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謝の字

 朝の海は、きのうより少しだけ白かった。 白いのに、冷たくない。 冷たくない白は、胸の奥の角を丸くする。

 ちゃぶ台の端の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所があると、胸の中にも余地ができる。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 縁側の端で、父が何かを探していた。 探し方が、荒くない。 荒くないけれど、手が同じところを何度も触っている。 “ここにあるはず”の触り方。

 父がぽつりと言った。

「……布……どこだ」

 布。 会うときの布。 戸口に敷く布。

 幹夫は、胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……父ちゃん、布、なくなった?」

 父は一瞬だけ眉の間を寄せて、それから、寄ったままでも刃にならない声で言った。

「……おきぬさんの家の前に……敷いた。……たぶん、置いてきた」

 置いてきた。 置いたはずのものが、戻ってこない。 “戻らない”は、胸を走らせる日がある。

 父の肩がふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 台所の境目から母が顔を出した。 鍋の湯気の匂いを連れている。

「布なら……返してもらいに行けばええだに。置いたんじゃなくて、忘れただけだに」

 “忘れただけ”。 その言い方が、重いものを軽くする。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「忘れたら謝れ。……謝って、返してもらえ。終いだに」

 謝れ。 その一言が、父の胸の奥の硬いところを叩いたみたいに見えた。

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……謝るの……苦手だ」

 苦手。 父が“苦手”と言うとき、そこには怖さが混ざっている。 怖さを“苦手”に言い換えると、入口が見つかる。

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、励ましが押しつけになる日がある。 だから、間。

 ――いき。

 母が急がせない声で言った。

「苦手でもええ。……布は、借りたもんじゃないけど、相手の家に置いてきたもんだに。『すみません』って置けば、胸が刺さらん」

 “置けば”。 言葉も置ける。 置けると、投げないで済む。

 父はしばらく黙って、それからぽつりと言った。

「……みき坊……一緒に行くか」

 一緒に。 その二文字が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

「うん」

 父は懐に手を入れて、丸い角の札――「ま/息」を指でつまんだ。 つまんで、撫でる。 撫でると、手が戻る。

 父が低く言った。

「……ま、持ってく」

 道は潮と砂と、どこか鉄の匂いが混ざっていた。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。 混ざるけれど、ちゃんと分かれる。 海の匂いと、線路の匂いと、人の匂い。

 おきぬさんの家の前で、父の足が止まった。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父は、戸口の硬い地面にいきなり立つんじゃなく、いったん端へ寄った。 端は逃げ道がある。 逃げ道があると、胸が潰れにくい。

 父が懐から小さな布を出した。 自分の置き布の切れ端。 それを戸口の前にそっと敷く。

 とん。

 音が眠る。

 父が戸を叩く。

 とん、とん。

 戸が開いて、おきぬさんが顔を出した。 今日は猫の耳が、戸の陰からちらりと見えた。 見えたのに、出てこない。 出てこないのは、家の中に“ここまで”ができたからかもしれない。

「あら、兄さん。みき坊も。……どうしただに」

 父の肩がふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、父は自分で息を吐いた。

 ふう……。

 父は、いきなり言葉を投げない。 まず、戸口の布の上に、ま札をそっと置いた。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

 父が低く言った。

「……ま」

 それから、置き布を探すみたいに、目だけで戸口の端を見た。 おきぬさんが、気づいたように言った。

「ああ! これだに!」

 おきぬさんは、戸の内側から、父の布を持ってきた。 ……布は、洗ってあった。 潮の匂いが落ちて、ほんの少し石けんの匂いがする。 匂いが変わると、同じ布でも“戻ってきた”感じがする。

