呉服町のセロ弾き茶屋
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月22日
- 読了時間: 7分

幹夫青年は、夜の静岡のまちなかを、用もないのに歩いてゐました。
呉服町のアーケードの天井の灯りは、昼より白く、昼より冷たく、まるで「ここはまちです。まちはまちです」と、しつこく念を押すやうに光つてゐます。
靴の底の下でタイルが「こつ、こつ」と鳴るたび、幹夫の胸の底の重たい石も「こつ、こつ」と鳴るやうに思へました。
――ぼくの心臓は、いま、どんな拍子(ひやうし)で鳴つてゐるんだらう。
幹夫はときどき立ち止まつて、胸へ掌を当てました。
どく、どく。
どく、どくどく。
どく。
リズムが揃はないのです。
揃はないのに、止まりもしない。
止まらないのに、どこへも行けない。
そんな鼓(つづみ)を、胸の中に抱へてゐるやうでした。
そのとき、アーケードの端の細い横丁から、ふしぎな音がしました。
ぼううん……。
ぼろん。
ぶうん……。
それはギターの音でもありません。ピアノの音でもありません。
もっと木の匂ひがして、もっと腹の底へ沈んで来る音――まるで大きな蜜柑(みかん)の箱の中で、黒い蜂が羽を震はせてゐるやうな音でした。
幹夫は横丁へ入りました。
横丁は狭く、古い飲み屋の提灯が赤く滲み、雨上がりの石畳が黒く光つてゐます。
どこかの厨房から、だしの匂ひが湯気と一緒に「ふわっ」と流れて来て、幹夫の鼻の奥をくすぐりました。
音は、そのいちばん奥の、小さな木の戸の向うから出てゐました。
戸の上に、古い板が掛かつてゐます。板には白い字で、かう書いてありました。
「セロ弾き茶屋」
幹夫は思はず、板を二度見ました。
セロ――チェロのことです。
茶屋――お茶の店です。
――こんなところに、そんなものがあるはずがない。
けれども、音がまた鳴りました。
ぶうん……。
ぼろん。
ぶううん……。
その音は、「嘘」よりも確かな顔をしてゐました。
確かなものは、入り口を持ちます。
幹夫は戸を、そつと押しました。
戸は、思ひのほか軽く、
「からん」
と、小さな鈴を鳴らして開きました。
中は狭い部屋でした。
土間の端に七輪があり、鉄瓶が「しゅう」と薄い湯気を吐いてゐます。
壁には茶箱が積まれ、硝子の瓶に乾いた茶葉が入つてゐました。茶葉は暗い緑で、ときどき金いろの芽が混じり、まるで小さな昆虫の羽のやうに薄く光ります。
そして奥の畳の上に、ひとりの人がゐました。
白い前掛けをした、背の高い痩せた人です。顔はよく見えません。
その人が膝に抱へてゐるのが、セロでした。
セロの胴は、夜の蜜のやうに黒く艶があり、弓(ゆみ)が動くたび、木が深く息をするやうに鳴りました。
幹夫が立ち尽くしてゐると、その人は弓を止めずに言ひました。
声は低く、湯気の中から出るやうでした。
――ミキオ青年。
――入ツテオイデ。
――胸ガ、テンポ、バラバラ。
幹夫はびつくりしました。
なぜ名前が分かるのか。
なぜ胸のテンポが分かるのか。
けれども幹夫は、いまそれを訊く気になれませんでした。
胸の中の石が、セロの音に触れて「ころり」と向きを変へたからです。
幹夫は畳の端に座りました。
すると鉄瓶の湯気が、ふいに形を持ちました。
湯気がただ立ちのぼるのではなく、細い線になり、五本並び、まるで五線譜(ごせんふ)のやうになつたのです。
湯気の線の上を、茶葉のかけらみたいな小さな粒が、ぽつ、ぽつ、と跳ねました。
「……音符だ」
幹夫が呟くと、セロ弾きは、弓をすこし強く引いて、
ぶうん……っ
と鳴らしました。
すると湯気の線の上の粒が、一斉に「たたた」と走り、鉄瓶の口から出る湯気が、まるで曲の冒頭のやうに、整列したのです。
セロ弾きは言ひました。
――オ茶ハ、湯(ゆ)ト葉(は)ト息(いき)デ鳴ル。
――セロモ、木ト弓ト息デ鳴ル。
――心臓モ、肉ト血ト息デ鳴ル。
――ダカラ、ココ、学校。
幹夫は、なぜだか胸が熱くなりました。
学校――。
巴川で「夜の水の学校」があつたやうに、ここにも学校があるのです。
しかもそれは、いちばん近いところ――自分の胸のすぐ隣の学校でした。
セロ弾きは、鉄瓶の蓋を指さしました。
――ミキオ青年。
――宿題。
――蓋(ふた)、少シ開ケロ。
――少シダケ。
――開ケスギルト、湯気、逃ゲル。
――閉ヂスギルト、湯、荒レル。
――拍(はく)ニ合セテ、隙間(すきま)。
幹夫は立ち上がり、鉄瓶へ手を伸ばしました。
蓋は熱く、指先が「ひやっ」としました。熱いはずなのに、ひやっとするのです。
それは怖さの冷たさでした。
幹夫は息を吸ひました。
そして、セロの音を聴きました。
ぶうん……
ぼろん。
ぶううん……
音は、どこまでもゆつくりで、どこまでも確かでした。
