静かなる線路の証言4
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 18分

第11章 御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し
坂は、嘘を重ねるのにちょうどいい。傾きは目に見え、息に触れ、足取りを奪うのに、誰もその“傾き”を疑わない。御門台の駅を出て右へ折れると、古い石垣と新しい擁壁が互いの年代を拮抗させる通学路が続く。早朝の白さをまだ残した空の下で、坂は住民より先に目を覚まし、人々の背中をそれぞれの事情に合わせて作り替え始めていた。
水城真耶は、坂の中腹で立ち止まり、こめかみの内側で拍を数えた。七十二。人通りの多い平地の速歩に馴染んだ拍から、坂は容赦なく二拍抜いていく。息が追いつくように、手首の下で拍が六十六へ沈む。「ここで“背中”は他人と入れ替わる。——上りでは猫背、下りでは腕の振り」隣の佐伯隼人は、制服の肩に落ちる薄い埃を指で払ってから、道路端の白線を見やった。「証言が“背中”を選ぶのは、顔を見せない瞬間が長いから、ということですか」「ええ。顔は写真、背中は運動。写真は思い出になるけれど、運動は言葉になる。“似ていた”という言葉で」
坂を見下ろす。朝の列の最後尾は、制服の黒と紺と灰が撹拌されてできる、都市の色に近かった。列の外縁で、黒いコートの背中が一つ、他よりわずかに遅れて動いている。遅いのに、せかせかしていない背中。拍が内向きに溜まり、外へ漏れない人間の歩き方だ。肩は落ち着き、鎖骨に“節”のような硬さが潜む。「彼です」水城は声に出さず、顎の角度だけで指し示す。黒いコートは、坂を五歩上るごとに胸郭を小さく押し上げ、配電箱——鎖骨の高さの薄緑の箱——の縁を、通り過ぎる瞬間に視線だけで撫でた。癖は、いつでもささやかな儀式のかたちをしている。
喫茶店は坂の下の角にある。ガラス越しに見える壁掛け時計の短針は八の上を少し回り、長針は一を離れかけている。店主は表に出した黒板のメニューを布で拭き、ついでにガラスの曇りを手の甲でこすった。「毎朝、同じ時間に“上っていくんだ”って言えるのは、店主のあなたくらいでしょう」水城が挨拶代わりに言うと、店主は笑って肩をすくめた。「黒いのが多くてねえ。上っていくのは黒ばかり、下ってくるのは色とりどり。顔は見なくても、背中で覚えますよ」その背中の“覚え”に、坂は小さく相槌を打つ。傾きは、人の記憶に方向を与える。上りは苦、下りは快。苦は似、快は散る。だから、上りの背中は似やすい——水城はそう考えている。
旗振りの女性は坂の上手、校門の前に立って、黄色い旗を折り畳んだ。津々と降ろした声で挨拶を返しながら、彼女は「時間」を顔ではなく足元の影で読んでいるようだった。影が白線に届くたび、子どもが増える。影が白線を越えるたび、保護者が増える。大人の影は、子どもの影より速い。「八時四分に、黒いコートが“下って”きました」昨日の供述を復唱すると、彼女は自信を持って頷いた。「腕の振りが大きい人でしたから」「上りで見た人と同じ?」「同じ“背中”に見えました」同じ背中——その言葉は坂の傾きに乗って、どこまでも滑っていく。
水城は坂を一度、上から下まで歩き抜けた。呼吸の拍は、坂の稜線に従ってわずかに動く。喫茶店の角を過ぎると、路面のアスファルトに灰の細い筋が現れる。校門の近くでそれは消え、代わりに砂粒が増える。足裏は、目より正確だ。正確さに、装置の臭気が混ざっているかどうかも、足裏は覚える。配電箱の天板の隅に、薄い糊の帯があった。驚くほど細く、ほんの一条。爪でなぞれば、糊に光が細く走る。「十七度、ですね」佐伯が言った。「ええ。あの人たちの角度。柚木の鏡も、狐ケ崎の幕も、視線の“斜め”は十七度で固定されていた」
坂の途中、自治会の掲示板の古い地図が太陽の気紛れな角度で光る。右下の角が少し剥がれ、裏紙の繊維が乾いた舌のように覗いていた。そこに書き足された鉛筆の×印が一つ。地図の等高線を無視して、道は一直線に描き替えられている。「古庄の“古地図”を、ここに写したんです。——地図で傾きを平地にする」地図は平らな嘘を教える。坂は立体の嘘で応える。二つの嘘が重なると、人は安心する。安心が、目撃を固める。
