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光の縁にて

  • 山崎行政書士事務所
  • 6 時間前
  • 読了時間: 6分

 幼い頃から、私は父の書斎にある古めかしい木製の机に惹かれていた。その机は、父方の祖先が明治に入って間もない頃に手に入れ、代々受け継がれてきたと聞かされていた。天板は傷だらけで、引き出しの取っ手も欠けている。けれど、昭和の混乱期、そして敗戦後、父の子ども時代を経て、私が生まれ育った平成の中期までも、その木目は幾重にも積み重なった家族の時間を吸い込み、暗い光を宿していたのだ。

 その机の上に並んでいた数冊の古書の背表紙を、私はいつも指先でなぞっていた。家族の昔の戸籍謄本に関する記録が綴られているという話を、父が居間で母に漏らしているのを聞いたのは、私が十歳に差し掛かった頃だったと思う。「そろそろ整理しておかなきゃならん」「でも継承するのは誰になるのだろう」──硬い声色で交わされるそうした台詞は、私にとっては同時に神話めいた、けれど極めて現実的な重苦しさを帯びて聞こえていた。

 父は伝統を敬う人だった。というより、父自身が戦後の教育を通じて形づくられた“近代日本人としての自尊心”と、“まだかすかに生き続ける皇室への漠然とした崇敬”とを、矛盾のまま抱きかかえているように見えた。昭和天皇崩御のとき、父は黙って一日中テレビの前に座っていた。その横顔は葬列を映す画面のどこか遠い地点に意識を彷徨わせているように思えた。一方で、父は現代に対する批判意識も決して持たないわけではなかった。大学闘争の時代に若者だった父は、政治改革を求めるデモに加わり、警官隊に押し戻されてつぶやいた、というような武勇伝をしばしば語った。受け継ぎ続ける家族制度と、変革の波に飛び込みたい理想主義が、父の中でない交ぜになっていたのだろう。私がそのアンビバレンツをはっきり理解するのは、ずっと後になってからのことだ。

 私が自分のセクシュアリティについて、つまり、自分は異性愛者ではないのだと自覚し始めたのも、その父の机に触れて古い文字の列を眺めるのとほぼ同じ頃だった。ごく幼い直観だったが、どうも他の子や大人たちとは違う感覚が自分の内部にある、と曖昧に感じる瞬間があった。机の表面に置かれた分厚い戸籍の写しには、家族の名前が複雑につらなる系譜図が載っていた。いずれ自分も、どこかでこの「血脈」と呼ばれる列の末尾に連なるのだろうか、とかすかに胸を締めつけられた。私の心を縛る何かが、既に日本という共同体の内部に制度として根付いているのではないかと思ったのだ。

 それから時が経ち、私は二十歳を目前に故郷を出た。大学進学で東京へ移り住んだが、そこでは父が慎重に守っていたような「郷土」や「家族の誇り」といった概念が、絶えず激流のうねりにさらされているように感じられた。カフェで、あるいはサークル活動の場で、性的少数者として自身を公言する人たちと出会った。私と同じように葛藤を抱える若者たちは、自分たちが望む生き方を叶えるために制度への疑問を投げかけている。そこには父が曖昧に抱えていたような“昭和的”な幻想も、“天皇制”がもたらす独特の感情も、ほとんど影を落としていなかった。それどころか、「天皇ってなんか存続しているけどさ、本当に必要なの?」という率直すぎる疑問が雑談の端々に顔を出すこともあった。

 だが、私にはまだ、あの実家の沈黙した空気や、父の背中に漂う“重さ”がこびりついて離れなかった。家族制度とは結局、人間を記号化し秩序立てる道具なのだ。名前や続柄が記載され、それが国家としての日本の一部を示す。そこには象徴天皇制の存在も不可視の権威として影を落としている。私は戸籍という制度を迂回しながら、自分のセクシュアリティをどのように正面から受けとめ、どのように日本社会の中で生きていけばいいのかを、絶えず問い続けるようになった。

 卒業論文のテーマとして、私は「象徴天皇制下における家族制度と性的マイノリティの法的課題」という題目を選んだ。父に相談したとき、父はしばらく息を呑み、眉間にしわを寄せて唸ったあと、「おまえの好きにすればいい」とだけ言った。しかし、その夜になって父は私を呼びとめ、「戸籍の写しを持っていくか?」と尋ねてきたのである。どういうつもりなのか、そのときはわからなかったが、ともあれ私は父の申し出を受けることにした。

 紙焼き写真のように色褪せた戸籍の写しを前に、私はいくつもの個人の名前と生死の記録を目で追った。明治以降の日本が取り入れた制度の影に、大正から昭和へ、戦中・戦後から令和へと時代をまたいで、不安や希望、抗いがたい運命を抱えながら生き抜いた人々の姿が垣間見える気がした。そこには当然ながら、LGBTQという用語は一言も出てこない。けれど自分の体感として、この膨大な文字列のどこかに、恐らくは同じように悩み、しかし制度の下で声をあげることができなかった人がいたはずだ、と感じられた。

 卒業後、私は改めて故郷を訪れた。四方を山に囲まれた谷間にあり、コンビニが一軒だけあるその町は、高齢化が進む典型的な地方の集落になりつつあった。例の机が置かれた父の書斎に足を運ぶと、父は小さなノートパソコンを開き、「お前の書いた卒論も読んだよ。正直、ようわからんことも多いが、考えされられた」と照れくさそうに言った。「天皇は天皇であっても、うちの戸籍に皇族がいるわけでもないしな。だけど……ほら、日本という枠組みの中で暮らしてるってことは、そういうことなんだな」──父がうまく言葉にできないもどかしさと、大きな輪郭のなかにいる自分の姿とが重なるように感じられた。

 私は自分がゲイであることを、完全な形で父に告げたわけではない。あえて言語化するのが憚られるような、奇妙な共犯関係がそこにはあったのかもしれない。ただ、もう一つ確かなことは、父は私が家族の枠組みや天皇制、戸籍制度を通して自分の人生を見つめ直すことを受け入れている、ということだ。それが父なりの不器用な愛情なのだと、私は信じるほかない。

 机の天板の傷は、私が物心ついた頃よりもさらに色を濃くしていた。何十年、あるいは百年、二百年かかって深く刻まれた傷には、単に家族の歴史ではなく、日本そのものの伝統が漂っている。そこに皇室の存在も、昭和から平成へ至る激変も、そして平成から令和に引き継がれた多様性の波も、すべて折り畳まれるように潜んでいる。そして今、その傷に向き合う私の指先は、戸籍に記載される性別とは別のありようを模索する小さな願いを震わせている。

 天皇という存在がただのシンボルであるのか、日本国民であることと不可分の存在であるのか。それは私にはまだうまく答えられない。しかし戸籍制度の軛を感じながらも、その外側、あるいはその狭間に生まれる私たちの多様性が、この国の未来の一端をかすかに照らしているのだと感じる。父から受け継いだ木製の机の古傷を眺めながら、私はかつて昭和の青年だった父の姿と、いまだ混沌とする令和の空気とを同時に感じ取る。その狭間で、私は私自身を生きていくしかないのだ。

 光と影をまとった深い木目の奥で、私の名もまた刻まれ、そしていつの日か消えていくだろう。けれど、戸籍の筆頭者が誰であれ、天皇制がどうあり続けようとも、私たちが生きた証は必ず何処かに宿り、次の時代への小さな導きとなるはずなのだ。

(了)

 
 
 

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