旅券の断面 — 旅行会社の六月(長編フィクション)
- 山崎行政書士事務所
- 9月19日
- 読了時間: 7分
— 2016年「国内大手旅行会社への標的型メールを起点とする不正アクセス:遠隔操作型マルウェア→長期潜伏→顧客予約関連DBの到達→氏名・住所・メール等に加え旅券情報の一部(数千件)を含む可能性→数百万人規模の公表→関係各社・所管の通達と対応」という事実関係を骨格にした物語
00|火曜 06:18 「出していないのに、出ている」
茜(あかね)トラベル・渋谷本社の運用室。夏芽は、深呼吸をするみたいに上下する出口の帯域に違和感を覚えた。監視盤の色は緑。APサーバのログにも、見慣れたバッチや巡回だけが並んでいる。だけど——特定の予約系セグメントから、夜明け前だけ「外」に向かう細い脈が続いていた。
「出していないのに、出ている。」
夏芽は送信元を辿る。煉瓦色の筐体から伸びる一本の線。旅券情報と顧客属性が同居する予約連携箱だ。CPUは低体温のように静かで、アラートは歌わない。静かすぎる。
「山崎行政書士事務所につないで。」夏芽は短縮を押した。
01|06:42 “止める/伝える/回す”
静岡・山崎行政書士事務所。ホワイトボードの前に**律斗(りつと)**が立ち、太いペンで三行を書いた。
止める/伝える/回す
止める:予約連携セグメントを電源を落とさずネットワーク隔離。証跡(メモリ/ディスクのスナップショット/プロセスリスト)を一方向に吸い上げる。出口は白(許可先のみ)に絞り、解析箱にミラーを張る。常時特権はゼロ化、**必要時だけ(JIT)**貸与へ。
伝える:三文の一次報を経営/広報/所管・連携先に同報。“事実”(夜間の外向き異常/予約連携セグメントの隔離)と**“可能性(仮説)”(標的型メール起点→遠隔操作型マルウェア→長期潜伏→予約連携箱の到達)を段落で分け、正午/17時に時刻で更新する約束。「支払い先変更メールは無効」を一文目**に置く。
回す:本日のチケット発券・旅程変更は電話復唱+二名承認で手動化。遅いけど確実に回す。
りなが頷く。「72時間の所管報告も回します。“声は鍵”(折り返し+二名承認)を全窓口に。」
奏汰(そうた)は構成図に赤を走らせる。「三月中旬に添付ファイルで踏まれて、薄い足で内側に来た線だと思う。遠隔操作型が眠って、見回って、夜明け前に外へ。」
悠真(ゆうま)が短く言う。「“便利の近道”——旅券写しを予約箱で仮置きする運用が刃に変わってる。」
ふみかは三文の一次報を置いた。
現状:予約連携セグメントの外向き異常を確認。隔離/証跡保全/出口白化/JIT特権化を実施。対応:発券・旅程変更は電話復唱+二名承認で継続。正午に一次報、17時に更新。お願い:“返金・送金先変更”などメールだけの依頼は無効。必ず電話で二重確認を。
受付の**白い猫のマスコット(やまにゃん)**が、小さくしっぽ(Type‑C)を光らせた。札には太い字。
「遅いけど確実。」
02|07:30 「春の置き手紙」
監査ログの底から、三月十五日の薄い跡があがってきた。取引先を装ったメールが添付を抱えて届き、開封から数分後に外へ短い呼吸。数日をおいて、別の端末からも似た呼吸。眠りと見回り。静かで、長い。
夏芽は喉の奥が冷えるのを感じる。
「扉は、春に開いて、梅雨に入れ替わった。」
03|08:12 四つの数字(第一次)
蓮斗(れんと)が白板に数字を書いた。
MTTD(検知):24分(出口の脈→相関で特定)
一次封じ込め:51分(隔離/白化/証跡保全/JIT化)
想定影響:氏名/住所/メール等の顧客属性、一部の旅券情報(数千件規模)を含む可能性
基幹決済系:到達痕なし(現時点)
律斗は短く言う。「勝ってはいない。でも、“間に合っている”。」
04|09:03 旅券という「生活の断面」
サンプルが机に置かれた。断片の組み合わせ。氏名(漢字・カナ・ローマ字)/性別/生年月日/住所/メール。旅券番号の断片と発行日が揃っているものもわずかにある。りなは低く言った。「“番号”だけじゃない。“旅行という生活の断面”が紙から剥がれてしまう。」
奏汰は鍵束を三つに分ける図を描く。
“見る鍵”/“運ぶ鍵”/“署名する鍵”常時特権はゼロ、必要時だけ(JIT)に短く貸す。貸与の記録は消せない箱へ二経路。
05|正午 一次報(所外)
事実:予約連携セグメントで外向き異常を検知。隔離/白化/証跡保全/JIT特権化を実施し、標的型メール起点の可能性を踏まえ調査を継続。影響(現時点):顧客属性のアクセス痕と、一部旅券関連情報の断片を確認。基幹決済系の不正到達は確認なし(継続精査)。対応:関係各社ならびに所管と連携し、通知と案内の準備を開始。17時に更新。
