立ち止まる”理由を作る。それからS08の群衆で混ぜるS10時間をずらす。S15を撹拌する」

「あなたは、誰の味方だ」「……の味方です」水城は少しだけ笑った。「は嘘をつきません。嘘をつくのは、線のに立つ人間の言葉です」

そのとき、構内放送が鳴った。

草薙付近の徐行運転により、三分前後の遅れが発生——

佐伯は水城を見る。水城は、時計を見なかった。代わりに、ホームのの角度を見た。は、線路の偏差を映すダイヤだ。

「——S02へ行きましょう」水城が言う。「路地裏の幅と、走り抜ける足音の響きが、歩幅を語る。そこからS03へ渡る**“音の橋”**が作れる」

佐伯はうなずいた。「真壁さん、私は日吉町に行きます。水城さんを同伴」受話器の向こうで、短い間。

「いいだろう。が喋り始めた。まずはS02から、を確かめろ」

ホームに、快速でも特急でもない、いつもの各駅停車が入ってくる。扉が開く音は、日常の合図だ。しかし、今日だけは——非日常の口が開く音にも聞こえた。

二人は、乗った。

(次章の導入/第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符 冒頭)

日吉町駅を出ると、朝の匂いが濃くなる。パン屋の甘い香りと、自転車のチェーンオイルの金属臭。駅前から二本目の細い路地は、幅1.6メートル二人がすれ違うと肩が触れる。水城は、壁面のタイルとマンホールの位置を指で数え、足元に耳を澄ませるようにしゃがんだ。「ここです切符が落ちていたのは、“音が消える点”」「音が……消える?」「ええ。足音高架に吸われ、反射が遅れて返る場所。S03に向かう**“音の橋”**の起点です」

水城は袋から、路地裏で回収した二枚の切符を出し、向きを入れ替えた。狐ケ崎行きが、桜橋行きが。その瞬間、二枚の券面の駅番号の角が、一点で重なる。「見えますかS09S13は、S01から見れば**“対角線の虚構”**になる。この重なりが、犯人のダイヤです」

路地の奥で、犬が吠えた。その吠え声は、佐伯には汽笛に聞こえた。——列車は、もう走り出している。

(第2章 へ続く)


第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符

1 路地の幅、足音の高さ

日吉町駅に降りると、朝はもう街の肩に掛かった。パン屋の甘い匂いが薄い雲のようにたなびき、二本目の路地に入る風の筋を柔らかく見せる。水城真耶は、駅前の広場を横切ると、迷いなく**「幅1.6メートル」**の細道へ折れた。舗装は古く、ところどころに小さなクラックが走り、雨水が細い銀の糸になっていた。

「音は、壁の硬さで変わります」水城は足先で、壁下部のタイルを軽く叩いた。高く乾いた音。「この路地は、右壁が古い煉瓦に薄くタイル、左壁が後年のコンクリ直押し。反射の初期遅延がわずかに違う。ここで足音が『片耳にだけ先に届く』」

佐伯隼人は横で頷いた。「落ちていた切符は、ここから四歩内側だったと巡査が言っていました」「四歩分。人がよけるときの平均の歩幅です。迎面に誰かが来て、肩が触れそうになり、すれ違いの角度を作る。その角度で、ポケットから切符が抜け落ちる」

「だれが落とした?」「落とさせた、が正しいでしょう」水城はしゃがみ、マンホールの縁にそっと指腹を当てた。「車輪痕。昨日か今朝、カートが通った」

「新聞配達ですか」「それも含まれるでしょうが、ここは軽搬送の通り道でもある。手押し台車が回収した可能性がある。切符を落とす、拾う、回収する——三段階のうち、二段目の拾う予測できる人物がいる」

「だれが拾った?」「……誰でも良かった。ただし、拾う地点決まっていた

水城は路地の中央線を歩幅で測り、足音を表拍裏拍に分けるように刻みながら進んだ。四歩、六歩、十二歩——「ここです」指先が止まった先、壁に小さな白線があった。チョーク一撫で。「合図?」「配達ルート記号です。ここで『受け渡し』が起きる。拾う人間が立っても不自然でない位置」

佐伯は膝を折り、白線のすぐ近くに擦過痕を見つけた。「ゴム底です。滑った跡がじゃなくに入っている。走り抜けた」「走った音は、高架がよく覚えています」水城は顔を上げ、路地の先——日吉町の高架方向を見た。「ここからS03に向かって音が橋渡しされる」「音が橋渡し?」「残響帰り道です」

