静かなる線路の証言
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 38分

— 静岡清水線S01〜S15 連続長編 —
プロローグ
午前5時台の空は、まだ色を選びかねていた。黒と群青の境い目に、かすかに乳白が滲む。静岡鉄道・静岡清水線の車両基地を離れた一番列車が、新静岡のホームへとすべり込む。金属の車輪がレールと交わる瞬間、冷たい火花が、現実と虚構の境界に灯る。
この日、事件は時計ではなく切符で始まる。正しい券面、正しい日付、正しい打刻。しかしその区間は、今日この線で売られないはずの、古い時代の名残だった。
人は、日常へ向かうために電車へ乗る。だが、たった一枚の切符が、十五の駅に沈んだ証言を掘り起こし、街の静脈から微量の毒を循環させる。やがて、終点で鳴る発車ベルは、誰かの告別の音になる。
これは、沿線が全員でついた嘘の物語だ。
第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘
1
午前5時56分——始発のベルが、まだ眠りの残滓をまとったホームで震えた。駅務室から顔を出したのは、配属二年目の駅員・佐伯隼人だ。雨上がりの線路は濡れた鱗のようで、蛍光灯の色を斑に反射している。
「おはようございます」清掃の女性に軽く会釈しながら、佐伯は改札機のランプの点検を終え、回収ボックスに溜まっていた券片を素早く束ねる。手触りで紙質の違いがわかるほど、彼はここでの仕事に馴染んでいた。束の真ん中で、指が止まる。
一枚、紙が厚い。それだけでなく、印字の黒が薄く、文字のエッジが角張っている。券面——
新静岡 → 狐ケ崎発売日:本日発売機:自動券売機
(……狐ケ崎?)この線の運賃表では、区間表示に「狐ケ崎」を終点として切る券は、既に一般販売の一覧から落ちているはずだ。近年の機器更新で、利用の少ない区間直行券は統合された。なにより、券売機の機番表記が古い。五年前に廃棄された機種名のフォーマットに見える。
佐伯は窓口端末のログにアクセスした。始発前後に買われた切符の一覧。そこに**「新静岡→狐ケ崎」はない。つまり、この券は出所不明**。だが、日付は今日、印字は生きている。マイクロ文字の位置も合っている。偽物と言い切るには、技術が良すぎた。
ホームを監視するモニターに、黒いコートの男が映る。背の高い、四十前後、細身。列の最後尾に立ちながら、一度だけ改札口のカメラをまっすぐ見た。見られた気がして、佐伯は無意識に姿勢を正す。男は目線だけで距離を測る種類の人間だ。
「佐伯、始発、発車」無線の声に、佐伯は短く応じる。車両は扉を閉じ、静かに動き出す。線路が朝の街へ延び、その向こう側で、今日という日の最初の嘘が確定する。
2
窓口に女性が現れた。黒いダウン、襟元に白いスカーフ。声は驚くほど落ち着いている。
「落とし物の切符が届いていませんか?」「どの区間の切符でしょう」「新静岡から……狐ケ崎です」
佐伯の指先がわずかに強張る。「——今日、その区間の販売は……」「知っています」女性は言葉を遮った。「だからこそ、お尋ねしているんです。可能性を捨てたくないので」
女性は名乗らなかった。ただ、狐ケ崎という単語を口にする動作が、人には見えない糸を手繰り寄せるように正確で、練習の跡があった。彼女は現実の仕様を知っている。にもかかわらず「狐ケ崎」を発音する。その矛盾は、わざとでなければ生まれない。
「お名前を」「水城(みずき)真耶」即答。小さな革の名刺入れが、佐伯の視界にちらつく。法曹関係者が好む、薄いフォントの名刺のように見えた。
「切符は……こちらの可能性があります」佐伯は業務マニュアルのぎりぎりを踏む線で、回収ボックスから問題の一枚を取り出した。水城は、触れない。目だけで読み取る。「有効ですか」「券売機ログとの整合が取れません」「現認は?」「回収時、私は改札に立っていました。通過の事実はあります」
水城は、微笑むでもなく口角だけを少し上げた。「ならば、その切符は証拠です。私に返還できますか」「紛失物であれば——」「私が落としたと断言はしません。『誰かが落とした』切符が、私にとって必要だと言っているだけです」
佐伯は、視界の端で黒いコートの男がモニターから消えるのを見た。この切符は、誰のものだ。そしてそれは、どこへ行こうとしている。
「本件、上長に確認します」「お願いします」水城は一歩下がり、窓口前の線から靴先を越えないよう厳密に立った。その姿勢は、線の意味を知っている人間のものだった。
3
駅務室の扉の内側で、佐伯は鉄道警察隊に連絡を入れた。担当の警部補・真壁は、朝から無口だったが、要点を外さない男だ。
「券面の写真を。……ふむ。機番の表記が古い。ただし日付は今日。印字は最新のインクリボンの滲み方に近い。つまり、古いレイアウトに新しいインクを通している」「そんなこと、できますか」「できる人間がいる」
真壁は続けた。「君の前に現れた女性は?」「水城真耶と名乗りました」「名字の音で検索が引っかかる。県内の弁護士に水城という姓は見当たらない。だが、旧姓または職務上の通称はあり得る。ひとまず任意照会の対象にしよう」
「黒いコートの男も気になります」「線の人間だ。乗り慣れの視線だな。……始発から二本目、日吉町で降りる可能性が高い」「なぜわかるんです」「君の駅の監視モニターは、まだ古い型で残像が出る。男は振り返ってカメラを見た。夜勤明けの警備員か、下見だ。いずれにせよ、自分の輪郭をカメラに刻む癖を持つ」
真壁は電話越しに短く息を吐き、言った。「切符は預かっておきなさい。本人確認が曖昧なまま返せば、証拠疎失になる。女性は再び現れる」
佐伯は受話器を置いた。ホームの端で、朝の光が線路を一本の鉛筆に変え、街の白地図に薄い線を描いていく。その線の上で、誰かが嘘を運ぶ。
4
午前6時42分。二本目の電車が到着した。佐伯はドーム型カメラの映像を確認しながら、改札に立つ。黒いコートの男は——戻ってきた。今度は改札の外から構内放送のスピーカーを眺め、何かの間を測っている。(音の届く範囲……タイミングを見ている?)
