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デパート外商の裏側 続編──崩れる均衡

  • 山崎行政書士事務所
  • 10月7日
  • 読了時間: 9分

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第六章──招待制の夜 ホテル鶴亀の三階、分厚い絨毯の毛足は足裏を吸い込み、靴底が沈むたびに微かに埃とワックスの匂いが立つ。丸園外商部の「特別ご招待会」は、照度を抑えたシャンデリアの下に始まっていた。 銀盆の上で氷が鳴る。バーカウンターの内側では、燕尾服の青年がマティーニを撹拌しながら、ほとんど唇を動かさずに「立花様、B-3のお客様がお見えです」と囁いた。 立花は、胸ポケットのボールペンが汗で滑るのを感じながら、カタログの角を親指で整える。表紙の紙はコート紙の重みがあり、わずかな湿気で波打っている。 「今日、武藤副社長は奥様同伴だ。時計の“霜夜”を見せろ。シリアルの話はするな」 背後から、課長の堀田が低い声で言う。匂い立つ整髪料。手首の時計は、誰に見せるでもなく常に袖口から半歩はみ出している。 “霜夜”は外商限定、世界で五本という触れ込みのプラチナ製。展示台のベルベットの上で、ガラス面が柔らかい灯りを飲み込み、秒針の微かな震えが耳ではなく皮膚で分かるほど静かに、正確に時間を削っていた。 「世界で五本?」と武藤が訊いた。唇の端に酒気と自信が混じる。 立花は笑顔を張り付ける。「供給をお約束できるのは、今夜だけでございます」 「今夜だけ、ねぇ」 奥に控えたブランド担当が一瞬だけ視線を落とすのを、立花は見逃さなかった。工場の在庫――“追加生産”の噂。噂は、空気中の微細な埃みたいにどこにでも入り込む。掴むと指にくっつき、振り払うほど目立つ。 武藤は時計を腕に乗せ、肘を曲げて光を変え、奥様は「重いわ」と笑った。立花は笑い、数字を頭の中で弾く。与信枠の残り、今期の目標への距離、課長に叩き込まれた割戻しの幅。背中のシャツが一点だけ冷たい――汗が重力に沿って落ちている。

第七章──白い封筒 会の終盤、VIPサロンの応接に呼び出されると、そこには細い眼鏡の男が座っていた。「はじめまして。山崎行政書士です」 白い封筒がテーブルに置かれる。角はきっちり揃えられ、微かな紙粉が光る。 「コンプライアンスの観点から、外商契約書類の表記を見直すとのこと。皆さまの実務に支障が出ないように書式を整えます」 堀田が「助かりますよ」と笑ったが、その笑いに歯茎の乾きが混じるのを立花は感じた。 山崎は封筒から見本書式を取り出した。商品名の表記は抽象度が一段、いや二段ほど上がっている。あいまいな名前は便利だ。意味を狭めずに広げる。境界線は最初から霞んでいる。 「こういう表現なら、税務も経理も読み替えやすい。もちろん、法に触れない形で」 “もちろん”という言葉は、ここでは錆びた蝶番のようだ。押せば開くが、軋み音は消えない。 立花は、書式の余白に触れた。指先が紙の繊維を数える。これが一枚ずれるだけで、誰かの人生が傾くことがあると知っている。だが、紙は何も言わない。言葉も、署名も、判子も、黙って載ってくれる。

第八章──二重のシリアル 事件は小さな音から始まった。 翌週、武藤が注文を入れた“霜夜”の最終確認に、ブランドの担当・河合が紙袋を抱えて外商フロアに現れた。袋の中の桐箱は手の平の温度を吸い、漆の香りが僅かに滲む。 桐箱を開け、ギャランティカードを取り出した堀田が、眉をひそめて固まった。カードの隅に印字された“3/5”。 「……先週、伊丹のお客様にも“3/5”で出したろう?」 風のない部屋で、カタログのページが一枚だけめくれた気がした。 河合は一瞬で笑顔を作る。「ええ、あちらは『国内割当の3/5』で、こちらは『グローバルの3/5』ということで」 言い切るまでの呼吸が半拍、長い。 「待て」堀田の声が低く床に沈む。 立花は、窓ガラスに映る自分の顔を見た。笑っている。笑っているつもりだが、目の奥が乾いていた。 「いったん止めましょう」立花は口を開いた。 「止めたら数字が死ぬ」堀田は舌打ちを飲み込む。「“限定”は気分だ。客が満足すれば、それで限定だ」 「気分に値札は付けられない」 その瞬間、堀田の視線が氷のように冷えた。河合は「上と相談します」と言い残し、紙袋を抱えて消えた。残されたのは桐箱の輪郭の跡がついたテーブルのへこみだけだ。