怒号はない。時刻が不安の終わりをつくる。
06|午後 “二つの島”のあいだ
本来、旅券情報は決済・資格確認の島に閉じている。しかし、業務効率の名の下に、予約箱へ**“仮置き”されることがあった。便利の近道は刃になる。悠真は二つの島の橋を焼き切り**、“仮置き”の禁止を技術で強制する案を図に落とす。奏汰はOutboundを白に、DNSの未知の連鎖を即死に落とす。
やまにゃんの札が光る。
「速さは、戻れるときだけ味方。」
07|夕刻 “主語”を入れる広報
りなは広報台本の主語を太くした。
「当社は、いつ、何を、どう変えるか」「当社は、どの時刻に、どの事実を更新するか」
“誰がやったのか”は私たちが言わない。公的発表に歩調を合わせる。私たちが言うのは、**“何が起き、何を止め、どう戻すか”**だけだ。
08|翌朝 08:15 遠隔操作の手癖
解析箱に残った靴跡は、国内で繰り返し観測されてきた手癖に似ていた。プロセス注入、サービス名の偽装、夜にだけ息をするC2。眠らせて、見回って、燃やす。奏汰はふるまい検知を別の目(ETW/Sysmon)で常設する案を置く。悠真は予約箱の更地再建——空の箱を立ち上げ、既知良品で最小復帰を設計する。
09|二日目 正午 段落で言う
封じ込め:隔離/白化を維持。更地の新環境に予約連携を最小復帰。仮置き運用は技術で封鎖。影響:顧客属性(氏名・住所・メール 等)と旅券関連情報の一部(断片)のアクセス痕。旅券番号+発行日が揃うのは少数(数千件規模)。次:関係各社と案内文言を調整し、詐欺被害の注意喚起を同時に展開。
旅券そのものは偽造の鍵にならない。だが、名寄せの断面にはなる。言葉を選び、時間で切り分ける。
10|三日目 11:40 “72時間”の線
所管への報告が二段落で確定する。
確認された事実:標的型メール起点の不正アクセス、予約連携セグメントの外向き異常、隔離/白化/証跡保全、更地への最小復帰。顧客属性と一部旅券関連情報のアクセス痕。
未確定(継続調査):外部送出の最終範囲、第三者提供の有無、関係各社との連携結果。
講堂に三つの時計が並ぶ。
現場の時間(発券・旅程・顧客案内)
規制の時間(72時間と継続報告)
経営の時間(信頼・費用・再発防止)
りなは三行で締める。
言い切る(事実と可能性を混ぜない)期限を付ける(例外は48時間で自動失効)二重に確かめる(自動の前後に**“人の10分”**)
11|数日後 「誰の旅だったか」を守る
コールセンターが開く。紙の台本は一行目に**「当社からATM操作・支払い案内はしない」を置き、二行目に「旅券はICで守られているが、詐欺には注意」を書いた。夏芽はログの海に糸を垂らし、夜明け前の脈が止まったのを確認する。港ではなく空港へ向かう旅行者の列が、少しだけ早足**に戻った気がした。
12|一巡後 「便利」と「戻れる速さ」
茜トラベルの箱は新しくなった。鍵束は三つに分かれ、常時特権はゼロ、JITの貸与には押印がいる。予約箱に**“仮置き”はない。必要最小だけが署名付きで運ばれる**。Outboundは白だけ、DNSは未知を即死に落とす。バックアップはWORMで二経路、更地復帰の演習は四半期に一度。
やまにゃんの札は今日も変わらない。
「速さは、戻れるときだけ味方。」
夏芽は窓の外を見る。観覧車がゆっくりと回り、朝の便が雲に消えていく。旅は続く。だから、旅券の断面は守らなければならない。彼女は机の上の紙に時刻を押し、静かな呼吸に耳を澄ませた。
—— 完
参考リンク(URLべた張り/事実ベース・一次情報/主要報道・技術整理)
※物語はフィクションですが、骨格(2016年の国内大手旅行会社に対する不正アクセス、標的型メール起点、顧客関連約793万人規模、旅券番号の一部(約4,300件)、関係事業者への波及、公的機関の周知)は以下に基づいています。
主な点:外務省の周知(約793万人・旅券関連は約0.1%/うち番号と発行日が揃うのは約4,300件)、dトラベル等への波及と標的型メール(3/15)を示す事業者発表、piyologの時系列整理、Japan Times/The Register等の報道、PlugXなどの遠隔操作型マルウェアに関する技術解説を参照しました。


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