風の広報 — ふみかの約束
- 山崎行政書士事務所
- 9月18日
- 読了時間: 8分

新静岡駅のコンコースに、朝の風が低く滑りこんでくる。電光掲示の時刻と人の歩幅が合わさるあの一瞬、空気の粒子がそっと整列して見えるのは、気のせいだろうか。改札脇のポスターが光をつかまえて青く澄む。「企業法務・クラウドのお悩みはお任せください!」。胸に手を添えた女の子は、ポスターの中でいつも変わらない微笑をたたえている。そこに印刷されているのが自分の顔だと、ふみかは今でも少しだけ照れる。だから朝は必ずここに寄る。約束が嘘になっていないか、歩き方で確かめるために。
スマホが震え、未読の件名が三つ並んだ。「雲海精機:SNS拡散」「NUMA FISH:EU向け説明文案」「広告掲出の差戻し」。胸の奥で、広報のスイッチが音もなく入る。ふみかは改札を抜けて、駅前の風の匂いを深く吸い込んだ。走らない。まず歩く。それから書く。いつも順番はそれだ。
事務所のガラス扉を押すと、白猫が背伸びをして出迎えた。USB Type-C のしっぽを持つやまにゃんは、ふみかの鞄の上に前足をそっと置く。おはよう、にゃ。ふみかは笑って、「今日は“声の温度”が難しそう」と返した。受付の奥からさくらが顔を出し、陽翔が紙コップの緑茶を渡してくる。会議室のドアはすでに半開きで、りながホワイトボードに細い線を引き、律斗がアーキ図の凡例を整えていた。
最初の案件は雲海精機だった。昨夜、フリー掲示板に「雲海で情報が消えた」という匿名の一文が投げ込まれ、それがいつものように尾ひれをつけて拡散した。技術チームは到達件数の短い谷を確認しており、復旧は済んでいる。だが、眠れなかった人がいる。ふみかの中の基準が、そこで小さく震える。「断言より連絡先」。この三語を、彼女は凡例の最初に置く。断言は気持ちいいが短い。連絡先は地味だが眠りを呼ぶ。夜中に読む文章は、心拍の速さで書くのがいい。
キーボードの音は、少しだけ遅く刻む。今日はそういう日だ。ふみかは短い文を三つだけ組んだ。復旧の事実。監視が二重化されていること。困ったらここに連絡を、という一文。言い訳は入れない。比喩も封印する。夜は比喩にとって過酷だ。送信したあと、ふみかは窓の外を見た。交差点の信号が青に変わり、人々が歩き出す速度のばらつきが一瞬だけ消える。文の速さも信号のように、場の速さに合わせて色を変える。ほんの少しの間だけ。
二つ目は NUMA FISH。欧州の港町では、魚群AIのデモが始まる。NIS2 の枠や EU Data Boundary の説明を、お客さま向けの一枚に収めてほしいという依頼だ。法律の言葉は、翻訳しても法律の匂いが残る。匂いは嫌いじゃない。だが、真っ先に鼻に届くのが海の風であってほしい、とふみかは思う。りなとあやのが法務の骨格を整え、凡例に条文番号を振ってくれた。ふみかはそれを読み、半歩引いたところから、人が読める順序へ並べ替える。難しい言葉の間に置く“呼吸”の位置を探す。英語版では、shall と will の接続を恐れず短く切る。図に番号を埋めこんで、どこに目を滑らせても迷子にならないようにする。詩や修辞の出番ではないが、詩よりもやさしい歩幅は必要だ。
三つ目は広告の差戻し。駅貼りのポスターが「既存キャラクターを想起させる」として再検討になった。電話の相手は代理店だが、その背後には線路と規約がある。ふみかは深呼吸を一度、端末のマイクに向けて息を吹きかけるふりをした。怒らないことは簡単だった。怒りは体温、熱は言葉をゆらす。彼女がやるべきは、問いで守ることだ。どこが、どの条項に、どう触れる可能性があるのか。想起の閾値はなにか。比較対象の例示はあるか。修正の幅はどこまで許容されるか。問いを投げると、相手の言葉が整ってくる。整った言葉は立て直しの目印になる。やまにゃんが机の上で丸くなって、しっぽで軽く机を叩いた。トン、と一回。了解、の音だ。
午前の仕事が終わるころ、春風堂のひかりが差し入れのフィナンシェを持ってきた。「昨日の“さざなみ”、効きました」と小さく言う。ふみかは笑って頷く。「効くのはね、あなたが“眠れました”と書いてくれるから」。ひかりは首をかしげる。「眠れました、ってそんなに大事?」。ふみかは椅子に背を預け、窓の外の風を指差した。「眠りは結果なの。広報は、技術や法務が作った仕組みを、眠りまで運ぶ仕事。だから“眠れました”は、仕組みが届いた合図」
午後は NUMA FISH の取材対応だった。港町の発表会場からビデオ通話がつながり、現地の広報担当が英語で「リスクと対策を十秒で」と言う。十秒は詩人の時間だ。ふみかは息を整え、海面の反射を想像した。「鍵は EU 内、処理は EU を優先、越境は同意と契約で管理。失敗は隠さず公開、報告は72時間、連絡先は最初の行」。受話器の向こうの沈黙は、悪くないほうの静けさだった。
ふみかは仕事の合間に、駅務室でも顔を出す。掲示の見直し、迷子の案内フローの修正、問い合わせフォームの文言の短縮。小さな言葉の角を落とすことで、誰かの足取りが一歩軽くなる。駅員の塚本が「“困ったらここへ”の札、効いてます」と笑って言った。「ありがとう、の速度が上がりました」。ふみかは内心で小さく拍手した。「ありがとう」はどこでも万能ではないけれど、最初の一語にふさわしい場面はたくさんある。注意の前に感謝を置く。それだけで、軌道が変わることがある。
