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藤の咲く頃

  • 山崎行政書士事務所
  • 6 時間前
  • 読了時間: 5分



幹夫は午後の陽ざしの中、名城公園の小径を一人歩いていた。春もたけなわの頃で、桜の季節はとうに過ぎ、若葉が生い茂る樹々の間から、淡い紫の藤の房が垂れているのが見える。耳を澄ますと、遠くで雀の鳴く声と、風に揺れる木々の葉擦れの音だけが聞こえてきた。戦後の街はまだ全体に静かで、人々の足取りも重いが、公園には穏やかな時間が流れているように感じられた。

 名古屋城の天守閣は数年前の空襲で焼失し、今は石垣だけが寂しく残っている。幹夫は立ち止まり、少し離れたその石垣の方に目をやった。春の光に照らされて浮かび上がる古い石垣には、ところどころ煤けた痕が黒く残っている。幼い頃、父に連れられて名古屋城の天守を見上げた日の記憶が脳裏によみがえった。あの壮麗だった城はいま無残な焼け跡となり、父もまた戦争で失われてしまったのだと、胸が痛んだ。

 幹夫はまぶしさに目を細めながら、再び歩き始めた。十五歳になった彼の制服は、継ぎはぎだらけだが清潔に洗われ、大事に使われている。物のない時代、母が夜なべして繕ってくれた学生服を着て、彼は毎日学校に通っていた。

 教室では学徒たちの間に戦争の影がまだ色濃く漂っていた。空席となったまま戻らない友人、自らも復員して戻らぬままの教師――失われた存在の痕跡が幹夫の周囲に静かに刻まれていた。それでも彼は勉学に励み、草花の観察に心を寄せる日々を送っていた。誰に言われるでもなく、ただそうすることで、自分が前に進めるような気がしていた。

 やがて、公園の一角に藤棚が見えてきた。古い木製の棚に絡みついた藤の蔓は、戦災を生き延びたのか、それとも戦後に植えられたものなのか、幹夫にはわからなかった。ただ、淡い紫の花房が幾筋も下がり、春の光を受けて静かに揺れている。その光景に、幹夫の足は自然と止まった。藤棚の下に踏み入れると、ひんやりとした木陰の空気と共に、ほのかな甘い香りが幹夫を包んだ。藤の花はまるで房ごとに小さな蝶が群れているかのようで、一つ一つの花弁が陽射しに透けて輝いている。

 幹夫は鞄をベンチに置き、藤の花房にそっと手を伸ばした。指先に柔らかな花びらが触れる。

 ふと、彼の胸に幼い日の記憶が蘇った。戦前のまだ平和だった頃、父に手を引かれて訪れた郊外の神社で、大きな藤棚を見上げたことがある。父は藤の花が好きで、「来年もまた一緒に見ような」と微笑んで幹夫に語りかけてくれた。その「来年」は二度と訪れなかったのだということを、幹夫は今、静かに思い知らされた。あの約束は叶えられぬまま、父は戦地へ赴き帰らぬ人となった。

 藤の房の影が揺れるのを、幹夫はじっと見つめた。瞼の裏に浮かぶ父の面影。厳しくも優しかった眼差し。戦火の中で交わした最後の言葉。「幹夫、お前は強く生きろ」。それは泣きじゃくる幼い自分の髪を撫でながら、父が残した言葉だった。強く生きる――戦争が奪っていった数多の命の中で、自分が生き残った意味を問い続けた幹夫にとって、その言葉はずっと答えの出ない問いのように胸に刺さっていた。

 気づけば、幹夫の頬を一筋の涙が伝っていた。藤棚の下の静けさの中で、その涙は彼自身にも意外なものだった。声を上げて泣くことさえ忘れてしまったかのように、戦後の年月を幹夫は過ごしてきたのだ。喪失の痛みに心を閉ざし、ひたすら前だけを見て勉強に打ち込んできた。

 しかし今、藤の花の前で、不意に心の奥底が揺さぶられた。ぽたぽたと滴る雫が、乾ききっていた土に染み込むように、幹夫の冷えた心にも涙が染み渡ってゆく。それは悲しみであり、同時にどこか安らぎでもあった。

 幹夫は涙を拭おうともせず、そっと藤の花房から手を離した。目の前の藤の蔓を見ると、新芽が力強く伸びているのが目に入った。古い幹はところどころ傷つき、苔むしてなお生きている。そしてその先端からは、こんなにも美しい花が咲いている。

 「生きているんだ……」幹夫は心の中でつぶやいた。戦火を生き延びた藤が今年も花を咲かせているように、自分もまたここに生きている。その当たり前の事実が、今まで実感できずにいたことに気づいた。

 空を見上げると、藤棚の隙間から皐月の空がのぞいていた。高く澄んだ青空に、白い雲がゆっくりと流れていく。幹夫の頬を撫でる風はいつの間にか暖かくなっていた。

 制服の袖でそっと涙を拭った彼は、ベンチに置いた鞄を手に取った。もう一度藤の花を見上げ、深く息を吸い込んだ。甘い藤の香りが胸いっぱいに広がった。静かに息を吐き出すと、心の中の靄が少し晴れた気がした。

 公園の出口へと続く道を、幹夫はゆっくりと歩き出した。振り返ると、藤棚越しに名古屋城の石垣が見える。あの石垣はこれからもこの場所に在り続けるだろう。そしていつの日か、城は再び天守を戴くかもしれない。

 はらりと一房の藤の花から花びらが舞い落ち、幹夫は思わず手を伸ばした。掌に受け止めた小さな花びらは、薄紫色の羽のようだった. 幹夫はそれを制服の胸ポケットにそっとしまい込んだ。何か大切な贈り物を預かったような静かな喜びが、彼の胸に灯っていた。

 出口に差し掛かると、公園の外から子供たちの笑い声が聞こえてきた。戦後の荒廃の中にも、新しい命と日常が芽吹き始めている証のように響いていた。その笑い声に足を止めて、幹夫はゆっくりと息を吐いた。重かったはずの足取りは、先ほどよりも軽く感じられた。空には傾きかけた夕陽が柔らかな光を投げかけ、街の瓦礫の上にも淡い茜色の輝きが差し始めていた。

 幹夫は再び歩き出した。胸には藤の花びらと亡き父の言葉があり、小さな芽生えのような希望が宿っていた。

 
 
 

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