男はさっと視線を切り、窓口の水城を見た。二人の視線が、一瞬だけ重なる。——知り合いか?いや、違う。知らない二人が、互いに「知らないふり」を上手くやった視線だ。
佐伯は、呼気を整えた。「お客様、なにかお探しでしょうか」男は柔らかく笑った。「運行情報を」「本日は平常運転です」「なら、三分の遅れは?」「……どちらの駅でしょう」「草薙」男は答え、肩にかけた細身のカバンを直す。(なぜS10を口にする?)S10=草薙——森の踏切と三分の誤差。まだ掲出前の駅務連絡に、保線の点検で一時的に徐行が入る可能性が書かれていた。内部連絡に近い情報だ。(どこで知った? 線の中に、もうひとりいる)
男は切符を買わずに、踵を返して去った。残されたのは、言質だけ。「三分の遅れ」その数字は、今日の後半、別の駅でアリバイの材料になる。
5
午前7時を回った頃、窓口に高校生が駆け込んだ。制服の襟が少し曲がっている。「忘れ物の切符って、来てませんか!」佐伯は目を細める。「区間は?」「新静岡→狐ケ崎です!」
——二人目。佐伯は慎重に問う。「どうして、その区間の切符を?」「……賭けです。友達が『そんな券面もう売ってない』って言うから、古い機械でまだ出せるか試そうって」「古い機械?」「長沼の車庫の近くで、バイトの先輩が持ってて……」少年はそこで言葉を飲み込む。佐伯は、**長沼(S06)**という単語に心がざわめく。車庫の盲点。(廃機の券売機を、個人が? いや、部品だけ抜き取って、券面を偽造……)
「君の名前は」「杉浦。杉浦怜」佐伯は記録用紙に走り書きし、真壁に回線を繋いだ。「長沼に旧券売機の部品が流れている可能性があります」真壁は低く唸った。「線路は見えてきた。だが、それだけでは事件にならない。誰かが、それを使って何をしたかだ」
「——誰かが、どこかで、その切符を落とした」佐伯の口から、言葉が零れる。「わざと落としたんだよ」真壁の声が硬くなる。「そして、拾う相手は、決まっている」
6
午前8時20分。駅前の路地裏に、制服の巡査から連絡が入る。「切符が落ちてました。裏に、赤いペンで『S09』と」(——S09、県立美術館前。彫像が見ていた手口)佐伯は、血潮が早まるのを止められない。(始発で入ってきた狐ケ崎の切符。二本目で「草薙三分」を口にした男。路地に置かれた『S09』の赤文字)バラバラのピースが、駅番号でだけうっすら繋がり始めている。
窓口のベルが鳴る。水城が、再び立っていた。「——切符は、まだここに?」「はい」「それで」水城は視線を落として言う。「誰が死んだのですか」
佐伯は言葉を失う。「死者がいなければ、これは事件ではない。三分の誤差も、古い券面も、趣味人のいたずらで終わる。あなたが警察に連絡したなら、つまり——死者が出たか、出ると誰かが告げた。違いますか」
佐伯は沈黙した。水城は続ける。「私は、弁護人です」「……名簿にはありませんでした」「元弁護人。いまは交通事故調査の民間担当です。『事故』と名がつけば、鉄道会社も、警察も、私を排除できない」
「あなたは、何を知っている」「S09」水城は囁いた。「『彫像が見ていた手口』。私は彫像の前で、ある実験を行いました。人の歩幅と、監視カメラの死角と、踏切の鳴動の相関。私が得た答えは——」
言葉はそこで断ち切られた。改札の向こうで、悲鳴が上がったのだ。
7
ホームの端で、男性が倒れていた。倒れた場所は、スピーカーの真下。黒いコート——あの男だった。救急通報が入る。脈は浅い。呼吸はある。佐伯の目に、男の手元が映る。切符。券面には、赤いペンでS13と書かれている。(S13=桜橋。『夜桜に紛れた短絡経路』)なぜ、桜橋。
人垣の向こう、窓口の前に戻った水城は、誰とも目を合わせず、線の上に立っていた。その姿は、混乱の只中で位置だけを守る標識のようだった。
佐伯の耳に、真壁の声が飛び込む。「救急と同時に現場を保存。倒れた男の所持品、経路、最後に接触した人物。それと——」「それと?」「新清水の駅に連絡を。海霧が出始めている。ベル音の反響で時刻感覚が狂う」
「なぜ新清水の話が今」「線の端で鳴るベルは、ここでも幻聴になる。誰かのアリバイに使える」
8
佐伯は、倒れた男の切符を写真に撮るに留め、触れなかった。男は意識を取り戻し、掠れた声で言う。「狐ケ崎……S09……S13……三分……」羅列。文法を持たない駅番号の連鎖。(お前は伝言をしている。誰に?)