 角のところに、小さい縫い目。 返し縫い。 抜けないように、戻って固めた縫い目。

「勝手に洗ってごめんねぇ。……置き布、ええなと思ってさ。うちも真似しようと思っただよ。角、ほつれとったで縫っといた」

 縫っといた。 おきぬさんの“返し”。 返された布が、少しだけ強くなっている。

 幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息をひとつ入れる。

 ――いき。

 父は布を受け取ろうとして、いきなり掴まない。 まず、戸口の布の上にそっと置いて、目で確かめた。 確かめると、胸の中に皿ができる。

 父の口が動きかけて、止まる。 止まるとき、言葉が胸の中で引っかかっている。

 父は懐のま札の角を指で撫でた。 撫でて、間を作る。 間に、息。

 ――いき。

 父が、やっと言った。

「……すみません」

 小さい声。 でも、ちゃんと外へ出た声。 “謝り”が、刃じゃなく置かれた。

 おきぬさんが目を丸くして、それから首をぶんぶん振った。

「そんな、そんな! 謝ることじゃないだに。……布、助かったくらいだに」

 父はそこで、言葉がもう一つ引っかかっている顔をした。 引っかかっているのは、“ありがとう”。

 父の喉がごくりと動く。 動いて――息を吐く。

 ふう……。

「……ありがとう」

 昨日より、少しだけ丸い声だった。 丸いと、刺さらない。 刺さらないと、相手の胸が落ちる。

 おきぬさんの肩が、ふっと落ちた。

「……こっちこそだに。兄さんが“ありがとう”って言ってくれると、なんか……ほんと、落ち着く」

 落ち着く。 返ってくる言葉。 返ってきた言葉は、父の胸の中の道を広げる。

 父は布を畳みながら、ぽつりと言った。

「……縫い目……返し縫い、だな」

 おきぬさんが笑った。

「知らんでやっただに。……でも、抜けんようにって気持ちは同じだに」

 抜けんように。 続くように。 結び目の“ま”みたいに。

 戸の陰の猫が、父のほうをちらりと見て、すぐ目を逸らした。 逸らす目は、まだ恥ずかしい目。

 父が低く言った。

「……巣は……ここまでだ」

 “ここまで”。 境の言葉。 でも、今日は怒りじゃなく、守りの言い方だった。

 おきぬさんが頷く。

「うん。……わかった。うちも“ここまで”作る。布も敷く」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……それが……ええ」

 短い“ええ”。 短いのに、やわらかい。

 帰り道、父は布の縫い目を指で撫でながら歩いた。 撫でると、手が戻る。 手が戻ると、胸も戻る。

 父がぽつりと言った。

「……すみません、って……言うと……胸が軽くなるな」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……言葉、出たら、ほどける」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……でも……言葉って……刺さることもあるだろ」

 幹夫は、その問いの“やさしさ”に胸が熱くなった。 父が“刺さる”を気にしている。 そのまま熱くすると走りそうだから、息。

 ――いき。

「……うん。……だから、ま。……息」

 父は小さく頷いた。

「……ま、と……息……それが弓みてぇだな」

 弓。 父の言い方は、刃の話じゃない。 “放つ”ための仕組みの話だった。

「……言葉は……放つ。……胸に溜めると……重くなる」

 放つ。 外へ出す。 出したら、戻ってくることもある。 戻ってきたら、固まる。

 幹夫は袋を押さえて、胸の中で言った。

 ――いき。

 夕方。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 謝

 幹夫はその字を見た瞬間、父の「すみません」と「ありがとう」が、戸口の布の上に置かれたみたいに思えた。 置けた言葉は、刺さらない。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは言だに。……ことば」

 ことば。 置くことば。 伝えることば。 返すことば。

 母は右側をなぞった。

「こっちは射(しゃ)だに。……射る、って字。放つってこと」

 放つ。 外へ出す。 でも、撃つじゃない。 刺すじゃない。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「謝るってのはな……言葉を、胸の中から外へ放って、相手に届くところへ置く字だに。溜め込むと胸が重くなる。放つと軽くなる。……でも狙いが尖ると刺さるでな。だから、ま。息。丸く放つ」

 丸く放つ。 その言い方が、幹夫の胸の奥にすとん、と座った。

 母は続けた。

「それとな、謝るは“ごめんね”だけじゃない。……“ありがとう”も謝だに。どっちも、言葉を外へ出して、相手の胸を落ち着かす」

 父が新聞紙の「謝」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、謝って……負けるみてぇで……嫌だった」

 母は否定しなかった。 低く言った。

「負けじゃないだに。……胸の重さを相手に投げないための“守り”だに。謝るのは、自分も相手も守る」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「謝れりゃ飯がうまい。……謝れんと腹が荒れる。荒れたら負けだに」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……守りか」

 その声は、まだ震えている。 でも、折れていない。

 幹夫は鉛筆を握った。 謝を書く。

 一回目の「謝」は、射の線が尖って、字が硬い顔になった。 硬いと、言葉が刃に見える。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「尖ったらな……言を太らせりゃええ。言葉に飯の温度を入れる。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「謝」は、言がふっくらして、射が少し丸く座った。 座ると、刺さらない字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「謝」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……言葉が落ち着くな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……落ち着いた言葉は、刺さらん。刺さらんと、続く」

 母は「謝」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、戸口の布の上に置いた言葉みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

おきぬ さんぬのかえって きたすみませんいえたありがとういえた謝 って じことば を はなすま と 息 が いるむねすこし かるいいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……謝るの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、言えたら、返ってくる。……落ち着くって」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……落ち着く、って返ってくるの……嬉しいな」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「嬉しいって言えるのも謝だに。……言葉、放てただに」

 祖母が淡々と言う。

「放てりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 謝れる明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

あやまる と ありがとう はおなじ 謝 の じ なんだねきょうとうちゃんすみません いえたありがとう も いえたこえまるかったぼくうれしかったいき

 最後に、小さく「謝」。 丸をひとつ。 置いた言葉の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは父の「すみません」が出る前の“間”の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

謝 はことば を はなしてま を つくってささらん ように おくありがとう も ここうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうすみませんいえたありがとういえたこわかった けどま して息 してはなせた謝 って じすこしおれ の むね の かたさとける

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな木の札。 片面に「すまん」。もう片面に「ありがとう」。 角は丸く削ってあって刺さらない。 札の端に、父の震える字で小さく、

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその札を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 謝る。 ありがとう。 どっちも、言葉を外へ出して、相手の胸に置く。 まを作って、息を通して、丸く放つ。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「すみません」と「ありがとう」の小さな札は届いた。 届いた“放てた言葉”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、胸の中の重さを、刺さらない形で外へ置いていった。

 
 
 

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