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藤の声

  • 山崎行政書士事務所
  • 12 分前
  • 読了時間: 4分

戦後間もない名古屋、城跡に広がる名城公園には静けさが満ちていた。春から初夏へと移りゆく季節の朝、柔らかな光が若草の露をきらめかせ、ひんやりと澄んだ大気が辺りを包んでいた。遠くには戦禍で焦土と化した街並みの黒い廃墟がいまだ残っていたが、公園の中だけは別世界のように穏やかであった。名古屋城の天守閣は焼け落ち、今は石垣だけが朝日に浮かび上がっていた。静かな空に、かすかな鳥のさえずりだけが響いていた。

十五歳になる少年・幹夫は、この朝も一人で名城公園に来ていた。学校では秀才と言われるほど勉学に励む彼だが、今は教科書を脇に抱えたまま、小径に咲く名もない草花に目を落としていた。小さな草を踏まぬよう丁寧に歩くその足取りには、幹夫の優しく繊細な性格が表れていた。幼い頃から草花の観察が好きで、微かな花の香りや土の匂いにも心を動かされる彼は、静かな朝の空気の中で深く息を吸い込み、自然とひとつに溶け合うような安らぎを感じていた。

幹夫はふと足を止めた。小径の草陰に、小さな紫色の菫(すみれ)がひっそりと咲いているのを見つけたのだ。花弁には朝露が一粒、宝石のように光っていた。戦火で荒れた土にもこうして命が芽吹いていることに気づき、幹夫の胸は静かな感動で満たされた。彼はしゃがみ込み、その小さな花にそっと見入った。

幹夫は静かに立ち上がり、再び歩き出した。そのとき、風に乗ってかすかな甘い香りが漂ってくるのに気づいた。顔を上げると、公園の奥まった一角に古びた藤棚があり、藤の花が長い房をいくつも垂らして咲いているのが目に入った。幹夫は思わず息をのんだ。灰色の石垣を背景に、淡い藤色の花房が朝の光を受けて霞のように浮かび上がっていた。焼け焦げた藤棚の柱も所々に残っていたが、藤の蔓はしっかりとそれに絡みつき、生き生きと新緑の葉を茂らせていた。先ほどから漂っていた甘い香りは、この藤の花が放っていたものだった。

幹夫は引き寄せられるように藤棚へと歩み寄った。棚の下に立つと、無数の藤の花房が頭上で揺れ、光を柔らかく遮って薄紫の陰影を落としていた。藤の花々に囲まれ、幹夫はまるで別世界に迷い込んだような気持ちになった。そっと手を伸ばし、垂れ下がる一房に指先で触れてみた。甘い香りが一層濃く鼻をくすぐり、紫色の小さな花弁が指先に柔らかかった。幹夫の耳に、蜜を求めて飛ぶ熊蜂(くまばち)の微かな羽音が聞こえてきた。それさえも静寂を破ることなく、自然の調べの一部のように感じられた。幹夫はそっと目を閉じ、耳を澄ました。葉擦れの音、鳥の囀り(さえずり)、蜂の羽音……それらはまるで自然が語りかける声のように思えた。

瞼の裏に、戦火の夜の情景が浮かんだ。名古屋城が燃え上がり、夜空が赤く染まった光景。鼻を刺した煙と焼け焦げた臭い、人々の悲鳴と轟音……幹夫はあの夜を忘れられずにいた。しかし今、彼を包んでいるのはあの頃の煤けた空気ではなく、藤の花の優しい香りだった。ゆったりと揺れる薄紫の花房が頭上を覆い、静かな朝の光を受けてきらめいていた。季節は巡り、時は癒しをもたらすかのように、傷ついた大地にも新たな命が芽生えている。幹夫の胸の奥で凍りついていた何かが、静かに溶けていくのを感じた。気づけば、一筋の涙が頬を伝っていた。それは悲しみの涙ではなく、心が洗われた証のように温かかった。幹夫は藤棚を見上げ、小さく頷いた。心の中で「ありがとう」と呟いた。その瞬間、藤の花がそっと揺れたように見えた。

やがて、東の空が白み始め、公園の緑が朝日に照らされ始めていることに幹夫は気がついた。足元には藤の小さな花が一輪落ちていた。幹夫はそれを拾い上げ、そっと教科書のページに挟んだ。抱えていた教科書を持ち直すと、ゆっくり藤棚を後にした。先ほどまで心を覆っていた重い翳りが、嘘のように消えていた。ふと振り返れば、藤の花房がそよ風に揺れていた。それは幹夫に別れを告げ、背中を押してくれているかのようにも見えた。幹夫は静かに微笑むと、澄みきった青空の下を歩き出した。新しい朝の光の中で、名城公園の藤の花はいつまでも優しく彼を見守っていた。

 
 
 

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