青き水音の中で
- 山崎行政書士事務所
- 1 日前
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第一章:旅の入り口
幹夫がザグレブの空港に降り立ったとき、彼の胸にはまだ湿った東京の梅雨の残像が残っていた。クロアチアという国名に惹かれたのは偶然で、地図を眺めていて目に留まったこの細長い国に、何か心を掴まれるものがあった。
旅の目的はただ一つ。日常からの逃避。そしてもう一つ、幹夫が意識していなかった心の奥底――“まだ見ぬ風景に自分の輪郭を映す”こと。
バスを乗り継ぎ、プリトヴィツェ湖群国立公園の入り口に立った時、幹夫はその美しさに圧倒された。
第二章:沈黙する水
最初に彼の視界に飛び込んできたのは、幾重にも重なる滝の白い糸。その下には宝石のように澄んだ湖が広がり、空と森の緑を呑み込んでいる。水音は一定のリズムを刻みながらも、どこか言葉のように聞こえた。彼は背中のリュックを下ろし、立ち尽くした。
「これは……生きてる音だ」
幹夫は無意識にそう呟いていた。
彼は木製の遊歩道をゆっくりと歩き始めた。湖面を縫うように設けられたその道は、水と空気と森のすべてを肌で感じさせてくれる。どこまでも透明な水には魚が泳ぎ、木漏れ日が水面に舞い落ちるたびに、幹夫の心の奥にも小さな波紋が広がっていった。
第三章:記憶の底
幹夫には、幼いころに父と訪れた山の渓流の記憶があった。夏休みに訪れたその場所は、今となっては地名すらあやふやだが、水の冷たさと、父の背中のぬくもりだけがはっきりと残っている。
プリトヴィツェの滝を見上げるたびに、その記憶がよみがえる。
――父さん、あのときと同じ音がするよ。
幹夫は胸の中で語りかける。自然という存在が、失われたものをも取り戻す力を持つことに彼は気づいていた。
第四章:沈黙の中の言葉
滞在三日目、幹夫は早朝に目を覚ました。まだ観光客のいない湖畔に立ち、霧の中でひとり、水の音を聞く。
そのとき、湖の対岸にひとりの老女が現れた。スカーフを巻き、木の杖をついている。彼女は微笑み、幹夫に何か声をかけるが、言葉はわからない。
だが、その目の奥にある静かな光が、幹夫の心に届いた。
「分からなくていい。わかるのは、気配だ」
その瞬間、幹夫は言語や国境を超えたところにある“共鳴”という感覚を知る。
第五章:再び歩き出す
旅の最終日、幹夫は森の高台から湖群を見下ろした。まるで時間が止まったかのような風景。だが、彼の中では何かがゆっくりと動き始めていた。
自然は、沈黙の中で多くを語る。幹夫もまた、自分の中の言葉にならないものたちに耳を澄ませるようになっていた。
東京に戻っても、この静けさは彼の中に生き続けるだろう。水音、緑、光、そしてあの老女の眼差し。
幹夫は、再び人生を歩き出す決意を胸に、プリトヴィツェをあとにした。
完
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