黒いコートは、喫茶店の角で一度だけ立ち止まり、配電箱の天板に手を置いた。押しつけるのではなく、そっと触れるだけ。拍の再起動。手首に吸い込まれた拍は、坂の上部に見合うテンポに組み直される。「彼は“背中役者”です」水城は、声に出した瞬間、その言葉の軽さを自分で嫌悪した。人を役者と呼ぶことは簡単だ。けれど、その舞台に観客がいる限り、役者は観客の欲望で作られる。観客の黒い軽は、坂の一段低い路肩でエンジンを切り、タブレットに固い光の目を宿していた。
「実験をしましょう」水城は、喫茶店主と旗振りの女性にお願いし、いつもの位置に立ってもらった。佐伯は黒いウィンドブレーカーを羽織り、坂を下から上へ歩き出す。猫背を作るつもりで角度を調整すると、石垣の縦目と背の丸みが一瞬重なり、喫茶店主の口から「あ、似てる」が漏れた。上まで歩き切ったあと、今度は上から下へ。腕をやや大袈裟に振る。旗振りの女性は迷いなく頷いた。「さっきの人」同じ人物の背中が、二人の証言で“同じ人”を作る。証言が一致した瞬間、真実はわずかに後退する。
配電箱の上で、糊の筋は指先の熱を嫌い、わずかに曇った。水城は綿棒で取る。匂いはほとんどしない。匂いがないのは、装置の理想だ。匂いがあると、人は疑う。匂いがないと、人は盲信する。「昨日、ここに“S12”と赤で書いてありました。今朝、消えています」佐伯がスマートフォンに残しておいた写真を見せる。消えたはずの赤は、画面の中で小さな棘のように残っていた。狐火の章へ渡す札。札はいつも、現場の隅で赤く息を潜める。
「時間も触りましょう」水城は喫茶店主に頼み、店内のBGMのテンポを三パーセントだけ落としてもらった。七十二が六十九点八に沈む。喫茶店の軒先からはわずかしか聞こえない程度の変化だが、配電箱に手を置いて拍を取り直す癖のある人間には、十分な“違和”になる。黒いコートは坂の下から上へ、いつもの調子で上がってきて、配電箱に手を置いた瞬間、肩の線をほんの少しだけ崩した。崩れは体の奥から起き、顔には出ない。だが、背中の弧の中心がほんの半拍ずれて、石垣の目と嚙み合わなかった。「あれは——」喫茶店主の言葉はそこで途切れた。「“さっきの人”に見えなくなった。——そうですね」水城が代わりに言うと、店主は自分が裏切ったものの名を探すように視線を泳がせ、黙って頷いた。
坂の上では旗振りの女性が、同じ違和を別の言葉で受け取っていた。「今日の下りは、肩が軽い。昨日より少し若い背中」背中の年齢は、腕の振りの大きさで変わる。坂の角度が同じでも、拍が違うと年齢がずれる。ずれは証言の中でひっそり累積し、やがて“同一”を侵す。
「彼は“同じ”を演出する。私たちは“違う”を可視化する。どちらも舞台です」水城の言葉に、佐伯は眉根を寄せた。「舞台が嫌いですか?」「舞台は、正しい場所にだけ必要です。——法廷の中とか、教育の現場とか。街角に置かれた舞台は、人の“正しさ”を奪うことがある」「奪われた正しさはどこへ行く」「噂へ。噂は正しさを集めて、別の“正しさ”を作り直す」
昼が近づくにつれて、坂の影は短くなり、道路の白線が乾いた骨のように硬く光り始めた。喫茶店の時計は、電波受信のアイコンが点いたまま動かない。店主は困った顔で笑い、いったん電源を抜いて挿し直した。針が、四十八秒ぶん後ろへ跳ぶ。「“八時一分”が、“八時”に戻る」水城は、時計が時刻と和解するのを見届けた。旗振りの女性のスマートフォンも、佐伯の端末と小さく同期し合い、十二秒ぶんの遅れを取り戻す。時刻が整うと、坂は少しだけ静かになる。嘘は、時間の不整合を餌にして膨らむ。
午後、雲が薄くなり、風が硬くなる。制服の背中が少し軽く見える時間帯だ。黒いコートは、午前の儀式を夕の儀式へ置き換えるように、配電箱には触れず、鎖骨にも触れず、路肩の擁壁だけを一度見た。——観客の作法。何もしないことで、何かしたように見せる作法。水城は、それでも彼の歩幅の端で、わずかな“再起動のエッジ”が立つのを見逃さなかった。胸郭の上下と手首の加速度の位相が、ひと瞬ずれる。借り背中では出ない、本人の“癖”。
