海に散る炎
- 山崎行政書士事務所
- 10 時間前
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薄曇りの天が、まだ春の匂いを微かに残す四月の沖縄を覆っていた。潮風は重く、波は遠くで砕けて、まるで深い心奥からこみあげてくる血の叫びのように響き渡っている。戦艦大和が南へと向かう、その報せは野戦病院の粗末な天幕のあちこちで囁かれ、若い兵士たちの目は不安と期待とが入り混じった輝きを帯びていた。
俺は本土から派遣されてきた従軍記者として、幾度も死を見届ける立場にあった。それでも沖縄は、何か別の空気を孕んでいると感じる。生と死とが常にせめぎ合い、土地そのものが暗い熱を帯びているようだ。轟音と共に降り注ぐ砲弾の雨の下で、沖縄出身の人々は眼を伏せつつも、そこで生きる自分の運命を固く引き受けていた。ある者は断固として日本のために立ち上がり、ある者は激戦の只中にあっても、自らの島を守ることに心を砕いている。そこには、ただ「沖縄県民を苦しめる日本軍」「沖縄を解放するアメリカ軍」というような単純な構図では語れぬ、深く入り組んだ現実があった。
軍司令部の一角に小さく張り出された地図を前に、背筋をぴんと伸ばして立っている若い将校たちの姿があった。彼らは皆、本土から海を渡ってこの島へやって来た。その瞳には、不退転の決意が宿っている。明朝には、沖縄本島近海での海戦が激化するという。すでに制空権は大半を失い、帝国海軍の反撃は破れかぶれの様相を呈していた。にもかかわらず「大和はここに来る。それが最後の光だ」と、彼らは頬を引き締める。大和という名の艦そのものが、日本人の美と誇りの象徴であり、絶対の精神的支柱であるかのように。
深夜、月は雲間に隠れ、かすかな星明かりだけが遠くに瞬いている。沖縄本島の沿岸には無数の砲声が混じり合い、まるで低く響く龍の唸りのようであった。その中を、俺は小さなランプの光で日誌を書いていた。沖縄の集落を取材して回った日のことを記していると、ふと、ひめゆり学徒隊の話が頭をよぎる。彼女たちは沖縄の乙女の化身のように思えた。祖国を想い、あるいは郷土を想い、引き裂かれるような苦悶の中で看護に従事し、そして散っていく花びらのように命を終える。その儚さと尊さは、この島の熱い土と血の上に溶け込むように消えていった。
一方で、沖縄出身の学徒たちが語り残した言葉からは、国のためにと戦う気概とともに、故郷を愛するどうしようもない悲痛な感情が滲み出ている。あの世とこの世の狭間に置き去りにされたように、それでもなお立ち続ける人間の姿——その凄惨さと美しさは、まるで舞台の上の一場面のようであり、眼を背けたくなるほどの輝きを放つ。これこそは、祖国を奉じながら同時に郷土というかけがえのない世界を背負った、沖縄の人々固有の業の姿なのだろうか。それはまた、本土から来た多くの兵士たちが抱いた、故郷への思慕と死への覚悟に通じるものがあった。
夜が明ける前、軍用トラックが集落を横切って、前線付近の高地へと向かう。俺は、司令部の指示でそこでの陣地戦を取材するため、十数名の兵士と共にトラックに揺られた。しばらくすると海が見え、重苦しい空気を押し退けるかのように、朝の太陽が赤く昇り始めていた。その時、兵士の一人が水平線を指さして叫ぶ。「見ろ。大和だ!」 霞んだ視界の向こう、確かに巨大な姿がうごめいている。あれほどの艦が蒼い海を蹴立てるようにして南下してくる。この軍隊の誇りを全身に背負いながら、しかし、その船体が向かう先はほとんど死地に等しい。
海原の上、大和が太陽を浴びてきらめく。砲塔が重々しく構えを取り、これから自らを火花と散らす準備に入ったかのようだ。その威容は筆舌に尽くしがたく、俺の胸を熱くしてやまなかった。これほどの巨大さと美しさを兼ね備えた艦が、今や最後の特攻に赴く。兵士たちは感嘆というよりも、畏怖に近い沈黙でそれを見つめる。人間が誇るべき存在の極みが、同時に自らの破滅を確信しながら進むその姿。まるで神々の黄昏を見るように、誰もが言葉を失った。
