菫草の咲く頃
- 山崎行政書士事務所
- 12 時間前
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第一章 春の兆し
春の気配が、静かに山里に満ち始めていた。薄い朝靄のなか、日本平の丘陵から見下ろす村々はまだ眠りについているかのようにしんと静まり返っている。遠くには、冬の名残りを高嶺にいただく富士の頂がかすかに青空へと輪郭を描いていた。山肌を撫でる風はまだ冷たく、けれどどこか柔らかな匂いを含んでいる。それは地中で目覚めかけた草花の息遣いであり、春がすぐそこまで来ている兆しであった。
十三歳の少年、幹夫は縁側に腰かけ、手すりに頬杖をついて、微かに白み始める空を眺めている。七人きょうだいの末っ子に生まれた彼は、幼い頃から物静かで感受性が豊かだった。朝早く目覚めては、まだ寝息の残る家の空気から一歩抜け出し、こうして外の様子をぼんやりと眺めるのが常なのだ。家の中からは姉たちが起きて動き出す気配が微かに伝わってくるが、幹夫はその前に少しだけ、この静寂に包まれた朝の気を味わっていたかった。
裏山のほうを見遣ると、林間の梢に一羽の鶯がとまっているのが見える。ぐずりがちだった声も、ようやく春らしく澄んで響いてきた。幹夫は小さく胸を躍らせた。まもなく、この地にも本格的な春が訪れる。そう思うと、不思議なほど心が逸(はや)るのを感じた。ちょうどそんなとき、家の中から母が「幹夫、朝ごはんよ」と声をかけてきた。幹夫はおとなしく返事をして、少し名残惜しそうに縁側を立ち上がった。
朝食を済ませたあとのひととき、幹夫は竹箒(たけぼうき)で庭先を掃いていた。祖母がいつも口癖のように「庭掃きは、朝の心がけ」と言っていたからだ。笹の葉のように秋冬を越えた枯れ葉を丁寧に集めては脇へ寄せていく。やがて掃除を終え、竹箒を片隅に立てかけたとき、ふと庭の片隅に小さな芽が顔を出しているのを見つけた。幹夫はなんの植物か分からぬまま、その淡い緑が妙に愛おしく感じられ、しばし膝をついて眺め込んだ。日はさらに高く昇り、町の人々も忙しなく動き始めている。その景色を尻目に、幹夫は少しだけ穏やかな喜びを胸に抱いて家の中へと戻っていった。
第二章 野のすみれ
朝家事の手伝いを終え、昼下がりになると、幹夫は一人で家の裏手に広がる雑木林へ歩を進めた。小さな籠を手にしているのは、焚きつけ用の小枝を拾うためであったが、幹夫の気持ちはいつしか林の奥へと誘われていた。
木々にはまだ冬の名残りを感じさせる乾いた枝が多いものの、足元には日差しを浴びる地面がうっすらと緑を帯びている。踏みしめるごとに落ち葉がかさりとか細い音を立てる。柔らかな日差しが木洩れ日となって地面に散らばり、まだひんやりとした空気のなかにほのかな温もりを注いでいた。幹夫は落ちている小枝を拾うことをぼんやりとしつつも、心のどこかでは、なにか春の兆しをもっと確かな形で見つけたいような気がしていた。
やがて、苔むした倒木に差し掛かったとき、幹夫は思わず足を止めた。倒木の脇に、小さな紫の花がひとつ、ひっそりと咲いていたのである。幹夫はそっと近づき、膝を折って眺め込む。それは、野に咲くすみれだった。ほのかに色づく五弁の花びらが、木洩れ日のなかでひらひらと光を受けている。その控えめな姿は、やや伏し目がちに見えるのか、風に揺れながらも自分の存在を確かに示していた。
幹夫は思わず息を飲んだ。これほど小さく儚い花が、森の中で人知れず春を告げている——そのことに、少年の胸はふっと温かくなった。倒木の苔から立ち上がる淡い蒸気のような匂い、地面の湿った土の匂い、すべてが混ざり合い、幹夫の感覚をやさしく包む。籠を脇に置いた幹夫は、そのすみれの花にそっと指先を伸ばしてみた。だが、花に触れる寸前で思いとどまる。摘むにはあまりに可憐で、痛々しいほどの小ささだった。
そのとき、祖母の声が心に浮かんだ。幼いころ、祖母は山野草の名を幹夫に教えてくれた。すみれについて語るとき、祖母はいつも優しい顔をしていた。「すみれはね、目立たないけれど春を呼ぶ大切な花なのよ。小さくても、誰に見られなくても、ちゃんと咲いていることに意味があるんだよ」——あのやわらかな声が、ありありとよみがえる。幹夫は祖母の言葉を胸に抱きながら、すみれに向けてかすかに微笑んだ。