2 新聞配達の青年

新聞配達員の青年は、駅の角の自販機の陰から顔を出した。朝にしては目元のくまが濃い。「昨日の拾いものの件で……」彼は事前に警察へ連絡しており、巡査からここで会うように聞いていたらしい。

「君が、切符を見つけた?」青年は頷いた。「二枚。重なっていました。裏に赤で『S09』って」「もう一枚は?」「裏は無地。でも券面が違った。あの……新静岡→桜橋って」「拾った時刻は」「六時十九分。一回目に通ったときは無かった。六時半の配り直しの途中で、戻ったら落ちていた」

水城は佐伯と目を交わす。「六時十九分は、始発の次の到着とニアミスする時間。落とす側は、列車の到着音合図に使える」

青年はしきりに手袋を弄びながら言った。「落ちていた場所の手前で、黒いコートの人が駅の方に戻っていくのが見えました。走ってました。でも顔はわからない。あと……パン屋の前、スリッパみたいな音が二回した」

「スリッパ?」「硬いサンダルかも。ペタ、ペタって、地面から剥がれる音が濁る感じ」

水城は、路地入口のパン屋の出入り口のマットを見た。柔らかい繊維が、細かいパン粉を飲み込んでいる。「粉の粒が靴底のに入る。鈍る。スリッパじゃない。厨房靴だ」

青年は目を見開く。「パン屋の店員さん……?」「断定はできません。むしろ、厨房靴使った誰か。匂い混ぜるために」

「君、拾った切符をどこへ?」「交番へ。すぐにに入れて渡しました」「ビニール袋だね」「はい」水城は、青年がビニールのを結ぶジェスチャーをした瞬間、その結び目高さを見た。(胸の中央、心窩部の少し下。同じ高さで二度結ぶ癖)

「ありがとう。君が時間をくれた」青年は少しほっとした表情になり、配達へ戻っていった。背中のカゴが、新聞の角を空に向けて白く覗かせ、角が一様に揃っているのが印象に残った。

3 パン屋の厨房靴

パン屋の店内は、焼き上がりの湯気で薄く曇っていた。カウンターの奥にはスチームオーブンミキサー木の長い刷毛。床は湿っており、細かい粉が膜のように広がっている。店長は五十手前の男性、腕に火傷の古傷が一本。目がまっすぐで、答えが速い。

厨房靴を、同じ形で複数使ってますね」水城が足元を指し示すと、店長は頷いた。「滑らないように。が独特でしょ。ペタペタうるさいってよく言われる」

「今朝、まで履いて出た方は?」「基本、外に出るなって言ってるけど、ゴミ出しがあるからね。今日は新人にやらせた」「新人の名は」「大河内高校生。夏から来てる。ああ、黒いマスクしてたな」

佐伯は、杉浦怜の顔を思い出した。高校生——長沼の件で名前が出た少年。しかし名字が違う。(別人か。あるいは仲介か)

ゴミ出しの時間は?」「六時十五分から二十分の間」「その間に路地出ましたか」「出た出た。角の分別箱に置いて戻るだけだけど」「足元、何か滑りました?」店長がわずかに首を傾げた。「ああ、マンホール。空気が上がって、ヌルッと来る」

水城は、店奥の出入り口を覗いた。ゴムの段差アルミの敷居、外へと続く濡れたタイル。厨房靴のに粉を抱えたままタイルに乗れば、濁る。(青年の言った「スリッパみたいな音」。ゴミ出しの足音二回二回とは、往復だ)

「新人さんに会えますか」「今日はもう上がった。学校があるからね。ただ……」「ただ?」「無駄に笑わない。仕事中、一回も笑ってない。練習してるみたいに動くんだ」

水城は、店長に礼を言って出た。店の外のマットに、一筋だけ粉が多くついた線があった。ペタペタと二回、踏まれた跡が残り、その線は路地の白いチョーク印へ向かって伸びていた。

4 白い結び目

水城は路地の中程で立ち止まり、袋から二枚の切符を取り出した。狐ケ崎行の古い券面、桜橋行の現行券面。「二枚は重なって落ちていた。だれかが重ねて置いたのか、それとも重なってしまったのか」

「重ねた意志をどう見ます?」「結び目で見る」水城は、交番から戻されたビニール袋を掲げ、結び目の高さと固さを指で確かめた。「二重高さは胸の下、右手で結んだ癖。——新聞配達の青年同じ

