薬草の声
- 山崎行政書士事務所
- 5月16日
- 読了時間: 7分

昭和三十八年の大阪には、朝ごとに少し煤けた光が降りた。
幹夫が勤める浪花本草製薬の本社は、道修町の古い薬種問屋の面影を残す通りに面していた。表には新しいガラス戸が入り、二階の窓には白いブラインドが掛けられていたが、裏庭だけは昔のままだった。井戸の跡があり、苔むした石灯籠があり、誰が植えたのかもわからない南天と薄荷と、隅のほうには小さな薬草園があった。
幹夫は二十歳だった。
白衣はまだ肩に馴染まず、袖口から覗く手首は細かった。研究補助員として採用されて三か月。朝は試験管を洗い、昼は帳面に数字を書き写し、夕方には乾燥棚の生薬を確かめた。会社は日本でも指折りの製薬会社だと先輩たちは誇らしげに言ったが、幹夫にはその大きさがまだよくわからなかった。わかるのは、ガラス瓶の内側に残る微かな匂いと、薬草を指先で摘んだときに伝わる冷たさだけだった。
その日の朝、淀屋橋のほうから吹いてくる風は、雨の匂いを含んでいた。
幹夫は裏庭で、乾燥しきらずに湿り気を帯びた薄荷の葉を一枚、そっと掌にのせた。葉脈は細い川のように走り、その川の奥で、何かが小さく息をしているようだった。
「今日は、雨が遅れます」
幹夫は思わず顔を上げた。
声は誰のものでもなかった。庭には誰もいない。出勤した社員たちの足音は表の階段に吸い込まれ、遠くでタイプライターの音が、雨粒の先触れのように鳴っているだけだった。
それでも声は、確かに聞こえた。
「あなたが急がなければ、雨も急ぎません」
幹夫は掌の薄荷を見つめた。葉は何も言わない。ただ朝の光を受け、縁に銀色の毛をきらめかせていた。
子どものころから、幹夫はよく人に笑われた。
田舎の祖母の家で、柿の木に話しかけていた。川辺の石に耳を当て、昨日の水音を聞こうとしていた。学校では、皆が運動場で声を張り上げているとき、幹夫だけが校舎の壁に這う蔦の影を見ていた。影が伸びる速度に、その日の機嫌があるような気がしたのだ。
「お前はぼんやりしすぎや」
父は何度もそう言った。
ぼんやりしているのではない、と幹夫は言えなかった。ただ、目の前にあるものが、見える形だけで終わっていないように思えた。机には机の沈黙があり、雨には雨の思案があり、枯れた葉にも、落ちるまでにためらった時間があった。
けれど会社では、その感覚は役に立たなかった。
数字は正確でなければならず、重量は一分の狂いも許されなかった。抽出液の色は標準表に照らして判断され、香りを「寂しい匂い」と言えば笑われるだけだった。
幹夫は自分の中にある柔らかい部分を、毎朝、白衣の内側へ押し込めた。
その日も、主任の片岡から叱られた。
「幹夫君、また記録が遅い。感じたことを書く帳面やない。数字を書く帳面や」
片岡は悪い人ではなかった。むしろ若い者をよく見てくれる上司だった。だが声は硬く、定規で引いた線のようにまっすぐだった。
幹夫は頭を下げた。
「すみません」
帳面には、乾燥温度、湿度、重量、時間が並んでいた。その横に幹夫は無意識に、小さく「今朝の薄荷、雨を待つ」と書いていた。片岡はそれを見つけたのだった。
「薬は、人の命に関わる。詩では作れん」
その言葉は正しかった。
正しい言葉ほど、胸に刺さると抜きにくい。
昼休み、幹夫は弁当箱を持って裏庭へ出た。空は灰色に曇り、御堂筋の銀杏並木は遠くで湿った緑に沈んでいた。会社の塀の向こうを、自転車が何台も通っていく。ベルの音が、忙しげに町の空気を切った。
幹夫は石灯籠のそばに腰を下ろした。
祖母が作ってくれた梅干し入りの握り飯を食べながら、彼は薄荷の葉を見た。朝と同じ葉はそこにあり、ただ少しだけ、空へ向かって背筋を伸ばしているように見えた。
「僕は、役に立たんのかな」
声に出すつもりはなかった。けれど言葉は、喉から落ちるように出た。
庭は答えなかった。
雨の前の沈黙が、薬草園の上にふわりと被さった。沈黙の中で、幹夫は自分の心が小さく縮こまっているのを感じた。会社という大きな建物の中で、自分は一本の細い草にすぎない。踏まれれば折れ、抜かれれば終わる。そんな考えが胸に広がり、握り飯の塩味が急に遠くなった。
そのとき、石灯籠の陰から、一匹の蜻蛉が出てきた。
季節には少し早い、青い蜻蛉だった。羽は薄い硝子のように透き通り、胴は夕方の川面のように青かった。蜻蛉は幹夫の前で一度止まり、それから薄荷の葉の先へ舞い降りた。
