幹夫青年と自然の旅
- 山崎行政書士事務所
- 2 日前
- 読了時間: 6分

夕陽がゆっくりと海の向こうへ沈んでいく。空の色は淡いオレンジから紫へと移り変わり、水平線の上は薄墨を落としたように徐々に深まっていく。まだ光の名残を帯びた波間に、黒い翼を大きく広げた鳥が滑るように飛んでいた。その姿は夕焼けのシルエットとなり、まるで人知を越えた世界へ消えていく前触れのようだった。
幹夫は入り江の小さな砂浜に立ち、柔らかな波の音に耳を澄ませていた。彼がここに来たのは、大学を卒業して就職先が決まりかけていたころだった。“ 一度だけ、すべてを投げ打って遠くへ行ってみたい ” と強く願った彼は、旅の末にこの辺境の海辺の村へ流れ着いたのだ。誰の紹介も伝もないまま、地図に載らないような岬の先へとやってきた。自然と海と空が広がるだけのこの土地で、幹夫は自分自身と向き合う時間を静かに刻んでいた。
海の彼方にはうっすらと山脈が見える。夕陽に染まる稜線がわずかに浮かび上がり、青い海の向こうに長い影を落としている。あの山並みの向こうには、また別の街や村や人々の暮らしがあるのだろうか。そんな想像をめぐらすうちに、幹夫の胸の奥には、また旅を続けたいという衝動がうずき始める。しかし今はこの場所にじっと留まって、海と空と、そして自分自身の心の声に耳を傾けるのだ。それが彼が選んだ、新たな旅の一歩だった。
砂浜から少し離れると、小さな岩場があり、海面から突き出した岩に白い貝殻がびっしりと張り付いている。波が寄せるたびに貝殻が微かに開閉しては、しぶきを上げる。幹夫は波打ち際に腰を下ろすと、貝殻の微かなきしみを聞きながら、胸の奥に浮かぶいくつもの思い出を順番にほどいていく。日本にいた頃は忙しなく、毎日のように同じリズムで動いていた。しかし、ここでは時間の流れはもっと緩やかで、日差しや風や波の移ろいが、人の営みをも飲み込んでしまうほど大きく感じられた。
日はさらに沈み、空は紫から濃紺へ、海面はどこか深い緑を隠し持ったような黒へと変わっていく。ふと頭上を見上げると、さきほどの黒い鳥が、今度は岸辺の岩礁へと舞い降りるところだった。カラスにも似たその鳥は、しかし羽根の先にわずかに白い模様を帯びている。幹夫はその姿が気になり、足音を忍ばせるようにして近づいてみる。鳥は警戒する様子もなく、しばし夕闇に染まる海を見つめたあと、また大きく羽ばたいて闇へと消えていった。
海沿いの一本道をたどると、入り江の先には灯台が立っている。か細い光を回転させながら、静かに海原を照らしている。幹夫は灯台の足元にある古い小屋で寝泊まりしていた。もともとは漁の道具置き場だったのだが、村の人からは“好きに使っていい”と気軽に鍵を渡された。波の音を子守歌に、一晩中かすかな潮風を肌に感じながら過ごす夜は、彼にとってこの上ない安らぎだった。
小屋の扉を開けると、粗末な木の机と椅子、簡素な寝台、そして古びたランプが置かれているだけの質素な空間だ。窓の外には、まるで絵画のように漆黒の海が広がっている。夜空を見上げれば無数の星々が降るように瞬いている。あの星々の先には、言葉も届かないほど遠く離れた無数の世界があるのだと考えたとき、幹夫の胸は不思議な高揚感で満たされる。それは日本にいた頃には決して味わえなかった感覚だった。
ランプに火をともして、小屋の外に出てみると、先ほどの鳥の翼音をまた感じた。岩礁のあたりで風を切る音がし、海鳴りに重なるように翼が拍打する。闇夜を切り裂くように何度か聞こえたあと、再び静寂が訪れる。人の気配のほとんどないこの海辺で、幹夫は鳥と自分の心だけを感じていた。
翌朝、まだ日が昇る前に目を覚ました幹夫は、小屋を抜け出し、朝焼けを見ようと海辺へと急いだ。東の空が淡い紫からピンク色に溶け、そしてやがて金色に輝き始める。海もそれに呼応するように優しい光を纏い、静かな息づかいを取り戻していく。夜のあいだじっと閉ざされていた岩場の貝殻たちが、朝の潮の満ち引きとともにこぞって活動を始める。満ちてくる波間で軽やかに跳ねる小さな魚たちの群れも見える。