「青年が拾ってに入れた」「拾ったあと、もう一枚が近くに落ちた可能性がある。あるいは、拾うのを見てから重ねるため次の一枚落とした

見ていた?」「誰かが。ここで待っていた誰かが」

水城は、路地のを見た。視線の先、細い空に高架がかすかに覗く。が下りてくる。「は、より先に渡れる足音は、高架一度登って、時間引き伸ばす

「引き伸ばす?」「S03で説明しましょう」水城は、路地の出口へ向かって静かに歩き出した。と、そのとき——

すみません!」背後から、少年の声。振り返ると、杉浦怜が立っていた。制服の襟を直し、目はどこか迷いを含む。「長沼の件……をつきました」

5 杉浦怜の嘘

交番のベンチに三人が並んだ。杉浦は姿勢を正し、言葉を選ぶように口を開く。「旧い券売機の部品の話、あれは先輩からじゃない。掲示板です。『券面遊び』って言って、古いレイアウト再現するグループがある。そこから版下が出回ってます」

偽造」佐伯の声が低くなる。「遊びだって言うんです。本物混ぜない使用しない見て楽しむだけだって。でも実際は……」「混ぜられた」水城は静かに補う。「ええ。狐ケ崎の券面はその版下を使ったプリンタ刷ったもの。本物の台紙インクリボンを合わせてる。長沼は……『車庫の盲点』って、の貸し借りが緩い時間がある」

「君は『狐ケ崎』の券面をどこで手に入れた」「ネットで落とし、印刷して切って。昨夜、試しに……。でも今朝は持ってない。今日ここで落ちてたのは、僕のじゃない

「じゃあ、だれの?」杉浦は首を振る。「わからない。でも、黒いコートの人、見ました。から戻ってくるところ。走ってた

「君は何を怖がっている」水城の声は変わらない。杉浦は、拳を握って、少しだけ俯いた。「終点です。新清水。あそこで何かがあるって、掲示板で……**『海霧の発車ベル』**ってスレが、昨日の夜、突然動き始めて」

S15動機の集合点になっている)佐伯は胸のメモ帳に、太い線でS15を書き足した。

君の役目は終わっていい」水城は淡々と言った。「次はの番です」

6 音の橋

日吉町から音羽町へ続く歩道橋に出る。朝の光がアルミの手すりに沿ってすべり、時々、通りを行く軽トラが影の帯を切り取った。高架の腹に耳を当てると、低いブーンという共鳴がある。線路をしている。

足音をここで一度、増幅してから落とす路地で拾った足音が高架に乗るまで、約0.4秒。そこから帰るまでさらに0.4秒往復0.8秒遅延。これが『音の橋』です」

0.8秒……三分とは桁が違う」「三分草薙で作られる遅延。ここは認知遅延二つの武器です」

水城は、橋の中ほどに立ち、片手で一定のテンポを刻んだ。トン、トン、トン。「路地で走った人間のテンポ響きになり、別の地点足音戻る。これで一人の足音が二人分聞こえる

二人に聞こえたという証言を、一人で作れる」「そう。“群衆の消失点”(S08)と組み合わせれば、人数という証言崩せる

「だれがこの設計した」水城は短く息を吸った。「の人間。運行情報書き換えないで、感覚だけをずらすことを知っている人」

佐伯は、黒いコートの男の「三分」という言葉を思い出す。S10への布石。(時間で作れる。で作れる。、両方に手が届く人間)

足音だれに向かって落とされた?」「彫像です」水城の目が、S09を見ていた。「県立美術館前彫像は、視線固定させる。人は見られていると感じる方向へ、を置く。そこに死角が生まれる。そこ受け渡し本線

7 防犯カメラ

日吉町駅に戻って、駅務員室の端末から周辺カメラを引き出した。古いドーム型カメラは残像が強く、輪郭が流れる。「このノイズが、逆に役立つ」水城は早送りのバーを指で撫でるように動かし、六時十五分〜二十五分往復した。

黒いコートの残像が、三回現れた。速い速い遅い。「速いの二回は、走行戻り遅いの一回は、観察」「観察のとき、男はどこ向いた?」「スピーカー」水城は、男の視線が構内放送スピーカーに刺さる瞬間を止めた。「開始出るベル終端納める一拍落とし二拍拾う

佐伯は、男が始点終点測っていたことを理解した。「測る人だ」「ええ。あなたと同じ」水城は穏やかに笑い、次のフレームで停止した。厨房靴の足跡が、ドームの下で濃く残る。る。「ペタペタ二回。往復」

