モン・サン=ミシェル
- 山崎行政書士事務所
- 12 時間前
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第一章 灰色の空と孤島の始まり
あの日、幹夫はパリからのバスに揺られながら、窓の外に広がる薄曇りの空を見つめていた。低く垂れこめた雲が、どこか日本の冬空を思わせる。フランス北西部ノルマンディーの大地は、静かだが底のほうに湿り気を孕んでいるように感じた。ハンドバッグの中には、ホームステイ先の住所が書かれた小さな紙きれと、大学の留学生担当者から託された資料がある。 大学ではフランス語を専門にしていたが、幹夫は話すことよりも読むことが得意だった。口を大きく動かして軽快に発音するクラスメートたちに比べ、いつも自分の小さな声が異質に思えた。かといってフランス文学の雄大さに心がときめかないわけではない。ただ、まだ自分は人前で意見を堂々と言えない――その気質が幹夫をどこか窮屈にしていた。 バスが町外れの停留所で止まると、運転手が「着いたよ」と言わんばかりにドアを開く。降り立つと、突き抜けるような潮の香りの風が吹いてきた。見上げると、遠く海の彼方に浮かぶように聳えている岩山の上に、一際細長い尖塔が見える。何世紀も昔から巡礼者を導いてきた修道院の尖塔、大天使ミカエルの像――モン・サン=ミシェルだった。 堤防道路の先にある島は、干潮のときには周囲が砂地になり、満潮になると急激に潮が満ちて四方を海に囲まれるという。その姿が「西洋の驚異」と讃えられる由縁。ほんのひとときだけ完全なる孤島となる彼の新たな住処を、幹夫は眩しさ混じりに見つめていた。
第二章 アヴランシュの暮らし
実際には、幹夫が下宿するのはモン・サン=ミシェルからバスで二十分ほどのアヴランシュという丘の町である。島内には学生が気軽に住めるような下宿はなく、民宿やホテルは軒並み観光客向けの高値だった。アヴランシュの小さな学生寮へ着くと、部屋の前で学生係らしき女性が待っていて、笑顔で「Bonjour!」と声をかけてきた。 学生寮と言っても日本のような鉄筋コンクリートの建物ではない。築百年ほど経った石造りの外壁には蔦が絡まり、玄関ホールには昔ながらの暖炉が鎮座している。ドアを開けると、木の床がぎしりと音を立てた。 部屋は薄暗かったが、窓からは町の屋根越しに遠くの海が見える。幹夫は少々の埃っぽささえ懐かしいように感じた。スーツケースを置き、椅子に腰掛けた途端、外から教会の鐘の音が聞こえてくる。それは古都の鼓動のように、幹夫の胸をどこか優しく打った。 翌日から大学のオリエンテーションが始まり、幹夫はノルマンディー大学の分校に通い出した。講義は二時間を超えることも珍しくなく、教授が黒板にびっしり書き込むフランス語の専門用語に、最初は圧倒された。昼食はカフェテリアで二時間も休憩があり、他の学生たちはワインやシードルを一杯飲みながら平然と議論を交わしている。幹夫はどうにも落ち着かず、皿の上のチーズやパンを眺めながら、わずかなフランス語のボキャブラリーで必死に相槌を打った。 「遠慮はしないでいいよ、ミキオ」と名前を呼んでくれるクラスメートもいて、彼らは当たり前のように「きみはどう思う?」と意見を求める。生まれてこのかた、「自分の考えをはっきり言う」習慣になじみのなかった幹夫は、何度も答えに窮した。それでも彼らは幹夫の口からぽろりと漏れるつたないフランス語を無視することなく待ってくれた。「ちゃんと聞くから、もっと話してごらん」という眼差しの暖かさに幹夫は徐々に救われていくのだった。
第三章 島の門をくぐる
週末、幹夫は初めてモン・サン=ミシェルの島内を訪れた。バスが新たに架けられた橋を渡り切るあたりで下車し、人の流れに従って城門へ向かう。城壁に囲まれた入り口は「王の門」と呼ばれ、中世の要塞の雰囲気が色濃く残っていた。石畳の坂道を上ると、狭い通り「グラン・リュ」の両側にレストランや土産物店が並び、観光客で賑わっている。 目立つ赤い看板のホテル「ラ・メール・プラール」の前を通り過ぎると、厨房の方からバターの香りが漂ってきた。ここの名物オムレツは有名だと聞く。だが観光客が列をなす店先の様子に気圧されて、幹夫はそのまま通り過ぎる。代わりにふと脇道に入ると、細い石段がぐんぐん上へと伸びていた。人影が少なく、静まり返った路地はまるで過去の時代へさかのぼる入口のようだ。 坂を登り切ると、海が見渡せる展望が広がった。雲の切れ間から薄く射し込む光が、遠く干潟を照らしている。マナガツオのように銀灰色に揺れる海と、ところどころに浮かぶ砂の筋。その向こうにうっすらと人影らしき点が見えた。潮が引いた干潟を横断するツアー客なのだろうか。「あんな遠くまで歩いていけるのか……」と幹夫は思わず呟く。 そのとき、雲間から陽光が修道院の塔に差し込み、黄金の大天使ミカエル像が一瞬きらめいた。はっとした幹夫は、その光景がなぜか胸の奥を突き動かすのを感じた。まるで、まだ見ぬ何かを啓示するかのように――。
