五月の茶畑に来た星の子
- 山崎行政書士事務所
- 5月7日
- 読了時間: 18分

五月の茶畑は、夜になると空に似ていた。
昼のあいだは、どこまでも緑の波だった。山裾へなだらかに続く畝は、陽を受けると明るく光り、摘まれたばかりの若葉の匂いが村の道へ流れ出した。けれど夜になると、その緑は闇の底へ沈み、葉先に宿った露だけが星明かりを受けて、かすかに瞬くのだった。
幹夫は、その光を見るのが好きだった。
空の星は遠い。手を伸ばしても届かない。けれど茶の葉の露に映った星なら、指先のすぐ近くにある。触れれば消えてしまうほど頼りないのに、その小さな一粒の中には、夜空が丸ごと入っているようだった。
幹夫は十二歳だった。
村の子どもたちの中で、幹夫は少しだけ静かすぎた。友だちの笑い声の端に、誰かを置いていくような響きを聞いてしまう。雨上がりの草が倒れていると、その草が風に耐えていた時間まで思ってしまう。夕焼けがあまりに赤い日は、胸の奥が苦しくなり、何かを失ったような気持ちになる。
父は、ときどき言った。
「幹夫は、何でも胸に入れすぎる」
父の言葉は叱っているのではなかった。心配しているのだと、幹夫にも分かっていた。けれど、入ってくるものをどうやって止めればいいのか、幹夫には分からなかった。
風が吹けば若葉は揺れる。
雨が降れば土は匂う。
人の声が沈めば、心はそれを聞いてしまう。
それは、自分では止められないことだった。
母が生きていたころ、幹夫はそのことを恥ずかしいと思わずにいられた。母は、幹夫の感じ方を笑わない人だった。
「薄い葉ほどね、幹夫」
母は茶畑でよく言った。
「光をよく通すのよ」
母は去年の冬に亡くなった。
雪の降らない、ただ冷たいだけの日だった。病院の白い壁と、消毒液の匂いと、細くなった母の手。幹夫はその記憶を、胸の奥にしまっていた。取り出すと痛む。けれどしまいすぎると、母の声まで遠くなってしまう。
五月になり、新茶の香りが村じゅうに満ちると、母の言葉はふいに戻ってきた。
若葉の露の中に。
湯呑みから立つ白い湯気の中に。
夜の茶畑を渡る風の中に。
その夜、幹夫は眠れなかった。
夕飯のあと、父と少しだけ言い合いになったのだ。
言い合いといっても、幹夫は大きな声を出したわけではない。父が、来年からはもっと茶摘みを手伝えるようになれ、と言った。幹夫は返事に詰まった。茶畑は好きだった。けれど若葉を摘むとき、いつも胸が少し痛んだ。せっかく芽吹いたものを、指で摘み取ってしまう。そのことが怖かった。
「また考えすぎているのか」
父はそう言った。
その声に悪意はなかった。けれど幹夫の胸は、薄い紙で切られたように痛んだ。
考えすぎ。
父には、そう見えるのだろう。
幹夫にとっては、考えているのではなく、感じてしまうのだった。若葉の柔らかさも、摘まれる前の露の震えも、母がいない五月の香りも、全部が胸に入ってくる。
幹夫は何も言えず、食卓を離れた。
布団に入っても、胸の奥がざわざわしていた。障子の向こうから、新茶の香りがかすかに入り込んでくる。青く、甘く、少し苦い匂い。それは母のいない家の中で、母がいたことだけを静かに知らせるようだった。
幹夫は起き上がった。
窓を開けると、夜空には星が出ていた。山の上には、淡い銀河が流れている。はっきりした白い帯ではない。夜そのものが少し薄くなって、向こう側の光がにじんでいるような銀河だった。
幹夫は上着を羽織り、家を出た。
茶畑へ行きたかった。
誰にも何も言われず、茶の葉のそばに立っていたかった。
坂道を上ると、草の先に露が降りていた。靴のつま先が濡れた。田んぼから蛙の声が聞こえ、遠くの製茶場はもう眠ったように静かだった。
茶畑に着くと、幹夫は畝の端に立った。
夜の茶畑は、深い緑というより、黒い波だった。けれど葉先には露が光っている。空の星が地上へ降りてきて、若葉の上で休んでいるようだった。