夕暮れに差し掛かると、みおの“演習”が始まった。釣りメールの件名が絶妙にいやらしく、踏みにくいのに踏みたくなる。会議室の空気が少し浮き、笑いが早くなる瞬間、ふみかは音量を下げる。「笑うのはいい、笑い合うなら」。文化を変えるのは、ルールよりも笑いだ。ルールは骨格、笑いは筋肉。両方あって、やっと歩ける。演習のあと、ふみかは「踏んだ人のためのおやつ」を配る。それは罰ではなく、学びの客観だ。食べながら、話しながら、記憶が“痛み”ではなく“味”で残るように。
夜、窓ガラスに自分の顔が映る。スーツの肩が、駅のポスターより少しだけ下がっている。ふみかは意識して背筋を伸ばし、ディスプレイの黒に手の甲を当てる。温度は低く、気持ちはきちんとある。NUMA FISH が無事に一日を終えたこと、雲海精機の「眠れました」が三件に増えたこと、広告の差戻しが修正の方向で合意できそうなこと。ここまでの文が、明日の朝にも嘘になっていませんように。祈るときは、祈る対象の近くに立つのがいい。ふみかは明日の朝も、ポスターの前に立つに決まっていた。
翌朝、雨。新静岡の駅は、濡れたプラットフォームの反射で少し明るい。ふみかはポスターの前にほんの少し足を止めて、雨の匂いを吸い込む。駅に着いたばかりの高校生が写真を撮っている。「この人、ほんとにいるのかな」と笑う声に、ふみかは振り向いて手を挙げる。ほんとにいます。企業法務とクラウドのお悩みは、お任せください。言葉にした約束は、自分を立て直すための背骨にもなる。
端末に新着。「広告掲出、修正案の確認」。ふみかは会議室で印刷物を机に並べた。色、ライン、構図。似ていることと似せることは違う。だが、違いを説明する言葉は往々にして感覚を追い切れない。だから、言葉は手順で補う。検討委員会が見るポイントを箇条ではなく短い文章で並べる。判断の座標軸を最初に示す。比較してもらう順序を提案する。対立は“視点の迷子”から生まれることが多い。地図を先に渡す。それが広報の礼儀だ。
ふみかは広告の電話を終えると、NUMA FISH の現地担当に短いメッセージを送った。「ステートメントの最初の一行、もっと短くしましょう」。返ってきた草案から副詞をひとつ、形容詞をふたつ外す。短い言葉は、長い誠実さの養分になる。これは祖父ゆずりの癖だった。祖父は新聞の校閲をしていて、定年の日に「短い文こそ長い約束」と書いたメモを机に置いて去った。ふみかは折に触れてそれを思い出す。
午後、光河精機の橘が御礼に来た。図が役に立ったこと、凡例が読みやすいと先方に褒められたこと、社内で「断言より連絡先」の合言葉が生まれたこと。ふみかは嬉しくて、少し恥ずかしくて、目を細めた。合言葉は自分たちの哲学ではない。眠りのための道具だ。道具は、それが手に馴染んだ人の数だけ意味を持つ。
その夜、ふみかは一枚の紙を作った。タイトルは「青い夜の使い方」。夜に読むべき文章の長さと速さ、最初に置く連絡先の位置、やめ方の手順の置き場、そして「ありがとう」の練習。駅務室にも一部を置かせてもらう。駅は人の呼吸が交差する場所だ。交差点には、いつでもやさしい標識が必要だ。
やまにゃんが紙の上で丸くなり、しっぽで“了解”の音を二回鳴らす。ふみかはそれを背中で聞きながら、窓の外の雨脚を眺めた。雨は嫌いじゃない。雨の日は、駅のポスターの青がきれいに見える。紙の中の自分は、濡れない。濡れない約束を、濡れた人に届けるために、彼女は言葉に傘を仕込む。最初の一語に傘の骨を、最後の一語に持ち手を。傘は広報の基本形だ。広報は人を守る仕事ではない。人が守りたいものを、濡らさずに持ち運ぶ仕事だ。
週末、商店街の祭りでふみかはマイクを持った。ステージのライトが強すぎるのは知っている。だから声を少しだけ低くする。コツを一つだけ話す。「“困ったら近くへ”」。駅務室でも、交番でも、商店街の総合案内でもいい。遠い専門家より、近くの人にまず話してほしい。近くで解けないことを、私たちに。拍手は小さくていい。それで十分だ。小さな拍手を集めるのが、ふみかのやり方だ。
帰り道、ふみかはもう一度だけ、新静岡のポスターを見上げた。電車の光が青を揺らす。約束は今日も嘘をついていない。明日も、きっと同じように。もし誰かが眠れなかったら、その人の隣で一緒に文章を短くする。誰かが迷ったら、凡例の行を少し増やす。誰かが怒っていたら、連絡先を最初に置く。誰かが笑っていたら、その笑いの速度に合わせて語尾を揃える。企業法務もクラウドも、お悩みはお任せください。ふみかはそう思い、そう書いて、そう立っていた。
しずかな風が頬を撫でる。駅の外に出ると、夜の匂いはすぐに町の匂いに変わった。ふみかはメガネを押し上げ、歩幅を変えずに、でも少しだけ背筋を伸ばして歩いた。言葉は歩き方に似る。歩き方が変われば、約束の色も変わる。青い夜の中で、彼女の約束は今日も静かに灯っている。




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