「お話を」水城は、坂と平地の境目で声をかけた。黒いコートは微笑の支度をし、その支度のあいだにほんの短い間を置いた。「観客です」「観客は、配電箱に“角度”を残さない」「人は寄りかかる。たまたまです」「“たまたま”は十七度で並ばない。——あなたが送って、別の人が貼る。あなたが検査して、別の人が鳴らす。そういう段取り」男は頷きも否定もしない。代わりに、坂の上の旗と下のガラスを同じ速さで見、視線の動線だけで“舞台監督”へ挨拶した。
すり鉢状の空がゆっくり色を変えていく。坂の中腹に、薄い笑い声。制服のリボンの色が夕方の色とぶつかって、輪郭を強める。喫茶店はラストオーダーの仕込みに入り、看板にチョークでショートケーキの皿を描き足している。水城は、掲示板の古い地図の×印に、透明テープを一枚貼った。鉛筆の線はそこだけからだを失い、地図上の“平地”は再び坂へ戻る。「地図は平らな嘘、坂は立体の嘘。二つの嘘を一つに戻す」佐伯は白線の手前で立ち止まり、息を小さく吐いた。「証言の平らさはどうしますか」「“似ていた”を、“似ていなかったかもしれない”に戻すだけ。人に謝ってもらう必要はない。装置に謝ってもらう」
宵の口、観客の黒い軽がいったん姿を消した。タブレットに映った波形が、狐ケ崎の章で見た光の拍へと切り替わるころだ。「彼らは“灯り”へ移る。——坂で崩れた“同一”を、灯りで塗り直す」水城は、坂の端から街の灯が立ち上がるのを見た。御門台の灯りは正直だ。狐の灯りほど巧妙ではない。だが、灯りはいつでも観客の側にある。人は灯りを信じ、闇を疑う。「背中の稽古は、今日で終わり」水城は、配電箱の天板に残った糊の曇りを指でこすり、斜めの線を消した。「明日は灯りの稽古。明後日は桜の稽古。終幕は霧の鐘」
喫茶店主がシャッターを半分下ろし、旗振りの女性が黄色い旗を折りたたむ。二人に礼を言い、今日の再現の流れを丁寧に説明する。犯人という言葉は使わない。舞台という言葉も、短くする。彼らの記憶を責めないことが、いちばんの証拠保全だ。「私は間違えたんでしょうか」店主が小声で言った。「いいえ。装置に“見せられた”。だから、あなたは確信した。——その確信を、明日から装置に与えないようにするだけです」旗振りの女性は、少し考えてから笑った。「坂は、明日も坂ですからね」「ええ。坂は正直な嘘をつき続ける。私たちは、その正直さの輪郭を、少しだけ濃くする」
夜の始まりは、御門台ではいつも唐突だ。昼の名残が一枚で剝がれ、音の輪郭がやわらかくなる。坂を下りきったところで、黒いコートがふいに振り返った。遠くで、配電箱の角が夜気を受けて白く鈍った。「狐が待っています」男はそう言い、鎖骨に触れずに背を向けた。「狐は均すだけ。——あなたの癖は、均せない」届かない距離で水城が返すと、男は肩でひとつ笑ったように見え、そのまま灯の帯に紛れた。
駅へ戻る道の途中で、佐伯は歩を緩めた。「背中の貸し借りは、いつでも起きるんですね」「ええ。誰かに似ることは、誰もができる。誰にも似ないことだけが、難しい」「彼は、誰にも似ない“癖”を持っている」「持っているのに、それを舞台の上で見せない。だから、坂を使うし、灯りを使う。——でも、癖は必ずこぼれる。こぼれた癖だけが、真実の端になる」
駅のホームで、遠くの線路が細く震えた。御門台の夜は短い。狐ケ崎の灯りと桜橋の夜桜が、すぐ手前まで迫っている。「明日は狐。均された背中をもう一度、凸凹に戻す。灯りの均し目を一つだけ切る」水城は、手すり越しの闇に視線を落とした。闇は、明日のために今夜も練習している。均されることに慣れると、人は均されていることに気づかなくなる。「——その前に、ここに線を引いておく」駅務室の白いボードに、水城は細い縦線を一本書いた。御門台。背中。再起動。癖。言葉は、証拠の箱に入れるととたんに浅くなる。だから、線だけを残す。