その確かさに合わせて、幹夫は蓋をほんの少し――紙一枚ぶんだけ持ち上げました。
すると鉄瓶の湯気が、
「しゅう……」
と細くなり、五線譜の線がまつすぐに揃ひました。
茶葉の粒の音符が、湯気の線の上に「とん、とん」と落ち、落ちたところで小さく光りました。
幹夫の胸の中で、どく、どく、と鳴つてゐたものが、ふいに「たん、たん」と言ひ換へたやうに思へました。
どく、どくどく、どく、ではなく、
たん、たん。
たん、たん。
と、二つずつ揃ふのです。
幹夫は驚いて、思はず胸へ掌を当てました。
胸の鼓は、まだ鳴つてゐます。
けれども鳴り方が、少しだけ「整つた」のでした。
セロ弾きは、弓を止めずに言ひました。
――ホラ。
――心臓ノ振動数(しんどうすう)ハ、毎分七十前後。
――ダガ、考ヘゴト多イト、勝手ニ跳ネル。
――跳ネル拍ハ、悪イ拍ジャナイ。
――拍ガ、仕事ヲ欲シガツテヰル。
幹夫は、蓋の隙間を保ちながら、湯気を見ました。
湯気の線は、セロの音に合わせて、少しずつ波を打ち、波の頂点に、茶葉の音符が「きらり」と乗ります。
五線譜が、部屋の中に浮かび、天井の低い空間が、いつの間にか小さな音楽堂になつてゐました。
そのとき、戸の隙間から、黒い猫が一匹入つて来ました。
毛は少し濡れてゐて、耳の先が冷たさで尖り、しつぽが細く震へてゐます。
猫は土間の端で「にゃ」とも言はず、じつと鉄瓶の湯気を見上げました。
そして、湯気の五線譜の下へすうつと座り、目を細くしました。
セロ弾きが、少しだけ笑つたやうに言ひました。
――アノ猫、雨ノ拍、拾ツテ来タ。
――ミキオ青年、茶、注イデヤレ。
――湯気ノ拍、分ケロ。
幹夫は蓋をそつと置き、湯呑みを探しました。
棚に小さな湯呑みが並んでゐます。
幹夫は一つ取り、茶葉を少し入れ、鉄瓶の湯を注ぎました。
湯が落ちるとき、
「とととと」
と音がしました。
その音が、セロの低い音と重なつて、ちやうど「曲の真ん中の橋」みたいに、部屋の空気を渡しました。
湯呑みの中で茶葉が「くるり、くるり」と開き、緑がふわりとひらきました。
匂ひが立ちました。青い匂ひ。苦い匂ひ。けれどもその苦さは、胸の底の石を洗ふやうな苦さでした。
幹夫は湯呑みを猫の前へ置きました。
猫は鼻を近づけ、
「ふう」
と、小さく息を吐きました。
すると猫の息が湯気に混じり、湯気の五線譜の線が、また少しだけまつすぐになりました。
その瞬間、幹夫ははつきり気づきました。
この店の音楽は、セロだけではない。
湯気も、茶葉も、猫の息も、そして幹夫の胸の鼓も、みんな一緒に曲を作つてゐるのです。
セロ弾きは、曲の終りのやうに弓を静かに引いて、
ぶうん…………
と長く鳴らし、それから音を止めました。
止まると同時に、湯気の五線譜はふわりと崩れ、ただの湯気に戻りました。
茶葉の音符も、湯呑みの底へ沈んで、普通の葉になりました。
けれども幹夫の胸の中の拍だけは、まだ「たん、たん」と続いてゐました。
セロ弾きは、棚から小さな紙片を取り出して、幹夫へ渡しました。
紙片には鉛筆で、丸い点が並び、ところどころに長い線が引いてあります。
まるで電信のやうでもあり、楽譜のやうでもありました。
――コレ、ミキオ青年ノ拍子紙(ひやうしがみ)。
――迷ツタラ、胸ニ当テロ。
――遠イ銀河ヲ探ス前ニ、近イ鼓ヲ揃ヘロ。
――近イ鼓ガ揃フト、手モ揃フ。
――手ガ揃フト、誰カノ糸ヲ解ケル。
幹夫は紙片を握りました。
紙は軽いのに、胸の石が少しだけ「役に立つ重さ」になつたやうに感じられました。
重さが消えたのではありません。
重さが「拍を取る重さ」になつたのです。
拍を取る重さは、歩く足を揃へます。
幹夫が立ち上がると、猫も一緒に立ち上がり、しつぽを一度だけ
「ぱたん」
と振りました。
それは見送りの合図みたいでした。
戸を出ると、呉服町の横丁の空気が冷たく、
「すう」
と頬を撫でました。
遠くで車が走り、誰かが笑ひ、ネオンが滲んでゐます。
けれども幹夫には、さつきほどその光がうるさくはありませんでした。
幹夫青年は歩きました。
胸の中で、
たん、たん。
たん、たん。
と、拍が続いてゐます。
その拍に合わせて、靴の音も、
こつ。
こつ。
と揃ひました。
揃つた音は、どこへでも行ける音です。
行ける音は、近いところの仕事を見つけます。
幹夫青年は、ポケットの拍子紙をそつと押さへながら、小さく言ひました。
「……あしたは、胸のとなりの拍で、ひとつだけ、近いところを整へてみよう」
風が「すう」と通り、
横丁のどこかで、セロの残り香のやうな低い音が、もう一度だけ、
ぶうん……
と鳴つたやうに聞こえました。





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