「誰かがゴミ出し足音ベル合わせ切符落とすのと重ねた」「そう。拾う人拾いやすいように。結ばれるまで、二拍

佐伯は、新聞配達の青年の手先を思い出した。袋の結び目二重高さ。「全部、染められている

8 “S09” の赤

赤いペンで書かれた「S09」は、不自然に細い。水城はペンのムラを見て、首を傾げる。「油性細字。最近は細字を常用する人が少ない図面型紙を扱う人間の筆圧。なぞる癖」

設計?」「舞台段取りです。彫像視線角度歩幅。それらは舞台そのもの。S09演劇書割になる」

が、その舞台組んだ?」「——まだ言えません」水城は、珍しく言葉を濁した。「今言えば、壊れるは順番を守らないと、になる」

佐伯は、彼女の横顔を見た。輪郭は薄いが、の硬さが透けて見える。「S03へ行きましょう」水城は立ち上がった。「足音渡った先を見る」

9 追跡

歩道橋を降りると、黒い軽自動車が二台、間を置いて連なっているのが見えた。一台目は装飾のない軽、二台目は社名マグネットが外された跡が残る。運転席の男がこちらを見て、すぐに視線をした。(監視)佐伯の背中に、うっすらと汗が滲む。

つけられています」佐伯が低く言うと、水城は首を横に振る。「観客です」「観客?」「舞台には観客が必要。彼ら何度も見ている。入り確かめる役。失敗があれば、直す

劇団のようですね」「そうです。劇団ようです」

黒い軽は、こちらが歩く速度に合わせ、距離を一定に保つ。「番号控えますか」「今はいい。S03入る直前で、彼らは消える役割終わるから」

三叉路で、予言の通りに軽が曲がった。風が替わる。高架が近い。ここからが音羽町だ。

10 境界

日吉町と音羽町のに、地面の色が一段、薄くなる地点がある。旧舗装と新舗装の継ぎ目。水城は、その継ぎ目にを置いて、を軽く落とした。コッ。空気のが、わずかに違う

「ここからは、硬い方に流れる足音増幅される前、微妙段差タイミングずれる0.1秒。この0.1秒が、向こう0.8育つ

増幅に決まっている」「ええ。が、鼓動吸い返す中立中立だからこそ、使える

佐伯は、胸ポケットのペンを取り出すと、S02→S03の矢印の横に、0.1s→0.8sと記した。数式のように簡潔で、残酷な矢印。

11 路地の男

S03に入る手前の駐輪場で、ひとりの男がを弄んでいた。ベージュの作業着。胸ポケットには細字油性ペン。「すみません」水城が声を掛けると、男は反射のようにペンをポケットに押し込んだ。「この辺り、今朝走ってる人はいましたか」

男は肩をすくめた。「いつもですよ。通勤で。あ、でも、黒いコートは目立ちましたね。走って止まってまた走ってを触る癖がある」

耳?」「うん。イヤホンかと思ったけど、何も付けてない。測ってるみたいで、ちょっと気味が悪かった」

水城はを言い、男の背にある工具箱メーカー名をちらりと見た。舞台装置でよく見るロゴ。(舞台が近い)

12 「置く」から「送る」へ

S02の路地で置かれた切符は、S03の高架で送られる置く送るの違いは、責任所在置くは、現場責任を残す。送るは、次の現場責任移す

犯人は、『置く係』と『送る係』を分担しているはずです」水城は、歩きながら言った。「厨房靴の足音をベル合わせたのは、置く係黒いコート送る係。『観客』は検査係

分業をどう崩す?」「崩す観客聴かせたい音と、こちらが聴く音ズラす」「どうやって」「で」

13 影の譜面

正午前、太陽は高架い刃を置く。橋の下に、譜面のように並ぶ。太い五線、細い補助線。水城は、影の二線目片足四線目もう片足を置いた。「歩幅身長性別疲労靴底全部に出ます」

佐伯は半歩下がり、その背格好記憶した。「あなたは見せるのが上手い」「舞台で学びました」「舞台?」「昔、検察側の証人動線作る仕事を少し。を引いて、暴くための見せ方を考える。弁護側に回ることもある。中立です」

影の上を、ペタペタ厨房靴音の幻が通り過ぎる。水城は、そのテンポ合わせ、ふっと逆拍を置いた。——幻の足音ずれる。「観客は、『合わせ』しか検査できない。逆拍検査にある。だから私たち逆拍聴く