第九章──横取りの手 同じ夜、立花のデスクの引き出しに入れていた顧客台帳のコピーが、一枚消えていることに気づいた。 「鍵、かけたよな」 鍵穴の周りに、爪の先で引っ掻いたような跡――いや、気のせいかもしれない。 社内チャットには、既読が連なる。〈B-3武藤様、別担当より連絡あり〉という短いログ。送り主は桧山。入社十年目、笑うと上唇の右だけがわずかに上がる男。 「先にアポイント取っておきましたから」すれ違いざま、桧山は言った。声は柔らかいが、目はガラス。 「俺の客だ」 「会社の客だろ」 言い合っても意味はない。誰にも聞かれてはならない音が、今日もサロンの奥で増幅している。

第十章──夜の握り 武藤夫妻の機嫌を取るため、急遽押さえたのは築地にほど近い鮨の名店。濡れた板場は檜の匂いが濃く、包丁が蛍光灯を噛む音が短く鋭い。 「大将、今日は白甘鯛を軽く炙って」堀田が言う。「あと、あれも」 “あれ”にはいつも値札がない。それでも出てくる。 武藤は酒の盃を傾け、握りの艶を眺める。「時計は、ね。限定とかどうでもいい。俺が付けて、誰が振り向くかだ」 奥様は海苔の香りに目を細めながら微笑み、立花に視線を寄越した。 「立花さん、前に見せてもらった絵、あれも素敵だったわ」 絵画。法人の応接室に、という名目で個人の寝室に掛かることになる高額品。 「ご用意できます」 言った自分の喉が乾く。 堀田が会計を済ませる段になって、背広の内ポケットから領収証を取り出した。店の名入れの紙に、黒い万年筆の線が浮く。 「明細は――」大将が言いかけて、黙る。堀田が視線だけで合図したのだ。 カウンターの木目に、光がゆっくり走る。誰もなにも見ていないふりをする。見てしまうと、続けられないからだ。

第十一章──監査室より 月末、監査室からメールが来た。件名は簡素だが、本文の文末はすべて「。」で固い。 〈特別販促費の使用状況に関する資料提出のお願い〉 添付された提出フォーマットは、山崎が作った書式に不思議とよく似ていた。 「相性がいいんですよ、法と現場は」山崎は微笑んだ。「線引きは、常に動きますから」 提出期限は三日後。立花の机には、領収証のコピー、社内決裁のプリントアウト、チャットのスクリーンショットが重なり、紙の匂いが濃くなる。 経理の斎藤未央が、ネームホルダーを指で弾きながら近づいてきた。「この“販促物品一式”、もう少し具体でいただけますか? 監査室、最近うるさくて」 「一式じゃだめか」 「だめですね」 未央の目は疲れているが、濁ってはいない。立花は一瞬だけ救われた気がした。 戻ってきた資料の朱書きに、堀田の怒りは無言で増幅した。「余計なこと、するなよ」 余計なこと――。それをし続けて、ここまで来たはずなのに。何が余計で、何が必要か、境界は湿った紙みたいに滲む。

第十二章──崩落 翌朝、サロンに武藤の奥様が現れた。「約束の時計、まだ?」 「申し訳ございません、確認中でして」 そのとき、背後のソファに腰を下ろした女性が振り返った。伊丹の“3/5”の顧客の夫人だ。目が合った。 視線の先で、ふたつの笑顔が同時に凍る。 「限定って、どういう意味?」奥様の声は低く、芯がある。 「世界で五本なんでしょう」もう一人が続ける。 瞬間、サロンの空気が鳴った。コーヒーカップが小さく触れ合い、スプーンが震えた音。 立花は頭を下げた。言葉を選ぶ時間は、時計の秒針が奪っていく。 「この度は、説明が不十分で――」 堀田が割って入る。「限定の定義には、国内と海外とで――」 「定義?」奥様が笑った。「あなた方の“定義”で、私たちの感情は動くの?」 笑い声は冷たくない。冷たくないのに、背中の汗だけが一気に冷えた。 その夜、武藤から一本のメッセージが届いた。〈時計はキャンセル。絵は考える〉 絵は考える――。残されたわずかな糸すら、いずれ切れる。糸は見えないから、切れて初めて音がする。

