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石垣の苺、海をのぞむ丘

  • 山崎行政書士事務所
  • 1 日前
  • 読了時間: 3分

第一章 春の朝靄

 静岡の久能山(くのうざん)へ向かう道を、幹夫(みきお)は母の運転する車に揺られて進んでいた。まだ早朝で、山裾にはうっすらと朝靄が漂っている。遠くには駿河湾がぼんやりと青い曲線を描き、その向こうにひっそりと伊豆の山々が霞んでいた。

 「久能山のイチゴ、どんな味がするのかな」 幹夫は窓を開け、湿った春の風を吸い込みながら呟く。母は微笑んで、「甘いだけじゃないかもね」と答えた。丘の曲がりくねった道を上がっていくと、石積みが連なる斜面が見えはじめた。

第二章 石垣イチゴの畝(うね)

 車を降りると、正面には石垣を利用したイチゴ畑が斜面いっぱいに広がっている。石垣が陽の光を受けて暖まることで、イチゴが甘く育つ――それが久能山の石垣イチゴだと母から聞いていた。 畑を管理するおじさんが「ようこそ、いらっしゃい」と迎えてくれた。幹夫は挨拶をするなり、イチゴの畝(うね)へ目を凝らす。苺の葉はつややかな緑を湛え、その根元には真っ赤に色づきかけた実がいくつも覗いていた。 「石垣のおかげで、まだ朝のうちは少し暖かいんだよ。これからもっと陽が上がれば、甘みも増すさ」 そう言っておじさんが楽しそうに笑うと、幹夫もつられて小さく笑みをこぼした。

第三章 甘酸っぱい一口

 おじさんが「さあ、食べてごらん」と手渡してくれたイチゴは、一見まだ青みがかった先端を残していたが、赤い部分は宝石のように艶やかだった。 幹夫は恐る恐るかじる。すると皮の薄い表面がぷちりと破れ、舌の上に甘さと酸味がじんわり広がった。 「あ……」 言葉にならない感覚が幹夫を包む。みずみずしい香りとほんのり舌に残る酸味。それが空気を通して、石垣と陽射しの匂いまでも一緒に感じさせる気がした。 「どう? 甘いだけじゃなかったろ」 おじさんの問いに、幹夫はうなずきながら目を伏せるように笑った。まるで春の風が舌先を吹き抜けるような、不思議な後味を覚える。母はそんな様子を微笑ましそうに眺めていた。

第四章 石垣の上から見える海

 しばらくして、おじさんが「ちょっと上に登ってみるか」と声をかけてくれた。石段を登り、畑の上端まで来ると、そこからは久能山の斜面越しに青い駿河湾が遠く見渡せた。 「海って、こんなに静かだったんだ……」 幹夫は呟く。下のほうでは車が行き交い、街並みが連なっているはずなのに、ここでは潮の音すらやわらかく聞こえる。 石垣に添えられたイチゴの葉が風に揺られ、さわさわとささやくような音を立てる。幹夫はあの一口の甘酸っぱさを思い出し、心がじんと暖かくなるのを感じた。まるで陽に温められた石垣が、その熱をイチゴに伝え、それが幹夫の胸にも届いているようだった。

第五章 夕暮れの光(エピローグ)

 夕方になり、再び石垣の下に降りた頃には、幹夫の籠の中にイチゴがいくつも摘まれていた。おじさんと母の話では、もう少し暖かくなると、さらに真っ赤に色づき、甘さも増すそうだ。 「今日はいい天気でよかったな。また遊びにおいで」 おじさんが笑顔で見送ると、幹夫はイチゴの籠を大事そうに胸に抱えたまま、軽く会釈をする。 車に乗り込むと、山の稜線にはオレンジ色の夕日がにじんでいる。春の空気に包まれた石垣の斜面を、幹夫は窓越しに振り返った。イチゴの赤色と、陽に染まる石垣の褐色が、静かに夕闇へ溶けかけている。 その色彩は、朝に見た青い海の記憶と重なり、幹夫の心に淡い余韻を残した。ほんの少しの甘酸っぱさと、石垣に蓄えられた陽のぬくもり。それが彼の胸の奥で、新しい春の思い出としてぽっと灯り続けていた。

 
 
 

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