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昭和20年代・静岡県蒲原町の暮らしと文化的風景

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月4日
  • 読了時間: 14分

蒲原町の風景と町並み

静岡県蒲原町(現・静岡市清水区蒲原)は、東海道五十三次の蒲原宿として栄えた海沿いの町です。昭和20年代(1945~1954年)当時の蒲原町は、古い木造家屋が軒を連ね、遠くには富士山の稜線や駿河湾の海原が望めるのどかな風景でした。町には江戸時代からの土蔵造りの商家や旅籠の建物も残り、瓦屋根の家々が続く通りは風情があります4travel.jp。戦後まもない頃は自動車がまだ珍しく、国道でさえ車はほとんど通らず、人々は下駄や草履を履いて歩いたり自転車で行き来していましたcity.minamiawaji.hyogo.jp。旅人や近所の人々がすれ違えば挨拶を交わし、顔なじみばかりの温かなコミュニティでした。舗装されていない道端には松並木が続き、子ども達にとっては格好の遊び場にもなっていました。

昭和30年代の田舎道の様子。立派な松並木が並ぶ当時の国道は車も通らず、子どもたちがリアカー(手押し車)で遊ぶ姿も見られたcity.minamiawaji.hyogo.jpcity.minamiawaji.hyogo.jp


道行く大人も和装に下駄履きで、のんびりとした時代の空気を感じさせる。

海側に目を向けると、蒲原の浜辺には漁船が並び、漁師たちが網の手入れをする姿が日常の一コマでした。遠く沖から戻った船を浜に引き上げるときには、子ども達も綱引きの要領で手伝ったり、その道具で遊んだりすることもあったようですcity.minamiawaji.hyogo.jp。川沿いや海岸沿いでは、潮風に揺れる葦や砂浜が広がり、波の音が穏やかに町に響いていました。春先には川辺に菜の花が咲き、初夏には家々の庭に藤の花が薄紫の穂を垂らしますtakenaka-atorie.com。軒先では軒下につるした干し柿や魚の干物が季節を感じさせ、時間がゆったりと流れる情景でしたtrialpark-kambara.jp。昭和20年代の蒲原町は、戦後の復興期でありながら自然と共存した静かな町並みが残り、人々の営みはどこか素朴で温かみのあるものでした。


家庭の日常と昔ながらの暮らし

当時の家庭の暮らしぶりは、現代とは大きく異なり昔ながらの知恵に満ちていました。一家は祖父母・両親・子どもといった大家族が一般的で、木造の平屋建てか二階建ての家屋で暮らしています。家の中は畳敷きの座敷とちゃぶ台、障子戸に囲まれ、家族は夕食時にちゃぶ台を囲んで食卓を囲みました。朝は母親が土間のかまどで薪をくべてご飯を炊きtrialpark-kambara.jp、味噌汁や漬物といった質素ながら栄養ある食事を用意します。魚の干物や野菜の煮物など、その土地で採れたものを無駄なくいただくのが日常でした。台所には水道はなく井戸水を汲んで使う家も多く、子ども達もバケツリレーで井戸から水を運ぶ手伝いをしました。冬場には火鉢や豆炭炬燵で暖を取り、夏は打ち水をして涼を呼ぶなど、季節に応じた暮らしの知恵が息づいていました。

夜は照明も今ほど明るくなく、裸電球の淡い灯りか石油ランプの明かりの下で過ごします。父親は仕事から戻ると縁側で夕涼みしながら新聞を読んだり、静かにラジオのニュースを聞いたりしています。当時はテレビがまだ普及しておらず、ラジオが唯一の電気娯楽でした。おとなしい性格の幹夫少年(主人公)も本を読むのが好きで、夜は行燈代わりのスタンドの下で物語に夢中になりました。家には本棚などないものの、国語の教科書や学校の図書室で借りた物語集、紙芝居の冊子などが宝物です。時には家族にせがんで、童話や昔話を祖父母に読み聞かせてもらうこともありました。

年中行事も家族総出で大切に祝いました。正月前には庭先で餅つきをしたりtrialpark-kambara.jp、親戚が集まっておせち料理を囲んだりしました。女の子のいる家では3月には雛人形を飾りtrialpark-kambara.jp、桃の花を生けて健やかな成長を祈ります。幹夫少年の家でも、5月の端午の節句には鎧兜をまとった五月人形を座敷に飾りcity.mishima.shizuoka.jp、神棚や仏壇に柏餅や粽をお供えしました。季節ごとに家族で行事を楽しみ、祖父母から伝統や言い伝えを教わることで、昔ながらの文化が次の世代へと受け継がれていったのですtrialpark-kambara.jp。昭和20年代当時の蒲原町の家庭には、物が豊富にない中でも家族の絆と工夫に満ちた温かな日常風景が広がっていました。