夜風に乗って、遠いほうの踏切の鐘が丸く鳴った。森の三分は、もう森に返した。狐の灯りは、狐に返す。桜の幕は、桜に返す。終点へ行く。鐘の真下まで。始発の嘘を、終点の鐘で割るために。
第12章 狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ
灯りは、嘘のために作られていない。けれど、人がそれを継ぎ足し、角度を与え、時間と混ぜるとき、灯りは人の眼を“均す”ための道具になる。狐ケ崎の駅前はその夜、三つの拍で呼吸していた。駅の天井で点滅を刻むLEDの細かな波、非常電源系統の鈍い脈、商店街の古いインバータから漏れる低い明滅——二百、百、八十五。違う拍は、重なれば柄になる。柄は、背中の凸凹を消してしまう。
ホームの端に立つと、白い蛍光の反射がレールの上で細い骨のように折れ、風にあわせて体温を失う瞬間がある。水城真耶は、その“折れ”のタイミングをまぶたの裏で数え、まぶたに残った点の残像が消える前に目を開けた。「ここでは、灯りが“似た背中”を量産します」佐伯隼人はアーケードの入り口を見た。軒の下、ショーケースの縁に極小のバーライトが仕込まれている。配線は細く、ガラスのふちに磁石で留めてある。悪意の匂いは薄い。むしろ“便利さ”の顔をしている。「買い物客の足元を明るくするため、って言われたら、信じちゃいますよね」「信じさせるための明るさです。——均す明るさ」
鳥居の根元に、白い紙袋が置き去りにされていた。中身は安価なPWMドライバとLEDバー、薄い拡散板、電池ケース。裏側に赤い細字で、S15。「霧の鐘まで、この灯りでつないでいくつもり」水城は袋ごと封印し、鳥居の柱に爪先で小さな白線を引いた。線は目印ではない。心の呼吸を止めるための、一瞬の“息継ぎ”だ。
二十時を少し回ると、商店街の下で背中が揃いはじめた。黒いコート、紺のマウンテンパーカー、スクールコート、作業着。ガラスに映る輪郭は微細な縦の波で均され、肩の高さも腕の振りも、生地の重さも、みな同じ調子に聞こえる。「目は、ちらつきには追従しない。脳が補完する」水城はショーケースの端に手を置き、指先に伝わるわずかな振動で、八十五の拍を数えた。「補完は、正義の仮面をかぶりやすい。安全のため、買い物のため、通行のため。——均された背中は、善意の顔をして歩く」
観客の黒い軽は、アーケードの影に溶けていた。窓の内側でタブレットの波形が三本立つ。二百、百、八十五。画面に“合格”の緑が瞬き、検査の四拍が無音で流れる。「検査が始まりました」佐伯の声は低い。「たいていの舞台は、検査の後ろから壊れる。検査だけは“正しさ”でできていると、人は信じ切っているから」
黒いコートは、二拍の無音をその肩で作った。鎖骨には触れない。均された場では、癖は“余計なもの”として弾かれる。彼は、余計なものを持っていない顔つきで現れ、余計なものを持っていない歩き方で鳥居をくぐった。「いま、切ります」水城は駅務室の端末に視線だけで合図した。非常電源の切替を五秒だけ——運行には影響しない短さ。切り替えの瞬間、百の帯が沈む。三層の柄から一本の糸が抜け、編み目が一目だけ崩れる。均しが切れると、背中は“個人”に戻る。黒いコートの肩に、鎖骨の拍が一つだけ浮いた。観客のタブレットの波形が一瞬遅れ、ログに白い空白が刺さる。
「足りた」水城は柱の陰から一歩出て、アーケードの奥を見渡した。ガラスに貼られていた透明フィルムの角が湿気でふやけ、爪先ほどの隙間をつくっている。スクレーパーの角を差し入れ、糊を綿棒に移す。糊は無臭に近い。「貼る人は、匂いを避ける。匂いは疑いの入口だから」
二十一時二十分。自動点灯の“補修狐火”が走る。五分限定。抜かれた一本を埋める意地の灯りだ。が、位相は元どおりには戻らない。駅の天井の二百と商店街の八十五は、それぞれ別の夜を見ている。補修の灯りは、橋渡しになるどころか、二つの夜の間に薄い段差を生んだ。黒いコートの肩に、その段差が引っかかる。鎖骨の拍が、もう一度だけ白く縁取られた。「“似なさ”は、一度見えれば十分です」水城は鳥居の脇にそっと立ち、紙袋の代わりに置かれていた黒いポーチを持ち上げた。タイマー仕掛けのPWMが仕込まれている。封印袋に収めるとき、ポーチの内側に別の赤い細字がのぞいた。S13。「次は桜。——短絡で、均した夜を切り裂く気」