逆拍の先にがある」「S03増幅心臓

14 小さな赤

高架の橋脚に、小さながあった。ポストイットの切れ端が、の弱さで半分剥がれSだけが残る。「S」佐伯が指で触れると、薄くがついた。「S09Sだけが先行している」「並べ替え合図です。S09要素ここ抜く

要素?」「視線足幅停止待機威圧彫像の要素をここ移植する。見られていると感じる方向止まる橋脚を置けば、視線吸い付く

佐伯は、朝の倒れた男の視線を思い返した。スピーカー桜橋(S13)、そして狐ケ崎。(向き揃っている。誰か視線操作している)

15 合図

水城は、橋脚のすぐ脇に立ち、スマートフォンボイスメモを開いた。「ベル疑似音流します観客いるなら、動く

再生。カン、カン、カン——スピーカーから漏れたような薄い音が、橋ので少し増幅される。遠くで、車のドア一つ、閉まる音。水城は目を細めた。「いる」「どこに」「S03観客は、舞台上がらない

佐伯は、橋の外に目をやり、黒い軽一瞬だけ角に現れて消えるのを見た。「見届けた検査合格送れ」水城の声は低く、誰にともなく言った。

16 日吉町の証言(整理)

駅務員室に戻ると、白いボードにで線が足された。

  • S02 路地幅1.6m白線マンホール滑り

  • 厨房靴ペタ×2(往復)、

  • 拾い手新聞配達(袋の二重結び)、六時十九分

  • 置く係ベル合わせ落とす

  • 送る係黒コート触る癖、スピーカーを見る)

  • 検査係黒い軽観客

  • S09細字舞台書割

動線取れた」佐伯は深く息をついた。「S03行きます足音増幅現認する」「その前に」水城は、狐ケ崎の券面を持ち上げた。「これ使ったのは、だれか」「……黒いコート?」「送る係券面持たない。持つのは置く係厨房靴——大河内

新人?」「置くのは、新人がいい。本筋関与しない末端捕まっても舞台潰れない

「彼を守るために混ぜたのは杉浦かもしれない」「ええ。“高校生たちの遊び”というガワ事件包む散らすほど検察拾いにくい

君はどちらのだ」水城は、ほんの少しだけ笑った。「。それ以外は全部観客です」

17 日吉町駅ホームの再実験

午後のホームは、朝ほどせわしなくない。佐伯が構内放送ベル音めに流すと、水城は路地チョーク印の位置に立ち、切符を持つ手を高さに持ってきた。「落とす拾わせる送る。——三拍子でやると、『偶然』に見える」

一拍目、ベル。二拍目、足音。三拍目結び。袋が結ばれる時間は、二重結び約1.4秒。「観客検査行われる視覚補助に過ぎない」水城はを架空で結び、目線をスピーカーの方へした。(黒いコートここ出る

微差どこに」「S03増幅される直前0.1秒そこ掴むには、現場空気温度湿度が要る。舞台監督の仕事」

佐伯は、舞台という語が、今日何度も出てくることに気づいた。(劇場列車俳優乗客群衆駅務員舞台監督)その比喩に、救いのような冷たさがあった。

18 赤い矢印

交番から戻る途中、電柱の低い位置に赤い矢印が貼られているのを見つけた。ステッカー。指す方向は裏道。矢印の千切れて、小さなSに見える瞬間がある。「道案内?」「撤去でもあるけれど、合図として再利用できる。SStationSStage両方S

矢印の先、古い地図の貼られた掲示板がある。S07の古庄を示す右上の角が、剥がれて折り目になっていた。「古地図新しい証言」水城の目に、次の章の見出しがよぎる。「S07へのも、S02から伸びています」

この章結ぶのは、S03」佐伯は、目の前の高架に視線を上げた。「行きましょうこだま正体掴む

19 S02の終点

日吉町駅に戻ると、杉浦怜がひとり立っていた。制服の襟は今度はまっすぐで、目にも決意の影が差している。「黒いコートの人、また来ます掲示板書き込みがあった。『S03の音、弱い。明日は強く』って」

書き込み主は?」「特定できない。でも、文体の癖、の取り方、句読点の位置。同じ人何本もスレを立ててる舞台口調だ」

水城は、短く頷いた。「ありがとう。君は来ないで。観客される

杉浦は唇を噛んだ。「僕は、置く係やってない本当に。でも……誰か置かされてる。新人が」

新人守る守る」水城の声は変わらなかった。「明日S03止める

20 章の背面(S03へ)

