セナバの奇跡――深き影の調べ
- 山崎行政書士事務所
- 1月25日
- 読了時間: 8分

プロローグ:静寂に沈む鼓動
ラゴ・ディ・フローラの底に沈む“小さな礼拝堂”を封じてから、一週間ほどが過ぎた。 それは、セナバに眠る二枚の絵の“暴走”を抑え、長年続いてきた“時の門”の歪(ゆが)みを鎮める大きな成果だった。 ようやく街には安堵の空気が戻った――はずなのに。
「まだ落ち着かない気配がある……」 美術館の特別保管室で、野々村遥(ののむら・はるか)はそう感じていた。 封印は万全であり、扉の外観に異常は見当たらない。だが、かすかな胸騒ぎが日を追うごとに大きくなっている。それは、ほんの小さな“隙間風”のように、誰にも見えず、誰にも感じ取れないかもしれない。 しかし、過去に数々の奇跡と脅威を体験してきた遥の感覚は、目に見えぬ深き影の存在を告げようとしていた。
第一章:黒い封筒
ある夕暮れ、美術館で残務を終えて外へ出ようとした遥に、館長アルベルト・バルタが声をかけた。「奇妙な郵便物が届いてね。宛名も差出人も書かれていない……まるで映画の小道具みたいな黒い封筒なんだが、君宛てだよ」
差出人不明の手紙――先日までの事件でも何度か経験したが、それらはイタリアや古文書に関係する警告や予兆だった。だが今回の封筒は厚みがあり、封蝋(ふうろう)には見知らぬ紋章が刻まれている。 遥が不安と興味を抱えながら開封すると、中から二枚の紙片が出てきた。一枚は地図の断片、そしてもう一枚は短い文書。
「汝らが水底に沈めし礼拝堂――その背後には、さらに深く暗き“間(はざま)”が息づいている。三つの門を閉じただけでは、神の子はまだ目覚める。破滅を望むか、安寧を望むか。選択の刻(とき)は、再び訪れよう。」
これまでの門を封じた努力をあざ笑うかのような、漠然とした脅し文句。「“神の子”って、いったい……」 遥は思わず呟(つぶや)き、地図の断片に視線を落とした。そこにはセナバ郊外と思しき地形と、湖へ続く川のような線が描かれ、“Grave di Stella”という聞き慣れない名がメモされている。
第二章:Grave di Stellaという地名
翌日、遥と淡路巧(あわじ・たくみ)は、美術館の資料を片っ端から調べた。**Grave di Stella(グラーヴェ・ディ・ステラ)**という地名がセナバ近辺に存在するのかどうか。 アルベルトや地元の郷土史家にも当たってみたものの、誰ひとり聞いたことがないという。しかし古い地図を丹念に追いかけると、18世紀頃の文献に、一度だけ“Grave di Stella”の名が出現していた。
「ラゴ・ディ・フローラに注ぐ小川の源流付近に古い鍾乳洞があり、それを “グラーヴェ・ディ・ステラ” と呼ぶ。」
鍾乳洞――つまり湖ではなく陸側にある、自然の洞穴ということだろうか。しかもそれは歴史的にほとんど言及されておらず、地元民すら忘れているようだ。「あの手紙の差出人は、わざわざここを示してきた。何かあるんじゃないか?」 巧が地図を指さしながら言う。「ええ、たぶん“さらに深く暗き間”って、その鍾乳洞を指しているのかも」 遥の胸には、あの湖底の扉を封じたときに感じた“違和感”がまた疼(うず)いていた。
第三章:地底への探検
湖底礼拝堂の封印からまだ日が浅い。だが、新たな脅威がすぐ目の前に迫っている以上、座して待つわけにはいかない。 こうして二人は、再びラゴ・ディ・フローラ付近を訪れることにした。地元の図書館員の助言で、鍾乳洞の入り口らしき場所を示す地図を入手し、地形に詳しいガイドを雇って探索を試みる。
朝早くから山道を分け入り、苔むした岩場を下ると、小さな穴のような裂け目が見えてきた。日光が差し込まないほど奥行きがあり、滴(しずく)の音が微かに響く。「ここがGrave di Stella……」 ヘッドランプを点け、慎重に進むと、地下水が岩肌を伝う音がひんやりとした空気に溶けている。まるで耳元で囁(ささや)かれているようだ。
第四章:浮かび上がる紋様
ガイドの男性は「ここより先は立ち入りの許可が必要だし、あまり人が行かない」と言い残して入口付近で待機するとのこと。安全性が未知数すぎるのだ。 そこで遥と巧だけが奥へ進む。暗い通路をゆっくり歩くうち、やがて壁にうっすらと白い鉱物の結晶が見えてきた。だが、その結晶の形が、どうにも例の“紋章”に似ているように思えてならない。
「ねえ、これ……」 遥が指差す先には、鉱石の筋(すじ)が自然の造形とは思えぬ形で湾曲し、あの“扉紋”に似た模様を形成していた。さらにその先に広がる空洞の天井には、星を散りばめたような光沢がある。 ――そこは、まさに“星の洞窟”の名を感じさせる神秘的な空間だった。そして、その奥底には、うっすらと人為的な彫刻の痕跡まで見える。
第五章:陰を背負う石像
ライトを向けると、洞窟の一角に小さな石像が立っているのを見つけた。風化して判別しづらいが、人間の姿を象っているらしい。 しかし、その表情はあまりにも生々しく、不思議なほど細部が彫り込まれている。まるで一瞬で石化した人間を見ているような……。 さらに台座には、これまで見たことのない紋章と文字が刻まれていた。
「DEI FILIUS」(デイ・フィリウス――ラテン語で“神の子”を意味する)