そのとき、空の高いところで星が一つ流れた。
幹夫は息を止めた。
流れ星は銀河の端をかすめ、細い光の尾を引いて落ちた。願いごとを言う暇もないほど短い光だった。
けれど、その星は消えなかった。
光は山の向こうへ落ちるのではなく、茶畑の上でふわりと止まった。そして、畝の間に静かに降りた。
幹夫は目をこすった。
茶畑の奥に、小さな光があった。
蛍ではない。提灯でもない。露が集まって、人の形になったような光だった。
幹夫は恐る恐る近づいた。
そこに、子どもが立っていた。
幹夫よりずっと小さい。七つか八つくらいに見える。髪は夜明け前の星のように銀色で、着ている服は白とも青ともつかない淡い光をまとっていた。裸足なのに、茶の葉の露を落とさず、畝の間に立っている。
その子の瞳は、遠い空の色をしていた。
「君は」
幹夫は小さく尋ねた。
「誰?」
子どもは首をかしげた。
「ぼくは、星の子」
声は、風鈴の音を遠くで聞くように澄んでいた。
「星の子?」
「うん。さっきまで空にいた」
星の子は、当たり前のことのように言った。
幹夫は空を見上げた。銀河は変わらず淡く流れている。けれど、星が一つだけそこから抜け落ちたような気がした。
「落ちてきたの?」
「落ちたんじゃないよ」
星の子は少し困ったように言った。
「呼ばれたんだ」
「誰に?」
「この茶畑に」
幹夫は茶畑を見た。
夜の茶畑は、ただ静かに香っている。若葉は風に揺れ、露は星を映している。呼んだようには見えない。
「茶畑が、君を呼んだの?」
「うん。五月の茶畑は、空へ香りを送るから」
星の子は深く息を吸った。
「この匂いを、空で見つけた。青くて、甘くて、少しだけ泣いている匂い」
幹夫の胸が震えた。
泣いている匂い。
それは、幹夫が新茶の香りを嗅ぐときに感じるものと似ていた。
「星にも、匂いが分かるの?」
「星には匂いはないよ」
星の子は言った。
「だから、匂いがすると、気になって仕方がないんだ。空には光ばかりある。けれど地上には、光になれなかった気持ちが匂いになる」
幹夫は何も言えなかった。
光になれなかった気持ち。
その言葉は、胸の奥の言えなかった言葉たちにそっと触れた。
星の子は、茶の若葉に顔を近づけた。
「これは、何?」
「茶の葉」
「茶の葉」
星の子は言葉を繰り返した。
「どうしてこんなに薄いのに、こんなにたくさん夜を持っているの?」
「夜?」
「露の中に星がある。葉の中に光がある。香りの中に、誰かの声がある」
幹夫は星の子を見つめた。
この子は本当に星なのだと思った。
人間なら聞き逃してしまうものを、まっすぐ聞いている。
「僕のお母さんも」
幹夫は思わず言った。
「そんなことを言ってた」
星の子は幹夫を見上げた。
「お母さん?」
「うん」
幹夫は茶畑の方へ目を向けた。
「去年、死んじゃった」
言葉にすると、胸が少し痛んだ。
星の子は黙っていた。
それから、そっと言った。
「死ぬって、星が見えなくなること?」
幹夫は少し考えた。
「似てるかもしれない」
「でも、星は昼になると見えなくなるけど、なくなってないよ」
「うん」
「お母さんも?」
幹夫は答えられなかった。
そうだと言いたかった。けれど、簡単には言えなかった。母は昼の星のように見えないだけだと思えたら、どんなに楽だろう。けれど母は、湯呑みを持つ手も、台所で歌う声も、幹夫の髪を撫でる温かさも、もう持っていなかった。
「分からない」
幹夫は正直に言った。
「僕には、分からない」
星の子は幹夫の隣にしゃがんだ。
二人で若葉の露を見た。
露の中には、星が映っていた。さっき流れた星の名残なのか、ほかの星なのか分からない。けれど一粒の水の中に、小さな空があった。
「空にいたとき」
星の子は言った。
「ぼくは、地上のことをよく見ていた。光っているところは分かった。町の灯、港の灯、窓の灯。でも、泣いている人は見えなかった」