駅の時計が正午を少し回ったところで、海風がわずかに街に入った。海霧はまだ遠い。ベル幻聴には早い。だが、に来る。足音に渡る。切符は——あとから追う

佐伯は、ボードのS02をつけ、S03矢印を伸ばした。水城は、狐ケ崎の券面を透明のスリーブに入れ、内ポケットにしまった。(証拠心臓の近くに)彼女の口元が、少しだけ硬くなる。「行きましょう高架が、こだま吐き出す前に」

二人は日吉町の改札を抜けた。線路に沿ってを引き、譜面を描く。音羽町は、もう聴こえる位置にあった。

——第3章「音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音」へ続く。


第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音

1 腹の中へ

音羽町の高架は、腹の内を見せない。支柱は無口で、梁は淡々と空を分ける。午前の残り香を運ぶ風が、鉄の肌に触れて薄く震えた。

ここが、増幅心臓です」水城真耶は、手すりのリベットから三つ目と四つ目のあいだに指を添え、微細なうなりを確かめた。「ぶつかる。この生まれ返る0.8秒こだまは、ここ育つ

佐伯隼人は、ステップの位置を頭に入れながら周囲を見回す。高架下に古い倉庫、右に駐輪場、左に細い水路。「歩道橋の踏板交換の痕があります」「昨秋ですね」水城は、板の木目とビスの角度を見ただけで言った。「新しい板乾きが甘い。足音ふくらむ同じ重さの人間でも、二人分増える

昨秋から、二人になった」佐伯が呟くと、水城はうなずいた。「黒いコートは、昨秋以降に**“劇場”**を手に入れた」

2 拍の嘘

佐伯は構内無線を外し、ポケットに小さなボイスレコーダーを滑り込ませた。「検証します」彼は橋の中央に立ち、規則正しく踵を落とす。トン、トン、トン。風が変わり、梁がかすかに唸る。0.8秒の遅れで、トンがもう一つ返ってくる。——一人二人になる。

観客二人に聞かせるには、三つ条件が要る」水城は指を三本立てた。「路地0.1秒ズレを作る。0.8秒育てる。三、聴く側の認知“拍”固定**する」

固定……ベル?」「ベルだけでは弱い」水城は、自分の手首を指した。「ハプティック(振動)メトロノーム振動身体入れる空ける。だからイヤホン要らないに触る癖**は、拍のチェック

手首?」「もしくは鎖骨貼るタイプ。舞台で使う人もいる。役者呼吸揃えるために」

佐伯は朝の黒いコートの仕草を思い出した。へ伸びる指先。何も付いていない耳殻。しかし、身体別の場所に入っていたのだ。

3 橋の下の楽屋

高架下、支柱の影に工具箱。ベージュの作業着の男(駐輪場で会った人物)が、工具を拭きながら誰かを待っている風だった。「すみません」佐伯が近づく。「保全の方ですか」「ええ、まあ」男は曖昧に笑う。胸ポケットに細字油性ペン。太い字では書けない**“図面の指示”**が似合う手つき。

「昨秋の踏板交換ここですよね」「ええ。騒音苦情が出て、替えた鳴り変わったでしょう」「変わりました」水城が応じる。「二重聞こえる

男の目が、わずかに「知っている」と言った。「監督の指示で、古い板少し残したんですがね」「混ぜた」「ええ、全部替えると響き死ぬって」男は肩をすくめ、「うるさい監督でね」と付け加えた。

監督」佐伯は、その語を反芻する。「舞台監督ですか、それとも工事監督ですか」「どっちも監督ですよ」男は笑い、視線を高架のへ泳がせた。誰か設計した。誰か響き残した誰かは、劇場にした。

4 耳のないイヤホン

橋の上に戻ると、水城は小さなを取り出した。保安検査用の振動メトロノーム。「手首につけると乗る空く観客には何も見えない」

佐伯は装着し、80BPMに設定する。トン……トン……と微細な振動が皮膚に入ってくる。「入ると、同じでも二人聞こえる瞬間を作りやすい」水城は、佐伯の歩調に合わせて逆拍を落とした。一人足音0.8秒こだま、それに逆拍が重なって、三人走り抜けたように響く。

