静かなる線路の証言2
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 34分

第5章 柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者
1 柚木という“境い目”
柚木駅は、線路と生活の縫い目だ。片側は通学路、もう片側は古い住宅と小さな倉庫が連なり、線路をまたぐ架道橋が町をつなぐ。朝夕の通行量ほどでもない時間帯でも、柵の向こうを走る車輪音は、街の呼吸と歩調を合わせてくる。
水城真耶は、駅の階段を上がりながら、橋の腹を仰いだ。鉄骨の梁、ボルトの頭、塗装の継ぎ目。赤サビのまだらが音の節のように点在している。
「ここは“視線の曲がり角”です」佐伯隼人が横に立つ。「音羽町(S03)の増幅から来て、ここで視線が曲がる」「ええ。見えるはずのものが見えない。見えないはずのものが見えたと証言される。——見えない目撃者が作られる場所」
「人ですか、それともモノ?」「両方です」水城は、橋の親柱の根元に指を置いた。「人は角度に騙され、モノは角度を作る」
朝の斜光が、橋の側面に斜めの刃を置いた。刃は薄いが、十分に鋭い。背中が消えた春日町(S04)の先で、今度は目撃者が生まれるのだ。
2 “見た”という人
交番経由で連絡を受けていた通報者が、橋の袂に現れた。七十前後。薄い野球帽。手には双眼鏡風の単眼鏡。「わしは、見たんだよ」男は言った。「黒いコートが走って、切符を落として、橋の向こうへ消えた」
「どこから見たのですか」「あそこからだよ」男は、橋の上の歩道を指差した。「欄干の隙間からのぞいてな」水城は、男の指の先を追い、欄干の鋼材のピッチを目で測る。(目線高、握りの高さ、視線の通り——矛盾)彼女は微笑んだ。「わかりました。再現しましょう」
再現は、視線の嘘を暴く唯一の言語だ。
3 欄干のピッチ
欄干はH形鋼に近い断面で、子どもの転落防止の基準を満たすため、縦格子の間隔は12センチ台に抑えられている。大人の目線からのぞく場合、鼻梁が格子に干渉し、片目を斜に寄せる必要がある。その場合、視野の有効幅は8センチ前後まで落ちる。
「単眼鏡を使えば見える」通報者は胸を張った。「見えることと識別できることは別です」水城は穏やかに言う。「顔認識ができたのですか?」「顔までは……だが体格とコートは」「季節に合う黒コートの体格は沿線に何人いるでしょう」水城は小さく首を傾げた。「——時間を返してください。観察時間は何秒です?」
通報者は黙った。水城は欄干の内側、歩道側に立つと、自分の身長を利用して目線を落とし、視界を測った。「ここからだと、線路は見切れる。橋桁が死角を作る。黒いコートがどこで切符を落としたかまでは見えない」
「じゃあ、わしは嘘を?」「いいえ」水城は首を振る。「嘘を見せられたのです。視線の装置によって」
4 視線の装置
橋の外側、車道側の親柱に、小さな反射材が貼られていた。六角形のセルが蜂の巣状に並ぶハイインテンシティ・グレード。工事路の仮設でよく使うタイプだが、ここに常設の規定はない。「貼り物」水城が指先で軽く叩く。「これ、交通誘導のため?」佐伯が尋ねる。「誘導は視線にも作用します」水城は微笑だけで答え、反射材の端を少しめくった。裏に薄灰の両面テープ、その下——
銀の薄いフィルム。ミラーシート。「鏡だ」「正対の鏡像ではありません。角度で跳ねる。欄干と橋桁の角度で、見えない位置の影がここで動く」
水城は、スマートフォンを水平器モードにし、反射材とミラーの角度を測った。17度、マイナス2度。「17°で線路側の歩道、−2°で欄干の隙間。単眼鏡なら、一方向しか重視しません。“見えた”という確信は、鏡像を実像に取り違えるのに十分です」
通報者は、手にした単眼鏡を見つめ、眉根を寄せた。「わしは、だまされたのか」「だれが貼ったのか、です」水城は、銀のフィルムの端に残る糊の荒れを爪で確かめた。「最近です。湿度の乗りが浅い」
「黒いコート?」「黒コートは送る係、検査も兼ねる。貼る係は別でしょう。舞台装置の仕事です」
5 見えない目撃者(1):凸面鏡
橋の下、交差する生活道路に凸面鏡が一枚設置されている。白いフードに、うっすら粉が付着しているのを水城は見逃さない。パン屋の粉か、路上のセメント粉か、いずれにせよ手が触れた痕跡だ。
「鏡が二枚」佐伯が呟く。「いいえ、三枚です」水城は指を立てる。「反射材の下のミラー、生活道路の凸面鏡、そして電柱の作業用面板」
「面板?」「保安作業で高さや傾きを出すための目盛り板が取り付けてあるでしょう。あれは光に対して平面。鏡面ほどではないにせよ、反射で視線を曲げる」
三つの光の面が、欄干の隙間から覗く単眼鏡の視野に偽の運動を組み立てる。通報者は黒コートの軌跡を見たつもりで、像の連続を見ていた。
「見えない目撃者は、鏡です」水城は言った。「像が証言を作った」
6 見えない目撃者(2):橋そのもの
橋は目撃する。雨跡。粉の筋。ボルトの外周についた黒い油の跳ね。水城は、ボルトの配列の一つに、スプレー糊の微粒子が淡く散っているのを見つけた。撒いて貼るタイプの仮止めだ。
「ここに紙を当てた跡がある」「型紙?」「そう。駅番号のSと数字の型紙。赤の細字を作った人物と同じ筆記具の文化圏。線を引く、図を写す、“書割”の文化」
「舞台だ」「舞台です」
