光の川
- 山崎行政書士事務所
- 1 日前
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第一章 呼ばれし場所
成田空港を飛び立つ前夜、幹夫は机に広げたスケッチブックの最終ページに東京の夜景を描いていた。薄明かりに浮かぶビル群の輪郭、車の光の筋、無機質に並ぶ窓の灯。描きながら、どこか遠ざかるような気持ちがあった。
「描いているのは、風景じゃない。残響だ……」
幹夫はペンを置き、窓の外を見やった。ビルの隙間に沈む月が、まるで彼に背を向けるように低く流れていた。
大学を出て、グラフィックの世界で生計を立てるも、幹夫は自分が何を描きたかったのか分からなくなっていた。鮮やかな配色も、整った構図も、依頼主に応えるための表現であって、いつしか彼自身の魂が描かれた絵は消えていた。
そんな折、彼は偶然目にした一枚の写真に心を奪われた。イエローストーン国立公園。グランド・プリズマティック・スプリングの空撮だった。地面に開いた円形の泉は、まるで虹を逆流させたように光り、中心には深く吸い込まれるような青が広がっていた。
「行こう、描くために。描きたいものが、ここにはある気がする」
翌週、幹夫は成田からデンバーへ、さらにボーズマンを経て、イエローストーン北部のゲートタウン──ガーディナーへと辿り着いた。
第二章 ラマーの谷にて
幹夫はラマーバレーにあるラマー・バッファロー・ランチに滞在することになった。画家や生態学者が一時滞在する簡素なログキャビンで、電力は制限され、夜はランプの灯が頼りだった。
「ここには、静寂がある」
幹夫は朝になると川辺へ降り、折りたたみ椅子に座ってスケッチブックを開いた。夜明けの谷には冷たい川霧が立ち、草の先には夜露が残っている。遠くでオオカミの遠吠えが響き、白いバイソンが霧の向こうから現れては、ゆっくりと姿を消していった。
筆を走らせるたびに、幹夫は都市では決して出会えない色と、線と、沈黙に出会った。それは描写ではなく、対話だった。
昼になると谷は陽に照らされ、草原には無数の野の花が咲き、プロングホーンが駆ける姿が見える。夕刻には太陽が山の端に沈み、谷全体が金色に染まる。幹夫の描くスケッチにも、少しずつ色が差し込まれていった。
第三章 谷の色
9月のある朝、幹夫はイエローストーン大峡谷──グランドキャニオン・オブ・ザ・イエローストーンを訪れた。アーティストポイントと名付けられた断崖の上に立つと、足元には信じられないほど鮮やかな色の渓谷が口を開けていた。
崖は黄、朱、白、そして赤褐色。ロウアー滝からは白い水が豪快に落ち、その下に虹が浮かんでいた。
幹夫は立ち尽くした。その色彩は絵具の再現ではなく、心を通してしか描けない色だった。
彼は座り込み、鉛筆を走らせた。けれど線はふらつき、視界の景色を写すことはできなかった。ふと、彼は筆を置いた。
「写すな、自分の目で見るな。感じろ」
そう思ったとき、彼の指先は谷の静寂をなぞり、滝の轟音を白い余白に封じ込め、陽に灼けた崖の匂いを色彩の断片として落とした。
その日以来、幹夫のスケッチには言葉では言い表せない、色の記憶のようなものが滲むようになった。
第四章 虹の泉
数日後、幹夫は上部間欠泉地帯へ向かった。そこで彼が目にしたのは、グランド・プリズマティック・スプリングだった。
上空から見たあの泉を、今、彼は地上から見上げる形で対峙していた。中央には深く吸い込まれる青、その周囲をオレンジ、黄、緑の色が波紋のように広がり、湯気が立ち上るたびに色が変化していく。
幹夫は泉の傍で紙を広げ、水彩を使った。青を中心に落とし、水を垂らし、自然に広がるその流れに任せた。色が紙の上で自由に踊り始める。
「これは、僕の心だ」
彼はそう呟いた。中心にあった澱のような孤独が、色となって広がっていく。それは痛みでも不安でもなく、ただ、彼がここに在るという証だった。
第五章 語り部との夜
ある夜、ラマーバレーのキャンプファイヤーで、幹夫はショショーニー族の語り部と出会った。老人は静かに、泉や滝に宿る精霊の話を語った。
「この地には声がある。お前が耳を傾ければ、必ず語りかけてくる」
語り部はそう言い、幹夫のスケッチを覗き込んだ。
「お前は、うまく描こうとするな。精霊は、真似られるのが嫌いだからな」
幹夫は思わず笑った。そして、その夜、彼は久しぶりに夢を見た。谷に立つ少年が、虹の中に手を差し伸べていた。
第六章 冬の静寂
11月、雪が谷を覆った。公園の道は閉ざされ、宿泊客もまばらとなった。
幹夫はひとり、まだ凍らない川辺に佇み、筆を持っていた。空気は凍てつき、音という音が消えていた。そこに浮かぶのは一羽のオオハクチョウ。ゆっくりと川面を滑るように進み、羽を広げた。
「おまえも、ここに居るのか」
幹夫は呟いた。
その白い姿を見ながら、幹夫は色を塗った。無音の中で、青と白と灰の絵が、一枚、生まれた。
第七章 帰還
翌春、幹夫は東京に戻った。だが彼は、もう以前の彼ではなかった。イエローストーンで描いたスケッチと、あの泉の色と、語り部の声が、彼の絵の中に生きていた。
幹夫の個展《光の川》は、多くの来場者を集めた。
絵の前で涙を浮かべる人がいた。黙って立ち尽くす人もいた。
「これは、風景ではない。私の心です」
そう彼が答えると、人々はゆっくりと頷いた。
最終章 いま、ここに流れるもの
幹夫は今も描き続けている。アトリエの窓辺には、あの日見た泉の色に近い、瑠璃色の鉢が置かれている。
筆を持つたびに、彼は思い出す──あの静けさ、あの風の匂い、あの川の流れ。
イエローストーン川は、今も彼の中を、静かに、静かに流れていた。
―――完―――
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