救急隊が到着し、男は担架で運び出される。人の流れが再び動き始めた頃、水城が初めて改札を抜けた。「どこへ」「日吉町」「なぜ」「置いてあるから」「何が」「切符が」水城は振り返らずに答え、軽い足取りで階段を駆け下りた。その後ろ姿に、線路の真上で影の角度を測る癖が見えた。(この人は、測る人だ)
9
午前9時11分。佐伯は、駅務室の白いボードに赤いマーカーで書いた。
S01(新静岡):問題券面(狐ケ崎)回収
S02(日吉町):路地裏で切符(裏にS09)
S06(長沼):旧券売機部材流出の疑い
S09(県立美術館前):彫像・歩幅・死角
S10(草薙):三分遅延の話題提示
S13(桜橋):倒れた男の券面メモ
点は増えた。線も見え始めた。しかし、方向がない。どの点からどの点へ、誰がどう移動したか——鉄道を使えば、時間と方向は束縛される。つまり、束縛から外れた動きこそがトリックになる。
そこへ、真壁からの短い連絡。
「S08(県総合運動場)で、群衆の消失情報——『小ランニング大会』の集合が、一度に移動している。誰かがまぎれた」
群衆は、匿名性の装置だ。そして、匿名性は、切符を移動させる。
佐伯は、ボードの空いた余白に一行を書き足した。
“切符は人を運ばない。人が切符を運ぶ。”
文字を書き終えると同時に、駅務室のドアがノックされた。振り返ると、そこに水城が立っていた。手にはビニール袋。中には、二枚の切符。「日吉町の路地裏に二枚あった。ひとつはあなたの問題券、もうひとつは——新静岡→桜橋」
(二枚?)佐伯は袋越しに券面を確認した。狐ケ崎行きの古い券面と、桜橋行きの現行券面が、無造作に重なっている。(入れ替え? ダミー? いや、重ね合わせ……)
水城は、袋から二枚目の裏面を示した。赤いペンで、細い字。
“S15”
——終点。新清水。海霧が、発車ベルを歪め始める時間帯だ。
10
「あなたは、どこまで知っている」佐伯の問いに、水城はわずかに首を傾けた。「線路は、最短距離ではないことがある」「……?」「人の移動は、線路に従わない。切符もまた、人に従う。だから、駅番号の順番どおりに追うのは罠です」
水城は新静岡のホームに視線を投げる。「S13の桜橋——夜桜、短絡経路。電線の下にある点検通路。そこからなら、切符を別の駅に瞬時に移せる。S09の美術館の彫像は、“立ち止まる”理由を作る。それからS08の群衆で混ぜる。S10で時間をずらす。S15で音を撹拌する」
「あなたは、誰の味方だ」「……線の味方です」水城は少しだけ笑った。「線は嘘をつきません。嘘をつくのは、線の上に立つ人間の言葉です」
そのとき、構内放送が鳴った。
「草薙付近の徐行運転により、三分前後の遅れが発生——」
佐伯は水城を見る。水城は、時計を見なかった。代わりに、ホームの影の角度を見た。影は、線路の偏差を映すダイヤだ。
「——S02へ行きましょう」水城が言う。「路地裏の幅と、走り抜ける足音の響きが、歩幅を語る。そこからS03へ渡る**“音の橋”**が作れる」
佐伯はうなずいた。「真壁さん、私は日吉町に行きます。水城さんを同伴」受話器の向こうで、短い間。
「いいだろう。線が喋り始めた。まずはS02から、音を確かめろ」
ホームに、快速でも特急でもない、いつもの各駅停車が入ってくる。扉が開く音は、日常の合図だ。しかし、今日だけは——非日常の口が開く音にも聞こえた。
二人は、乗った。
(次章の導入/第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符 冒頭)
日吉町駅を出ると、朝の匂いが濃くなる。パン屋の甘い香りと、自転車のチェーンオイルの金属臭。駅前から二本目の細い路地は、幅1.6メートル。二人がすれ違うと肩が触れる。水城は、壁面のタイルとマンホールの位置を指で数え、足元に耳を澄ませるようにしゃがんだ。「ここです。切符が落ちていたのは、“音が消える点”」「音が……消える?」「ええ。足音が高架に吸われ、反射が遅れて返る場所。S03に向かう**“音の橋”**の起点です」
水城は袋から、路地裏で回収した二枚の切符を出し、向きを入れ替えた。狐ケ崎行きが上、桜橋行きが下。その瞬間、二枚の券面の駅番号の角が、一点で重なる。「見えますか。S09とS13は、S01から見れば**“対角線の虚構”**になる。この重なりが、犯人のダイヤです」
路地の奥で、犬が吠えた。その吠え声は、佐伯には汽笛に聞こえた。——列車は、もう走り出している。
(第2章 へ続く)
第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符
1 路地の幅、足音の高さ
日吉町駅に降りると、朝はもう街の肩に掛かった。パン屋の甘い匂いが薄い雲のようにたなびき、二本目の路地に入る風の筋を柔らかく見せる。水城真耶は、駅前の広場を横切ると、迷いなく**「幅1.6メートル」**の細道へ折れた。舗装は古く、ところどころに小さなクラックが走り、雨水が細い銀の糸になっていた。
「音は、壁の硬さで変わります」水城は足先で、壁下部のタイルを軽く叩いた。高く乾いた音。「この路地は、右壁が古い煉瓦に薄くタイル、左壁が後年のコンクリ直押し。反射の初期遅延がわずかに違う。ここで足音が『片耳にだけ先に届く』」
佐伯隼人は横で頷いた。「落ちていた切符は、ここから四歩内側だったと巡査が言っていました」「四歩分。人がよけるときの平均の歩幅です。迎面に誰かが来て、肩が触れそうになり、すれ違いの角度を作る。その角度で、ポケットから切符が抜け落ちる」
「だれが落とした?」「落とさせた、が正しいでしょう」水城はしゃがみ、マンホールの縁にそっと指腹を当てた。「車輪痕。昨日か今朝、カートが通った」
「新聞配達ですか」「それも含まれるでしょうが、ここは軽搬送の通り道でもある。手押し台車が回収した可能性がある。切符を落とす、拾う、回収する——三段階のうち、二段目の拾うを予測できる人物がいる」
「だれが拾った?」「……誰でも良かった。ただし、拾う地点は決まっていた」
水城は路地の中央線を歩幅で測り、足音を表拍と裏拍に分けるように刻みながら進んだ。四歩、六歩、十二歩——「ここです」指先が止まった先、壁に小さな白線があった。チョーク一撫で。「合図?」「配達ルートの記号です。ここで『受け渡し』が起きる。拾う人間が立っても不自然でない位置」