橋の裏面には、白墨で薄く消した矢印が残っている。→S11。「御門台」佐伯が息を呑む。「坂道のアリバイ崩し」「ここからあそこを見せる。坂で歩幅が崩れると拍の入りがずれる。アリバイを崩すに最適です」
水城は、橋の下からS11へ斜線を引くように視線を送った。「S05は分岐。S11へ視線を送り、S06で部材を受け取る」
7 厨房靴の影(再)
舗装の継ぎ目、橋の登り口に粉の帯がある。ペタ、ペタの二拍ではない。ペタ、ペタ、ペタの三拍。「三拍?」佐伯が首をかしげる。水城は、橋の上からベルの疑似音を三回鳴らした。カン、カン、カン。路地の角で、黒い軽が一瞬止まる。「検査」そして粉の帯の端、三つ目の踏み跡の位置に、透明のセロハンの糊跡が微かに残っているのを見つけた。「切符の仮固定だ」「落とす位置を正確にするため」「置く係は、三拍で落とす。S03は二拍。ここで一拍増やした。拍のカウントを変えることで、観客の検査の基準を混ぜる」
「検査が狂う」「ええ。音の帳尻を坂で取る。S11に投げる準備」
8 もう一人の“目撃者”
商店の二階の窓から、若い女が顔を覗かせた。「朝から警察みたいなのが多いから、気になって」「すみません。橋の上で黒いコートを見ましたか」「見たかもしれないけど、皆黒いから。あ、でも片手で胸を叩く癖の人がいた。タン、タン、タンって。曲でも流してるみたいに」
「三拍」水城が呟く。「指揮者」佐伯が受ける。「舞台監督は鳴らさない。合図は出すけど音は殺す。鳴らすのは演者」「演者が三拍。送る係が二拍。検査が四拍の無音」「——拍が役割を語っている」
女は、窓枠に腰かけて続けた。「それと、赤い紙が電柱に貼ってあったの。Sって書いてあったけど、一日で剥がれた」水城が小さく頷く。「道具立ては使い捨て。芝居の小道具のように」
9 “証言”の剥離
通報者の老人は、欄干の隙間から覗く自分の目を疑い、単眼鏡をポケットにしまった。「わしは見てないのかもしれん」「見たのです。ただし**“像”を」水城は老人の肩に軽く手を置いた。「証言は悪ではありません。装置が悪**なのです」
老人は小さく頷き、去っていった。「証言を責めないのが、線の味方のやり方?」佐伯が問う。「線は人に乗せられる。人を責めれば、線が黙る」水城は親柱の銀を見やり、小型スクレーパーで慎重に断片を採取して証拠袋に入れた。
10 S06への糸
橋のタイルの目地に、黒い樹脂の薄片が挟まっていた。水城がピンセットで摘み上げると、熱転写リボンの剥片だった。「券面の印字に使うリボン」「長沼(S06)」佐伯の声が低くなる。「車庫の盲点」「部材はここまで持ってこられている。印字をどこでしたかは次で確かめる」
橋の上の風が変わる。山側から湿りが下る。海霧の助走だ。S15が遠くでベルを鳴らす準備をしている。
11 “見えない目撃者”(3):カメラの更新履歴
佐伯は携帯端末で、沿線のカメラ更新履歴にアクセスした。「柚木のこの位置、先月に交換。解像度は上がったが、逆光補正がオンになっていない。白飛びが強い」「装置の欠陥で影が消える。背中は消えるが、貼り物は残る——反射材は白飛びに勝つ」
「見えるのは貼り物だけ」「そう。像は残らないのに、装置は残る。だから装置を追う」
水城は、反射材・ミラー・凸面鏡・面板を、矢印と角度で手帳に写し取った。17°、−2°、路面から1.12m、欄干上端から−18cm。「人が嘘をつくとブレが出る。装置は正確だ。正確だから犯人の癖が残る」
12 新聞配達の青年(再登場)
日吉町で会った新聞配達の青年が、自転車で通りかかった。「あの、ここでも紙が重なって落ちてました」「いつです?」「きのうの六時四十五分。三枚。二枚は真っ白で、一枚に赤いS」
「型紙の当て紙」水城が即答する。青年は、ビニール袋から真っ白な薄紙を差し出した。スプレー糊のざらつきが指に残る。「助かりました。拾ってくれて」「ぼく、誰かの舞台の片付けをしてる気がして」「いまは観客でいてください」水城は優しく言った。「役者にされないように」
13 黒コートの“調律”
午後、黒いコートが現れた。四拍の無音カウント。鎖骨へ指。橋の親柱の銀がはがされているのに気づくと、男は表情を動かさず、代わりに欄干の足元に視線を落とした。次の貼り位置を拾っている。「装置は使い捨て。仕込みは前夜。撤去は当日。証拠を残さない」水城が囁く。
佐伯は、声をかけた。「運行のご担当ですか」男は観客の笑みを作る。「観客です」「観客にしては舞台の骨をよくご存じだ」「いつでも、よい舞台を見たいだけですよ」
男は、三拍で橋を渡った。足音は二人分に増え、橋の下で三人に割れ、通りの角で群衆に溶けた。
14 “消える背中”の接合部
春日町で消えた背中は、柚木で像を得る。鏡が像を与え、橋が目撃し、カメラが装置だけを残す。「背中はここで再生される。消えるは続かない。消えた背中は別の像で戻る」水城は、背中の接ぎ木を指で示すように、橋の梁を撫でた。「アリバイは造園に似ています。根は同じなのに、枝の名札を変える」
「名札——駅番号」佐伯が受ける。「Sの札を付け替える。S05からS11へ。途中でS06の根から水を引く」
15 S06:車庫の“鍵”
長沼(S06)の車庫の出入りに使う合鍵の話は、日吉町の杉浦怜が暗に匂わせていた。「盲点の時間がある」車庫の管理台帳の改訂は、先月。電子錠への切り替えの過渡期が数日あった。旧鍵と新カードが共存し、チェックリストが二重になった夜。「部材が抜けるならそこです」水城は、橋の下の影に向かって言うように小さく呟いた。
「行きましょう」佐伯が言った。「S06へ」
