白い素材
- 山崎行政書士事務所
- 5月12日
- 読了時間: 19分

一 お願いという名の命令
地方都市の朝は、テレビ局の電波塔よりも先に、広告代理店のメールサーバーから明ける。
午前八時五十八分。
駿河アドリンク営業三課の若手営業、真柴雄介は、まだ温度の上がりきらないオフィスで、ノートパソコンの画面に映る一通のメールを見つめていた。
件名は、「葵法務オフィス様:東海中央テレビからのお願い」
“お願い”。
その二文字は、業界では便利な言葉だった。
頼みでもあり、指示でもあり、場合によっては脅しでもある。発信者が強ければ強いほど、「お願い」は命令に近づく。だが文面だけは、いつも柔らかい。
真柴は、前夜に局から送られてきた添付文書を開いた。
番組名を用いたSNS投稿について、視聴者に誤認を与える可能性があるため、削除をご検討いただきたく存じます。また、生成AIによる投稿につきまして、今後同番組名等に関する投稿をしないようにする機能があれば、設定していただきますようお願いいたします。
真柴は、声に出さずに読み返した。
「生成AIによる投稿をしないようにする機能があれば」
そんな機能が何なのか、彼には分からなかった。だが分からないまま送らなければならなかった。局が言っている。キー局が見ている。上司は「角が立たないように」と言う。スポンサーには「ご確認をお願いします」と書けばいい。
テレビCMの世界では、スポンサーは金を払う側であるはずだった。
だが真柴は、いつからか逆だと感じていた。スポンサーは放送枠を買う。代理店は枠を手配する。地方局は枠を売る。キー局は番組の名誉を守る。しかし実際の現場では、スポンサーが一番弱い。
そのスポンサーが、葵法務オフィスの代表、青柳哲郎だった。
行政書士として地元では知られた男だ。中小企業の許認可や在留資格の申請を扱い、最近は事務所の広報に力を入れていた。少し癖は強い。メールは長い。論理は鋭い。相手の曖昧な言葉を逃さない。だが真柴は、青柳が怒る理由も分かっていた。
数か月前、青柳はテレビCMを出した。
金額は地元の事務所にとって決して安くない。番組提供という言葉に、青柳は少し誇らしげだった。「地元の信用を得るために、テレビを使う」そう言っていた。
ところが、CMが放送された後、青柳がSNSで「某情報番組でCM放送実績あり」と投稿すると、局側から削除要請が来た。番組名を出すな。局名を出すな。誤認を招くな。AIに投稿させるなら制御しろ。ブランドを守れ。レピュテーションを損ねるな。
青柳は電話口で言った。
「真柴さん、私は広告費を払ったんですよね」
「はい」
「では、私は客ですよね」
「もちろんです」
「なのに、なぜ私が注意される側になるんですか」
真柴は答えられなかった。
社内では、答えは決まっていた。
“テレビ局様の意向だから”。
二 白い封筒
問題の発端は、一本のCM素材だった。
その日、青柳の事務所には、白い封筒に入った放送用素材が届いた。外側には、別の代理店名が記されていた。青柳が自分で手配した素材だった。
午後、東海中央テレビの営業担当が二人、事務所を訪れた。
一人は局の若手、もう一人は編成寄りの中堅だった。彼らは愛想よく挨拶し、茶を飲み、地域経済の話をし、最後に言った。
「ちょうど素材が届いたようですので、こちらでお預かりして、搬入代理店に渡します」
青柳はその瞬間、少し引っかかった。
「搬入代理店というのは?」
「駿河アドリンクさんです。通常の流れです」
「この素材は、別の代理店名で作成したものですが」
「放送用素材は、クライアント様から広告会社を経由して局に搬入されるのが一般的ですので」
“一般的”。
これもまた、便利な言葉だった。
業界の内側にいる者が「一般的」と言えば、外側の者は黙る。分からないからだ。分からないことを利用して、承諾があったことにする。
その後、CM放送は予定変更で中止になった。
青柳は、当然、素材は自分に戻ると思っていた。ところが素材は、局から駿河アドリンクへ返却されていた。