商店街の奥で、狐面が一枚、逆さに吊られていた。目の穴に小さなLEDが埋め込まれ、八十五の拍で瞬く。雑貨店の値札シールが裏に残り、神事の顔は次第に剥がれていく。「象徴は、舞台の糊です。——糊が乾けば、舞台は剥がれる」水城は狐面を外さない。外すと、別の象徴が貼られる。象徴を壊すのではなく、象徴の“効き目”を殺す。
観客の黒い軽が、ゆっくり後退した。タブレットの画面に“検査継続”の表示が残る。だが、波形には一秒の空白。空白は、不整合の証拠になる。「舞台としては、今夜は良くない夜ですね」佐伯の言い方に、皮肉はなかった。「良くない夜は、街にとっては良い夜です。——均されない夜は、人の背中が自分のものに戻る」
駅務室に引き上げる前、鳥居の根元にチョークで小さな文字が現れた。灯りありがとう/舞台は続く「礼状の体裁で、巻き込みを続ける」水城は、その下に短く書き足した。灯りは中立/嘘は積まない文字は湿気を吸い、わずかに滲んだ。「均しはここまで。——桜で“消す”と“増やす”を同時にやるつもり。夜桜は、目をふさぎ、耳を増やす」
冷たい風がホームの白い縁をなで、遠くの川の方角から湿った匂いがほのかに押し寄せた。霧の呼吸はまだ浅い。だが、鐘の金属は、湿気の将来を予見して微かに鳴る準備をしている。狐の灯は、狐に返す。桜の幕は、桜に返す。そのあとで、鐘の下へ行く。
第13章 桜橋〔S13〕— 夜桜に紛れた短絡経路
橋は、昼より夜のほうが長い。桜橋の欄干は、花がない季節でも“夜桜”の名を失わない。川面からの弱い風が、枝の細い影を揺らし、葉のない空間に花の残像を咲かせる。光と影が重なると、目は“そこにないはずのもの”を見てしまう。装置がなくても起きる錯視に、装置が加われば、夜はかんたんに舞台になる。
水城真耶は、橋の中央で川の呼吸を測った。欄干の鉄は昼の熱を手放し、冷たい骨になっている。橋桁の裏に音を投げると、短い金属音が川面で丸くなり、八分の五ほど遅れて戻ってくる。「こだま、〇・八。——二重です」佐伯隼人は、目ではなく胸でその遅れを受け止めた。「三人に聞こえる」「ええ。足音一つに、川と対岸が二つ足して、三人になる。夜桜は目をふさぐ。耳は数を増やす」
夜の人出が、橋の上に溜まる。散歩の犬、スマートフォンを掲げた若い人たち、川を見下ろす老夫婦。誰もが“夜桜”を見に来たのに、いまは誰も花を見ていない。光の粒が作る幕を見ている。幕は、下を隠す。欄干の下に点検用の細い通路——短絡の桁が横たわっていることを、誰も気に留めない。「この幕の厚みなら、上の背中は下の動きを消せます」水城は欄干の外を覗きこみ、鉄の桁の幅を目で測った。足二歩、手一つ。——身体の感覚で作った単位じゃないと、夜は足を滑らせる。
投光器が一本、地面に置かれていた。角度は僅かに傾いて、十七度。夜桜の影はこの傾きで“絵”の濃さになる。水城は地面の砂を指でひとつまみ、投光器の底板と地面の間に挟まっていた薄いプラ片を抜いた。角度の“かませ”。「角度が絵を描く。十七度は、あの人たちの癖」佐伯は欄干の内側に貼られた透明フィルムの端が、湿気でわずかに浮いているのを見つけた。「幕の縁、剥がれてます」「剥がしてしまうと、別のを貼られる。——効き目だけ、殺します」
観客の黒い軽は、川沿いでエンジンを切り、夜桜の影の外に止まっていた。タブレットに映る波形は、足音ではなく照度の変動を拾い、横に細い帯をつくる。帯は均一であるほど“美しい”。四拍の検査は、均一の上でだけ“正義”になる。黒いコートが、欄干の影から現れた。二拍の無音。鳥のような軽さで、背中を群衆に寄せる。夜桜の幕が肩の輪郭を削り、彼は“誰か”になる。「消す」水城は囁き、欄干の内側に小さなセンサーを取りつけた。照度を三パーセントだけ、波の谷で削る。たったそれだけで、幕は一瞬、絹の織り目を見せる。