佐伯は膝を折り、白線のすぐ近くに擦過痕を見つけた。「ゴム底です。滑った跡が横じゃなく縦に入っている。走り抜けた」「走った音は、高架がよく覚えています」水城は顔を上げ、路地の先——日吉町の高架方向を見た。「ここからS03に向かって音が橋渡しされる」「音が橋渡し?」「残響の帰り道です」
2 新聞配達の青年
新聞配達員の青年は、駅の角の自販機の陰から顔を出した。朝にしては目元のくまが濃い。「昨日の拾いものの件で……」彼は事前に警察へ連絡しており、巡査からここで会うように聞いていたらしい。
「君が、切符を見つけた?」青年は頷いた。「二枚。重なっていました。裏に赤で『S09』って」「もう一枚は?」「裏は無地。でも券面が違った。あの……新静岡→桜橋って」「拾った時刻は」「六時十九分。一回目に通ったときは無かった。六時半の配り直しの途中で、戻ったら落ちていた」
水城は佐伯と目を交わす。「六時十九分は、始発の次の到着とニアミスする時間。落とす側は、列車の到着音を合図に使える」
青年はしきりに手袋を弄びながら言った。「落ちていた場所の手前で、黒いコートの人が駅の方に戻っていくのが見えました。走ってました。でも顔はわからない。あと……パン屋の前、スリッパみたいな音が二回した」
「スリッパ?」「硬いサンダルかも。ペタ、ペタって、地面から剥がれる音が濁る感じ」
水城は、路地入口のパン屋の出入り口のマットを見た。柔らかい繊維が、細かいパン粉を飲み込んでいる。「粉の粒が靴底の溝に入る。音が鈍る。スリッパじゃない。厨房靴だ」
青年は目を見開く。「パン屋の店員さん……?」「断定はできません。むしろ、厨房靴を使った誰か。匂いと粉と音を混ぜるために」
「君、拾った切符をどこへ?」「交番へ。すぐに袋に入れて渡しました」「ビニール袋だね」「はい」水城は、青年がビニールの口を結ぶジェスチャーをした瞬間、その結び目の高さを見た。(胸の中央、心窩部の少し下。同じ高さで二度結ぶ癖)
「ありがとう。君が時間をくれた」青年は少しほっとした表情になり、配達へ戻っていった。背中のカゴが、新聞の角を空に向けて白く覗かせ、角が一様に揃っているのが印象に残った。
3 パン屋の厨房靴
パン屋の店内は、焼き上がりの湯気で薄く曇っていた。カウンターの奥にはスチームオーブン、ミキサー、木の長い刷毛。床は湿っており、細かい粉が膜のように広がっている。店長は五十手前の男性、腕に火傷の古傷が一本。目がまっすぐで、答えが速い。
「厨房靴を、同じ形で複数使ってますね」水城が足元を指し示すと、店長は頷いた。「滑らないように。音が独特でしょ。ペタペタうるさいってよく言われる」
「今朝、外まで履いて出た方は?」「基本、外に出るなって言ってるけど、ゴミ出しがあるからね。今日は新人にやらせた」「新人の名は」「大河内。高校生。夏から来てる。ああ、黒いマスクしてたな」
佐伯は、杉浦怜の顔を思い出した。高校生——長沼の件で名前が出た少年。しかし名字が違う。(別人か。あるいは仲介か)
「ゴミ出しの時間は?」「六時十五分から二十分の間」「その間に路地に出ましたか」「出た出た。角の分別箱に置いて戻るだけだけど」「足元、何か滑りました?」店長がわずかに首を傾げた。「ああ、マンホール。空気が上がって、ヌルッと来る」
水城は、店奥の出入り口を覗いた。ゴムの段差、アルミの敷居、外へと続く濡れたタイル。厨房靴の溝に粉を抱えたままタイルに乗れば、音が濁る。(青年の言った「スリッパみたいな音」。ゴミ出しの足音二回。二回とは、往復だ)
「新人さんに会えますか」「今日はもう上がった。学校があるからね。ただ……」「ただ?」「無駄に笑わない。仕事中、一回も笑ってない。練習してるみたいに動くんだ」
水城は、店長に礼を言って出た。店の外のマットに、一筋だけ粉が多くついた線があった。ペタペタと二回、踏まれた跡が残り、その線は路地の白いチョーク印へ向かって伸びていた。
4 白い結び目
水城は路地の中程で立ち止まり、袋から二枚の切符を取り出した。狐ケ崎行の古い券面、桜橋行の現行券面。「二枚は重なって落ちていた。だれかが重ねて置いたのか、それとも重なってしまったのか」
「重ねた意志をどう見ます?」「結び目で見る」水城は、交番から戻されたビニール袋を掲げ、結び目の高さと固さを指で確かめた。「二重。高さは胸の下、右手で結んだ癖。——新聞配達の青年と同じ」
「青年が拾って、袋に入れた」「拾ったあと、もう一枚が近くに落ちた可能性がある。あるいは、拾うのを見てから、重ねるために次の一枚を落とした」
「見ていた?」「誰かが。ここで待っていた誰かが」
水城は、路地の上を見た。視線の先、細い空に高架がかすかに覗く。音が下りてくる。「音は、人より先に渡れる。足音は、高架に一度登って、時間を引き伸ばす」
「引き伸ばす?」「S03で説明しましょう」水城は、路地の出口へ向かって静かに歩き出した。と、そのとき——
「すみません!」背後から、少年の声。振り返ると、杉浦怜が立っていた。制服の襟を直し、目はどこか迷いを含む。「長沼の件……嘘をつきました」
5 杉浦怜の嘘
交番のベンチに三人が並んだ。杉浦は姿勢を正し、言葉を選ぶように口を開く。「旧い券売機の部品の話、あれは先輩からじゃない。掲示板です。『券面遊び』って言って、古いレイアウトを再現するグループがある。そこから版下が出回ってます」
「偽造」佐伯の声が低くなる。「遊びだって言うんです。本物と混ぜない、使用しない、見て楽しむだけだって。でも実際は……」「混ぜられた」水城は静かに補う。「ええ。狐ケ崎の券面はその版下を使ったプリンタで刷ったもの。本物の台紙とインクリボンを合わせてる。長沼は……『車庫の盲点』って、鍵の貸し借りが緩い時間がある」
「君は『狐ケ崎』の券面をどこで手に入れた」「ネットで落とし、印刷して切って。昨夜、試しに……。でも今朝は持ってない。今日ここで落ちてたのは、僕のじゃない」
「じゃあ、だれの?」杉浦は首を振る。「わからない。でも、黒いコートの人、見ました。駅から戻ってくるところ。走ってた」
「君は何を怖がっている」水城の声は変わらない。杉浦は、拳を握って、少しだけ俯いた。「終点です。新清水。あそこで何かがあるって、掲示板で……**『海霧の発車ベル』**ってスレが、昨日の夜、突然動き始めて」