青柳がその事実を知ったのは、数日後のことだった。
「なぜ、私の素材が、私の明示的な承諾なく代理店に渡っているんですか」
真柴は、最初、軽く考えていた。
「通常の流れで……」
青柳は遮った。
「通常の流れというのは、誰にとっての通常ですか」
「放送業務上の……」
「私は説明を受けていません」
「局側は説明した認識とのことで……」
「認識ではなく、事実を言ってください。日時、場所、誰が、何を、どのように説明したのか。時系列で書いてください」
真柴の喉が詰まった。
電話の向こうで、青柳の声は静かだった。怒鳴ってはいない。だが、怒鳴られるより怖かった。
「真柴さん、あなた個人を責めているわけではありません。ただ、私の素材を勝手に回したなら、それは重大な問題です。しかも、CMがなくなった後なら、なおさらです」
真柴は「確認します」と言った。
その言葉を、彼はその週だけで二十七回使った。
三 局の価値観
東海中央テレビの会議室には、壁一面に番組ポスターが貼られていた。
報道番組。朝の情報番組。地域密着の夕方ワイド。笑顔のアナウンサーたちが、透明な言葉で視聴者に語りかけている。
「あなたの暮らしに寄り添う」「正確で温かい情報を」「地域とともに」
その下で行われている会議は、温かくも透明でもなかった。
「葵法務オフィスの件、どうなってます?」
編成営業部の志村課長が、資料を机に置いた。
「スポンサー側が強く反発しています。素材の扱いと、SNS削除要請の正当性について説明を求めています」
真柴の上司、進藤部長が答えた。
「削除要請は、キー局からの意向なんですよね」
志村は眉をひそめた。
「意向というか、番組名の使用管理です。いまはSNSで何でも拡散される。スポンサーが勝手に番組名を使って、まるで番組公認みたいに見えるのは困る」
「ただ、実際にCMは流れているわけですよね」
「流れていることと、番組名を宣伝に使うことは別です」
「スポンサーは、広告実績として使いたいと」
「そこが分かっていない」
志村は、わずかに声を低くした。
「テレビは単なる広告掲示板じゃないんです。番組には文脈がある。ブランドがある。こちらが積み上げてきた価値観がある。そこに、誰でも乗れると思われては困る」
真柴は、黙ってメモを取っていた。
価値観。
その言葉を聞いた瞬間、彼は青柳の顔を思い出した。
広告費を払ったスポンサーに、テレビ局の価値観を守らせる。番組名を使うな。SNSの文言を直せ。AI投稿を止めろ。こちらのブランドを傷つけるな。
だがスポンサーのブランドは、誰が守るのか。
「局としては、書面を出します」
志村が言った。
「ただし、命令口調にはしない。あくまでお願いです」
進藤部長が頷いた。
「代理店から伝えます」
その瞬間、真柴は自分の会社の位置を理解した。
スポンサーの代理人ではない。局の下請けでもない。その中間にいるのではなく、強い方の声を弱い方へ運ぶ管だった。
しかも、管は汚れる。
四 社印の重み
青柳からの返信は、即日だった。
文面は長かった。だが、論点は明快だった。
第一に、代理店が顧客に対して監督的に命じるような書きぶりは不適切である。第二に、キー局から正式な委任があるのか不透明である。第三に、不適切利用の定義がないまま削除を求めることは、過剰介入ではないか。第四に、広告代理店は本来、広告主の利益を代理してテレビ局と交渉する立場ではないのか。
最後に、こうあった。
「社印を入れた書面でください」
真柴は、その一文を見て椅子にもたれた。
社印。
メールなら曖昧にできる。電話なら記憶違いにできる。「認識」で逃げられる。「確認中」で止められる。「お願い」で薄められる。
だが社印は違う。
会社が言ったことになる。会社が責任を負うことになる。誰かの雑な文章が、組織の意思になる。
部長席から、進藤の声が飛んだ。
「真柴、青柳さんの件、どうなってる?」
「社印入り書面を求められています」
「無理だろ」
「ですよね」
「局に確認して」