黒いコートは橋の中央で二拍を取り、欄干に手を置くふりをして手を落とした。上では“止まった背中”。下では、影が動く。点検桁を渡る足の形。上にいる者は、その落差に気づかない。夜桜は上だけを見せる幕だから。下を知っている者だけが、上の“消失”を信じられる。「消えた」誰かの息が声になり、声が証言に変わる。消失は、短絡のために用意された最短の言葉だ。
こだまが戻る。〇・八。さらに〇・八。足音ひとつに、二つの輪が重なり、三人の行列が橋を渡る。数は夜に強い。「二人いた」「三人いた」証言は増殖する。水城は、欄干に取り付けたセンサーの数値を見ない。数ではなく、顔を見る。——“似た背中”の列に、似ない肩が一つだけある。「露出しました」佐伯が息を吐いた。「夜の均一に入らない肩。——あの人の癖」
観客の黒い軽のタブレットに、小さな空白ができる。照度の帯が一秒ぶん、切れた。検査は無音の四拍を外へ落とし、タブレットは“正しさ”を一瞬失う。水城は欄干から身を起こし、橋の外へ降りる細い階段の影に身を滑らせた。鉄の臭いが濃い。「短絡の出口は、ここ」階段の最下段で、透明のテープの剥離跡が草の葉に光っている。テープは足を止め、足を送るために貼られる。貼られたものが剥がされ、剥がされた跡だけが残るとき、人は跡を“道”だと信じる。
点検桁の上で、人影が一度よろめき、体を起こし直した。黒いコートの裾ではない。別の黒、予備の“背中”。「役は分けている。——送る背中、消える背中、増やす背中」水城は、上の欄干で黒いコートが“まだ”立っているのを見た。そのあいだに、下の人影は反対側の岸へ渡り、暗がりに吸い込まれる。同時存在。背中の二重化。人は、同じ人を二人にするのが好きだ。むろん、理由は後から作られる。
橋の中央に戻ると、夜桜の投光器の足もとに小さなプレートが落ちていた。S15——赤い細字。「ここから、鐘へ」水城は、それ以上拾い上げず、プレートの位置だけを記憶に置いた。装置の“終点”は、いつだって先に書かれている。台本は、舞台より先に進む。
「音を、ひとつだけ混ぜます」水城は欄干の内側のセンサーに触れ、三パーセントの照度乱調に、〇・一秒の遅延を重ねた。目には見えない。耳にもほとんど届かない。けれど、二重のこだまの“間”に小石を投げ込むには十分だ。三人に聞こえた足音が、一瞬だけ“二人半”になる。半分の影は、証言にならない。夜桜の上で、黒いコートの肩がほんのわずか、夜を外した。彼は“観客の微笑”を作る前に、いったん表情を平らにした。——癖だ。「夜は、舞台の味方。……でも、今夜の夜は少し粗い」そう言って、欄干から手を外し、橋の端まで歩いた。「粗い夜は、街の味方です」水城の返事は、彼の背中に向かわず、川の黒に沈んだ。
観客の黒い軽は、すこしだけ車体を動かした。照度の帯に残った“一秒の空白”が、彼らの中でどんな意味になるのかは、もう舞台の外の話だ。橋のたもとに、白い小さな印が二つ残っていた。片方は水城がつけた。もう片方は、誰かがつけた。印は、意味にしないほうがいい。印は、意味を呼ぶから。
人出が少しずつ引き、夜桜の幕は“花のない枝”に戻る準備を始めていた。川面の光は弱く、風に折れ曲がってはすぐに直る。「消す」も「増やす」も、今夜はここまで。短絡の桁の冷たさは、まだ指先に残っている。「港へ寄って、顔を剥がす」水城は、言葉にする前から次の章の匂いを吸っている。「港町の仮面。——S14」佐伯は短くうなずいた。「そして、霧の鐘」「S15。終点。始発の嘘は、あそこで割る」
橋を離れるとき、遠い海のほうから、まだ姿を見せない霧の息が一度だけ陸へ押し寄せ、街灯の傘にぶつかって消えた。夜は、舞台の味方だ。でも、舞台が剥がれた夜は、人の味方になる。その夜に、街を戻すために、二人は歩いた。装置の糊が乾ききる前に。鐘が、遅れて聞こえる前に。





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