第十三章──証跡 監査の面談室はガラス張りで、外廊下を行き交う社員の影が、曇りガラスのように薄く流れる。 「この領収証、“会食費”になっていますが、実際は接待では?」 監査役の声は平板だ。立花は黙って、紙を見た。字は真っ直ぐで、黒は濃く、印は赤い。 「あなた、どこまで知ってるの?」という目が堀田から飛ぶ。 立花はゆっくりと、プリントアウトを差し出した。社内チャットのログ。そこには、堀田の短い指示が残っている。〈例の件、山崎の書式で〉 「これは、私が送ったものじゃない」堀田は笑った。笑い方を知っている笑いだ。「誰が打ったか、証拠は?」 証拠は、いつだって足りない。足りないように作られている。 山崎が咳払いをして口を開いた。「書式は私が作りました。合法の範囲で。どう運用したかは、現場の判断です」 現場。立花の胸の真ん中で、その単語が重く落ちる。 「あなたは?」監査役が、立花を見る。 立花はほんの少しだけ笑った。笑い方を、覚え始めてしまった自分が嫌だった。 「私は、書式に従いました。従うのが仕事だと教わりました」 沈黙が、天井のスプリンクラーにまで張り付く。 面談が終わると、窓の外は雨だった。ガラスに当たる水滴が、下へ下へと伸びて、途中で別の滴と合流し、太くなって、すぐに消える。流れの中に形は残らない。

第十四章──境界 処分は出なかった。処分が出ないことが、この会社の処分なのだと誰もが知っている。 桧山は相変わらず、廊下で誰にでも同じ角度の笑いを向ける。堀田は血圧の薬を飲む回数が目に見えて増えた。河合は別のブランドに異動になる、という噂が、誰の口からも同じトーンで囁かれる。 立花の机の端には、未央が置いていった付箋が貼られている。〈明細、できるだけ具体で。あなたのため〉 「あなたのため」――あの短い言葉に、立花は何度も救われる。 夜、シャッターが半分だけ降りた売場を歩く。ウィンドウのマネキンは一切の迷いもなく前を向き、スポットライトは埃の粒まで均等に照らす。 ポケットの中には、顧客の好みや家族構成を走り書きしたメモ。便箋の端が汗で柔らかくなり、角が丸くなる。 “境界を守れ”と、誰かが言った気がした。誰か――それは入社したばかりの自分かもしれない。 けれど境界は、守るほど揺れる。足を置いた途端、地面が波打ち、こちら側とあちら側を何度も入れ替える。

終章──薄明のノート 朝、開店準備の音が遠くで鳴る。シャッターの金属が擦れる音、エスカレーターが無人で動き始める低い唸り、コーヒーメーカーの蒸気が鳴らす小さな笛。 立花はノートを開いた。新しいページに、線を引く。 〈やらないこと〉 一行目に、たったそれだけを書いた。具体は書かない。書けば、誰かに説明できてしまうから。 電話が鳴る。武藤の番号ではない。新規の問い合わせだ。 「はい、丸園外商の立花でございます」 声が自分のものに聞こえる。受話器の先の息遣い、紙が擦れる音、遠くの生活の気配。 ここは、金と欲望の回廊だ。そこに疑いはない。だが、回廊にも避難口はある。明かりは小さいが、ないわけじゃない。 立花は、ノートに小さくチェックマークを付けた。やらないことを一つだけ胸にしまい、やるべきことを一つだけ目の前に置く。 「ご要望を、もう一度ゆっくりお聞かせください」 笑顔を作り直す。作り直すという自覚が、以前よりもはっきりある。 ショーウィンドウのガラスは、朝の光を受けて透明だ。指紋も、曇りも、今はない。どうせすぐ付く。でも今だけは、透けている。 自動ドアが滑らかに開く。空気が入れ替わり、冷たい街の匂いが一瞬だけ胸に刺さる。 ――幻想は、守るためにある。けれど、守り方を選ぶのは、俺だ。 そう思って受話器を握り直すと、掌の汗が薄く乾いていた。数字は消えない。ノルマも消えない。欲望も、承認も、ここには満ちている。 それでも、線は引ける。紙の上に、心の中に。細くて頼りない線だが、手の震えが止まるまで何度でも引けばいい。 外商の朝が、始まる。

 
 
 

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