「泣いている人は、見えないの?」
「涙は小さいから。遠くからだと光らない」
星の子は露を指さした。
「でも、ここへ来たら分かった。涙も、露も、小さな星なんだね」
幹夫は目の奥が熱くなった。
「僕は、あまり泣けなかった」
「どうして?」
「泣いたら、お母さんが本当にいなくなったって認めることになる気がしたから」
「泣かないと、いなくならないの?」
星の子の問いは、幼くて、まっすぐだった。
幹夫は首を振った。
「そんなことない。泣かなくても、いなくなった」
「じゃあ、涙は何のためにあるの?」
幹夫は答えられなかった。
涙は何のためにあるのだろう。
苦しいから出るもの。 こらえきれなくなった心の水。 誰にも言えない言葉が溶けたもの。
幹夫が黙っていると、星の子は自分の頬に手を当てた。
「ぼくには、涙がない」
「星だから?」
「うん。空で光っているだけだから。悲しい星も、寂しい星も、泣けない。だから落ちてくる星は、涙を探しに来ることがある」
「涙を?」
「涙があると、光は少しやわらかくなるんだって」
幹夫は星の子の瞳を見た。
確かに、その目は美しいけれど少し冷たかった。遠く、澄みすぎていて、誰にも触れられない光のようだった。
「君は、涙がほしいの?」
「分からない」
星の子は幹夫と同じ言葉を使った。
「でも、この茶畑の匂いを嗅いだら、胸の奥がきゅっとした。星には胸がないのに、ここが痛い気がした」
星の子は自分の光る胸を指さした。
「それが何なのか知りたくて、来た」
幹夫は、少しだけ笑った。
「それは、寂しいってことかもしれない」
「寂しい?」
「うん。会いたいものに会えないときとか、大事なものが遠くなったときとか、胸がきゅっとする」
「幹夫は、よく寂しい?」
「うん」
幹夫は頷いた。
「よく寂しい」
そう言うと、不思議に胸が少し軽くなった。
今まで、寂しいという言葉は弱さのようで、口にするのが怖かった。けれど星の子の前では、ただ本当のことを言えた。星の子は人間の決まりを知らない。だから、強がらなくてよかった。
星の子は真剣な顔で言った。
「寂しいは、悪いもの?」
「分からない」
幹夫はまた少し考えた。
「でも、寂しいって思うのは、大事だったものがあるからだと思う」
「大事だったもの」
「うん。お母さんがいなかったら、僕はお母さんがいなくて寂しいとは思わない。だから寂しさの中には、お母さんがいたことも入っている」
自分で言って、幹夫は驚いた。
それは、今まで誰にも言えなかったことだった。いや、自分でも知らなかったことかもしれない。
母がいない悲しみの中には、母がいた温かさも入っている。
幹夫は胸に手を当てた。
苦しさの奥で、小さな灯がともったような気がした。
星の子は、幹夫の顔をじっと見ていた。
「幹夫の言葉は、新茶の匂いに似ている」
「どういうこと?」
「少し苦くて、あとから甘い」
幹夫は、今度は本当に少し笑った。
「お茶みたいだね」
「お茶って何?」
「茶の葉を摘んで、蒸して、揉んで、乾かして、それにお湯を注いで飲むもの」
「葉っぱを摘むの?」
星の子は驚いたように若葉を見た。
「痛くない?」
幹夫の胸が小さく痛んだ。
「僕も、それが怖い」
「怖いのに、摘むの?」
「うん。摘まれた葉は、お茶になる。香りになって、誰かを温める」
幹夫は父の言葉を思い出した。
摘まれた葉は、誰かの朝になる。
「でも、終わるわけじゃないんだと思う。形が変わるだけで」
星の子は若葉を見つめた。
「星も、落ちると終わると思っていた」
「違うの?」
「分からない。でも、ぼくは今ここにいる」
星の子は自分の手を見た。
「空にいたときより、小さくなった。光も弱くなった。でも、匂いが分かる。茶の葉の冷たさが分かる。幹夫の寂しいが、少し分かる」
幹夫は、その言葉を胸の中でゆっくり受け取った。
形が変わると、失うものがある。
でも、分かるものもある。