「まだです」水城は制した。「ここでもう一つ、押さえることがある」
16 “押さえ”——声の拡散
夕方。海側の湿りが強くなり、音が伸びる。水城は、橋の上のスピーカーの波形が、構内放送と別物であることを指摘した。「ボイス・アナウンスが高域で削れています。旧型のアンプが生き残っている。音色が違う」
「観客は音色を検査していない」「だから音色で合図を潰せる」水城は、駅務室の放送卓でサンプルのベル音に微細なノイズを重畳させ、三拍と二拍の区別が付きにくい波形を作った。「こうすると彼らの**“拍”が乱れる**。合図が取りにくくなる」
佐伯は、運用の限界と証拠保全の均衡を天秤にかけるように黙考したあと、うなずいた。「短時間、試験放送で当てる」
カン、カン、カン——ノイズが重ねられた三拍が、二拍にも四拍にも聞こえる曖昧さを帯びて橋に回った。角で、黒い軽が戸惑い、一拍遅れて動いた。「検査が滑った」「小道具が片付く前に滑らせる。舞台の節を外す」
17 章の心臓
夜が近づく。海霧の前触れが、柚木にもかすかな白を落とした。水城は、親柱から採取した銀と、橋のボルトに付着したリボン片を証拠袋にしまい、最後に欄干の角に貼られていた透明セロハンの糊を綿棒で採る。「S06で印字、S05で落とし、S11へ視線、S15で時刻を攪拌。——これが大枠です」
「犯人は?」「役割は三人以上。置く、送る、検査、貼る、鳴らす。一人二役もある。黒コートは送る+検査。舞台監督は貼る+鳴らす。置くは末端に散らす」
「末端……高校生?」「高校生は使われる側。自覚が薄いほうが良い。罪の密度が薄まる」
佐伯は、ボードに新たな矢印を引いた。
S05(装置で“目撃”を作る) → S06(部材) → S11(視線) → S15(時刻)
線は、始発の嘘から終点の鐘へと伸びていく。だが、水城は別の短い矢印を足した。
S03(二拍) → S05(三拍)「拍が語る。S10(三分)は拍の外にある時間。拍と時間は別の剣」
18 「見えない目撃者」の供述調書(作成)
駅務室に戻り、佐伯は供述調書のドラフトを組み立てた。通報者(男性・70代)
目撃地点:S05架道橋上、欄干の隙間
視認補助:単眼鏡
視認内容:黒いコートの人物が走行、切符を落とし、橋の向こうへ消失
再現検証:欄干ピッチ、視線の有効幅、橋桁死角のため落下位置特定は不可
装置影響:親柱反射材下ミラー、下方凸面鏡、面板による像の連続を実像と誤認の可能性高
補助証拠:反射材剥片、スプレー糊微付着、透明セロハン糊、熱転写リボン剥片
関連駅番号の痕跡:白墨矢印**→S11**
「供述は**“否定”ではなく“補強”で終える」水城が言う。「見たという事実は尊重し、見せられた可能性を併記する。線の名誉**のために」
19 “鍵”の受け渡し
夕闇の直前、杉浦怜が橋の下の柵の影に現れた。「長沼の鍵、先輩が持ってる。電子化の前にスペアをコピーしたって」「先輩の名は?」「……言えません。でも、黒い軽に乗ってます」佐伯と水城は、互いに目を合わせた。「安全を優先する。君はここで止まれ」水城は、柔らかい声音で続けた。「舞台に出ない約束」
杉浦はうなずき、ポケットからスマホを取り出した。「掲示板、今夜、S06のスレが立つと思う。合図は**“盲点点検”**」
20 柚木の終幕(前半)
ノイズを重ねた試験ベルが、再び三拍を曖昧にした。黒い軽が、一瞬迷い、春日町の方向へ退いた。黒コートは橋を渡らない。舞台監督は装置を片付ける時間を計算し直す。通報者は単眼鏡を仕舞い、**“わしは騙された”**と小さく繰り返しながら、家路についた。
水城は、橋の角に最後の視線を投げた。銀の剥片が月のない空の下で弱く光る。「行きましょう」「S06」「車庫の盲点へ」
二人は、柚木駅の改札を抜けた。線路が夜の色を取り戻し始める。遠くで、海霧のベルが音の影を作っていた。
21 “盲点点検”の合図
夕闇が落ち切る前、掲示板に新しい書き込みが走った。
19:10【盲点点検】—S06側、回送入換前に“版下”搬入。検査は四拍。19:25 合図:三拍→二拍へ移調。19:40 撤収。
水城は画面を閉じ、短く告げた。「今夜、鍵が動く。版下も。——**柚木(S05)**はここで終幕。**長沼(S06)**へ入ります」
「入換の前を狙う理由は」「人が多すぎず、少なすぎず。誰が何を持ち込んでも風景に飲まれる時刻。舞台監督が好む時間です」
二人は柚木の架道橋を背に、薄闇の線路沿いを早足で歩き出した。
22 長沼へ向かう細道
柵沿いの側道は夜になると小さなトンネルになる。灌木の黒が風に揺れ、街灯の光が枝の影を何重にも重ねる。水城は歩きながら音を拾っていた。「車輪じゃない、カートのキャスター。樹脂の軽音。二台」「二台……置くと貼る?」「送ると貼るの兼務でしょう。舞台の人手はいつも足りない」
細道の先、長沼の車庫のシルエットが現れる。薄い箱型の屋根の横腹に、暗がりでも読める構内標識。立入禁止の白文字だけが浮いていた。
23 車庫の境界
職員通用門の手前に、カードリーダと旧来のシリンダー錠が並んでいる。「過渡期の名残だ」佐伯が低く言う。フェンス越しに構内を覗くと、入換標識灯が橙の点滅で一定の拍を刻んでいる。トン……トン……——四拍の無音カウントを視覚に置き換えたような、静かな鼓動。
「19:10」水城が腕時計を見ず、標識灯の拍で時間を読んだ。「来ます」