橋のたもと、黒い軽一瞬だけ止まり、また動いた。「検査」水城が言った。「検査通った送れる

どこです」「交差点」水城は、地図に指を滑らせた。「春日町(S04)“交差点で消えた背中”——二人に聞こえた足音を、一人背中畳む場所」

5 追う声

歩道橋を降りたところで、がかかった。「ちょっと、待ってください大河内だった。パン屋の新人。朝の厨房靴は、白いスニーカーに変わっている。「僕、置くなんてしてません。ゴミ出しだけです」

を疑っていません」水城は静かに言う。「置く係は、末端を使う。誰でもいい。である必要はない」「じゃあ、が」「持っている人」「?」水城は、彼の手首を一秒だけ見る。縦に薄い擦過痕。「使ってない使ってる人は、動き出る

大河内はうつむき、何かを言いかけてやめた。「黒いコートの人、合図をしてました」「合図?」「ベル鳴る前に、小さくこう——」彼は叩く仕草をした。無音カウント。「四つ数えてた。いつも同じ

水城は、空を見た。無音四拍子が、青の下に浮かんだ気がした。「ありがとう。ここ戻って舞台上がらないで」

6 アリバイの起点

高架の外れで、真壁からの電話。

S10徐行正式運用になった。三分遅れ確定する時間がある」「何時台ですか」「18時台前後。夕方下り重い」(夕暮れ海霧ベル反響……S15に向けて時刻感覚崩れる)「それから、S08小規模大会ルート確定。群衆の列橋の下二度通る。一回目往路二回目復路タイム差街路吸収できる」

二度同じ列は、同じ人見える

「そういうことだ。増やし混ぜ時間ずらす三段トリック」

電話を切り、佐伯は言った。「S03二人S08群衆S10三分S04で何をする?」「消す」水城の返事は早かった。「交差点視線十字交錯する。背中四方向ほどける。**“消える背中”**を、作る

7 黒いコート、二度目

昼下がり、高架の影が伸びる時刻。黒いコートが現れた。一拍、二拍、三拍、四拍——無音カウント。彼はに触らない。代わりに鎖骨の上を軽く叩いた。(貼るタイプだ)彼は、観客のしぐさを自然に織り込み、手すりのネジの緩みを一つ直す。舞台監督の手だ。

水城は、真正面から歩み寄った。「具合は、いかがです」男は、微笑を作るのに0.3秒使った。「観客です」「監督でもありますね」「検査観客です」彼は、あくまで観客の位置に立つ言葉を選ぶ。

彫像移植できましたか」「どの彫像のことか」「S09視線ここ置いたでしょう。Sの切れ端」男は目線をほんの少し落とした。その時間0.2秒否定速さではない。「あなたは『置く』はやらない。『送る』と『検査』だけを担う分業硬さあなた安全守る

安全?」「——舞台には転換がつきものです。失敗したとき、落とし前つけるか」

男はそこで初めて笑わなかった。「あなた味方か」「味方です」「運ぶときも?」「運ぶだけ。積む

男は、一瞬、肩の力を抜き、視線を遠く——春日町交差点の方へ投げた。「観劇を続けます」そう言って、四拍で踵を返した。足音一人こだま二人三人去ったように響いた

8 地図の裏側

駅務員室に戻ると、古い沿線地図の裏に、鉛筆で走り書きの矢印があった。S02→S03→S04。矢印の途中に小さな記号。□=置く、→=送る、◎=検査。(が、いつ書いた?)紙の端の汚れは、。パンの。(大河内? いや、街のあちこちに広がる。誰かに乗る)

水城は、矢印の角度を目で測った。「S04強い“消える背中”の設計交差点中央じゃない。から入る

?」「ゼブラ境目割れるライン。そこ背中半分溶ける

9 音の終端

高架の端に立ち、ベル音の試験をもう一度。カン、カン、カン——風向きが変わり、うなりくなった。湿度が上がる。「前触れです」水城は空気を吸い、「新清水鳴り増す」と呟いた。「S15ベルは、ここまで届く?」「届きますですが」「でも証言になる」「だから使う作るのは彼ら止めるのは私たち

10 章の結び(交差点へ)

佐伯は、白ボードのS03をつけ、S04太い矢印を伸ばした。脇に、三語。

二人の足音群衆の列三分

準備が整いました」「視線壊しましょう」水城は薄く笑う。「交差点で、背中消すらのごと」

駅を出ると、午後の光は、さっきよりも柔らかい刃になっていた。春日町交差点は、もう視界を打っている。

——第4章「春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中」へ続く。


第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中

1 四方向の視線

春日町駅前の交差点は、街の鼓動のようだった。四方向から車と人が流れ込み、信号機の赤青が拍を刻む。歩道のゼブラ模様は白黒の鍵盤のようで、人々の足音を演奏させる。

水城真耶は、横断歩道のに立ち、目を細めた。「ここは“背中が消える”交差点です」「どういう意味です」佐伯隼人が訊く。「人の背中は、十字の視線にさらされると輪郭がほどける。前方へ行く人、横切る人、信号を待つ人——視線が交錯することで、誰の背中が誰のものかが曖昧になるのです」