「局は、うちから伝えてくれと」
「じゃあ、うちの判断では出せないと返して」
「それを返すと、では誰の判断なのかと聞かれます」
進藤は黙った。
部屋の奥で、誰かが小さく笑った。真柴はその笑いに腹が立った。
この件は、みんな自分の机の上に置きたくないだけだった。
局はキー局の意向だと言う。キー局は番組ブランドの問題だと言う。代理店は局からの依頼だと言う。スポンサーは、誰から何を求められているのか分からない。
そして現場の営業が、すべての曖昧さを「いつも大変お世話になっております」に包んで送る。
その日の夜、真柴はメールを書いた。
SNS投稿に関する内容につきましては、私の判断の範疇を超えており、各所に確認・調整をしております。本日中にはご報告できると思います。
送信ボタンを押した直後、彼は後悔した。
“本日中”。
できるはずがない。だが、何かを約束しなければ、相手の怒りが収まらない。何かを約束すれば、社内の誰かに確認しなければならない。確認すれば、誰も責任を取らない。
真柴は、画面の端に映る自分の顔を見た。
疲れたサラリーマンの顔だった。悪人ではない。だが、悪事の通路にはなっている。
五 スポンサーの椅子
青柳は、事務所の応接室で一人、印刷したメールを並べていた。
時系列。
五月十五日。局からのお願い。五月二十六日。素材の扱いに関する説明要求。五月二十七日。通常の流れとの回答。同日、社印入り書面要求。五月二十八日。SNS投稿削除要請の正当性確認。五月二十九日。行政機関への申立案。
彼は赤ペンで線を引いた。
「説明したと認識しております」
赤線。
「通常の流れ」
赤線。
「ご対応をご検討いただきたく」
赤線。
「投稿をしないようにする機能があれば」
太い赤線。
青柳は、ふと笑った。
テレビ局の人間は、自分たちがまだ巨大な門番だと思っている。代理店の人間は、その門番に嫌われたら商売ができないと思っている。スポンサーは、その門を通らなければ信用が得られないと思わされている。
しかし、いまの時代、門の外にも道はある。
SNSがある。検索がある。動画配信がある。口コミがある。そして何より、記録がある。
青柳は、弁護士に送るメモを書き始めた。
「本件は、単なるSNS投稿削除要請ではない。テレビ局および広告代理店が、広告主に対して不透明な権限に基づき、表現内容の制限、素材管理の追認、ブランド価値観への服従を求めた事案である」
書きながら、少し大げさかもしれないと思った。だが、起きていることは小さくなかった。
地方の一事務所が、テレビCMを出した。それだけのことだ。
しかし、その小さな契約の裏で、巨大な慣習が姿を現した。
放送局は、番組名を守るという名目でスポンサーの広報を縛る。代理店は、スポンサーの代理人であるはずなのに、局の顔色を見てスポンサーに要望を伝える。素材は「通常の流れ」で移動し、説明は「認識」で済まされる。責任者は出てこず、現場担当者が謝る。誰も命令していないのに、全員が従っている。
青柳は、最後にこう書いた。
「これは癒着というより、空気である。だが、空気ほど証明しにくく、空気ほど人を窒息させるものはない」
六 会食
金曜の夜、東海中央テレビの志村課長と、駿河アドリンクの進藤部長は、市内の小料理屋にいた。
暖簾の奥の個室。刺身。地酒。店主はテレビ局関係者に慣れており、余計なことは聞かない。
「青柳さん、面倒な人ですね」
進藤が言った。
志村は猪口を置いた。
「面倒というか、最近はああいう人が増えましたね。全部記録する。全部理屈で返す」
「昔なら、お願いしますで終わってました」
「昔ならね」
二人は笑った。
その笑いは、悪党の笑いではなかった。だからこそ質が悪かった。
彼らは、自分たちを不正の当事者だとは思っていない。業界を守っていると思っている。局のブランドを守る。番組を守る。広告の秩序を守る。そのために、スポンサーに少し我慢してもらうのは当然だと思っている。
「でも、あの事務所、行政機関に申し立てるとか言っています」
