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光の川

  • 山崎行政書士事務所
  • 1 日前
  • 読了時間: 5分



第一章 呼ばれし場所


 成田空港を飛び立つ前夜、幹夫は机に広げたスケッチブックの最終ページに東京の夜景を描いていた。薄明かりに浮かぶビル群の輪郭、車の光の筋、無機質に並ぶ窓の灯。描きながら、どこか遠ざかるような気持ちがあった。


 「描いているのは、風景じゃない。残響だ……」


 幹夫はペンを置き、窓の外を見やった。ビルの隙間に沈む月が、まるで彼に背を向けるように低く流れていた。


 大学を出て、グラフィックの世界で生計を立てるも、幹夫は自分が何を描きたかったのか分からなくなっていた。鮮やかな配色も、整った構図も、依頼主に応えるための表現であって、いつしか彼自身の魂が描かれた絵は消えていた。


 そんな折、彼は偶然目にした一枚の写真に心を奪われた。イエローストーン国立公園。グランド・プリズマティック・スプリングの空撮だった。地面に開いた円形の泉は、まるで虹を逆流させたように光り、中心には深く吸い込まれるような青が広がっていた。


 「行こう、描くために。描きたいものが、ここにはある気がする」


 翌週、幹夫は成田からデンバーへ、さらにボーズマンを経て、イエローストーン北部のゲートタウン──ガーディナーへと辿り着いた。


第二章 ラマーの谷にて


 幹夫はラマーバレーにあるラマー・バッファロー・ランチに滞在することになった。画家や生態学者が一時滞在する簡素なログキャビンで、電力は制限され、夜はランプの灯が頼りだった。


 「ここには、静寂がある」


 幹夫は朝になると川辺へ降り、折りたたみ椅子に座ってスケッチブックを開いた。夜明けの谷には冷たい川霧が立ち、草の先には夜露が残っている。遠くでオオカミの遠吠えが響き、白いバイソンが霧の向こうから現れては、ゆっくりと姿を消していった。


 筆を走らせるたびに、幹夫は都市では決して出会えない色と、線と、沈黙に出会った。それは描写ではなく、対話だった。


 昼になると谷は陽に照らされ、草原には無数の野の花が咲き、プロングホーンが駆ける姿が見える。夕刻には太陽が山の端に沈み、谷全体が金色に染まる。幹夫の描くスケッチにも、少しずつ色が差し込まれていった。


第三章 谷の色


 9月のある朝、幹夫はイエローストーン大峡谷──グランドキャニオン・オブ・ザ・イエローストーンを訪れた。アーティストポイントと名付けられた断崖の上に立つと、足元には信じられないほど鮮やかな色の渓谷が口を開けていた。


 崖は黄、朱、白、そして赤褐色。ロウアー滝からは白い水が豪快に落ち、その下に虹が浮かんでいた。


 幹夫は立ち尽くした。その色彩は絵具の再現ではなく、心を通してしか描けない色だった。


 彼は座り込み、鉛筆を走らせた。けれど線はふらつき、視界の景色を写すことはできなかった。ふと、彼は筆を置いた。


 「写すな、自分の目で見るな。感じろ」


 そう思ったとき、彼の指先は谷の静寂をなぞり、滝の轟音を白い余白に封じ込め、陽に灼けた崖の匂いを色彩の断片として落とした。


 その日以来、幹夫のスケッチには言葉では言い表せない、色の記憶のようなものが滲むようになった。


第四章 虹の泉


 数日後、幹夫は上部間欠泉地帯へ向かった。そこで彼が目にしたのは、グランド・プリズマティック・スプリングだった。


 上空から見たあの泉を、今、彼は地上から見上げる形で対峙していた。中央には深く吸い込まれる青、その周囲をオレンジ、黄、緑の色が波紋のように広がり、湯気が立ち上るたびに色が変化していく。


 幹夫は泉の傍で紙を広げ、水彩を使った。青を中心に落とし、水を垂らし、自然に広がるその流れに任せた。色が紙の上で自由に踊り始める。


 「これは、僕の心だ」


 彼はそう呟いた。中心にあった澱のような孤独が、色となって広がっていく。それは痛みでも不安でもなく、ただ、彼がここに在るという証だった。


第五章 語り部との夜


 ある夜、ラマーバレーのキャンプファイヤーで、幹夫はショショーニー族の語り部と出会った。老人は静かに、泉や滝に宿る精霊の話を語った。


 「この地には声がある。お前が耳を傾ければ、必ず語りかけてくる」


 語り部はそう言い、幹夫のスケッチを覗き込んだ。


 「お前は、うまく描こうとするな。精霊は、真似られるのが嫌いだからな」


 幹夫は思わず笑った。そして、その夜、彼は久しぶりに夢を見た。谷に立つ少年が、虹の中に手を差し伸べていた。


第六章 冬の静寂


 11月、雪が谷を覆った。公園の道は閉ざされ、宿泊客もまばらとなった。


 幹夫はひとり、まだ凍らない川辺に佇み、筆を持っていた。空気は凍てつき、音という音が消えていた。そこに浮かぶのは一羽のオオハクチョウ。ゆっくりと川面を滑るように進み、羽を広げた。


 「おまえも、ここに居るのか」


 幹夫は呟いた。


 その白い姿を見ながら、幹夫は色を塗った。無音の中で、青と白と灰の絵が、一枚、生まれた。


第七章 帰還


 翌春、幹夫は東京に戻った。だが彼は、もう以前の彼ではなかった。イエローストーンで描いたスケッチと、あの泉の色と、語り部の声が、彼の絵の中に生きていた。


 幹夫の個展《光の川》は、多くの来場者を集めた。


 絵の前で涙を浮かべる人がいた。黙って立ち尽くす人もいた。


 「これは、風景ではない。私の心です」


 そう彼が答えると、人々はゆっくりと頷いた。


最終章 いま、ここに流れるもの


 幹夫は今も描き続けている。アトリエの窓辺には、あの日見た泉の色に近い、瑠璃色の鉢が置かれている。


 筆を持つたびに、彼は思い出す──あの静けさ、あの風の匂い、あの川の流れ。


 イエローストーン川は、今も彼の中を、静かに、静かに流れていた。


―――完―――

 
 
 

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