信号が青に変わる。人の波が横断歩道を渡り、数十の背中が同時に動く。確かに、一人を追うはずの目線は、群衆の交錯に呑み込まれて、背中は背中の海に溶けていった。

「ここで“消した”んですね、背中を」「ええ。消える瞬間を作ることで、“いた”という証言を“いなかった”に置き換える。アリバイ操作の基本です」

2 置かれた鞄

交差点の北西角に、小さな茶色のビジネスバッグが置き去りにされていた。通行人は誰も気に留めず、足早に通り過ぎる。

佐伯が警戒しながら近づくと、バッグは軽く、鍵もかかっていなかった。中には書類が二、三枚、そして——「切符だ」取り出した一枚は、新静岡から**柚木(S05)**行き。裏には赤い文字で「S11」と走り書きがあった。

「S05とS11……? この交差点で、次とさらに先を結ぶ線が置かれている」「置いたのは?」水城は横断歩道を渡る群衆の中で、ひとりだけ歩幅の異なる人物を見つけた。黒いスーツ、背筋が異様にまっすぐ。足音が半拍ずれている。「です。観客でも送る係でもない。消す係です」

3 半拍の歩幅

佐伯と水城は、その男の後を追った。信号が赤になり、流れが止まる。男は横断歩道の中央で一瞬立ち止まり、足を少し開いた。「……今です」水城は囁いた。

男の背中が、人の群れに溶ける。数十人の背中の中に埋もれ、次の瞬間、いなかった。「消えた……!」佐伯は目を凝らした。確かに、群衆の流れの中から男の輪郭だけが消えたように見えた。

「トリックです」水城は冷静だった。「背中の半拍の歩幅で、群衆の動きと逆相を作る。すると、人の視線は“追っている背中”を“別の背中”にすり替えてしまう」

「すり替えられた背中は?」「東側に抜けました。カメラの死角へ」

4 監視カメラの空白

春日町交差点には四基の監視カメラが設置されている。だが、映像を確認すると——「……一つ、空白がある」南側のカメラは、光の反射で一定時間白飛びする。午後の角度で信号機の鏡面に太陽光が当たり、映像が途切れるのだ。

「ここで“消える”背中は、記録に残らない」「つまり、映像上も存在しなかったことになる」佐伯の声に、冷たい実感が混じった。

「交差点は、舞台の暗転に似ています。照明が落ちた瞬間、役者は背中を消せる」水城はそう言い、映像を停止させた。

5 残された背中

しかし、一人だけ、消えなかった背中があった。画面の片隅に、赤いリュックを背負った少年。杉浦怜だった。

「彼は……?」「観客にされかけています」水城の声は硬い。「舞台の外に立たせたはずなのに」

少年の背中は、群衆の流れに逆らうように強張っていた。まるで、自分の背中が誰かの“すり替え”に使われていると知っているかのように。

「彼が背中役にされると、アリバイは完全に偽装される」「守らないと」「ええ。次の駅で」

6 交差点からの出口

交差点の群衆が散った後、置かれていた茶色のバッグも忽然と姿を消した。「……だれかが持ち去った」佐伯が辺りを見渡すと、ビルの角に黒い軽が止まり、バッグを抱えた影が乗り込むのが見えた。

「観客が小道具を回収した」水城は冷ややかに言った。「舞台転換のように」

「次は……?」「柚木(S05)です」水城は、佐伯に向き直った。「“架道橋の見えない目撃者”。ここで“消された背中”が、別の視線にすり替わります」

7 章の結び

交差点の中央で、まだ群衆の残響が漂っていた。背中を追いかけた人々の目線が、すべて曖昧な空気に溶けていく。佐伯は、胸ポケットのノートに太字で書いた。

S04:背中は消える。記録にも残らない。だが、消えた背中は次の視線に宿る。

彼らは歩き出した。次の駅、柚木。線路の先で、誰かがまた「目撃者」を演じる準備をしている。

——第5章「柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者」へ続く。



 
 
 

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