進藤が言った。
「大丈夫ですよ。うちは削除を“お願い”しただけですから」
「素材の件は?」
「通常の搬入フローです」
「承諾がないと言われています」
志村は、少しだけ顔をしかめた。
「そこは、説明したということで」
「誰が?」
「現場が」
「現場の誰が?」
「……そこを掘られると面倒ですね」
進藤は黙って酒を飲んだ。
個室の外では、テレビ局の夕方番組に出ている地元タレントの声が聞こえた。別の席で誰かが盛り上がっている。店内のテレビには、東海中央テレビのニュースが流れていた。
キャスターが言った。
「企業には、説明責任が求められています」
志村と進藤は、同時に画面を見た。そして、同時に目を逸らした。
七 担当者
週明け、真柴は青柳の事務所を訪れた。
上司は同行しなかった。局の担当者も来なかった。
「結局、真柴さんだけですか」
青柳が言った。
「申し訳ございません」
「あなたが謝ることではないでしょう」
「いえ、弊社として……」
「弊社としてなら、部長か役員が来るべきです」
真柴は頭を下げた。
応接室には、問題の白い封筒が置かれていた。青柳が取り戻した素材だった。
「真柴さん、これを見てください」
青柳は封筒を指さした。
「これは私が費用をかけて作った素材です。テレビ局のものでも、代理店のものでもありません。放送がなくなったなら、私に戻るべきものです」
「おっしゃる通りです」
「では、なぜ最初からそう言わないんですか」
真柴は答えに詰まった。
青柳は続けた。
「SNS投稿の件も同じです。局が番組名を守りたいなら、正式に理由を説明すればいい。どこが問題なのか、どの表現が誤認を招くのか、法的根拠は何か。そうすれば私は検討します。だけど、実際には『お願い』と称して、こちらの表現を丸ごと萎縮させようとしている」
「そのような意図では……」
「意図ではなく、効果の話です」
真柴は、胸を突かれた。
意図ではなく、効果。
悪意がなくても、相手は傷つく。命令のつもりがなくても、相手は従わされる。通常のつもりでも、相手には無断に見える。お願いのつもりでも、権力差があれば圧力になる。
青柳は、少し声を落とした。
「真柴さん、私はテレビが嫌いなわけではありません。むしろ、信じていたんです。地方のテレビ局に出ることは、地元で仕事をする者にとって信用になると思っていました」
真柴は黙って聞いた。
「でも実際は、金を払った瞬間から、こちらが局の価値観に従う側になる。番組名をどう使うか、何を投稿するか、どのAIをどう制御するかまで口を出される。こちらの信用を作るためにテレビを使ったはずが、いつの間にかテレビ局の信用を守るためにこちらが動員されている」
青柳は笑った。疲れた笑いだった。
「これは広告ではない。奉仕です」
八 報告書
駿河アドリンクの社内報告書は、簡潔にまとめられた。
本件については、局側との認識共有に不足があり、スポンサーへの説明に齟齬が生じた。今後、素材搬入・返却フローについては、事前説明を徹底する。SNS投稿等に関する局側要望については、正式な依頼主体、根拠、範囲を確認した上で伝達する。
真柴は、その報告書を読んで苦笑した。
認識共有。説明に齟齬。事前説明の徹底。
美しい言葉だ。何も言っていないのに、何か言ったように見える。
進藤部長は言った。
「これで一区切りだな」
「青柳さんへの回答は」
「この文面をベースにして」
「謝罪は入れますか」
「謝罪という言葉は強い。遺憾、くらいで」
「遺憾だと、こちらが悪いと認めていないように見えます」
「認めるわけにはいかないだろ」
真柴は、黙って頷いた。
そこへ、局から電話が入った。
「はい、駿河アドリンク、真柴です」
相手は志村課長だった。
「例の件ですが、キー局から追加で確認がありました。SNS投稿のスクリーンショット、過去分も含めて一覧化できますか」
真柴は目を閉じた。
終わっていなかった。
「スポンサー側に依頼する形でしょうか」
「いや、御社で見られる範囲で」