(S15が動機の集合点になっている)佐伯は胸のメモ帳に、太い線でS15を書き足した。
「君の役目は終わっていい」水城は淡々と言った。「次は音の番です」
6 音の橋
日吉町から音羽町へ続く歩道橋に出る。朝の光がアルミの手すりに沿ってすべり、時々、通りを行く軽トラが影の帯を切り取った。高架の腹に耳を当てると、低いブーンという共鳴がある。線路が息をしている。
「足音をここで一度、増幅してから落とす。路地で拾った足音が高架に乗るまで、約0.4秒。そこから帰るまでさらに0.4秒。往復で0.8秒の遅延。これが『音の橋』です」
「0.8秒……三分とは桁が違う」「三分は草薙で作られる遅延。ここは認知の遅延。二つは別の武器です」
水城は、橋の中ほどに立ち、片手で一定のテンポを刻んだ。トン、トン、トン。「路地で走った人間のテンポが橋で響きになり、別の地点で足音に戻る。これで一人の足音が二人分に聞こえる」
「二人に聞こえたという証言を、一人で作れる」「そう。“群衆の消失点”(S08)と組み合わせれば、人数という証言は崩せる」
「だれがこの音を設計した」水城は短く息を吸った。「線の中の人間。運行の情報を書き換えないで、人の感覚だけをずらすことを知っている人」
佐伯は、黒いコートの男の「三分」という言葉を思い出す。S10への布石。(時間は外で作れる。音は内で作れる。外と内、両方に手が届く人間)
「足音はだれに向かって落とされた?」「彫像です」水城の目が、S09を見ていた。「県立美術館前の彫像は、視線を固定させる。人は見られていると感じる方向へ、足を置く。そこに死角が生まれる。そこが受け渡しの本線」
7 防犯カメラ
日吉町駅に戻って、駅務員室の端末から周辺カメラを引き出した。古いドーム型カメラは残像が強く、輪郭が流れる。「このノイズが、逆に役立つ」水城は早送りのバーを指で撫でるように動かし、六時十五分〜二十五分を往復した。
黒いコートの残像が、三回現れた。速い、速い、遅い。「速いの二回は、走行の戻り。遅いの一回は、観察」「観察のとき、男はどこに向いた?」「スピーカー」水城は、男の視線が構内放送のスピーカーに刺さる瞬間を止めた。「音の開始で出る。ベルの終端で納める。一拍で落とし、二拍で拾う」
佐伯は、男が音の始点と終点を測っていたことを理解した。「測る人だ」「ええ。あなたと同じ」水城は穏やかに笑い、次のフレームで停止した。厨房靴の足跡が、ドームの下で濃く残る。粉が光る。「ペタ、ペタ。二回。往復」
「誰かがゴミ出しの足音をベルの拍に合わせ、切符を落とすのと重ねた」「そう。拾う人が拾いやすいように。袋の口が結ばれるまで、二拍」
佐伯は、新聞配達の青年の手先を思い出した。袋の結び目。二重。高さ。「全部、音に染められている」
8 “S09” の赤
赤いペンで書かれた「S09」は、不自然に細い。水城はペンの圧のムラを見て、首を傾げる。「油性で細字。最近は細字を常用する人が少ない。図面か型紙を扱う人間の筆圧。線をなぞる癖」
「設計?」「舞台の段取りです。彫像の視線、影の角度、人の歩幅。それらは舞台そのもの。S09は演劇の書割になる」
「誰が、その舞台を組んだ?」「——まだ言えません」水城は、珍しく言葉を濁した。「今言えば、線が壊れる。線は順番を守らないと、嘘になる」
佐伯は、彼女の横顔を見た。輪郭は薄いが、芯の硬さが透けて見える。「S03へ行きましょう」水城は立ち上がった。「足音が渡った先を見る」
9 追跡
歩道橋を降りると、黒い軽自動車が二台、間を置いて連なっているのが見えた。一台目は装飾のない軽、二台目は社名マグネットが外された跡が残る。運転席の男がこちらを見て、すぐに視線を外した。(監視)佐伯の背中に、うっすらと汗が滲む。
「つけられています」佐伯が低く言うと、水城は首を横に振る。「観客です」「観客?」「舞台には観客が必要。彼らは何度も見ている。音の入りと出を確かめる役。失敗があれば、次で直す」
「劇団のようですね」「そうです。劇団のようです」
黒い軽は、こちらが歩く速度に合わせ、距離を一定に保つ。「番号を控えますか」「今はいい。S03へ入る直前で、彼らは消える。役割が終わるから」
三叉路で、予言の通りに軽が曲がった。風が替わる。高架の腹が近い。ここからが音羽町だ。
10 境界
日吉町と音羽町の境に、地面の色が一段、薄くなる地点がある。旧舗装と新舗装の継ぎ目。水城は、その継ぎ目に足を置いて、踵を軽く落とした。コッ。空気の層が、わずかに違う。
「ここから音は、硬い方に流れる。足音が増幅される前、微妙な段差でタイミングがずれる。0.1秒。この0.1秒が、向こうで0.8に育つ」
「増幅は先に決まっている」「ええ。線が、人の鼓動を吸い、返す。線は中立。中立だからこそ、使える」
佐伯は、胸ポケットのペンを取り出すと、S02→S03の矢印の横に、0.1s→0.8sと記した。数式のように簡潔で、残酷な矢印。
11 路地の男
S03に入る手前の駐輪場で、ひとりの男が鍵を弄んでいた。ベージュの作業着。胸ポケットには細字の油性ペン。「すみません」水城が声を掛けると、男は反射のようにペンをポケットに押し込んだ。「この辺り、今朝、走ってる人はいましたか」
男は肩をすくめた。「いつもですよ。通勤で。あ、でも、黒いコートは目立ちましたね。走って、止まって、また走って。耳を触る癖がある」
「耳?」「うん。イヤホンかと思ったけど、何も付けてない。音を測ってるみたいで、ちょっと気味が悪かった」
水城は礼を言い、男の背にある工具箱のメーカー名をちらりと見た。舞台装置でよく見るロゴ。(舞台が近い)
12 「置く」から「送る」へ
S02の路地で置かれた切符は、S03の高架で送られる。置くと送るの違いは、責任の所在。置くは、現場に責任を残す。送るは、次の現場へ責任を移す。
「犯人は、『置く係』と『送る係』を分担しているはずです」水城は、歩きながら言った。「厨房靴の足音をベルに合わせたのは、置く係。黒いコートは送る係。『観客』は検査係」
「分業をどう崩す?」「音で崩す。観客に聴かせたい音と、こちらが聴く音をズラす」「どうやって」「影で」
13 影の譜面