母も、姿はなくなった。けれど母の言葉は、幹夫の中で形を変えて残っている。幹夫が若葉にやさしく触れようとするとき、寂しい人の沈黙に気づくとき、新茶の香りを大切に吸い込むとき、母は少しだけそこにいるのかもしれない。
そのとき、茶畑の下の道から足音が聞こえた。
幹夫は振り返った。
父だった。
作業着の上に薄い上着を羽織り、こちらへ歩いてくる。顔には心配と少しの怒りが混じっていた。けれど幹夫には、その奥にある不安も見えた。
「幹夫」
父は呼んだ。
「こんな夜中に、何をしている」
幹夫は星の子の方を見た。
しかし星の子は、もう畝の影に隠れるように淡くなっていた。父には見えていないのかもしれない。
「茶畑に来てた」
幹夫は言った。
「眠れなかったから」
父はため息をついた。
「黙って出るな。祖母さんが心配する」
「ごめんなさい」
幹夫は素直に謝った。
父は幹夫の顔を見た。
「泣いたのか」
幹夫は頬に触れた。
自分では気づかなかったが、涙の跡があった。
「少し」
父は困った顔をした。
以前なら、幹夫は恥ずかしくなって顔を伏せただろう。けれど今夜は、星の子が隣にいる気がしたので、逃げずに言えた。
「お母さんのことを考えてた」
父の表情が、ほんの少し変わった。
夜風が二人の間を通った。
「そうか」
父は短く言った。
その声は低かったが、冷たくはなかった。
幹夫は続けた。
「お母さんがいなくて寂しい。でも、寂しいのは、お母さんがいたからなんだって思った」
父は黙った。
「だから、寂しいのは嫌だけど、全部なくしたいわけじゃない」
言いながら、幹夫の胸は震えていた。
父にこんなことを話すのは怖かった。分かってもらえないかもしれない。考えすぎだと言われるかもしれない。
けれど父は、しばらく黙ったあと、茶畑を見た。
「俺も」
父は言った。
「母さんのことを思うと、苦しい」
幹夫は父を見た。
父がそんなふうに言うのは珍しかった。
「だから、あまり考えないようにしていた」
父の声は、茶畑の土のように低かった。
「だが、考えないようにすると、母さんがいたことまで遠くなる」
幹夫の胸が熱くなった。
父も同じだったのだ。
母がいないことに傷つきながら、母がいたことまで失いたくなくて、どうすればいいか分からなかったのだ。
幹夫は小さく言った。
「お父さんも、寂しい?」
「ああ」
父は短く答えた。
その一言は、夜の茶畑に静かに落ちた。
星の子が、畝の影からそっと顔を出した。
父にはやはり見えていないようだった。けれど星の子は父を見つめ、幹夫にだけ聞こえる声で言った。
「この人の光は、土の色をしている」
「土の色?」
「うん。遠くからは光って見えない。でも近づくと、あたたかい」
幹夫は父の手を見た。
大きく、荒れた手。茶の葉を摘むときだけ、驚くほどやさしくなる手。
「お父さん」
「なんだ」
「僕、茶摘みを手伝うのが少し怖い」
父は幹夫を見た。
「葉を傷つけそうで」
「うん」
「摘むことが、終わらせることみたいで」
父はしばらく黙っていた。
それから、畝の若葉に指を近づけた。
触れるか触れないかのところで、その大きな手を止める。
「俺も、最初は怖かった」
幹夫は驚いた。
「お父さんも?」
「ああ。小さいころはな。祖父に怒られた。そんな手つきでは日が暮れると」
父は少し苦く笑った。
「だが、お前の母さんは、葉を傷つけない手だと言った」
「お母さんが?」
「急がなくてもいい。怖がる手だから、やさしく摘めることもある、と」
幹夫の胸に、母の声が戻ってきた。
薄い葉ほど、光をよく通すのよ。
怖がる手だから、やさしく摘める。
幹夫は星の子を見た。
星の子は微笑んでいた。
そのとき、空が少し明るくなった。
まだ夜明けには早い。けれど東の山の端に、かすかな白さがにじみ始めている。銀河は少しずつ薄くなり、星の子の体もまた、露のように透けてきた。
「星の子」
