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風の通い路(続編)

  • 山崎行政書士事務所
  • 58 分前
  • 読了時間: 6分

プロローグ:初夏の足音

 夜が明けきらぬうち、幹夫は表へ出た。東の空にかすかな青さが広がり、山あいを包む空気はまだ冷え冷えとしている。 歩き始めると、遠くから小鳥の声が聞こえはじめた。先日まで夜明け前はひんやりした闇しかなかったが、いつの間にか草木の息づかいに満ちている。 「もうすぐ初夏が来るのか……」 幹夫は小さく呟き、胸の内に広がる不思議な期待とともに、朝靄に霞む道を進んだ。これから彼は、巡回展の初日を迎える地へ旅立とうとしていた。

第一章 列車の窓辺

 幹夫が乗り込んだローカル列車は、まばらな乗客を乗せてがたごとと揺れながら町を離れていく。窓越しには、陽光に照らされた田畑や、風にそよぐ青々とした木々が次々と過ぎ去っていく。 持参したスケッチブックを膝にのせるが、まだ開かずにぼんやりと車窓を眺めていた。ふと視界の端に白っぽい光の帯が揺れたように見え、幹夫は思わず身を乗り出す。 しかし、それはただの朝靄がたなびく残像に過ぎなかった。まるで森の奥で待っている“白馬”の幻が、遠くから小さく手を振ったようにも感じられる。 「行ってきます……」 幹夫は声にならない言葉を胸の中で呟き、再び姿勢を戻した。母や夏子、そして故郷の森は今ここにはいない。しかし、彼らの気配は確かに幹夫の中に宿っている。

第二章 海辺の町のギャラリー

 やがて列車を乗り継いで辿り着いたのは、海沿いの小さな町だった。駅を出ると、潮の香りがほのかに鼻先をかすめる。 今回の巡回展の初会場は、海沿いの崖に立つ古い洋館を改装したギャラリーだと聞いていた。バスを降り、坂道を上がると、白い壁と重厚な木の扉が見えてきた。 中へ入ると、石造りの床に軽やかな足音が響く。高い天井からは柔らかな光が降り注ぎ、窓の外には水平線が遠くに霞んでいる。森とは違うが、ここにも一種の静寂があるようだった。 「幹夫さん、いらっしゃい。お待ちしていました」 ギャラリーの責任者と思しき女性が笑顔で迎え、展示スペースを案内する。白い壁面には、すでに幹夫が送った数点の作品がかかっており、青や緑の色彩が、海の風景と不思議と調和していた。

第三章 海鳴りと森の声

 初日の内覧会に向け、幹夫は展示の最終チェックを行う。絵の傾きや照明の具合を確認しつつ、窓際の椅子に腰掛けた。 遠くから聞こえるのは、低くうねる海鳴り。まるで風が波を撫でるたびに、深い呼吸を繰り返しているようだ。 幹夫の描いた森の湖の絵に目をやると、その中には確かに静寂と揺らめくような白馬の影がある。ふと瞼を閉じると、海鳴りに混ざって、あの森の樹々が揺れる音が聞こえた気がした。 「ここでも森の声が届いているのかな……」 そう思うと、幹夫は少し胸が熱くなった。海と森、距離はあれど、自然の静寂はどこかで通い合っているのかもしれない。

第四章 訪問者との対話

 内覧会当日。地元の文化人や美術愛好家が集まり、会場は静かな賑わいを見せた。海辺の町らしく、潮風でほんのり髪を揺らす来客も多い。 幹夫の展示スペースでは、深い青と緑を基調とした作品が並ぶ。そこへ一人の老紳士が近づいてきた。 「あなたが作者かね? ずいぶんと静かな絵だね……でも不思議に音楽が聞こえるようだ」 幹夫は少し驚きながら、「ありがとうございます」と頭を下げる。その紳士は杖をつき、近くの椅子に腰を落ち着けて続けた。 「私も若い頃、山奥で暮らしたことがあってね。あなたの絵を見ていると、そのときの冷んやりした空気や、雪の匂いを思い出すんだよ。海辺の町にいても、森は消えないのだなぁと思ったよ」 その言葉を聞いた幹夫は、静かに微笑んで深く頷いた。森の記憶は、場所や距離を超えて人の心に根を下ろす。白馬の幻が、一瞬その紳士の背後を駆け抜けていったような気がした。

