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永劫の光、或いは静寂の裡

  • 山崎行政書士事務所
  • 5 時間前
  • 読了時間: 5分

 午(ひる)下がりの光が障子を透かして、部屋の中を薄紅に染めていた。古めかしい箪笥の上には、戦前の洋装に身を包んだ祖母の写真が飾られている。彼女の瞳は薄闇に沈んでいるようにも見えるが、その奥にある意志の強さを悟られぬよう、しっかりと瞼を開いている様子だった。それは私が幼いころから眺め慣れた一枚であり、いつしか私の中で、皇室をはじめとするこの国固有の伝統や形式の象徴のようにも思われるようになった。

 私は、その写真の下に置かれている戸籍の写しにそっと手を伸ばした。黄ばんだ封筒からこぼれ落ちる紙を拾い上げると、何度も改正され、そのたびにこまごまと記載事項が変遷してきた痕跡が見て取れる。その列にある名は私の先祖、そして私の名へと繋がり、この国の大きな秩序の一部を為しているのだ。ふと、先日まで勉学の合間を縫って調べていた皇室典範の条文や、明治時代からの家制度の変遷についての断片的な知識が脳裏を掠める。戸籍という制度の奥底で、血脈という名の地層に隠れているもの。それは、肌理(きめ)の細かい和紙にすら書きこぼせない、私の在りよう——LGBTであるという、ひとつの事実であった。

 外を見ると、瓦屋根の隙間を縫うように一匹の燕が身を翻している。どこかから微かな軍歌に似た旋律が流れ、同時に夕刻を告げるような読経の声も聞こえる。現代では、そんな二つの音が同時に存在し得るのかと、私は自分の耳を疑った。まるで昭和と令和が混じり合った奇妙な時間帯のなか、私の身体は透き通るように内面を曝される予感に捉えられた。私は、この家に生まれ、この国を愛しながらも、次第にその制度的な拘束感から抜け出そうと足掻いている。

 父は若い頃から、この家の名跡を継ぐ責任と、日本国民の義務だと信じるものとを同一視してきた。テレビが神事や皇室の儀式を報じるとき、彼は姿勢を正し、瞼を伏せて静かに画面を見つめる。そこには畏敬と愛憎が入り交じった複雑な感情が漲っていた。父は戸籍の管理にしても、「日本人としての本懐」という言葉で説明したがる。しかし私が、戸籍上の男女二元論の中からはみ出す自分を彼に打ち明けようとすると、その瞳はぎこちなく揺れ動き、言葉は喉へと引っ込み、部屋には妙な沈黙が落ちた。それは私にとって、深い罪悪感と、国や家に対する裏切りなのではないかという恐れを駆り立てる。

 それでも、ある夜更け、私は決意した。家の奥座敷にひっそりと安置されている先祖の位牌の前で、私は独り言のように呟いたのである。「私は私でしかない。父祖の血は継いでいても、私は誰とも違う形で生まれ、そして私自身を全うしたいのだ」と。燃えかけの線香は、細く揺れながら甘やかな香りを放ち、やがて溶けるように消えた。闇の中で、皇室を頂点とするこの国の秩序の一部として育まれた私が、伝統に反抗しようと試みるとき、何とも言えぬ神聖と背徳がせめぎ合う震えを身体に感じたのを、今もはっきりと憶えている。

 翌朝、私は父の寝室を訪れた。戸を開けると、父はすでに起きて布団を畳んでいた。彼の背中には、過ぎ去った昭和の記憶、戦中・戦後の嵐を潜り抜けた影が刻まれているように見える。「父さん……」と私は声をかけたが、彼は振り向かない。「何だ?」と低く短く返ってきた声音は、頼りなげに聞こえながらもどこか凜としていた。私は戸籍の写しを掲げたまま、喉が乾き切るのを感じる。「私が、もし将来、この制度の中に収まりきらない存在になっても——家を継げず、あるいは子どもを持たず、名跡を絶やすことになっても——それでも、私は日本人として、この国を愛している。……それを信じて欲しいんだ」と、ほとんど噛みしめるような調子で告げる。

 ふと、父は動きを止め、振り向いた。その横顔にはこれまで見たことのない穏やかな陰影が差していた。微かな苦笑なのか、あるいは肯定なのか。父は何も言わず、ただ私の戸籍の写しを見つめ、その上で震える私の指先に静かに手を添えた。その一瞬、彼の血の中を流れるこの国の伝統と、私の中に広がる新しい世界とのあいだに、何か得体の知れない、けれど確かな光が走った気がした。

 その夜、私は古い書棚から、一枚の和紙を取りだした。そこには明治天皇御製の短歌が筆写されている。意味を反芻していくほどに、この国の根底にある神秘的な結晶が、時代を超えて私の胸を打つ。私の中には戸籍の上での性別がどうこうという前に、果てしなく人間であることの歓喜と孤独とが湧き上がる。私は盃に注いだ清酒を静かに啜りながら、その思いを深く味わった。

 黎明の空が仄白く染まるころ、私は床に就きつつ決意した。私は確かに戸籍の何処かに生きる名であり、この国の伝統と皇室を包含する巨大な秩序の環の中に生きている。だが、その秩序がこの先どう揺らぐとしても、私の内なる声だけは裏切らない。死生観をも変えるほどの覚悟で、私は私が選んだ生を貫こう、と。

 今、障子越しに射しこむ朝日に照らされて、祖母の写真もひときわ清々しく映る。彼女が纏う洋装の襟元には、菊の紋章を模した小さなブローチが控えめに光る。そのブローチが意味するものが、この国の王朝の深淵と、私の未来とを繋ぐのかもしれない。そして私は願う。伝統の沈黙を震わせながら、新しい光のもとで、自分という存在が初めて生まれ変わる瞬間を。

(了)

 
 
 

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