正午前、太陽は高架の縁に白い刃を置く。橋の下に、影が譜面のように並ぶ。太い五線、細い補助線。水城は、影の二線目に片足、四線目にもう片足を置いた。「歩幅。身長。性別。疲労。靴底。全部が影に出ます」
佐伯は半歩下がり、その背格好を記憶した。「あなたは見せるのが上手い」「舞台で学びました」「舞台?」「昔、検察側の証人の動線を作る仕事を少し。線を引いて、嘘を暴くための見せ方を考える。今は弁護側に回ることもある。線は中立です」
影の上を、ペタ、ペタと厨房靴の音の幻が通り過ぎる。水城は、その幻にテンポを合わせ、ふっと逆拍に足を置いた。——幻の足音がずれる。「観客は、『合わせた音』しか検査できない。逆拍は検査の外にある。だから私たちは逆拍を聴く」
「逆拍の先に何がある」「S03の腹。増幅の心臓」
14 小さな赤
高架の橋脚に、小さな赤があった。ポストイットの切れ端が、糊の弱さで半分剥がれ、Sの字だけが残る。「S」佐伯が指で触れると、薄く粉がついた。「S09のSだけが先行している」「並べ替えの合図です。S09の要素をここで抜く」
「要素?」「視線。足幅。停止。待機。威圧。彫像の要素をここへ移植する。人は見られていると感じる方向に止まる。橋脚に赤を置けば、視線が吸い付く」
佐伯は、朝の倒れた男の視線を思い返した。スピーカー、桜橋(S13)、そして狐ケ崎。(向きが揃っている。誰かが視線を操作している)
15 合図
水城は、橋脚のすぐ脇に立ち、スマートフォンのボイスメモを開いた。「ベルの疑似音を流します。観客がいるなら、動く」
再生。カン、カン、カン——スピーカーから漏れたような薄い音が、橋の腹で少し増幅される。遠くで、車のドアが一つ、閉まる音。水城は目を細めた。「いる」「どこに」「S03の影の外。観客は、舞台に上がらない」
佐伯は、橋の外に目をやり、黒い軽が一瞬だけ角に現れて消えるのを見た。「見届けた。検査は合格。次へ送れ」水城の声は低く、誰にともなく言った。
16 日吉町の証言(整理)
駅務員室に戻ると、白いボードに赤と青で線が足された。
S02 路地:幅1.6m、白線、マンホールの滑り
厨房靴:ペタ×2(往復)、粉の線
拾い手:新聞配達(袋の二重結び)、六時十九分
置く係:ベルに合わせて落とす
送る係:黒コート(耳に触る癖、スピーカーを見る)
検査係:黒い軽(観客)
S09:赤の細字、舞台の書割
「動線が取れた」佐伯は深く息をついた。「S03へ行きます。足音の増幅を現認する」「その前に」水城は、狐ケ崎の券面を持ち上げた。「これを使ったのは、だれか」「……黒いコート?」「送る係は券面を持たない。持つのは置く係。厨房靴——大河内」
「新人?」「置くのは、新人がいい。本筋に関与しない末端。捕まっても、舞台は潰れない」
「彼を守るために嘘を混ぜたのは杉浦かもしれない」「ええ。“高校生たちの遊び”というガワに事件を包む。罪は散らすほど検察は拾いにくい」
「君はどちらの側だ」水城は、ほんの少しだけ笑った。「線の側。それ以外は全部、観客です」
17 日吉町駅ホームの再実験
午後のホームは、朝ほどせわしなくない。佐伯が構内放送のベル音を短めに流すと、水城は路地のチョーク印の位置に立ち、切符を持つ手を腰の高さに持ってきた。「落とす。拾わせる。送る。——三拍子でやると、『偶然』に見える」
一拍目、ベル。二拍目、足音。三拍目、袋の結び。袋が結ばれる時間は、二重結びで約1.4秒。「観客の検査は音で行われる。視覚は補助に過ぎない」水城は袋を架空で結び、目線をスピーカーの方へ流した。(黒いコートはここで出る)
「微差はどこに」「影の縁。S03で増幅される直前の0.1秒。そこを掴むには、現場の空気、温度、湿度が要る。舞台監督の仕事」
佐伯は、舞台という語が、今日何度も出てくることに気づいた。(線は劇場。列車は俳優。乗客は群衆。駅務員は舞台監督)その比喩に、救いのような冷たさがあった。
18 赤い矢印
交番から戻る途中、電柱の低い位置に赤い矢印が貼られているのを見つけた。ステッカー。指す方向は裏道。矢印の端が千切れて、小さなSに見える瞬間がある。「道案内?」「撤去の印でもあるけれど、合図として再利用できる。SはStation、SはStage。両方のS」
矢印の先、古い地図の貼られた掲示板がある。S07の古庄を示す右上の角が、剥がれて折り目になっていた。「古地図と新しい証言」水城の目に、次の章の見出しがよぎる。「S07への糸も、S02から伸びています」
「この章で結ぶのは、S03」佐伯は、目の前の高架に視線を上げた。「行きましょう。こだまの正体を掴む」
19 S02の終点
日吉町駅に戻ると、杉浦怜がひとり立っていた。制服の襟は今度はまっすぐで、目にも決意の影が差している。「黒いコートの人、朝また来ます。掲示板に書き込みがあった。『S03の音、弱い。明日は強く』って」
「書き込み主は?」「特定できない。でも、文体の癖、間の取り方、句読点の位置。同じ人が何本もスレを立ててる。舞台の口調だ」
水城は、短く頷いた。「ありがとう。君は来ないで。観客にされる」
杉浦は唇を噛んだ。「僕は、置く係をやってない。本当に。でも……誰かが置かされてる。新人が」
「新人は守る。線も守る」水城の声は変わらなかった。「明日、S03で音を止める」
20 章の背面(S03へ)
駅の時計が正午を少し回ったところで、海風がわずかに街に入った。海霧はまだ遠い。ベルの幻聴には早い。だが、音は先に来る。足音は先に渡る。切符は——あとから追う。
佐伯は、ボードのS02に印をつけ、S03へ矢印を伸ばした。水城は、狐ケ崎の券面を透明のスリーブに入れ、胸の内ポケットにしまった。(証拠は心臓の近くに)彼女の口元が、少しだけ硬くなる。「行きましょう。高架が、こだまを吐き出す前に」
二人は日吉町の改札を抜けた。光が線路に沿って刃を引き、影が譜面を描く。音羽町は、もう聴こえる位置にあった。
——第3章「音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音」へ続く。
第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音
1 腹の中へ
音羽町の高架は、腹の内を見せない。支柱は無口で、梁は淡々と空を分ける。午前の残り香を運ぶ風が、鉄の肌に触れて薄く震えた。