第五章 黄昏の散歩

 内覧会が終わり、幹夫は夕暮れの町を一人で歩いていた。海岸沿いの道に出ると、橙色に染まる水平線が広がり、波打ち際は優しい色で照らし出されている。 ふと、森の夕闇を想起し、幹夫は足を止めた。故郷の山あいでは、木立の影が長く伸び、鳥たちが静かにねぐらへ帰っていく時刻だろうか。そんな情景が、波の音に重なるように脳裏をかすめる。 海と森。相反する風景のようでいて、どちらも幹夫にとっては大切な心の拠り所となっている。そう考えると、波が森の囁きと連れ添っているように感じられ、胸が満たされる思いだった。

第六章 夏子からの手紙

 翌朝、ギャラリー近くの簡易宿泊所で目を覚ますと、宿の主人が「お手紙が届いてますよ」と幹夫に差し出した。宛名は夏子(なつこ)からだ。 封を開けると、そこにはいつもの丸い字で、故郷の様子が綴られている。母の体調が安定していること、酒蔵では小さなイベントを企画中であること、そして「幹夫がどんな海を見ているのか想像している」と書かれてあった。 文末にはこう結ばれている。 「あなたの描く森は、きっとどんな場所でも森なんだろうね。海辺の町にも、あなたの森はちゃんと根づいていく気がする。……また帰ってきたら、あの裏山を一緒に歩こうね。白馬が駆けているかもしれないわ」 幹夫は小さく笑みを漏らし、手紙をそっと胸元に押し当てた。たとえ離れていても、自分の中の森と夏子の中の蔵はつながっているのだと、あらためて感じる。

第七章 風の通い路(エピローグ)

 数日後、海辺の町の展示は無事に幕を下ろした。搬出作業を終えた幹夫は、駅へ向かう道で立ち止まり、最後にもう一度海を振り返る。 波打ち際には、夕陽がつくる長いオレンジの道が伸びている。そこを歩けば、まるで海の奥へ続く風の通い路に導かれるようだ。 幹夫は鞄を持ち直し、静かな決意を胸に秘めて足を踏み出す。故郷の森とこの海辺は、決して遠い存在ではない。自分の絵が、いつか両方をつなぐ架け橋になれたら――そう願いながら。 ホームへと向かう坂道の途中、幹夫は微かに白い影が横切るのを見た気がした。人混みの先、あるいは遠い空の端。 「白馬……?」 視線を凝らしても、その姿はもうどこにも見えない。ただ、潮の風の中にかすかな蹄(ひづめ)の音が響くような気がして、幹夫は胸がじんわりと温かくなった。

 列車に乗り込むと、さっと窓が閉まり、海辺の町の風景がゆっくりと遠ざかっていく。まばゆい光に満ちた海と、遠く霞む水平線。それが小さくなるほどに、幹夫の中で逆に鮮やかさを増していくのがわかる。 “帰ったら、母と夏子に海のことを話そう。潮風と森の風が同じように心を揺らすことを。” そう思うと、幹夫の唇に自然と微笑みが浮かんだ。やがてどこからか緑の香りがして、あの森の木立と白馬の吐息がすぐ近くまで迫ってきたように思える。 まだ見ぬ次の町も、いつかきっと、この静かでやさしい風に通じている。列車がトンネルを抜けると、車窓には青く染まりはじめた山の稜線が広がり、幹夫は新たな風を胸いっぱいに吸い込んだ。

 
 
 

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