通用門の影から、台車を押す二つの影が現れた。どちらも黒。一人は背の高い痩身、肩の位置でカートを操る癖——黒いコート。もう一人は、ツバの広いキャップに作業用の薄手の上着——舞台監督。鎖骨に医療用テープのような白いライン。ハプティックが透けて見える。
二人は言葉を交わさない。四拍の無音。三拍の足。最後に二拍で門に寄る。
「移調した」水城が囁いた。「掲示板どおりだ」
24 鍵
キャップの男がカードをかざす。扉は緑に点灯、開く。次の瞬間、男は旧シリンダーにも手を伸ばした。カチ——閉じた。(……?)佐伯が眉を寄せる。「今、逆に回した」「“開けた扉を旧鍵で閉める”。履歴に残さないためです」水城が応じる。「電子履歴は開いた。しかし、実体は旧鍵で閉鎖。通過はフェンスの下——」
男が身を沈める。フェンスの下端、芝の間に外れやすいパネルが仕込まれている。黒いコートが台車を斜めに倒し、薄い箱を滑り込ませる。「下抜けだ」佐伯が息を詰めた。扉は開き、閉じたまま。履歴も生体も誤魔化せる。過渡期の二重構造が、盲点を作る。
25 版下
滑り込んだ薄箱のフタが少し浮く。内側に耐熱の黒スポンジ、薄い透明保護板、その間に乳白色の下敷き。「版下だ」水城の目が狭む。「切符券面のレイアウト……新静岡→狐ケ崎の旧フォント、桜橋の現行……両方ある」
キャップの男が保護板を外し、指で角を叩いて反りを確認する。17°。——柚木で見た薄ミラーと同じ角度。「角度を統一してる」「視線装置と版下は同じ設計者。舞台監督が線を揃える」
黒いコートが別の小箱を取り出す。熱転写リボンだ。黒の帯の端が銀に光る。「S05で拾った剥片と一致するはず」水城は小声で言い、写真を数枚切った。
26 四拍の検査
二人は台車を押したまま、構内灯の四拍点滅を一回飛ばし、二回そろえ、一回飛ばす——四拍検査。「検査が四拍なのは、異物混入と監視の重畳のため。二拍は送る、三拍は置く。四拍は検査。彼らの約束です」「合図を崩せますか」「崩せます。ただしここではやらない。証拠が流れる」
入換車のホーンが遠くで鳴った。短く一度。舞台監督が首を傾げる。拍を取り直した。黒いコートが耳ではなく鎖骨を叩く。二拍。三拍。二拍。——移調。
「S05→S06で三拍→二拍。掲示板どおりだ」「観客が混乱しないよう手当している」
27 踏面の記憶
車庫脇のサービス歩廊。新旧板がまだら模様を作る。佐伯は踵で軽く踏む。トン。もう一つ、遅れて返る。「ここでも0.8秒のこだま」「板は秋に交換。音羽町と同じ時期。同じ発注か同じ監督」水城はビスの頭の向き——時計で言えば2時40分を並べる癖——を見て、口の端だけで笑った。「同じ手だ」
28 接触
職員詰所の角。静電除去マットの上で、スニーカーが止まる音。杉浦怜だった。「来るなと言ったはず」水城の声が低くなる。「先輩が入るの、どうしても見過ごせない。——鍵、僕が返す」彼はポケットから金属光沢の小さな鍵を出した。旧シリンダーに合う刻み。「コピーしたのは僕じゃない。渡されただけ。使ったのも僕じゃない。でも、持ってる限り、僕の罪になる」
水城は、彼の掌の震えを見た。「ここで渡すのは危ない。舞台に上がってしまう」杉浦は首を振る。「もう上がってる。背中役にされかけた時点で」彼は一歩踏み出し、鍵を柵の内側へ投げ入れた。金属音が短く鳴る。黒いコートと舞台監督が同時に振り向く。四拍の検査が破れた。
29 崩れる拍
舞台監督が鎖骨に触れ、四拍を取り直そうとした瞬間、構内放送の試験ベルが一点だけ鳴った。カン。ノイズ混じりの半拍遅れ。二拍にも三拍にも聞こえない歪み。黒いコートの足が一歩遅れる。台車の片輪が溝に落ち、版下の箱が跳ねる。保護板がずれ、角の17°が崩れる。
水城は息を吐いた。「合図の遮断。一回だけ。証拠が散らばる前に拾う」
佐伯は固定電話で真壁へ連絡を入れた。
「今。車庫。搬入現認。版下とリボンの実体あり。通用門は電子開閉・旧鍵閉鎖の二重。下抜けで通過」短い返答。「抑える。保存を最優先」
30 四方
黒いコートは逃げない。観客としての作法を崩さず、ゆっくりと台車を戻す。舞台監督は箱を抱え、詰所の陰へ後退。二人は散らない。(——散らないのは、舞台がまだ続くから)水城の背中に、ひやりとした予感が走る。「ここは幕間。本幕はS11とS15」「今捕まえれば止まる?」「止まらない。役は代わる。舞台の設計図が残っている限り」
彼女は地面にしゃがみ、落ちた保護板の角に微細なマスキングテープ片が残っているのを摘んだ。赤い細字のペン跡が一筋。「Sのストローク。書いた手は同じ」
31 鍵の回収
佐伯が柵越しに伸縮式のマグネットを差し込み、落ちた鍵を拾い上げる。「証拠番号05-Keys」水城が写真、採番、封印を手際よく終える。杉浦は小さく肩を落としながらも、視線だけは黒いコートを追っていた。憧れにも見える、怒りにも見える目。
「君はここまで。家へ」水城の声は動かない。「明日、君は観客でも背中役でもない。証言だけ準備する」
杉浦は唇を噛み、頷いた。
32 箱の重さ
舞台監督が抱えた箱は軽い。中身の版下は薄い樹脂板、リボンは帯、保護板はポリカの薄板。「軽い小道具は早替えに向く」水城が呟く。「S09の彫像は重い。だから置いた。S05の鏡は薄い。だから剥がした。次はS11、坂で人の重さを壊す」
黒いコートが一歩近づいた。「あなたは線の味方だという。——線は嘘を運ぶ」「線は運ぶだけ」水城は言い切る。「嘘は人が積む。あなた方は拍で嘘を積む」
男は微笑を作り、肩をすくめた。「美しい舞台を嫌うのですか」「嫌いではない。犯罪に使うのが嫌いなだけ」