「監視のように受け取られる可能性があります」
「言い方の問題です。番組名利用状況の確認、とか」
真柴は、初めて少し強い声を出した。
「それは、弊社がスポンサーの投稿を監視するということですか」
電話の向こうが沈黙した。
数秒後、志村が言った。
「真柴さん、業界の仕事って、そういうものですよ」
その言葉を聞いた瞬間、真柴の中で何かが切れた。
九 小さな拒否
真柴は、その日の夕方、進藤部長に言った。
「この件、私はこれ以上、曖昧な形では伝えられません」
進藤は驚いた顔をした。
「どういう意味だ」
「局からの要望であるなら、局名義の正式文書にしてください。キー局の意向であるなら、キー局の担当部署、根拠、範囲を明示してもらってください。弊社がスポンサーに出すなら、スポンサーの利益を守る立場で文面を作るべきです」
「急に正論を言うな」
「正論ではなく、当たり前だと思います」
進藤の顔が硬くなった。
「真柴、お前、局との関係を壊す気か」
「スポンサーとの関係は、もう壊れています」
「局を怒らせたら、他の案件にも響く」
「スポンサーを怒らせても響きます」
「規模が違うだろ」
真柴は、その言葉を聞いて、逆に落ち着いた。
規模が違う。
結局、それだった。
正しさではない。契約でもない。倫理でもない。大きい相手を怒らせない。小さい相手には飲ませる。
癒着とは、裏金や密約だけではない。日々の判断の中で、強い方に寄ることだ。弱い方に説明を押しつけ、強い方には確認をお願いすることだ。それを何年も続けると、誰も癒着と呼ばなくなる。「関係性」と呼ぶようになる。
真柴は言った。
「局との関係を守るために、スポンサーに嘘はつけません」
進藤は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「お前、異動したいのか」
真柴は答えなかった。
十 電波の外
青柳は、行政機関への申立書を完成させた。
同時に、事務所のSNSにも長文を投稿した。
ただし、局名も番組名も伏せた。個人名も出さなかった。事実関係と、問題の構造だけを書いた。
「広告主がテレビCMを出すとき、広告主は単に放送枠を買っているのではない。局、代理店、番組、素材管理、広報利用、SNS表現という複数の権力関係の中に置かれる。そこでは、顧客であるはずの広告主が、いつの間にか局のブランド価値を守るための従属的存在にされることがある」
投稿は、予想以上に広がった。
地方企業の経営者が反応した。「うちも似たようなことがあった」「番組名を出すなと言われた」「代理店が局の言いなりだった」「広告費を払っているのに、局にお願いする立場だった」
テレビ局関係者からの匿名コメントもあった。
「現場は分かっている。でも上は変わらない」「番組ブランドを守るという名目で、スポンサーを管理対象として見ている」「代理店はスポンサーの代理人というより、局の営業補助になっている」
真柴も、その投稿を読んだ。
スマートフォンの画面の中で、青柳の言葉は淡々としていた。怒りはある。しかし、告発というより、観察だった。
真柴は、コメントを書きかけて消した。
自分が何かを言う資格があるのか分からなかった。
その夜、彼は退職届のテンプレートを検索した。だが、すぐには書けなかった。
住宅ローンがある。子どもの保育園がある。妻にはまだ話していない。正しさだけで生活はできない。
彼は画面を閉じ、台所で水を飲んだ。
テレビでは、東海中央テレビのニュースが流れていた。キャスターが笑顔で言う。
「次は、地域企業の挑戦を紹介します」
映し出されたのは、地元の小さな菓子店だった。店主は緊張した顔で、テレビに出られる喜びを語っていた。
真柴は、その店主の笑顔を見て胸が痛んだ。
テレビは、まだ人を喜ばせる。テレビは、まだ信用を与える。テレビは、まだ地域で力を持っている。
だからこそ、ずるい。
十一 返却
一か月後、駿河アドリンクは、葵法務オフィスに正式な文書を送った。