葉が揺れた。
「折れる草は、風を知っています」
また声がした。
今度は驚かなかった。驚きよりも先に、胸の奥で何かがほどけた。
「風を知らない大木よりも?」
幹夫は小さく尋ねた。
蜻蛉の羽が震えた。薄荷の葉の香りが、雨雲の下で静かに広がった。
「大木は空を支えます。草は足もとを覚えます。どちらも、薬になります」
幹夫は息を止めた。
薬になる。
その言葉は、主任の言葉とは違う硬さで胸に入った。人の命に関わる薬。数字によって支えられる薬。だが、それだけではないのではないか。薬草が土から吸い上げた水、朝の冷え、風に耐えた細い茎、そういう目に見えない時間もまた、薬の中には溶けているのではないか。
幹夫は、薬を詩にしたいのではなかった。
ただ、薬になる前の草の声を、聞き捨てたくなかったのだ。
午後、雨が降り出した。
窓ガラスを伝う雨筋が、研究室の白い光を柔らかく歪めた。幹夫は乾燥棚の前に立ち、いつものように生薬の状態を確かめていた。手順は決まっている。温度計を見る。湿度計を見る。重量を測る。色を標準表と比べる。
けれどその日は、最後に香りを確かめるとき、彼の指先がふと止まった。
一つの棚だけ、わずかに湿りすぎている。
数字は許容範囲内だった。記録上は問題ない。だが、香りの奥に、朝の雨を吸いすぎた畳のような重さがあった。幹夫は迷った。帳面に書くべきか。主任に言うべきか。言えば、また感覚だけで物を言うなと叱られるかもしれない。
しかし薄荷の声が、まだ掌に残っていた。
草は足もとを覚えます。
幹夫は片岡主任の机へ行った。
「主任、この棚の生薬ですが、もう少し乾燥を見たほうがいいと思います」
片岡は眼鏡を上げた。
「数値は?」
「範囲内です」
「では、何を根拠に?」
幹夫は喉が詰まりそうになった。研究室の空気が急に硬くなり、雨音だけが大きく聞こえた。
それでも彼は、逃げなかった。
「香りが、少し重いです。湿りが奥に残っていると思います。確認だけでも、お願いします」
片岡はしばらく幹夫を見ていた。
その視線は叱責ではなかった。若い芽を見定めるような、静かな目だった。
「……よし。再測定しよう」
結果は、幹夫の言った通りだった。
棚の奥の一部だけ、乾燥が不十分だった。乾燥機の温度むらが原因だった。大きな問題になる前に分かったため、片岡は何も言わず、ただ帳面に赤鉛筆で印をつけた。
夕方、雨は上がった。
会社の裏庭には、水を含んだ土の匂いが立っていた。南天の葉に小さな雫が並び、一つ一つが暮れかけた空を抱えていた。幹夫は白衣を脱ぎ、薄荷の前にしゃがんだ。
青い蜻蛉はいなかった。
その代わり、葉の先に残った雨粒が、幹夫の顔を逆さまに映していた。頼りなく、細く、けれど朝より少しだけ背筋の伸びた青年の顔だった。
背後から片岡の声がした。
「幹夫君」
幹夫は立ち上がった。
「はい」
片岡はしばらく庭を眺めてから言った。
「数字は大事や。だが、数字を見る人間の目も大事や。今日のことは、よかった」
それだけだった。
けれど幹夫には十分だった。
片岡が去ったあと、庭に夕風が入ってきた。御堂筋のほうから、濡れた銀杏の匂いと、市電の遠い響きが流れてきた。空の雲は西の端からほどけ、そこに淡い金色の光がにじんでいた。
幹夫は薄荷の葉に触れた。
「ありがとう」
葉は何も言わなかった。
だが、風が通った。
その風は、祖母の家の柿の木にも、少年の日の川辺の石にも、今朝の灰色の空にもつながっているようだった。幹夫は初めて、自分の感受性を恥じなくてもよいのだと思った。人より多く感じることは、傷つきやすいということでもある。だが同時に、小さな変化を見つける力でもある。
薬草の声を聞くこと。
数字を正しく読むこと。
その二つは、争わなくてもよいのかもしれない。
昭和三十八年の大阪の夕暮れは、雨上がりの町を琥珀色に染めていた。幹夫は会社の裏門を出て、濡れた石畳を歩き出した。靴音の下で、水たまりが小さく揺れた。
その揺れの中に、彼はもう一人の自分を見た。
まだ未熟で、臆病で、けれど耳を澄ますことをやめない青年。
幹夫はその青年に向かって、心の中で静かに頷いた。
明日もまた、草は伸びる。
そして自分も、たぶん少しだけ伸びる。





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