33 打ち合わせの声
詰所の奥から二人分の低い声が漏れた。「S11は明朝。八時台。坂で三分を吸収」「S10の徐行が確定したから合わせやすい。S15の霧は午後。鐘は二時に試す」
(計画は続く)水城は、佐伯に短く目配せをする。「抑えるのは今夜じゃない。線を喋らせる。S11でアリバイ崩しを表に出させる」
34 “送る係”の輪郭
黒いコートは名乗らない。観客で通す。だが送る係の輪郭は揃った。
耳には触らない。鎖骨か手首で拍を取る。
スピーカーの音色を検査する。
板の鳴りを覚えている。
視線装置は貼らない。貼る係(舞台監督)と分業。
三拍から二拍への移調を現場で仕切る。
「あなたは舞台の**“運行”だ」水城の一言に、男の口角がわずかに動いた。肯定でも否定**でもない、舞台の笑い。
35 小さな乱れ
構内放送の試験回線に一瞬のノイズ。誰かが手元でフェーダを触った。——真壁だ。
「合図は十分。一度で足りる。保存を優先」了解、と佐伯は喉だけで答えた。
舞台監督が箱をいったん置く。四拍が戻る。本番の拍だ。水城は視線で佐伯に**“ここまで”**を告げた。
36 柚木へ返す線
退く経路は来た道ではない。水城は、構内の外周に沿って逆時計回りに歩いた。「舞台から退く時は影へ。影は譜面。譜面は道になる」
柚木の架道橋の白い親柱が、夜気の中で薄い骨のように立っている。あの銀の剥片と、赤の細字、透明セロハンの糊——装置の残滓が、今夜見た版下と角度で一つの声になる。
「第5章はここで閉じる」水城が言う。「見えない目撃者は装置であり、拍であり、線だ。目撃者を**“人”にしない。人を責めない**。——装置を剥がす」
佐伯は白ボードに最後の行を記した。
S05:視線装置の解体完了/版下・リボンの実体確認/鍵(旧)押収。次=S06現場保存→S11でアリバイ崩し露呈を待つ
37 章の終止符
夜が静かに深くなる。遠い海側から、鐘の幻聴がほんの一拍だけこちらへ伸びた。S15が、明日のページのどこかで響くことを予告する。
水城はコートの内ポケットから、狐ケ崎の券面を納めた透明スリーブを取り出し、呼気で一瞬だけ曇らせた。曇りはすぐに消え、券面の黒が夜に溶けていく。「行きましょう」「長沼(S06)」「車庫の盲点を開く」
二人は、線路の息づかいを背に、歩き出した。——**第6章「長沼〔S06〕— 車庫の盲点」**へ続く。
補記(第5章・後半のトリック接合メモ)
S06の“盲点”:電子錠と旧鍵の二重運用、電子開閉→旧鍵で閉鎖→フェンス下抜けで履歴と実体の乖離を作る。
役割ごとの拍:置く=三拍/送る=二拍/検査=四拍(無音カウント)/貼る=角度統一(17°)。移調(3→2)で沿線のテンポを合わせる。
版下と視線装置の同設計:角度・素材・粘着が一致。柚木の反射材ミラーと版下保護板は同一思想。
一回だけの合図遮断:ノイズ重畳の試験ベルで拍を崩し、**証拠(版下角・マスキング片・鍵)**を取りこぼさせず確保。
S11・S15への布石:坂での歩幅破綻により“背中”の分解を再開(アリバイ崩し)、S10の三分遅延とS15の霧鐘を時間トリックの支点に。
第6章 長沼〔S06〕— 車庫の盲点
1 車庫の息づかい
夜の長沼車庫は、街の心拍と別のリズムで生きていた。入換用の小さな機関車が、倉庫脇でアイドリングを続け、低い唸りを吐き出している。鉄路は複数に分岐し、列車が眠るベッドのように並んでいた。灯火は一定のリズムで点滅し、空気に四拍のメトロノームを刻む。
佐伯隼人はフェンス越しに眺めながら息を潜めた。「ここが……“盲点”か」水城真耶は頷く。「そう。履歴が残るのに、実体は閉じている。開いた扉/閉じた現場。それが“盲点”です」
2 二重の扉
通用門には二つの仕組みが並んでいた。ひとつは新しいカードリーダ。もうひとつは、古びたシリンダー錠。
「過渡期にありがちな二重運用です」水城は手帳に書き込みながら説明する。「カードで履歴を残し、旧鍵で現実を閉じる。——これで誰も出入りしていない記録が作れる」
「じゃあ、実際は……?」「フェンス下。さっき見た通り。板一枚分の外れを利用して、台車ごと抜けられる」
佐伯は眉をひそめた。「これじゃ、職員にすら気づかれない」「ええ。だから“盲点”。舞台監督が好む設定です」
3 構内の影
二人は真壁警部補の許可を得て、車庫構内へ入った。夜気は油と鉄と湿気が混ざり合い、重たい匂いを纏っていた。レールの継ぎ目は黒光りし、足元には白いチョークのような線が残されている。
「これ……?」佐伯が指差す。S07の方向を示す小さな矢印。「古庄へ繋ぐ合図。古地図と同じ筆跡」水城が答える。矢印は消しかけられていたが、残光のように見えていた。「車庫は、単なる保管庫じゃない。舞台の楽屋です。装置も小道具も、ここで一度“寝かされる”」
4 部材の散逸
倉庫の棚を捜索すると、廃棄予定の部材が乱雑に積まれていた。古い券売機のパネル、プリンタドラム、熱転写リボンの残巻。「……これ、管理票が外されてます」佐伯が呟く。「外された管理票=舞台の小道具です。正規の流れから切り離され、“どこにも属さない”状態になる」
棚の奥に、黒いケースが二つ。ひとつは空。もうひとつには、未使用の透明保護板と仮固定用セロハンが収められていた。「柚木(S05)で使われたのと同じだ……」「同じ設計者がここに手を伸ばしている」水城は静かに言った。
5 “盲点”の作法
構内の見取り図を前に、水城は指で三箇所を叩いた。