「ここが、増幅の心臓です」水城真耶は、手すりのリベットから三つ目と四つ目のあいだに指を添え、微細なうなりを確かめた。「波がぶつかる。この谷で生まれ、橋で返る。0.8秒のこだまは、ここで育つ」
佐伯隼人は、ステップの位置を頭に入れながら周囲を見回す。高架下に古い倉庫、右に駐輪場、左に細い水路。「歩道橋の踏板、交換の痕があります」「昨秋ですね」水城は、板の木目とビスの角度を見ただけで言った。「新しい板は乾きが甘い。足音がふくらむ。同じ重さの人間でも、二人分に増える」
「昨秋から、音が二人になった」佐伯が呟くと、水城はうなずいた。「黒いコートは、昨秋以降に**“劇場”**を手に入れた」
2 拍の嘘
佐伯は構内無線を外し、ポケットに小さなボイスレコーダーを滑り込ませた。「検証します」彼は橋の中央に立ち、規則正しく踵を落とす。トン、トン、トン。風が変わり、梁がかすかに唸る。0.8秒の遅れで、トンがもう一つ返ってくる。——一人が二人になる。
「観客に二人に聞かせるには、三つの条件が要る」水城は指を三本立てた。「一、路地で0.1秒のズレを作る。二、橋で0.8秒に育てる。三、聴く側の認知を“拍”で固定**する」
「拍の固定……ベル?」「ベルだけでは弱い」水城は、自分の手首を指した。「ハプティック(振動)メトロノーム。振動で拍を身体に入れる。耳は空ける。だからイヤホンは要らない。耳に触る癖**は、拍のチェック」
「手首?」「もしくは鎖骨に貼るタイプ。舞台で使う人もいる。役者の呼吸を揃えるために」
佐伯は朝の黒いコートの仕草を思い出した。耳へ伸びる指先。何も付いていない耳殻。しかし、拍は身体の別の場所に入っていたのだ。
3 橋の下の楽屋
高架下、支柱の影に工具箱。ベージュの作業着の男(駐輪場で会った人物)が、工具を拭きながら誰かを待っている風だった。「すみません」佐伯が近づく。「保全の方ですか」「ええ、まあ」男は曖昧に笑う。胸ポケットに細字の油性ペン。太い字では書けない**“図面の指示”**が似合う手つき。
「昨秋の踏板交換、ここですよね」「ええ。騒音の苦情が出て、板を替えた。鳴りが変わったでしょう」「変わりました」水城が応じる。「二重に聞こえる」
男の目が、わずかに「知っている」と言った。「監督の指示で、古い板も少し残したんですがね」「混ぜた」「ええ、全部替えると響きが死ぬって」男は肩をすくめ、「音にうるさい監督でね」と付け加えた。
「監督」佐伯は、その語を反芻する。「舞台の監督ですか、それとも工事の監督ですか」「どっちも監督ですよ」男は笑い、視線を高架の腹へ泳がせた。誰かが音を設計した。誰かが響きを残した。誰かは、橋を劇場にした。
4 耳のないイヤホン
橋の上に戻ると、水城は小さな箱を取り出した。保安検査用の振動メトロノーム。「手首につけると拍が乗る。耳は空く。観客には何も見えない」
佐伯は装着し、80BPMに設定する。トン……トン……と微細な振動が皮膚に入ってくる。「拍が入ると、音が同じでも二人に聞こえる瞬間を作りやすい」水城は、佐伯の歩調に合わせて逆拍で踵を落とした。一人の足音に0.8秒のこだま、それに逆拍が重なって、三人が走り抜けたように響く。
橋のたもと、黒い軽が一瞬だけ止まり、また動いた。「検査」水城が言った。「検査は通った。次の場へ送れる」
「次はどこです」「交差点」水城は、地図に指を滑らせた。「春日町(S04)。“交差点で消えた背中”——二人に聞こえた足音を、一人の背中に畳む場所」
5 追う声
歩道橋を降りたところで、声がかかった。「ちょっと、待ってください」大河内だった。パン屋の新人。朝の厨房靴は、白いスニーカーに変わっている。「僕、置くなんてしてません。ゴミ出しだけです」
「君を疑っていません」水城は静かに言う。「置く係は、末端の手を使う。手は誰でもいい。君である必要はない」「じゃあ、誰が」「拍を持っている人」「拍?」水城は、彼の手首を一秒だけ見る。縦に薄い擦過痕。「君は使ってない。使ってる人は、動きに間が出る」
大河内はうつむき、何かを言いかけてやめた。「黒いコートの人、合図をしてました」「合図?」「ベルが鳴る前に、小さくこう——」彼は指で空を叩く仕草をした。無音のカウント。「四つ数えてた。いつも同じ」
水城は、空を見た。無音の四拍子が、青の下に浮かんだ気がした。「ありがとう。君はここで戻って。舞台に上がらないで」
6 アリバイの起点
高架の外れで、真壁からの電話。
「S10の徐行、正式運用になった。三分の遅れが確定する時間がある」「何時台ですか」「18時台前後。夕方の下りが重い」(夕暮れ、海霧、ベルの反響……S15に向けて時刻感覚が崩れる)「それから、S08で小規模大会のルート確定。群衆の列が橋の下を二度通る。一回目は往路、二回目は復路。タイム差は街路で吸収できる」
「二度の同じ列は、同じ人に見える」
「そういうことだ。音で増やし、列で混ぜ、時間でずらす。三段トリック」
電話を切り、佐伯は言った。「S03で二人、S08で群衆、S10で三分。S04で何をする?」「消す」水城の返事は早かった。「交差点は視線が十字に交錯する。背中は四方向にほどける。**“消える背中”**を、作る」
7 黒いコート、二度目
昼下がり、高架の影が伸びる時刻。黒いコートが現れた。一拍、二拍、三拍、四拍——無音のカウント。彼は耳に触らない。代わりに鎖骨の上を軽く叩いた。(貼るタイプだ)彼は、観客のしぐさを自然に織り込み、手すりのネジの緩みを一つ直す。舞台監督の手だ。
水城は、真正面から歩み寄った。「拍の具合は、いかがです」男は、微笑を作るのに0.3秒使った。「観客です」「監督でもありますね」「検査の観客です」彼は、あくまで観客の位置に立つ言葉を選ぶ。
「彫像は移植できましたか」「どの彫像のことか」「S09の視線。ここに赤を置いたでしょう。Sの切れ端」男は目線をほんの少し落とした。その時間は0.2秒。否定の速さではない。「あなたは『置く』はやらない。『送る』と『検査』だけを担う。分業の硬さがあなたの安全を守る」
「安全?」「——舞台には転換がつきものです。失敗したとき、誰が落とし前をつけるか」
男はそこで初めて笑わなかった。「あなたは線の味方か」「線の味方です」「線が嘘を運ぶときも?」「線は運ぶだけ。嘘は人が積む」