幹夫が顔を上げると、梢から差し込む日が少し傾き始めているのに気づいた。いつのまにか長く佇んでいたのだ。彼は急いで小枝を拾い集め、籠に詰めた。もう少し遅くなると母に心配をかける。林を後にするとき、幹夫はもう一度振り返り、すみれの花を目に焼きつけた。誰にも知られず、森のなかでひっそりと咲くそれは、どこか自分自身の姿にも重なって見えた。
第三章 祖母の記憶
薄暮の光が西の空を朱に染める頃、幹夫は囲炉裏端に祖母と向かい合って座っていた。祖母は少し猫背で、手足は細くなっているが、瞳にはいつも優しげな光が宿っている。その視線は幹夫を見つめるとき、何か包み込むような穏やかさを帯びていた。幹夫は箸を置いて一息つくと、今日見つけたすみれの話を切り出した。
「おばあちゃん、森ですみれを見つけたんだ」「まあ、もう咲いていましたか。それはうれしいわね」 祖母の声には柔らかな弾みがあった。「裏山に行くたびに、私はすみれが咲いていないかいつも探してたんだけど、今年こそは会えるかなと思っていたのよ」そう言いながら、祖母はまるで子どものように瞳を輝かせた。
「すごく小さかったけど、とってもきれいだったよ」幹夫はそう言って、あの倒木のそばで見つけたすみれの姿をありありと思い浮かべる。祖母はしばし黙って聞き入っていたが、やがて微笑んだ。「小さな野の花は、誰に見られなくとも、その年の春を告げるように自分の花を咲かせるのよ。それがどんなに短い間でもね……」
祖母の声はどこか遠くを見つめるように沈み込んだ。その横顔を縁側からの残照が優しく包み込み、その皺(しわ)のひとつひとつに、過ぎた年月の物語が刻まれているようだった。幹夫はそんな祖母の横顔をじっと見つめた。ふと、祖母が短く咳をする。もともとあまり丈夫な身体ではないと聞いていたが、最近は特に夜になると咳き込む姿が目立った。
「気をつけてね。まだ肌寒いから」 幹夫がそう声をかけると、祖母は笑いながら「大丈夫よ」と答える。その笑顔の奥にかすかに疲労の影が見えたのは、幹夫の気のせいではなかったろう。それでも祖母は気丈で、いつも家の者に心配をかけまいとする。七人も孫がいる大家族で、しかも幹夫は末っ子。この家で祖母の世話を担う母たちの忙しさは日々増すばかりだった。
宵の口になり、祖母は「もう休ませてもらうよ」と言って座敷へと入っていった。その背中を見送りながら、幹夫は理由もなく胸にざわりとした不安を覚える。あたたかい囲炉裏の火はじゅうじゅうと微かな音を立て、虫の声はまだ聞こえない。春といっても夕闇にはまだ冬の冷えが混じっていた。
第四章 花の別れ
桜前線がようやくこの町にも届こうという頃になって、祖母の体調は急に悪化した。咳は夜のみならず昼間も止まらなくなり、医者の往診を呼ぶ騒ぎになった。そんなある朝、姉たちが慌ただしくふすまを開け閉めする音で幹夫は目を覚ました。祖母の容態が急変したらしい。母の小さな悲鳴が聞こえて、幹夫の胸は一気にぎゅっと締め付けられる。
襖をそっと開くと、祖母が布団の中で苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた。その頬は痩せこけて、唇の色も青白い。枕元に座る母が祖母の手を握りしめ、姉たちも涙にくれるようにして看取っている。父は医者を呼びに行っているが、間に合うかどうか……部屋の空気は重く淀み、いまにも止まってしまいそうな時が流れていた。
幹夫は何もできずに呆然と立ち尽くしたが、やがて何か強い衝動に突き動かされるように「すみれを、すみれを摘んできてあげる!」と言い残し、部屋を飛び出した。祖母がいつも言っていた。すみれを見ると、昔のことを思い出して嬉しい、と——。ならば一輪でもいいから、その花を届けたい。そうすれば、祖母が少しでも笑顔を取り戻してくれるかもしれない。幹夫は必死になって裏山へと駆け上がった。
