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川辺の風、うなぎの香り

  • 山崎行政書士事務所
  • 21 時間前
  • 読了時間: 3分

第一章 蒸し暑い正午

 七月下旬のある日、幹夫(みきお)は母と一緒に街はずれのうなぎ屋へと出かけた。土用の丑の日、うなぎを食べる風習は昔から続いているらしい。 夏の太陽が真上に来る頃、道端の草は熱で白く乾き、風はまるで生ぬるい息を吹きかけるかのようだった。幹夫は手拭いで首筋の汗をぬぐいながら、母の後ろをついて歩く。まだ昼前だというのに、背中にはじっとりした汗が滲んでいた。

第二章 かば焼きの煙

 やがて小さな川の流れるあたりに来ると、うなぎ屋の暖簾(のれん)が見えてきた。軒先には丸い提灯がぶら下がり、店先には白い煙がうっすら漂っている。炭火に乗せられたうなぎの脂が焦げ、香ばしい香りが風にまじって川面を横切っていく。 店の扉を開けると、幹夫は思わず立ち止まった。高温の炭の熱気と醤油だれの甘い香りが、体ごと包み込むように広がる。 「いらっしゃいませ」 声をかける店の人の笑顔に促されて、母と一緒に小上がりの座卓につく。周囲では、何組かの客が黙々とかば焼きを頬張り、うちわで顔をあおいでいる。

第三章 川辺の涼、うなぎの味

 注文を終えると、少し離れた厨房から、炭火のはぜる音とタレを塗るパチパチという音が聞こえてくる。幹夫は窓の外を見やった。すぐ裏手には小さな川が流れていて、緑の草が河原を縁取っている。風が通るたびに、冷たくはないが、かろうじて涼を感じられる。 しばらくして運ばれてきたのは、ふた付きのうな重。蓋をそっと開けると、甘辛いタレのつやと、香り高い湯気が立ち上り、幹夫の鼻をくすぐった。 箸で一切れをつまみ、ごはんと一緒に口に運ぶと、外側はこんがり、中はふわりとほどけるようだ。醤油とみりんの甘みが、暑さに溶けた体をじんわりと癒してくれる。 「あ……おいしい」 幹夫のつぶやきに、母は涼しげに笑って「夏バテしないように、今日はしっかり食べてね」と答えた。

第四章 夕立と蝉しぐれ

 店を出る頃、空には黒い雲がもくもくと湧き上がり、遠くで雷鳴が響いた。すると突然、大粒の夕立が降りはじめる。店先の軒下で母と一緒に雨宿りをしていると、涼しい風が吹き渡って幹夫の汗をひんやりと奪っていく。 川沿いの草が雨に打たれ、甘い青い匂いを放つ。遠くの蝉の声は、雨の音に混じりながらも、衰えずに高く響いていた。 「一気に涼しくなったね。体が少し楽になったかも」 幹夫は息をつくように微笑む。母は濡れた手拭いで額の汗をぬぐいながら、「夕立のおかげかしら」とうなずいた。

第五章 土用の風(エピローグ)

 夕立が止むと、空は鮮やかな朱色に染まり、重く垂れ込めた雲がうっすらと隙間を見せはじめる。雨に洗われた川面には、沈みかけた太陽の色が反射し、かすかな金色の道筋をつくっていた。 幹夫は改めて店の方へ振り返る。さっきまで白い煙と熱気が漂っていた屋根からは、薄く湯気のようなものが上がり、周囲の空気と混ざり合っている。 (もう一度、あのうなぎを味わえるのはいつだろう) そう思うと、あの甘いタレの香りが口中に残っているような気がして、幹夫の胸は少しだけ切なくなった。土用の丑の日は年に一度きりではないが、この夏の熱と夕立の匂いが、きっと今日だけの特別な思い出として刻まれる気がした。 母が小さく笑いかけ、「さ、帰ろう」と声をかけると、幹夫は「うん」とうなずき、まだ濡れた道を歩きはじめる。早い蝉しぐれが耳の奥で響き、土用の風が背中を押すようにそっと吹いていた。

 
 
 

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