第四章 孤独と夕闇
留学生活が始まって数週間が経ったころ。幹夫は相変わらず授業に苦戦し、論文の課題も進まない。部屋でフランス語の文献を読むうちに睡魔が襲い、鉛筆を手から滑り落として目を覚ますという日々だった。日本の友人にメールを送っても、すぐに返事が返ってくるわけでもない。 日曜、店はどこも閉まっていて閑散としている。ついアヴランシュの寂れた街路をさまよった後、思い立って再びモン・サン=ミシェルへ向かった。観光シーズンから外れた夕刻の島は、人影もまばらだ。 グラン・リュを上がっていくうち、やがて修道院の門に行き着いた。内部の見学時間は終わっていると知りながら、幹夫は半ば無意識に石段を上る。閉じられた扉の脇には、静かに灯るランプの明かり。夕闇が迫る修道院は、わずかな光を除けばまるで眠りについている巨大な生き物のようだ。 「……誰もいないな」 足音だけが石壁に反響する。気づけば上空にはうっすらと月がかかり、海のほうから潮騒が聞こえてくる。満潮が近いのだろうか。孤立した島の夜に、自分は一人取り残されている――そんな感覚が幹夫をふいに襲った。日本を遠く離れ、言葉も十分に通じないこの地で、一体自分はなにをしに来ているのだろう。期待に胸弾ませていたはずの留学は、気づけば漂流しているかのような不安と隣り合わせだった。
第五章 プレ・サレ羊飼いの家
そんなとき、幹夫はふとした出会いから思わぬ温もりを知ることになる。大学で一緒に受講していたフランス人学生・ジュリアンと親しくなり、週末に彼の祖父母を訪ねる機会を得たのだ。祖父母はモン・サン=ミシェル湾岸で羊の放牧を営む家系であるという。 バスを降り、海辺の農道を歩く。眼前にはだだっ広い牧草地と干潟が続き、奥に島のシルエットが小さく浮かんでいた。ジュリアンの祖父は無口な人だったが、羊の群れを指さして「プレ・サレ(塩性牧草)を食べた羊は格別の風味があるんだよ」とぽつり。幹夫は流暢なフランス語をすべて理解できたわけではないが、その声がまるで大地の響きのようにどっしりと感じられた。 農家の家に招かれ、暖炉の前の古い木のテーブルに通される。祖父母が丁寧に仕込んだラム肉をオーブンで焼き、リンゴのタルトを用意してくれていた。窓の外には海鳥が飛び交い、遠方には柔らかな光に包まれたモン・サン=ミシェルが見える。夕暮れに染まる湾の景色と、じんわり暖まる食卓。 ジュリアンの祖父はシードルの瓶を抜き、皆のグラスに注ぐと「どうだ、ノルマンディーの味は?」とニヤリと笑う。甘さと酸味が調和したリンゴ酒に、幹夫はくすぐったいほどの郷愁を覚えた。決して日本とは違うはずなのに、なぜか故郷の土や風を思い出させる。 言葉少なに杯を重ねる老人が、やがて遠い昔の戦争の話を静かに語り出した。地元の仲間が徴兵され、帰ってこなかったこと。若いころはモン・サン=ミシェルを眺める余裕もなかったこと――幹夫はゆっくりと耳を傾ける。日本の歴史とも重なる悲しみが、ひしひしと胸に伝わってきた。老人はやがて視線を遠く海にやり、言った。 「ここはね、わしらにとって“心の砦”なんだ。どんなときも、あの島を見れば励まされる」 その島はまるで、すべてを包み込むように岬の先に佇んでいた。
第六章 干潟を渡る
春になると、大学の長期休暇に合わせてモン・サン=ミシェル干潟の横断ツアーがあるとジュリアンが教えてくれた。専属のガイドを頼み、潮の干いたタイミングで干潟を歩いて島を目指す行程だという。中世の巡礼者たちが命がけで渡った道――幹夫はその危うさに心惹かれながらも怖さを覚えた。 「一緒に行こう。大丈夫だ、ガイドもいるし。足元に気をつければ問題ないよ」とジュリアンに背中を押されるように、幹夫は決心する。朝早く集合した一行は、裸足になって干潟に踏み入った。粘土質の砂が足の裏に絡み、ところによっては少し沈み込む。 遠目には平坦に見える干潟だが、実際には小さな川のように海水が残る場所もあり、一歩先は急に深くなるところもある。幹夫はガイドが示す道筋を慎重に辿りながらも、自分の心が妙に澄みきっていくのを感じた。往来する観光客の喧噪が消え、潮風の音と足音だけが世界のすべてになる。 歩き続けるうち、灰色の空から一筋の陽光が差し、いままで遠くに霞んでいた修道院の姿がぐっと大きくなった。思わず息を呑む。まるで大天使がこちらを導いているかのようだった。 干潟の真ん中で、一行はしばし休憩をとる。幹夫は膝に手を置いて肩で息をしながら、周囲を見渡した。360度、広大な海と砂だけが広がる。日本での自分の家や大学の景色は、いまや遠い夢のように思われた。けれど、その孤独感が不思議と恐ろしくない。体の芯で何かが強く燃えている。「ここを歩いている自分も、誰かにつながっている」。幹夫はそんな直観に打たれた。