通用門(電子履歴/旧鍵閉鎖)
フェンス下(台車抜けの経路)
倉庫棚(管理票剥離の部材)
「盲点は、“記録・物理・証拠”の三つをズラすことで成り立ちます」「記録は開いてる、物理は閉じてる、証拠は剥がされてる……」「ええ。だから誰も“矛盾”を見ない。舞台の転換のように次の場面だけが残る」
佐伯はぞっとした。「証拠が意図的に“無”にされてる」「そう。“存在しなかった”ことにするための盲点。そしてそれを“演じる”のが、末端の高校生や配達員たちです」
6 監督の影
詰所のガラス越しに、黒いコートの影が揺れた。彼は例によって「観客」として振る舞い、舞台監督と短く言葉を交わしている。窓越しの口形で、佐伯は読み取った。——「S11」(次は御門台……“坂道のアリバイ崩し”)
舞台監督は無言で頷き、紙片をひとつ机に置いた。そこには赤い細字で「S11→S15」と書かれていた。「二駅飛び……?」「坂で背中を崩し、霧で鐘を重ねる。——長沼は“通過点”です」
7 証拠の確保
水城は机の端に残っていた熱転写リボンの端材を封印袋に収めた。同じ帯の銀光沢。「これでS05とS06の物証が繋がった」
次に、旧シリンダー錠の鍵穴周辺をブラックライトで照らす。細かな金属粉が舞い上がり、赤茶の粒子が光った。「コピーキーの使用痕です」「つまり、杉浦の証言が正しいと裏付けられた」「ええ。高校生は“鍵を持たされた”に過ぎない」
8 観客の車
構内脇に止められた黒い軽が、エンジンをかけずにじっと停まっている。観客役の車だ。窓の奥に二つの影。双眼鏡とタブレット。「……視線とログ、両方で検査してる」佐伯が低く言う。「観客は“記録”に専念している。だから“行為”の責任は持たない。舞台は常に無罪の観客を残す」
水城は軽く息を吐いた。「装置を剥がせば、観客は沈黙する。舞台を続けられなくなる」
9 動き出す夜
19時40分。掲示板の書き込みどおり、舞台監督が版下を再びケースに収め、黒いコートが台車を戻した。四拍の検査が一度繰り返され、構内灯の拍と揃う。「撤収……」佐伯が呟く。「ええ。次はS11。ここは“楽屋”として役割を終えた」
水城は橋桁の影から一歩出て、白い息を吐いた。「——この章はここまで。盲点は暴かれた。次の舞台は坂道です」
10 章の結び
佐伯はメモ帳に書き記した。
S06:車庫の盲点 二重扉(電子履歴/旧鍵閉鎖)による記録と実体の乖離 フェンス下の抜け経路 倉庫棚の管理票剥離(版下・リボン・保護板) 観客=黒い軽/記録係 黒コート=送る+検査 舞台監督=貼る+鳴らす+保管 証拠:リボン片、コピーキー痕、赤細字の紙片「S11→S15」
「……次は御門台」佐伯が呟く。水城は無言で頷き、線路の奥に目を向けた。坂道の街が待っている。——第7章「御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し」へ続く。
補記:この章のトリック・論点
盲点の三層構造
記録(電子履歴は開)/実体(旧鍵閉鎖で出入不可)/証拠(管理票剥離で部材匿名化)
楽屋=車庫
装置・部材・小道具を一度“眠らせ”、次の駅で舞台化する。
観客と無罪
黒い軽は“検査係”=記録者に徹し、直接行為に関与しないため罪を免れる。
高校生の立場
鍵は“持たされただけ”。使用痕からコピーの事実を証明。
S11・S15布石
赤細字の紙片「S11→S15」、坂道トリックと霧鐘トリックを一本化する設計書。
第7章 御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し
1 坂の街、午前八時
御門台は“上がって、曲がって、また上がる”街だ。駅から東へ抜けると、住宅と学校、古い石垣の面(おも)を縫うように**斜度6〜11%**の坂が継ぎ目なく続く。午前八時——通学の列と出勤の足取りがほどけ合い、路肩には自転車のブレーキ痕が薄く重なる。
水城真耶は、坂の中腹で立ち止まり、風を吸い込んだ。「ここでアリバイは“背中から”作られる」「時間じゃなくて、背中……?」佐伯隼人が訊く。「坂は歩幅を壊す。歩幅が壊れれば姿勢が変わる。姿勢が変われば誰かの背中に似る。“似た背中”が時刻を運ぶ」
駅前の防犯カメラは古いローリングシャッター式で、縦線の流れに対して斜めに走る被写体を0.2〜0.4秒歪ませる。さらにS10(草薙)の徐行運転による三分の遅れが午前の列車に“微かに”連なる日がある。——0.3秒と3分。ふたつの時間を、坂が同じ譜面に載せてしまう。
2 “彼は八時一分に駅を出た”という証言
交番の机の上に、手書きの供述書が二通。証言者A:駅前の喫茶店主。
「8:01、黒いコートの男が店先を駆け上がっていった。肩が少し前傾。背中でわかった」
証言者B:通学路の旗振り。
「8:04、同じ男が校門前を下りてきた。腕の振りでわかった」
「上りと下りで同じ人?」佐伯が眉を寄せる。「背中の記憶は方向に弱い」水城は淡々と答える。「上りの猫背は下りの胸張りに似る。坂は背中を転写する」
供述の時刻は、喫茶店の壁掛け時計と、旗振りのスマホのスクリーンショットで裏付けられていた。だが、水城は**“時計”ではなく“地面”**を見た。
3 坂の計測
水城は折り畳みの傾斜計とレーザー距離計を取り出し、駅前から喫茶店前、校門前までの落差と水平距離を記した。
駅→喫茶店前:斜度6.8%/実測距離 240m
喫茶店前→校門前:斜度10.7%(途中最大11.9%)/実測距離 380m
