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守の字

 朝の軒下は、昨日までと同じ顔をしているのに、どこか新しい匂いがした。 濡れた木と、潮と、乾きかけの土。 それから――羽。

 ばさ、ばさ。

 幹夫は縁側の板をそっと踏んで、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 軒の影に、燕が居た。 昨日の燕か、別の燕か、幹夫には分からない。 でも、飛び方が軽い。 軽い飛び方は、生きてる飛び方だ。

 燕は巣のへりにちょこんと止まって、首を小さく振った。 振るたび、喉の奥から小さい声が漏れる。

 ちち。

 音が小さい。 小さいと、胸が走らない。 走らないと、見守れる。

 幹夫は、巣の下に敷いた布を見た。 昨日、父が敷いた布。 何も落ちていないのに、布があるだけで、軒下が“守られてる場所”に見えた。

 ――いき。

 そのとき、庭の端で、もう一つの音が立った。

 にゃあ。

 猫の声。 柔らかいのに、背中が立つ声。 猫は悪くない。 ただ、猫の腹も、燕の羽も、どっちも生きてる。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 縁側の下の影から、灰色の猫が顔を出した。 目が、巣を見ている。 目が狙うと、空気が細くなる。

 幹夫は、声を大きくしそうになって、途中で喉を止めた。 止めた「間」に、息を入れる。

 ――いき。

「……だめだよ」

 小さい声。 小さい声は、刃じゃない。 でも、猫は言葉を知らない。 猫は音と匂いで動く。

 猫が、縁側の柱へ一歩近づいた。 爪の先が板に触れそうで、幹夫の肩がふっと上がりかける。

 そのとき、縁側の奥から、父の足音が来た。 急がない足音。 急がない足は、戻れる足。

 父の肩が、猫の声でふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 父が、口の中で小さく言った。

「……猫の声だ」

 名前を置く。 置けると、胸は“今”に戻る。

 ふう……。

 父は猫へ近づく前に、ま札を懐から出して、縁側の板の上へそっと置いた。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

 父が低く言った。

「……ま」

 それだけ。 それだけで、幹夫の胸の中の警報が尖らずに済む。

 母が台所の境目から顔を出して、状況を見て、急がせない声で言った。

「追うなよ。……追うと走る。走ると、飛ぶもんも飛ぶ」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「守るなら追うな。……境を作れ」

 境。 境目。 門。 間。

 父は縁側の端にしゃがんで、猫の目線より少し低いところへ、手のひらを出した。 掴む手じゃない。 “受け皿”みたいな手。

 父がぽつりと言った。

「……おいで、じゃねぇ。……ここまでだ」

 声は低い。 低いのに、怒っていない。 怒っていない声は、猫にも刺さらない。

 父はもう片方の手で、縁側の板を軽く、軽く叩いた。

 こん、こん。

 叩く、じゃなく、合図を置く。 音を置く。

 猫が耳を動かして、尾をひとつ振って――くるりと向きを変えた。 向きを変えると、空気の細さがほどける。

 幹夫の胸が、すとん、と座った。 座ったから、息。

 ――いき。

 燕は、巣のへりで一度だけ羽を震わせて、それから動かなかった。 動かないのは、怖くて固まった動かないじゃない。 “居られる”動かないだった。

 父が空を見上げて、ぽつりと言った。

「……守れた、か」

 母が頷いた。

「うん。……追わんで守れた」

 祖母が淡々と言う。

「追わん守りが一番だに。……追うと自分も走る」

 父はま札を手に取り、角を指で撫でた。 丸い角。 丸い角は刺さらない。

 ふう……。

「……走らんで済んだ」

 その一言が、幹夫の喉の奥を熱くした。 熱いと走りそうだから、息をひとつ入れる。

 ――いき。

 昼前。 父は納屋から、網の切れ端を持ってきた。 昨日直した網より、ずっと荒い目。 指がすっと通るくらいの大きな目。

「……これなら、からまん」

 父がぽつりと言った。 “からまん”という言い方が、朝の燕の足の糸を思い出させる。 思い出すと胸が少し鳴るけど、今日は鳴り方が尖らない。

 幹夫は袋を押さえて、息。

 ――いき。

 父は軒下を見上げた。 巣の場所。 柱の位置。 猫が登りそうな角度。 目が、今ここで働いている。

 母がすぐに言った。

「網、ぶら下げるなら、結び目に“ま”残せよ。……締めると守りじゃなくて罠だに」

 罠。 その言葉は少し硬い。 硬いけど、必要な言葉だった。

 父は小さく頷いた。

「……うん。……守りは、罠にせん」

 父がそう言えたのが、幹夫には嬉しかった。 守りが、誰かを苦しくしない守り。

 父は置き布の上で、網の端を二つ折りにして、紐を通した。 通す前に置く。 置いてから通す。 順番があると、手が荒れない。

 しゅり。 しゅり。

 紐を通す音は小さい。 小さいと、息が入りやすい。

 父がぽつりと言った。

「……これは、燕の守りだ」

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……父ちゃんの守りでもある?」

 幹夫は、言ってから少し恥ずかしくなった。 でも恥ずかしいまま、ここに置く。

 父はすぐ返事をしなかった。 間がある。 その間に、父の指が紐の結び目をいちど止める。 止めて、息を吐く。

 ふう……。

「……ある」

 短い。 でも、落とさない“ある”だった。

 父は結び目を作るとき、ぎゅっと引っぱりそうになって、途中で止めた。 止めて、ま札に指を当てた。 札の角を撫でて、息。

 ――いき。

 そっと引く。 そっと結ぶ。 結び目の中に、小さい“ま”。

 父がぽつりと言った。

「……守るって……閉めることじゃねぇな」

 母が頷く。

「うん。……屋根みたいにするだに。雨は防ぐけど、息は通す」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「息通らん守りは牢屋だに。……牢屋は飯がまずい」

