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大人になる前の、ほんの少し


大人になる前の、ほんの少し。それは、背が伸びたとか、声が低くなったとか、そういう目に見える変化のことじゃない。

たとえば――

「言わない」ことで守ってきたものを、「言ってみる」ことでしか守れない日が来る。その境目に、ほんの少しだけ足を置いてしまうこと。

週末が近づくと、家の中の音が変わる。祖母が湯飲みを戸棚から出す音が、いつもより丁寧になる。ふきんのこすれる音が長い。父はテレビの音量を、無意識に下げがちになる。誰も「週末」なんて言わないのに、誰の身体も、先に知っている。

幹夫はその「先に知っている身体」が、少し怖かった。怖いのは、身体が勝手に正直になるからだ。平気なふりをしても、胸の奥は勝手にきゅっと縮む。縮むのに、誰にも見えない。見えないから、見せないままにできる。見せないままでいると、世界は静かに進む。静かに進むのに、自分の中だけ置いていかれる。

夕方、茶畑から戻る道。牧之原の空は広いのに、日が傾くと地面の影が急に長くなる。畝の影が畝の影に重なって、どこが境目かわからなくなる。その重なり方が、幹夫の心に似ていた。怒りと寂しさと、会いたい気持ちが、くっついてほどけない。

ポケットの中でスマホが震えた。母からの短い返信が、また一つ。

「土曜日の午後、どう?」

文字はやわらかい。でも、やわらかい文字は、時々いちばん鋭い。やわらかいから、断りづらい。やわらかいから、期待してしまう。期待してしまうと、裏切られたときの痛みが増える。

幹夫は立ち止まり、茶畑の奥を見た。風はあるのに、葉はあまり揺れていない。揺れていないのが、静けさではなく、緊張に見える日がある。自分の胸の奥も、たぶん同じだ。

「……土曜日」

小さく声に出してみる。誰にも聞こえない声で。聞こえなくてもいい声で。

声を出すと、言葉は空気に触れる。触れた瞬間に形が変わるのが怖いのに、形が変わるからこそ「自分の外」に出ていく。外に出たものは、もう一人で抱えなくていいかもしれない。

幹夫は、返信の欄に指を置いた。

「午後で大丈夫」

それだけ打って、送った。送ってから、胸の奥が遅れて揺れた。「送信した」という事実が、じわっと内側に染み込む。世界は何も変わらないのに、自分の中だけが少しだけ変わる。

それが、大人になる前の、ほんの少しだと幹夫は思った。

夜、居間の机に、川根で買った茶の袋が置かれている。祖母が「味、見とけ」と言ったやつだ。袋の角が少し折れている。父が一度触った跡かもしれない。触っただけで、持ち上げはしなかったあの触り方。

幹夫は袋を手に取った。紙のざらつきが、指先に引っかかる。茶葉の匂いはまだ閉じ込められていて、外へは出てこない。出てこないのに、そこにあることだけは分かる。

祖母が湯を沸かし、父が黙って湯飲みを並べた。父が湯飲みを並べるのは珍しい。珍しいことが起きると、幹夫は心が身構えてしまう。でも、身構えたままでも、やり過ごすだけじゃなく「見ている」自分がいた。それもまた、ほんの少しの変化だった。

湯が注がれて、香りが立つ。湯気がふわっと上がり、茶の匂いが部屋の天井まで広がる。匂いは言葉じゃないのに、言葉より先に「ここにいる」を伝える。幹夫はそれを、ちょっとだけ信じたくなった。

父が湯飲みを持ち上げ、ひと口すすった。それから短く言った。

「……苦ぇな」

祖母が鼻で笑う。

「そりゃ新茶みたいに甘かないでね。けんど、後から来るだら」

“後から来る”という言葉が、幹夫の胸の奥に残った。苦味の後から来る甘み。怖さの後から来る安心。言ってしまった後から来る「それでも大丈夫だった」という感覚。

父が、湯飲みを机に置いたまま、前を見て言った。

「……土曜、何時に出る」

それは質問で、確認で、そしてたぶん、父なりの約束だった。父は「大丈夫だ」と言えない。「大丈夫だ」と言えるほど、自分の中の不安を整理できない。だから、時間を聞く。段取りを聞く。行動を決める。行動でしか言えない人の言葉だ。

幹夫は一瞬、返事を探した。「分かんない」と言いそうになって、でも今日は違う返事を選んだ。

「……俺、早めがいい。着いてから、ちょっと歩きたい」

父が、ほんの少しだけ頷いた。その頷きが、今までより深い気がしたのは、幹夫の願望かもしれない。でも願望でもいい、と幹夫は思った。願うことをやめないほうが、大人に近い気がするからだ。

布団に入ると、家の音が小さくなる。外で虫が鳴いている。遠くで車が走る音がする。静けさが戻ってくる。

幹夫は、胸の奥をそっと確かめた。まだ固まりはある。まだ怖い。会って、何を言えばいいか分からない。会って、傷つくかもしれない。会って、嬉しくなってしまうかもしれない。嬉しくなってしまうのが、いちばん怖い。

それでも――

“行く”と決めた。“送った”と認めた。“歩きたい”と言えた。

そういう、小さな選択がひとつ積もるたび、幹夫の中の静けさは「逃げるため」だけじゃなく、「立っているため」の静けさに変わっていく気がした。

大人になる前の、ほんの少し。それは、完璧に強くなることじゃない。怖いまま、逃げない時間を、数秒だけ増やすこと。

幹夫は目を閉じて、土曜日の午後を想像した。駿河湾の潮の匂い。安倍川の白い河原の光。静岡、午後四時の影の長さ。川根の山影の冷たさ。そして、その間に置く、ひと袋の茶。

まだ答えはない。でも、答えがない場所に、立てる足はある。

そのことを胸の奥に置いて、幹夫は眠った。

 
 
 

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