歩行速度は平地で1.4 m/s、坂の上りでは**−0.2〜−0.5 m/s**、下りでは**+0.1〜+0.2 m/sの補正が入る。この街の朝の靴は通学スニーカーとビジネス革靴。滑り係数は雨上がりで0.6→0.45へ落ち、歩幅は5〜12%**縮む。
「8:01に喫茶店前を通過して8:04に校門前を下るには、上りと下りの切り返しがどこかにある。切り返し点が坂のどの高さかで、『同一人物かどうか』が決まる」
佐伯は頷き、坂の縁石に白チョークで小さく印を付けた。「切り返しは喫茶店の角……じゃない」「もっと高い。息継ぎで足音が変わる。拍が三拍から二拍に崩れる場所」
4 足音の移調
御門台の坂に、音羽町(S03)で覚えた0.8秒のこだまはない。かわりにあるのは、呼吸のこだまだ。坂の中腹で心拍が拍を奪う。三拍歩いて一呼吸、二拍歩いて一呼吸——呼吸が拍を飲み込む。
水城はハプティック・メトロノームを72BPMに設定し、手首に装着した。「72で上りは苦しい。66に落とすと息が合う。下りは76で腕が勝つ。黒コートの癖は『拍を手首か鎖骨で取る』。坂なら手首に出る」
喫茶店主の認知は**“肩の前傾”、旗振りの認知は“腕の振り”——同じ人に見えるための認知トリガは拍**に依存していた。
5 ローリングシャッターの罠
駅前カメラのローリングシャッター映像をコマ送りにすると、黒い影が縦線に沿って微妙に傾く。背中の斜線が別人の肩幅に見える瞬間がある。「0.24秒の歪み。横断の瞬間に別人の肩線が重なる」「上りの猫背が、下りの胸張りに見える」「そう。そして喫茶店の時計は**+48秒進んでいる。旗振りのスマホは−12秒**遅れている」
佐伯はメモを取りながら短く息を漏らした。「8:01と8:04は見かけ。実時刻は8:00:12と8:03:36……坂なら可能域に入る」
6 “古地図”の曲がり角
路地の掲示板に、古い住宅地図が貼られていた。角が剥がれ、右下に小さく**×が鉛筆で打たれている。「S07(古庄)の古地図の書き手と同じ筆圧**」水城は指で触れた。「坂を半段ずらす“踊り場”がここにある」
踊り場には、腰高の緑色の配電箱があり、その天板高さが胸骨上とぴたり呼応する。「鎖骨メトロノームを箱に預けて拍を再起動できる。送る係が二拍を入れて、置く係が三拍で合図を受け取る」
「ここが切り返しだ」佐伯が地面に白チョークで丸を描いた。
7 “背中の貸与”
朝の人波の中に、よく似た背中が三つ現れた。黒コート、ダークネイビーのマウンテンパーカー、黒いスクールコート。背中の貸与。「背中は借り物にできる」水城は呟く。「上りは猫背の借り手、下りは腕の振りの借り手。彼は自分を**“生で通さない”**」
喫茶店主の視野の端、マウンテンパーカーが外を見張る位置に立つ。旗振りの位置からは、スクールコートの腕だけがはっきり見える。黒コートは踊り場で拍を整え、二人の背中に自分を割り振る。
8 実験:七十秒の錯視
水城は簡易実験を組んだ。
被験者1(上り):猫背を意識、拍66
被験者2(下り):腕振りを強調、拍76
目撃者A/B:喫茶店前と校門前の定点
カメラ:駅前(ローリングシャッター)、喫茶店(固定)、校門(新型グローバルシャッター)
結果:
目撃者Aは被験者1を**“黒コート”**と誤認(肩前傾トリガ)
目撃者Bは被験者2を**“黒コート”**と誤認(腕振りトリガ)
駅前映像は背線の傾きで肩幅拡大錯視、喫茶店映像は時計進みに引っ張られ、校門映像のみ正確
「七十秒の錯視なら作れる。三分はS10の徐行の**“噂”で埋め草にした」「実体の3分じゃない、“あるかもしれない三分”」「そう。噂の三分は背中の七十秒を“三分らしく”見せる**」
9 “掲示板の段取り”
掲示板に新しいスレが立った。
【S11】背中ふたつ。上り猫/下り腕。踊り場は箱の背。8:00 猫背8:03 腕鐘は午後、霧に混ぜる。
「作戦書を公開している」佐伯が顔をしかめる。「観客に台本を配る演出です。検査の目を**“巻き込み”、正しさの空気を先に作る**」
水城はスマホを閉じ、喫茶店主に向き直った。「ご主人、時計を電波式に**変えませんか」「変えると……?」「あなたの“8:01”が、世界の“8:00”に戻ります」
10 黒いコート、坂に現る
午前8時を五分過ぎた頃、黒いコートが坂の下から上がってきた。二拍の無音カウント。鎖骨にそっと触れる癖。配電箱の脇で立ち止まり、手首を72→66に落とす。上りの猫背を作る準備だ。
水城は、真正面から一歩出た。「上りは猫背、下りは腕。あなたは背中を借りている」男は目線を持ち上げ、微笑に0.3秒を使った。「観客です」「観客は踊り場で拍を入れ直したりしない」
男は配電箱の天板を一度軽く叩き、角度を測った。17°。柚木(S05)と同じ角度。視線装置はここにも移植されている。
11 “角度”の証拠
配電箱の天板の角、透明セロハンの糊が微かに残っている。水城は綿棒で採取し、封印袋に入れた。さらに、箱の縁に赤い細字で**“S12”の書きかけを見つけた。「狐ケ崎……次へ送るためのルート**」男の目が、ほんの少しだけ細くなった。否認の速さではない。
12 “背中の同期”を壊す
「壊します」水城は喫茶店主に頼み、外向きスピーカーの朝チャイムを**±3%だけ遅らせて流してもらった。72BPM→69.8BPM。観客にはほぼわからない差だが、手首メトロノームの同期は微妙に乱れる**。