 父が小さく笑って、でもすぐ真顔に戻った。

「……牢屋にせん」

 網の守りは、軒下の巣の前に“カーテン”みたいに下がった。 でも、巣の入口は塞がない。 燕が通れる“すきま”がある。 すきまがあると、日も息も入る。

 幹夫は少し離れて、燕の動きを見た。 燕は一度、網の前で止まって、首を小さく傾げた。 でも、すぐにすきまを見つけて、すっと入った。

 すっと。 刺さらない動き。

 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。 座ったから、息。

 ――いき。

 父がぽつりと言った。

「……通れた」

 母が小さく笑った。

「通れりゃ守りだに。……通れんのは閉じ込めだに」

 父は網の端の結び目を指で撫でて、ぽつりと言った。

「……“ま”が、仕事したな」

 “ま”が仕事。 間が、守りになる。

 正夫が塀の向こうから顔を出して、目を丸くした。

「えっ! なにそれ! かっこいい!」

 父の肩が、子どもの声でふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父が口の中で言った。

「……正夫の声だ」

 名前を置く。 置けると、笑える。

 父は正夫へ、少しだけ声を上げた。

「……つばめの守りだ」

 正夫が嬉しそうに言った。

「まもり! ぼくも、守り、ほしい!」

 母が笑って言った。

「守りはな、物だけじゃないだに。……“ま”と“いき”も守りだに」

 正夫が首を傾げる。

「ま……?」

 幹夫が小さく言った。

「……止まる札、みたいなやつ」

 正夫はぱっと頷いて、口の形だけで言った。

「ま」

 遊びみたいなのに、ちゃんと守り。 幹夫はその丸い「ま」が好きで、喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

 夕方。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 守

 幹夫はその字を見た瞬間、軒下の網の守りと、父が出したま札を思い出した。 守るのは、強く掴むことじゃない。 間を残して、息を通すこと。

 母は上の形を指でなぞった。

「ここ、宀(うかんむり)だに。……屋根。家の屋根」

 屋根。 雨から守る。 でも、息は通す。

 母は下をなぞった。

「こっちは寸(すん)だに。……小さい手つき。測る手。押さえる手」

 押さえる手。 掴まない手。 今日、父が猫を追わずに“ここまでだ”と置いた手。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「守るってのはな……屋根の下で、手を加減して持つ字だに。ぎゅって握るんじゃない。そっと置く。まを残す。……それが守りだに」

 まを残す守り。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。

 父が新聞紙の「守」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、守るって……閉めることだと思ってた」

 母は否定しなかった。 低く言った。

「うん。……閉める守りもある。でもな、息が止まる守りは、守りじゃなくなることがあるだに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「守るなら息守れ。息守れりゃ飯がうまい。……飯がうまけりゃ、守れたってことだ」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……息、守りたいな」

 その言い方が、幹夫の胸の奥をあたためた。 あたためたから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 守を書く。

 一回目の「守」は、寸が尖って、字が固い顔になった。 固いと、守りが締めつけに見える。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「尖ったらな……屋根を太らせりゃええ。屋根の下を広くする。……守りは“余地”だに」

 余地。 ほどける余地。 通れる余地。 息の余地。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「守」は、屋根が少し広くて、寸が座った顔になった。 座ると、息が通る字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「守」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 寸の最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……屋根の下に手が座るな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……座れりゃ守れる。座れんと、走る」

 母は「守」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、燕の巣の丸みたいに見えた。

 夜。 軒下の網の守りは、風で少し揺れていた。 揺れても、音は鳴らない。 鳴らない揺れは、安心の揺れだ。

 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

ねこきたでもおわず にま したつばめ の まもりあみ つけたま を のこしたとおれたおれ息 まもりたいいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……守るの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、守りは閉めるだけじゃない。通れる守りもある」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……通れる守り……それ、好きだ」

 好きだ。 父の“好き”が、今日も丸い。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「守りはひとりで持たん。……屋根は一枚でも、支える柱は何本もあるだに」

 祖母が淡々と言う。

「柱がありゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 守れる明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

まもる ってやね の した でて を かげん して もつ じ なんだねきょうねこ きたでもとうちゃんおわず にま してつばめ まもれたあみ の すきまいき とおったいき

 最後に、小さく「守」。 丸をひとつ。 巣の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは猫の目の鋭さの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

守 はやね と てぎゅ じゃなくま を のこす息 を とおすうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうねこ きた ときま できたさけばん かったつばめとおれた守 って じすこしおれ の てやわらかい

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――網の切れ端の小さな欠片。 目が大きくて、指がすっと通る。刺さらない網。 欠片の端に、父の震える字で小さく、

まもり

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその網の欠片を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 守る。 閉じ込めない。 通れるすきまを残す。 屋根の下で、手を加減して持つ。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、軒下の小さな巣と、通れる守りは届いた。 届いた“守り”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、誰かの息が通る余地を、そっと家の中に残していった。

 
 
 

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