鳥の姿を探して砂浜を歩いていると、遠く、波打ち際の先に人影があった。こんな朝早くから誰かが海を見つめている。幹夫が近づいてみると、それは村に住む老人だった。漁師をしているらしく、古い木箱を抱えて小さな舟を出すところだ。年季の入ったロープを器用に操りながら、舟を水平線へ向けて出していく。その背中にはまるで長年の海との対話が刻まれているようだった。「おはようさん。今日の海は穏やかそうだな」老人は幹夫に気づくと、海から視線を外さぬまま、穏やかな声でつぶやいた。幹夫は潮風を吸い込みながら、静かにうなずく。
日が昇り切ると同時に、海と空と大地はそれぞれに生命を漲らせた。海は深い青を宿し、空はどこまでも透き通って高く広がり、遠くに見える山脈は淡い白から薄緑へと彩りを増し始める。幹夫はその広大な景色を前に、小さな自分を感じると同時に、自由な心の翼も感じていた。世界は広く、そして何もかもが自分の知らないものであふれている――その事実が、彼にとっては何よりの活力になっていた。
それから数日、幹夫は朝から夕暮れまで、小さなカメラを手に岬や岩場、遠くの山道まで足を伸ばしては、自然に溶け込むように過ごした。どこへ行っても、鳥たちが自由気ままに空を舞い、風は季節を運ぶようにさまざまな香りを連れてくる。踏みしめる土の感触や、草木のそよぎ、光の加減が変化するたびに、彼の心は少しずつゆるやかな解放感に包まれていくのだった。
やがてある夕暮れ時、再びあの黒い鳥が、薄紅色に染まりかけた空を背景に海上すれすれを飛んでいく。シルエットはまるで一枚の絵画のように幻想的で、幹夫は思わず胸が熱くなるのを感じた。誰にも邪魔されることなく、大海原と空をそのまま自分の領域にしているかのような鳥。その姿は、彼の心が求めていた「自由」を体現しているように思えた。
―― 自分の進む道とは、いったいどのような景色を見せるのだろうか。
そう問いかけながらも、幹夫の胸の内には確かな確信があった。どんな場所へ行っても、どんな道を選ぼうとも、彼の心はこの大自然から与えられた解放感を糧に飛んでいけるはずだ。海と空と山――すべてを飲み込み、なおこうして動じることなく佇む世界の雄大さが、その確信を支えていた。
夕闇が深まり、空が青紫色を増していく中、彼は再び小屋へ帰ろうと砂浜に足を向ける。海風に吹かれ、足跡が波に消されていくたびに、自分がこの海辺にいる証しが、すべてあっという間に溶けてゆくのを感じた。だからこそ、今この瞬間に感じるもの、見つめるもの、出会うものすべてがかけがえのないものであり、同時にいつか手放さなければならないものでもあるのだと、幹夫は悟っていた。
明日の朝もまた、光の魔術のような朝焼けが海と空と山を染め、あの鳥は翼を広げて風を切るだろう。灯台の明かりが消え、まばゆい太陽が再び空を支配するまで、幹夫はこの地で、そのすべての移ろいを受け止めるつもりだった。たとえどこへ行っても、この大自然の懐の広さは彼の背中を押してくれる。遠い水平線の向こうにも、また違った色彩があり、それを追いかける旅路こそが、自分の人生になるのだ――その思いを確かめるかのように、幹夫は群青色に染まる海をじっと見つめた。
闇と光が交錯する海辺に立ち尽くす彼の耳には、遠くでかすかに鳥の声が聞こえた。振り向くと、すでにその姿は暮色へ溶け込み、どこにも見当たらない。それでも幹夫には確かに聞こえた。絶え間ない自然の呼びかけが、今日もまた彼の胸に響いている。長い夜を越えた先にも、広大な世界が広がっていることを、その一瞬の鳴き声が教えてくれるのだった。
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