黒いコートの肩が一拍遅れた。猫背の背線が一瞬崩れ、喫茶店のガラスに違う輪郭が映る。旗振りの位置から見える下りの腕振りともズレる。——同一人物に見えなくなる。
男は微笑をほどいて、わずかに首を傾げた。「音色を触ったのはあなたか」「線の味方として、背中の同期を外しました」
13 “八時一分”の崩落
喫茶店の壁時計が電波式に切り替わる。針が48秒戻り、店主が短く息を呑んだ。校門前の新型カメラのタイムコードと、駅前カメラのNTP同期ログを合わせると、8:00:12と8:03:36の差分は3分24秒ではなく3分24秒−48秒+12秒=2分48秒。坂の上り→切り返し→下りの最短可動域は2分45〜50秒。
「“不可能”は“可能域”に入った。だが、“同一人物に見える”条件は崩れた**」佐伯の声は静かだ。「あなたのアリバイは、“似た背中”で成立していた。同期を外した瞬間、似ていない」
黒いコートは、肩で笑った。「明日はS12。狐火ダイヤで灯りを直す」そして、二拍で踵を返した。踊り場で拍を拾い直す仕草は、舞台の標準動作だった。
14 “坂の台本”を剥がす
水城は坂の三点(駅前/配電箱/校門前)をワンカットの歩行記録で結び、背中の生体指標を抽出した。
猫背角(頸椎—胸椎—腰椎の屈曲角)
上肢加速度(手首IMU)
歩幅揺らぎ(±σ)
呼吸同期(胸郭膨張リズム)
黒コートの過去映像と照合すると、猫背角と上肢加速度の相関に**“踊り場再起動エッジ”が立つ。借り背中では立たない縦エッジ**——本人の癖。「背中は借りられる。でも癖は借りられない」水城は記録を封印し、喫茶店主と旗振りに丁寧に説明した。「あなた方の記憶は責めない。装置と台本を剥がします」
15 群衆の“ブレンド”
S08(県総合運動場)から、ジョギングの列が坂を上がってくる。群衆の列は均一な呼吸で拍を支配する。黒いコートは群衆に混ざる——はずだった。だが喫茶店スピーカーのBPM微変更と駅前のNTP補正で拍が二重化している。群衆は72、坂は69.8。二つの拍が干渉し、似た背中の連続が切れる。
「彼のブレンドは失敗した」佐伯は短く言い、水城が頷く。「次は灯り(S12)。狐火で背中を再び似せるはず」
16 古庄の“証言”
坂を下った角……古い地図の掲示板の前に、新しいメモがテープ留めされていた。
S07→S11古地図の曲がりを坂に写す。影の四拍は灯り三つで消す。
「S07は古地図の章だ。S11に写すことで、坂の曲がりを**“地図の正しさ”に寄せる**」水城は小さく笑った。「地図は正しい。でも**“使い方”は嘘**になる」
17 “背中役”の保護
杉浦怜が坂の下で不安そうに立っていた。「スクールコートの子が、明日夜のアルバイトを入れられたって」「狐火の照明要員にされる」「僕、止めたい」水城は短く頷き、佐伯に目で合図した。「保護に回ります。彼を舞台から降ろす」
18 “坂の音止め”
駅務室に戻り、放送卓の試験回線で短い“音止め”を入れた。BPMは駅前=正確(NTP)/喫茶店=−3%/校門前=正確。局所的に合図の**“踏み台”を消す**。黒い軽が戸惑い、配電箱の前で一瞬停止する映像が残った。——検査が滑った証跡。
19 対面
日が傾き始め、御門台の坂の影が長く伸びた。黒いコートが二拍で現れ、鎖骨に指を置く。水城は真正面に立ち、静かに言った。「あなたのアリバイは、背中と拍で作られている。坂で息が拍を飲む。そこに合図を置いた。でも、背中の癖は借りられない。踊り場での再起動エッジがあなたを指名している」
男は、笑わなかった。「S12で灯りを足す。狐火は背中を均一にする」「灯りは等しいが、影は等しくない。影は**“個人”に付く**」
二人の間に、見えない斜度が一本通った。線は中立だ。嘘は人が積む。坂の上、風が一度だけ向きを変えた。
20 章の小結
佐伯は白ボードに書いた。
S11:坂道アリバイ崩し(確定) 背中の貸与(上り=猫背/下り=腕振り) 踊り場=配電箱(角度17°/セロハン糊/赤細字“S12”) ローリングシャッター歪み0.24s+時計ドリフト±48s/−12s ハプティック同期(72→66/76)を喫茶店BGM微変調で破壊 群衆(S08)との拍干渉でブレンド失敗 “再起動エッジ”=本人特有の背中癖で特定
「次は狐ケ崎(S12)」水城は、狐火ダイヤという言葉を一度だけ口にした。「灯りで背中を均す台本。海霧の鐘と組み、時刻感覚を撹拌する。そこで終わるか、終わらせるか」
坂の下から、通学の子どもたちの笑い声が近づいてくる。日常は、いつも舞台の外にいる。舞台を外せば、日常に戻る。二人は、坂をひと息で下りた。
——第8章「狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ」へ続く。
付記(第7章 技術ノート)
人間工学:上りは屈曲角↑・歩幅↓、下りは上肢加速度↑・踵接地時間↓。
視覚心理:背中認識は輪郭特徴(肩線・肩甲骨・腰帯)に依存、ローリングシャッターで肩線錯視。
時間補正:NTP同期/電波時計誤差修正、ローカルデバイスのドリフトを“背中の可能域”に乗せ換え。
信号処理:IMUから姿勢推定(Madgwick/Complementary Filter相当の概念)で“再起動エッジ”抽出。
オペレーション:BPM±3%の環境音変調でハプティック同期破壊、ローカル“音止め”で合図潰し。





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