第七章 祝祭と巡礼
9月末、ノルマンディーは秋の訪れを迎え、りんごの木には赤い実がたわわに実っていた。サン・ミカエル祭が近づくと、モン・サン=ミシェル修道院では特別なミサが行われる。中世には巡礼者が世界中から訪れ、天使の祝日に合わせてこの島を目指したという。 幹夫はその機会に合わせ、数日かけて徒歩で島を目指す「現代の巡礼ツアー」に参加することにした。大学で出会った仲間数人と連れ立ち、朝はやい時間から地図とリュックを背負って歩き始める。村々を抜け、野宿をしながら道を進む苦労は想像以上だったが、他愛ない会話をしながら励まし合い、時には沈黙を共有する中で、言葉の垣根はいつしか解け合っていく。 夜、寝袋にくるまって星空を見上げながら、幹夫は自分の心が満ち足りているのをはっきりと感じた。言葉が通じなくても、異なる生き方をしていても、人はここまで分かり合えるのだと。自分が何を感じ、何に迷い、何を望むのか――それを誰かに伝えたいと思える瞬間が尊いのだと、身体の芯が理解している。
第八章 修道院の朝
そして巡礼最終日、日が昇る前に一行はモン・サン=ミシェルの城門をくぐった。肌寒い潮風が頬を打つ。幹夫は眠気をこすりながら島の急勾配の道を登り、修道院のテラスへとたどり着いた。やがて朝焼けに染まる空の果てから、真っ赤な太陽がゆっくりと顔を出す。 石造りの回廊から見る海は、黄金に煌めいていた。満潮の影響で島の周囲が静かに波打ち、島はまるで宙に浮かんでいるかのようだ。幹夫は思わず目を閉じ、深く息を吸う。うっすらと鐘の音が聞こえ、修道士たちの朝の祈りが始まるのだろう。 この地に来てから幾度となく感じた孤独や迷いは、潮が満ちたり引いたりするように幹夫の心を揺さぶってきた。だがいま、光のなかで島を包む海の輝きを見ていると、幹夫の胸にあるのは不思議な安堵と決意だけだった。 ――自分は、ここで変わったのだろうか。それとも、もともと自分の中にあった何かを見つけただけなのか。 海を見下ろしながら、彼は静かに思う。異文化の中で、新しい人間関係や言葉を通じ、幾度も壁にぶつかりながら、自分の声を探してきた。もはやここは単なる「よそ」でなく、自分の第二の故郷のようにすら感じる瞬間がある。 大天使ミカエルが尖塔の先端で朝日に照らされているのが見えた。まるで彼を迎えるかのように、翼を広げているように見える。
終章 未来へ続く橋
留学を終える頃、幹夫はアヴランシュの寮の部屋で荷物をまとめながら、窓の向こうに広がるノルマンディーの空を見上げていた。あのモン・サン=ミシェルへと続く新しい橋の存在が、いまの自分と重なるように思える。昔の堤防が取り払われ、再び潮の流れが生まれたことで島は真の姿を取り戻した。 ――自分の中にも、そうした変化が起きたのかもしれない。固く閉ざしていた心の堤防を壊し、今まで受け入れられなかった多様な価値観の潮を招き入れたことで、ようやく自分の本質が流れ始めたのだろう。 カバンを抱え、最後にドアを閉めるとき、遠くから教会の鐘の音が響いた。それは留学初日に感じたあの音よりも、一層澄んで聞こえる。 バスに乗り込むと、道の先にはモン・サン=ミシェルの尖塔が小さく姿を現した。まるで「またいつか帰ってこい」と言っているかのように幹夫には見えた。もう、あの島が決して“孤島”ではないと気づいたのだ。たとえ潮が満ち、四方が海に囲まれたとしても、そこには自分が築いた思い出と、人々とのつながりがある。そのつながりこそが、幹夫を今後も支えてくれるだろう。 バスが走り出す。窓の外の風景が緑の田畑から次第に町へと変わり、そして遠ざかってゆく。だがその光景を見ながら、幹夫の心は不思議と穏やかだった。いつかまた、潮が満ち引きするあの島を訪れたい。そう思うと、胸の奥に小さな明かりがともるような希望が広がった。 彼の留学は終わりを告げようとしている。しかし異文化との出会いがもたらした感受性と、新たに得た自分自身の声は、この先ずっと幹夫を旅へと誘うに違いない。満潮と干潮を繰り返す海のリズムのように、彼の人生はどこまでも続く波を受けとめながら、さらに豊かに広がっていくのだ。
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