幹夫は小さく呼んだ。
父は怪訝そうに幹夫を見た。
星の子は幹夫に近づいた。
「もう帰るの?」
「うん。朝になると、星は見えなくなる」
「消えるの?」
「見えなくなるだけ」
星の子は、幹夫が先ほど言えなかったことを、今度は自分で言った。
「でも、帰る前に、涙を少し分かった気がする」
「どうだった?」
星の子は考えた。
「冷たくて、あたたかい」
幹夫は頷いた。
「たぶん、そう」
「寂しいも、少し分かった」
「苦しかった?」
「うん。でも、苦しいだけじゃなかった。誰かがいたことの光が、奥にあった」
幹夫は胸の中が静かに震えた。
星の子は若葉の露にそっと触れた。
触れたのに、露は落ちなかった。かわりに、その一粒がふわりと浮かび、星の子の掌に乗った。
「これを持って帰る」
「露?」
「うん。五月の茶畑の露。涙に似た小さな星」
星の子は幹夫を見た。
「空の星たちに見せる。地上には、泣ける光があるって」
幹夫は思わず笑った。
「星も泣きたがるかな」
「分からない。でも、泣けない光は少し寒いから」
星の子の体は、ますます薄くなっていく。
幹夫は急に寂しくなった。
「また来る?」
「五月になれば、茶畑はまた香る」
「そのとき、君も来る?」
「幹夫が本当に見ようとすれば」
星の子は言った。
「星の子は、空から来るだけじゃない。茶の露の中にも、湯気の中にも、誰かの涙の中にもいる」
幹夫は頷いた。
星の子は父の方を見た。
「この人に、ありがとうを言って」
「え?」
「近くの星は、近すぎて見えにくい」
幹夫は父を見上げた。
父は、幹夫が何を見ているのか分からず、少し困った顔をしている。けれどその顔には、怒りよりも心配があった。
幹夫は小さく息を吸った。
「お父さん」
「なんだ」
「来てくれて、ありがとう」
父は目を瞬いた。
「急にどうした」
「心配して来てくれたから」
幹夫は言った。
「僕、すぐ胸がいっぱいになるけど……でも、お父さんがそばにいることも、ちゃんと見たい」
父は何も言わなかった。
夜明け前の茶畑に、沈黙が広がった。
けれどその沈黙は、冷たくなかった。
父は不器用に幹夫の頭へ手を置いた。
「俺も」
父は低く言った。
「お前のことを、ちゃんと見たいと思っている」
幹夫の目に涙が浮かんだ。
今度の涙は、こらえなかった。
星の子が、その涙を見て微笑んだ。
「やわらかい光だ」
そう言うと、星の子は少しずつ浮かび上がった。
茶畑の露が一斉に光った。星の子の体は朝の白さに溶け、最後に小さな光の粒となって空へ上っていく。銀河はもうほとんど見えなかったが、その光は迷わず空の奥へ戻っていった。
「さようなら」
幹夫は言った。
星の子の声が、風の中に残った。
「さようならは、また光るための言葉だよ」
光は消えた。
いや、見えなくなった。
父が空を見上げた。
「何かいたのか」
幹夫は少し迷った。
それから、正直に言った。
「星の子が来てた」
父は眉を寄せた。
けれど、笑わなかった。
「そうか」
その一言で十分だった。
やがて祖母が、坂道を上ってきた。
手には小さな急須と魔法瓶を持っている。
「二人とも、朝のお茶にちょうどいい顔をしているね」
祖母はそう言った。
父は苦笑し、幹夫は少し笑った。
茶畑の端の平たい石に布を敷き、祖母は湯呑みを三つ並べた。それから、いつものようにもう一つ小さな湯呑みを置いた。母の分だった。
新茶の葉が急須に入る。
湯が注がれる。
湯気が白く立ちのぼる。
幹夫はその湯気を見た。さっき空へ帰った星の子の光に似ていた。形を変えながら、上へ上へと昇っていく。
祖母が幹夫に湯呑みを渡した。
幹夫は両手で包んだ。
一口飲む。
最初に、若い苦みが舌に触れた。
そのあと、甘みがゆっくり戻ってきた。
幹夫は目を閉じた。
茶の中に、夜の茶畑があった。星の子の銀色の髪があった。露の中の星があった。父の土の色の光があった。母の言葉があった。寂しさの奥にある、誰かがいたことの温かさがあった。
