薄緑の香り、静寂のかたわら
- 山崎行政書士事務所
- 21 時間前
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第一章 母の姿
梅雨明け前の曇天が続く頃、幹夫(みきお)は茶道教室の扉をそっと開けた。母が昔からお世話になっている先生に誘われ、今日は見学だけでも構わないということで立ち寄ったのだ。 教室の奥には畳敷きの部屋があり、薄い障子から柔らかな光が差し込んでいる。母はすでに和服姿で正座をしていて、幹夫の姿に気づくと、かすかに目で合図した。 部屋には淡い抹茶の香りが漂い、炭のはぜる音がかすかに聞こえる。湿気を含んだ六月の空気が部屋の内と外とを静かに区切っているようだった。少し蒸し暑さを感じるはずなのに、心が落ち着いていくのを幹夫は不思議に思う。
第二章 道具と音の世界
幹夫は部屋の隅で正座し、母やほかの生徒たちがお点前を始めるのをじっと見つめた。薄暗がりの中、風炉(ふろ)の炭火が小さく赤みを帯び、釜の中で湯がほんのりと揺れている。 先生が柄杓(ひしゃく)をすくい、ささやかな水音が耳に届いた。茶杓(ちゃしゃく)で抹茶を軽やかにすくう動作は、ゆったりとしているのに、どこか厳かな気配がある。 「茶碗一つとっても、色や形がまるで違う。名前までついているものもあるんだ……」 幹夫は心の中でそう思い、湯気の立つ釜を眺める。湯の表面がわずかに泡立ち、釜肌に触れる湯音がほんのりと心地よい。何気なく続く動作の一つひとつが、静寂の中に溶け合っているようだった。
第三章 薄緑の抹茶
先生が母に茶を点(た)て終え、母が一礼して茶碗を手に取る。幹夫は小さく息を呑む。抹茶の表面は薄緑の泡がきめ細かく立ち、ゆらゆらと揺れている。 母は口をつけ、ゆっくりと茶を飲み干す。ふと、その唇がわずかに微笑んだように見え、幹夫の胸は少しだけきゅんと切なくなる。いつも家事や仕事で忙しいはずの母が、こんなにも静かな時間を生きている光景が、幹夫には少し不思議だった。 やがて母が幹夫のほうを向き、茶碗をそっと差し出す。「一口、飲んでみる?」 幹夫は戸惑いつつも、畳を軋ませないように慎重に近づき、ぎこちなく茶碗を受け取った。
第四章 初めての一服
そっと口をつける。苦い――そう思った瞬間、抹茶のとろりとしたコクが舌を包み、ほどなくして鼻先にわずかな甘みが抜けていく。 (こんな味なんだ……) 思っていたよりも濃厚で、ほんのり青い香りがじんわりと口中に広がる。甘いお菓子も出されていないのに、後味はなぜかすっきりしていて、まるで清流の水を飲んだあとのように胸が涼しくなった。 母は幹夫の表情を読み取り、黙って微笑んでいる。幹夫も「苦い」だけじゃ言い表せない、なんともいえない余韻に包まれながら、はにかむように微笑み返した。
第五章 静寂の奥(エピローグ)
見学が終わり、畳を下がるとき、先生が小さく声をかけた。「お若いのに、とても静かに見ていらしたわね。またいらっしゃい」 幹夫は「ありがとうございます」と頭を下げる。障子を開けて廊下に出ると、外の湿った空気が生々しく肌に触れた。先ほどまでの別世界の静寂が嘘のようにも思えるが、胸の奥にはまだ、薄緑の味わいが残っている気がした。 帰り道、母は「お茶って、なんだか落ち着くでしょう?」と問う。幹夫は曖昧に笑って「うん」と答えた。頭の中には炭火と湯の香り、そして抹茶の泡がちらつく。 ――あの瞬間の静寂は、もしかしたら自分にも持てるものなのかもしれない。 そう思いながら、幹夫は母と連れ立って白い曇天の空を見上げる。光の加減はあいまいで、街路の木々は濃淡の影を地面に落としていた。そこに吹く風までもが、さきほどの茶室の余韻と重なるようで、幹夫の胸にほんのりと穏やかな感覚をもたらしていた。
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