倒木のあたりへ行くと、あのすみれがまだ静かに咲いていた。風に揺れている小さな花のうち、幹夫は一番鮮やかそうなものを摘もうと手を伸ばす。心のどこかで「ごめんね」と言葉が漏れる。花を摘むのは気が引けたが、今は一刻を争う。幹夫は慎重に茎を折り、そこに露がついていないか確かめるようにして掌に包んだ。そして家へと戻る道を、一気に走った。
居間に駆け込むと、姉たちが声を殺して泣いている。祖母の枕元には医者が顔を曇らせて坐っていた。母が幹夫を見て「……もう遅かったよ」と震える声で言う。幹夫は信じられずに祖母の顔を覗き込む。祖母の瞳はかすかに開いているが、そこには生の光が見えない。必死に「おばあちゃん!」と呼びかけると、唇がかすかに動き、空気を震わせるような微かな声が漏れた。幹夫は思わず耳を近づける。
「きれい……すみれ……」 わずかにそう聞こえた。幹夫は震える手で摘んできたすみれを祖母の胸元に置く。その紫色が白い布団の上でいっそう際立って見えた。祖母は一瞬、微笑んだようにも見えたが、次の瞬間、長い呼吸を吐きだしたまま動かなくなった。
「お、おばあちゃん……」 幹夫の呼びかけに答える声はもうない。まるで小舟が川下へ流れるように、祖母は静かに旅立ってしまった。父や母は幹夫を抱きしめて泣き、姉たちはすすり泣く。だが幹夫自身は、涙があふれてこない。ただ胸の奥に空洞が開いたようで、声を出すことすら叶わなかった。祖母の胸元に置かれたすみれが、風もないのに震えて見えるのは幹夫の目の錯覚だったのかもしれない。
第五章 惜春
葬儀の日は嘘のように晴れて、まばゆい春の陽射しが降り注いだ。縁側の前には白木の棺が置かれ、そのまわりには近所や親戚の人々が集まっていた。花祭壇には白い菊や小さな蘭の鉢が飾られ、祖母の遺影が穏やかな笑みを浮かべている。幹夫はその遺影を直視できず、柱の陰に小さく座っている。お経の声と線香の香りがあたりを満たし、時折、母や姉たちがすすり泣く声が聞こえる。
祖母が実際に亡くなったという実感が、幹夫にはまだはっきりと飲み込めなかった。いつものように囲炉裏端で、やさしく微笑みながら「幹夫や」と声をかけてくれる気がしてならない。けれど、祭壇に飾られた一輪のすみれが、すでに茶色く色を失いかけているのを見ると、あの日の出来事がまざまざと胸に迫る。そして幹夫は気づく。——あの花は、祖母の最期の笑顔を見届けた花なのだと。
式が終わり、祖母の遺骸(ご遺体)は薪(まき)の炎に委ねられた。灰になり、骨壺に納められて戻ってきた祖母を前にして、幹夫の胸は突き抜けるような寂しさに襲われた。幼いころからずっと、祖母は幹夫の優しい庇護者だった。いつも自分の存在を肯定し、そっと背中を撫でてくれた。そのぬくもりが、いまはもう永遠に失われてしまったのだ。
その晩、母や姉たちは祖母の部屋を片づけはじめた。幹夫は役に立ちたいと申し出たが、母に「ゆっくりしておいで」と言われ、その部屋には入れなかった。誰もいなくなった居間に戻り、囲炉裏の火を見つめながら、幹夫はただ黙っていた。灰の中でじゅうじゅうと音を立てる炭火の匂いが、やけに寂しく、胸を締めつけるようだった。
第六章 青い空、遠い峰
祖母の四十九日も過ぎた頃、季節はやがて初夏へ近づき、日本平の山々の緑がいよいよ濃さを増した。幹夫は朝早く、ひとりであの倒木のある林へ足を運んだ。すみれはもう終わりの季節だろうかと思いながら、静かな藪をかき分けていく。木洩れ日の差す場所には、もうあの紫の花は見当たらず、代わりに別の野草が蕾をつけはじめていた。
やがて倒木の側に目をやると、そこには枯れかけたすみれが一つだけ残っていた。もう花びらの端は白く色褪せ、少し萎んできてはいるが、かろうじてその紫色を留めている。幹夫はそっと近づくと、「まだいたんだね」と小さく声をかけた。あの日、祖母に見せてあげたかったこの花は、短い春の命を終えようとしている。だが、今年咲いた花が枯れても、また次の年には新たな花が咲くだろう。それが自然の摂理に違いない。
風が木々の間をすり抜け、幹夫の髪を優しく揺らした。そのとき、祖母の言葉が胸に甦る。「すみれはね、誰に見られなくても咲くのが大事なんだよ。小さくても、健気に咲いているでしょう? 幹夫も自分の花を咲かせなさい」——あれは確か、幹夫がまだ幼稚園にも上がらない頃だったか。祖母に促されて庭で遊びながら、同じようにすみれを摘んで、花言葉などを教わった気がする。