「どんな味だい」
祖母が尋ねた。
幹夫は少し考えた。
「星の子が泣き方を覚えた味」
父は困った顔をした。
「それは、まったく分からん」
祖母は声を立てずに笑った。
「でも、いい味なんだね」
「うん」
幹夫は頷いた。
「少し苦くて、あとから甘い」
父は湯呑みを見つめた。
「それなら、分かる」
その言葉に、幹夫は胸が温かくなった。
朝日が昇りはじめた。
露は少しずつ消えていく。銀河も星も、空から姿を消していく。けれど幹夫は、もうそれを消えたとは思わなかった。
見えなくなるだけ。
星の子の声も、母の温もりも、父の不器用な優しさも、茶畑の夜に見た光も、形を変えて残っていく。
その日の夕方、幹夫は机に向かった。
白い便箋に、夜のことを書き始めた。
誰に宛てる手紙なのかは、分からなかった。母へかもしれない。星の子へかもしれない。未来の自分へかもしれない。
――五月の茶畑に、星の子が来ました。 ――星の子は、涙を知りたがっていました。 ――星には涙がないから、光が少し寒いのだと言いました。 ――僕は、寂しいということを話しました。 ――寂しいのは、大事だったものがあるからだと、話しながら気づきました。
幹夫の字は少し震えていた。
けれど、その震えを消さなかった。
震える字には、夜露の光が入っている。星の子に話したときの胸の痛みが入っている。父にありがとうを言ったときの、怖さと温かさが入っている。
――星の子は、五月の露を持って空へ帰りました。 ――空の星たちに、地上には泣ける光があると教えるそうです。 ――僕の心も、露みたいにすぐ震えます。 ――でも、露だから星を映せるのかもしれません。 ――若葉だから光を通せるのかもしれません。 ――弱いことは、何も持っていないことではないのかもしれません。
幹夫は窓の外を見た。
夕暮れの茶畑が、金色に光っていた。
昼と夜のあいだの時間だった。
幹夫は続きを書いた。
――お父さんの光は、土の色をしていると星の子が言いました。 ――遠くからは光って見えないけれど、近づくとあたたかい光です。 ――僕はそれを、ちゃんと見たいと思いました。 ――お母さんの光も、茶の香りや湯気や言葉の中に残っています。 ――見えなくなることと、消えることは違うのだと思います。
最後に、こう書いた。
――五月の茶畑に来た星の子は、空へ帰りました。 ――でも、星の子が持っていった露のぶんだけ、今夜の空は少しやわらかく光る気がします。 ――僕もいつか、寂しさをただ苦しいものとしてではなく、誰かを照らす小さな光に変えられたらいいです。
書き終えると、幹夫は便箋を畳まずに机の上へ置いた。
夜が来た。
窓を開けると、新茶の香りが流れ込んできた。空には星が少しずつ現れていた。銀河はまだ見えない。けれど幹夫には、そこにあることが分かった。
そして、ひときわ小さな星が一つ、山の上で淡く瞬いた。
幹夫はそれを見て、静かに微笑んだ。
星の子だ、と思った。
証拠はない。
けれど、それでよかった。
茶畑の若葉が夜風に揺れた。
露はまだ降りていない。けれど夜が深まれば、また葉先に小さな水の粒が宿るだろう。その粒の中に、空が映るだろう。もしかすると、星の子も、そこに少しだけ戻ってくるかもしれない。
幹夫は胸に手を当てた。
胸の中にも、一粒の露がある気がした。
小さく、震えやすく、すぐにこぼれそうな露。
けれどその中には、母も、父も、祖母も、茶畑も、夜の銀河も、五月に来た星の子も、みんな静かに映っていた。
幹夫は空へ向かって、小さく言った。
「また来てね」
返事はなかった。
ただ、星が一度だけ瞬いた。
それは、遠い空から届いた、新茶の香りのようにやわらかな返事だった。





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