――神の子。黒い封筒の文面にも、そんな言葉があった。 まさかこの石像が、遺された伝説の“神の子”を模しているのか。それとも――。 遥は急な寒気に襲われ、思わず震える。その直後、石像の背後から誰かの気配を感じた。
第六章:暗がりの男
「――そこから先には近寄らないほうがいい」 低い声が洞窟内に響く。 ライトを向けると、黒いコートに身を包んだ男が一人、薄闇の中に立っていた。年齢は四十代くらいか。切れ長の目が、こちらを鋭く見据えている。「あなたは……この洞窟で何を?」 巧が警戒心をあらわにしつつ問いかける。
男は答えず、石像をちらりと見やり、続けた。「“神の子”が眠る場所に足を踏み入れれば、時の秩序などたやすく崩壊する。あなた方はそれでも、真相を探りたいのか」
遺跡や紋章にまつわる危険を、まるで知り尽くしているような口ぶりだ。 遥と巧が言葉を失っていると、男は懐から黒い封筒を取り出した。――そう、遥のもとへ届いたものと同型だ。「封印など無意味だよ。時の門は必ず“神の子”によって新たに開かれる――。そう遠くない日にね」
言い終わるや否や、男は懐中電灯を消し、闇の中へ溶け込むように姿を消してしまった。足音さえほとんど残さず、まるで幽霊だったかのように。
第七章:神の子とは何か
セナバに戻り、アルベルトや郷土史家たちにも「神の子」に関する伝説を尋ねてみたが、有力な情報は得られなかった。 ただ、17世紀頃に“神の子”と呼ばれる不思議な力を持った人物の噂があったとも言われる。ルチアの父・パラディーノ・ルシオが絵に込めた“時の力”と、何か関係があるのだろうか。 イタリアの未完の絵でも、水底の礼拝堂でも、そしてセナバの奇跡そのものにも、共通して“人智を越えた力”が存在するとされてきた。
そこへ、先日から行方をくらましていた人物――かつて時の門を悪用しようと企てた集団の一人が、警察の取り調べ中に不可解な供述を始めたとの情報が入る。 曰く、「自分たちは“神の子”の復活を支援するために動いていた」「門はまだ完全には閉じていない」と――。
第八章:新たな封印の危機
一方、美術館の保管室では、再び封印のシールに微かな亀裂が見られるようになっていた。遠く湖底の礼拝堂、そして洞窟に眠る未知の力。すべてが影響し合い、時の門を再起動させようとしているかのようだ。 アルベルトや遥・巧は総力を挙げて封印の点検を繰り返すが、そのたびにどこかで歪(ゆが)みが生じ、対症療法でしのいでいるに過ぎない。
そして迎えたある夜、保管室の警備員から緊急連絡が入る。――未明、誰もいないはずの展示室で“もう一枚の絵”が一瞬激しく光り、見慣れぬ紋章が浮き上がったというのだ。 駆けつけたアルベルトによると、それはまさしく洞窟で見かけた石像の台座に刻まれていた紋章に酷似しているらしい。
「まさか、“神の子”と呼ばれる何かが、絵を通じてこちらへ干渉しているのか……」 遥は背筋に冷たいものを感じた。
第九章:再び交わる道
暗躍する謎の男、“神の子”を巡る伝説、そして再び揺らぎ始める絵の封印――。 全ての糸が、新たな“時の門”の開放へ向けて収束しつつあるように思えた。だが、いったい誰が“神の子”なのか? あるいは、それはもう存在しない概念なのか?
翌朝、遥と巧は手分けして資料を探り、かつての事件で関わった国際的な美術史研究者たちにも照会した。その中で、イタリアのサンティーニから一通の返事が届く。 そこには、ルチアの父が残したとされる手記の断片が記されていた。
「われ、神の子を描かずして門を開けり。その子を封じしことこそ、我が芸術の極みなり」
――“神の子”は、かつてルチアの父が描いた絵に封印された存在だったのだろうか。もしそうなら、別の誰かがその封印を解こうとしている? 事態は新たな局面に入りかけている。封印が破られれば、セナバのみならず、この世界全体が未知の時空へ飲み込まれるかもしれない――。
終章:深き影の調べ
夜。美術館では非常警戒態勢が敷かれているが、いつ何が起きるか分からない。 遥と巧は再び保管室の前に立つ。扉の奥で眠る“セナバの奇跡”と“もう一枚の絵”が、息をひそめているのを感じる。 だが、突き詰めれば、それら絵の背後に秘められた更なる力――“神の子”と呼ばれる存在――が影を落としているのかもしれない。
「封じても封じても、終わらない……。 それでも、私たちは守らなければならない。 ルチアの父が描き、ルチアが繋いできた歴史を。 セナバと、この世界の“今”を。」
扉に手を当てながら、遥はそう心に誓う。巧も黙って頷き、それを支える。 遠く夜空の彼方から、湖のほうをかすめる風のざわめきが響いてきた。それはまるで、深い水底と鍾乳洞の奥底から漏れ出る“影の呼吸”のようにも聞こえる。
――次なる戦いは、もしかすると“神の子”そのものと向き合わなければ終わらないのかもしれない。 暗闇に沈んだ世界の隙間(すきま)が、わずかに開き始める。そこから覗くのは滅びの光か、救済の予兆か。 どちらにせよ、“セナバの奇跡”がもたらす時の力は、まだ完全には眠りにつかない。
足元の影が微かに震え、何かを告げるように揺らいだ。 ――深き影の調べ。それは、さらなる門の奥へと誘う前奏曲。 遥と巧は静かな覚悟を抱きながら、夜明けへ続く薄闇の中を歩き出す。 そして、新たなる災いが訪れる前に――今度こそ、真に時の歪みを終焉へ導くために。
(次回へ続く)





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