もっと祖母の話を聞いておくべきだった、もっと祖母に甘えておくべきだった——そんな後悔が幹夫の胸にわだかまる。けれど、祖母が幹夫に残してくれた言葉や姿は、きっとこれからも幹夫のなかで生き続ける。それは決して失われることはないのだ、と信じたい。
見上げれば、青く高い空にうっすらと夏雲がかかり、はるか遠くに富士の峰が白い雪を帯びたまま静かにそびえている。祖母が好きだった景色だ。何も変わらないように見えるその大自然のなかで、幹夫だけが取り残されてしまったような気持ちになる。だが、同時に、また来年も春が訪れれば、この森のどこかにきっとすみれが花を咲かせるだろう。幹夫はそっと目を閉じ、祖母の面影を思い浮かべた。「ありがとうございました、ばあちゃん」 声にはならない言葉を胸中に響かせる。そして静かに林を後にする。少し湿り気を帯びた土の匂いが、幹夫の背をそっと押してくれるかのようだった。
第七章 未来の光
時が流れて、幹夫の家にいつもの平穏が戻りつつあった。大所帯の家庭は、日々やることが尽きない。母や姉たちは忙しく働き、父は町へ行って仕事をし、兄たちは進学や就職を考える時期に差しかかっている。そんな中、幹夫だけがぽつんと取り残されているかのように感じることがある。しかし、幹夫は決して孤独ではないと思うようになっていた。
ある日の放課後、幹夫はノートを広げ、祖母との思い出を綴ってみることにした。うまく言葉にできずに、文字が滲んでしまうこともある。けれど、そのたびに祖母の顔や声が胸に浮かび、まるでそばで励ましてくれるような気がした。静かな夕刻、縁側に腰を下ろすと、あの梅の木には小さな青い実がいくつかぶら下がりはじめている。祖母が大切にしていた梅だ。「来年は、ちゃんと祖母の分まで実を採って、梅干しを漬けよう」——幹夫はそんな小さな決意を胸に宿していた。
季節は確実に移ろっていく。春に咲いたすみれは姿を消しても、また違う花が野山を彩る。そして冬が来れば枯れ野となるが、巡り巡って必ず次の春がやってくる。それと同じように、祖母のいのちは土へ帰っても、祖母の思いは幹夫のなかで生き続けるだろう。そうしていつか幹夫自身が、次の時代を支える存在になるときが来るかもしれない。
その朝も、幹夫は日本平の丘へ向かって歩き始めた。山道には初夏の光が揺れ、遠く駿河湾から吹き上げる風が涼を運んでくる。見晴らし台に立つと、草いきれがむわりと昇ってきて、青い空と海とが一望に開けた。幹夫はしばらくぼんやりとその景色を見つめ、やがて胸の奥にこみあげるものをひとつ息に混ぜて吐き出した。
もう、祖母はこの景色を見ることはない。けれど、この空と海と山は祖母が生きた世界でもあり、いま自分が立っている世界でもある。幹夫はそのつながりを、言葉にならない安心感として感じ始めていた。いつかまた春がめぐれば、ここでも森のなかでも、すみれが静かに咲くだろう。祖母の言葉とともに、幹夫はその小さな花を探しに行くだろう——そう思うと、ふっと胸が軽くなるのを感じた。
そうして幹夫は、少し高くなった日差しのなかを一歩ずつ歩き出す。風の向こうに、小さな鶯の声がかすかに混じった。次の春までには、幹夫の中でまた何かが花開いているかもしれない。それがどのような色の花かはわからない。けれど、小さくとも、ひっそりと、そして確かに咲く花を信じてみたい——そういう思いが、幹夫の一挙手一投足を今、そっと押し支えているのだった。
空はどこまでも澄み渡り、遠くにはまだ白雪の残る富士の峰が優美な姿をたたえている。祖母が眠りについたこの土地で、また幹夫の新しい日常が始まっていく。菫(すみれ)はもう消えたが、その記憶は幹夫の胸に生き続ける。儚くとも、確かに咲いていたその姿が、これからの幹夫の道を静かに照らし続けるのだろう。家族の呼ぶ声が届き始める夕方の里へ向かいながら、幹夫は歩みを緩めず、瞳を先の景色へと向けた。
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