文面には、謝罪という言葉はなかった。だが、素材の扱いについては「事前確認が十分ではなかった」と記されていた。SNS投稿については「依頼主体および根拠を明確にしないまま伝達したことにより、誤解を生じさせた」と書かれていた。
青柳は、それを読んで、満足はしなかった。だが、一定の前進ではあると思った。
同封されていたのは、例の白い素材だった。
青柳は封筒を開け、ディスクを取り出した。ラベルには、事務所名と放送予定日が印字されていた。
放送されなかったCM。返ってこなかった素材。削除を求められた投稿。確認中のまま漂った責任。お願いという名の圧力。
青柳は、そのディスクを棚に置いた。
記念品ではない。証拠品でもない。戒めだった。
電話が鳴った。
知らない番号だった。
「葵法務オフィスの青柳先生でしょうか。突然すみません。弊社、県内で製造業を営んでいる者です。先生の投稿を拝見しまして……実は、うちもテレビCMの件で相談したいことがありまして」
青柳は、静かに椅子に座った。
「どういった件でしょうか」
相手は、少し迷ってから言った。
「広告代理店が、うちではなく局の方ばかり見ている気がするんです」
青柳は、窓の外を見た。
夕方の空に、電波塔の影が伸びていた。
「よくある話です」
彼は言った。
「でも、よくあるからといって、正しいとは限りません」
十二 白い光
真柴が異動を命じられたのは、その秋だった。
営業三課から、デジタル広告推進室へ。左遷かどうかは分からない。ただ、テレビ局との折衝からは外された。
送別会で、進藤部長は言った。
「お前は真面目すぎる」
真柴は笑った。
「そうかもしれません」
「でも、まあ、デジタルの方が向いてるかもな」
「テレビより、記録が残りますから」
進藤は苦笑した。
その帰り道、真柴は駅前の大型ビジョンを見上げた。そこには、地元テレビ局の番組宣伝が流れていた。
“信頼されるメディアへ”
白い文字が、夜の街に浮かんでいた。
真柴は、その言葉を美しいと思った。同時に、虚しいとも思った。
信頼は、掲げるものではない。積み上げるものだ。そして、壊すのは一瞬だ。
広告代理店とテレビ局の間には、長い年月で築かれた関係がある。番組枠、提供料、飲み会、貸し借り、顔色、慣例、沈黙。その関係は、ときに仕事を円滑にする。しかし、ときにスポンサーを見えない椅子に縛りつける。
座らされている本人だけが、その縄の痛みを知っている。
真柴はスマートフォンを取り出し、青柳に短いメールを書いた。
ご無沙汰しております。当時は十分な対応ができず、申し訳ありませんでした。あの件で、自分の仕事の立ち位置を考えるようになりました。ありがとうございました。
送信するまで、十分ほど迷った。
結局、送った。
返信は翌朝来た。
真柴様ご連絡ありがとうございます。あの件では、私も強い言葉を使いました。ただ、誰かが立ち止まらなければ、同じことが続くと思いました。お互い、よくある話を、よくある話で終わらせないようにしましょう。
真柴は、そのメールを何度も読んだ。
窓の外では、朝の光が街を白く照らしていた。
テレビ局の電波塔も、広告代理店のビルも、スポンサーの小さな事務所も、同じ光の中にあった。
だが、その光が公平であるとは限らない。
公平に見える光の下で、誰が声を持ち、誰が黙らされるのか。誰のブランドが守られ、誰の信用が削られるのか。誰の「お願い」が命令になり、誰の抗議が面倒な客扱いされるのか。
真柴は、メールを閉じた。
そして、新しい案件の資料を開いた。
今度のクライアントは、町工場だった。テレビCMではなく、ウェブ動画広告を出したいという。
打ち合わせメモの一行目に、真柴はこう書いた。
「広告主の利益を最初に確認すること」
それは、当たり前のことだった。
当たり前のことを、当たり前に書かなければならない業界に、彼はまだいた。
だが、その一行だけは、もう消さないと決めていた。





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