男は、一瞬、肩の力を抜き、視線を遠く——春日町の交差点の方へ投げた。「観劇を続けます」そう言って、四拍で踵を返した。足音は一人。こだまが二人。三人が去ったように響いた。
8 地図の裏側
駅務員室に戻ると、古い沿線地図の裏に、鉛筆で走り書きの矢印があった。S02→S03→S04。矢印の途中に小さな記号。□=置く、→=送る、◎=検査。(誰が、いつ書いた?)紙の端の汚れは、粉。パンの粉。(大河内? いや、粉は街のあちこちに広がる。他の誰かの手に乗る)
水城は、矢印の角度を目で測った。「S04の角が強い。“消える背中”の設計は交差点の中央じゃない。端から入る」
「端?」「ゼブラの白と黒の境目。影が割れるライン。そこで背中が半分、街に溶ける」
9 音の終端
高架の端に立ち、ベル音の試験をもう一度。カン、カン、カン——風向きが変わり、うなりが低くなった。湿度が上がる。「霧の前触れです」水城は空気を吸い、「新清水が鳴りを増す」と呟いた。「S15のベルは、ここまで届く?」「届きます。幻ですが」「幻でも証言になる」「だから使う。作るのは彼ら。止めるのは私たち」
10 章の結び(交差点へ)
佐伯は、白ボードのS03に印をつけ、S04へ太い矢印を伸ばした。脇に、三語。
二人の足音/群衆の列/三分
「音は準備が整いました」「視線を壊しましょう」水城は薄く笑う。「交差点で、背中を消す。彼らの拍ごと」
駅を出ると、午後の光は、さっきよりも柔らかい刃になっていた。春日町の交差点は、もう視界の端で脈を打っている。
——第4章「春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中」へ続く。
第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中
1 四方向の視線
春日町駅前の交差点は、街の鼓動のようだった。四方向から車と人が流れ込み、信号機の赤青が拍を刻む。歩道のゼブラ模様は白黒の鍵盤のようで、人々の足音を演奏させる。
水城真耶は、横断歩道の端に立ち、目を細めた。「ここは“背中が消える”交差点です」「どういう意味です」佐伯隼人が訊く。「人の背中は、十字の視線にさらされると輪郭がほどける。前方へ行く人、横切る人、信号を待つ人——視線が交錯することで、誰の背中が誰のものかが曖昧になるのです」
信号が青に変わる。人の波が横断歩道を渡り、数十の背中が同時に動く。確かに、一人を追うはずの目線は、群衆の交錯に呑み込まれて、背中は背中の海に溶けていった。
「ここで“消した”んですね、背中を」「ええ。消える瞬間を作ることで、“いた”という証言を“いなかった”に置き換える。アリバイ操作の基本です」
2 置かれた鞄
交差点の北西角に、小さな茶色のビジネスバッグが置き去りにされていた。通行人は誰も気に留めず、足早に通り過ぎる。
佐伯が警戒しながら近づくと、バッグは軽く、鍵もかかっていなかった。中には書類が二、三枚、そして——「切符だ」取り出した一枚は、新静岡から**柚木(S05)**行き。裏には赤い文字で「S11」と走り書きがあった。
「S05とS11……? この交差点で、次とさらに先を結ぶ線が置かれている」「置いたのは?」水城は横断歩道を渡る群衆の中で、ひとりだけ歩幅の異なる人物を見つけた。黒いスーツ、背筋が異様にまっすぐ。足音が半拍ずれている。「彼です。観客でも送る係でもない。消す係です」
3 半拍の歩幅
佐伯と水城は、その男の後を追った。信号が赤になり、流れが止まる。男は横断歩道の中央で一瞬立ち止まり、足を少し開いた。「……今です」水城は囁いた。
男の背中が、人の群れに溶ける。数十人の背中の中に埋もれ、次の瞬間、いなかった。「消えた……!」佐伯は目を凝らした。確かに、群衆の流れの中から男の輪郭だけが消えたように見えた。
「トリックです」水城は冷静だった。「背中の半拍の歩幅で、群衆の動きと逆相を作る。すると、人の視線は“追っている背中”を“別の背中”にすり替えてしまう」
「すり替えられた背中は?」「東側に抜けました。カメラの死角へ」
4 監視カメラの空白
春日町交差点には四基の監視カメラが設置されている。だが、映像を確認すると——「……一つ、空白がある」南側のカメラは、光の反射で一定時間白飛びする。午後の角度で信号機の鏡面に太陽光が当たり、映像が途切れるのだ。
「ここで“消える”背中は、記録に残らない」「つまり、映像上も存在しなかったことになる」佐伯の声に、冷たい実感が混じった。
「交差点は、舞台の暗転に似ています。照明が落ちた瞬間、役者は背中を消せる」水城はそう言い、映像を停止させた。
5 残された背中
しかし、一人だけ、消えなかった背中があった。画面の片隅に、赤いリュックを背負った少年。杉浦怜だった。
「彼は……?」「観客にされかけています」水城の声は硬い。「舞台の外に立たせたはずなのに」
少年の背中は、群衆の流れに逆らうように強張っていた。まるで、自分の背中が誰かの“すり替え”に使われていると知っているかのように。
「彼が背中役にされると、アリバイは完全に偽装される」「守らないと」「ええ。次の駅で」
6 交差点からの出口
交差点の群衆が散った後、置かれていた茶色のバッグも忽然と姿を消した。「……だれかが持ち去った」佐伯が辺りを見渡すと、ビルの角に黒い軽が止まり、バッグを抱えた影が乗り込むのが見えた。
「観客が小道具を回収した」水城は冷ややかに言った。「舞台転換のように」
「次は……?」「柚木(S05)です」水城は、佐伯に向き直った。「“架道橋の見えない目撃者”。ここで“消された背中”が、別の視線にすり替わります」
7 章の結び
交差点の中央で、まだ群衆の残響が漂っていた。背中を追いかけた人々の目線が、すべて曖昧な空気に溶けていく。佐伯は、胸ポケットのノートに太字で書いた。
S04:背中は消える。記録にも残らない。だが、消えた背中は次の視線に宿る。
彼らは歩き出した。次の駅、柚木。線路の先で、誰かがまた「目撃者」を演じる準備をしている。
——第5章「柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者」へ続く。





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