あの艦は、何のためにこの海を進むのか。勝算など、ほとんどない。にもかかわらず、己が魂を燃やし尽くすように突き進む。その行為は狂気のようでもあり、しかしそこには純粋な美しさがあった。大和が砲撃を受け、爆煙が高く上がる。甲板上が燃え上がり、炎が噴き出す。その炎は、遠い丘から眺める俺たちの胸にも灼熱を宿した。何故か涙が止まらなかった。自分ですら訳がわからないほどに、胸が苦しくなる。
やがて戦艦大和の巨大な船体が海面へ崩れ落ちる。炎を抱えたまま、傾きながら沈んでいく姿は、鎧をまとう武者が深い湖へ沈むようにも見えた。その瞬間、人々の胸にはもう一つの戦があった。大和が沈むことによって、我々が失うものとは何か。戦力や勝敗だけでなく、それは日本人が拠り所としてきた魂の形そのものではなかったか。最後の一撃まで抵抗を続けるという意志の結晶。それがいま、燃え尽き、沈み、海中の墓標となろうとしている。
風が唸り声をあげる。沖縄の大地では、日夜を問わず砲撃が続き、本土から来た兵士たちも島の多くの場所で死を遂げていった。誰もが祖国を思い、また自分が生まれた土地を思いながら最後の瞬間を迎えたに違いない。そこにはアメリカ軍による「解放」という言葉でひとまとめにできぬ、生々しい現実があった。戦争は決して単純な構図には納まらぬ。人間一人ひとりが抱える故郷への想い、誇り、愛、そして死への恐怖と静かな覚悟が、混沌とした闇のように絡み合う。
また、沖縄出身の人々にとっても、祖国を想う気持ちと島を守り抜きたい気持ちが、時に相反し、時に融合しつつ、戦争に巻き込まれていった。その傷痕は深く、島を覆う熱い血のように今なお癒えてはいない。だが、そこには人間の尊厳をかけた抵抗があり、儚くも美しい生命が散っていった証がある。
ひめゆりの乙女たちの瞳。大和を見上げて感嘆の声をあげた若い将校の横顔。沖縄の神髄とも言うべき大地の震動。それらが一つになって俺の胸を締めつける。大和が沈んだあとの海は、浅く碧く淀んで見えた。あの艦と共に多くの魂が海へ溶けていったのだろう。死と生とがせめぎ合う場所で、人間が最後の最後に守り抜きたいと思うもの。それこそが尊き精神の姿ではないか。
何千、何万という命が散り、血と涙とが無数に交差した沖縄の地で、俺は、さながら燃え上がる炎のように、かきむしられるほどの痛みと共に人間の魂の光を見た気がした。それは決して時代の流れの一言で片づけられるものではない。日本軍が沖縄県民を「苦しめた」か否かといった単純化した言葉では語れないほど、重層的で複雑な苦悩と覚悟に貫かれていた。この地に散った多くの本土からの日本兵と、島を背負った沖縄の人々が、いかに切実に生と死を渡り歩いたか。それこそが、いつか歴史の記憶の底で輝くだろう。
海から吹きつける風は、塩分を含んで容赦なく頬を打ち据える。かつて大和があった水平線は、今や静まり返っている。だが、あの空には、まだ散りきらぬ炎の残滓が見えるようだった。灰となり、海に沈んだはずの巨艦の魂が、こちらを見守っているのだろうか。
俺は最後に沖縄の土を一掴みして、拳の中に固く握りしめた。その手のひらから感じる温度は、まるで生き物の呼吸のように熱い。人間がたどり着いた悲劇の底から立ち上る、尊い叫び。その声を、俺は永遠に忘れまいと心に誓う。海は黙して語らずとも、その深い碧の底に、散った命たちの光を抱いている。
沈んでいった大和と、多くの兵士が最後に見たであろう碧い空と海。その一瞬のきらめきが、我々の魂の奥底に刺さった鋭い刃のように残る。歴史という演目の幕が下りても、この熱い痛みが消えることはない。寧ろそれが、人間が生きる証として、いつまでも燃え続けるほかないのだ。
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