子どもたちの遊び

昭和20~30年代の子ども達は、塾やゲーム機のない時代、外で元気に遊ぶのが日常でしたsuzugamo.sakura.ne.jp。蒲原町でも放課後や休日になれば、子どもたちは近所の空き地や路地裏、神社の境内などに集まって様々な遊びに興じましたcity.chuo.lg.jp。鬼ごっこやかくれんぼは定番で、夕方には長く伸びた影を踏みあう「影ふみ鬼」などで歓声を上げましたcity.mishima.shizuoka.jp。川や海が身近な土地柄、春先には川辺に集まって水切り遊び(石投げ)に夢中になります。平たい石を探して水面に水平に投げると、石が何度も跳ねていきます。最初は2~3回しか跳ねなかった子も、コツを覚えると10回以上も跳ねるようになり、友達同士で「何回跳ねた!」と競い合いましたtakenaka-atorie.com。遊んでいるうちに体がポカポカしてきて、みんな上着を脱いでシャツ一枚になるほど熱中したという思い出も残っていますtakenaka-atorie.com

昭和30年代、子どもたちは市販のおもちゃが少なかったため、大人の持ち物を工夫して遊ぶことも多かった。写真は和傘や洋傘を使って遊ぶ幼い兄妹。当時はこのような蛇の目傘が日常的に使われており、子どもにとって格好の遊び道具となったcity.minamiawaji.hyogo.jp

遊び道具が少ない時代だったからこそ、子どもたちは身の回りのもの全てをおもちゃに変えました。古タイヤや竹竿で輪回しをしたり、縄跳びの縄がなければボロ布を綯って代用します。雨上がりには道端にできた水たまりに葉っぱの船を浮かべて競争し、風の強い日には新聞紙で凧を作って揚げました。写真のように傘は格好の遊具で、和傘を広げて日除けにしたり、回してコマのように見立てたりと想像力豊かに遊びますcity.minamiawaji.hyogo.jp。手押し車(リアカー)も子ども達には絶好の乗り物で、交代で乗ったり押したりしながら町の中を走り回りましたcity.minamiawaji.hyogo.jp。また、男の子たちは木切れや竹で作ったバットとボール代わりの布玉で即席の野球を楽しみcity.chuo.lg.jp、女の子たちは輪ゴムを何本も繋げたゴム縄跳びに熱中しました。ゴム跳びでは「低い1」からだんだんゴムの高さを上げていき、前飛び・後ろ飛びや「大阪跳び」「はさみ跳び」など色々な技に挑戦しますtakenaka-atorie.com。背の高い子がゴムを持つと大人の胸の高さにもなり、最後は飛べなくて悔しがるのもお約束でしたtakenaka-atorie.com。近所に引っ越してきたばかりの兄妹が最初は遊びに入れず見ていると、「一緒にやろう!」と誰かが声をかけ、最後には皆で輪に入って遊んだという微笑ましい光景も各所で見られましたtakenaka-atorie.com。一方で男の子たちは地面に広げた新聞紙の上でメンコ(紙札遊び)に興じたり、おはじき・ビー玉で対戦したりと盛り上がっていましたtakenaka-atorie.com

季節ごとの遊びも豊富でした。正月には独楽回しや羽根つきが人気で、コマを紐で勢いよく回し、手のひらや縄の上で回転させる「チョン掛け」といった技を競いましたcity.minamiawaji.hyogo.jp。春になると竹馬や石けり遊び、夏は川で水遊びや虫捕りです。蝉を捕まえては虫かごいっぱいに集め、その鳴き声を比べたり、夕方には蜻蛉追いかけて原っぱを駆け回ります。秋は竹とんぼを飛ばしたり、ドングリや松ぼっくりを集めて秘密基地を作ったりしました。日が暮れるまで外で遊び、遠くから母親が「ご飯よ~!」と呼ぶ声がすると名残惜しそうに解散する――そんな昔ながらの子ども時代の情景が蒲原町にも広がっていたのです。


学校での生活

幹夫少年たちが通った当時の小学校は、木造平屋または二階建ての校舎でした。木の床板が光る廊下や教室には、子どもたちの元気な声が響き渡っていました。授業開始前には学校の校庭に全校児童が集合し、「気をつけ、礼!」と先生に挨拶してからラジオ体操を行う日課もありました(夏休みだけでなく当時は朝礼で行う学校もありました)。授業は新制教育が始まった直後で、国語や算術(数学)、理科、社会のほか、戦後に必修となった音楽、美術、家庭科といった科目も取り入れられていましたcity.chuo.lg.jp。国語の時間には教科書で宮沢賢治や新美南吉などの物語を音読し、図書の時間には学校の図書館から借りた本を読むことも奨励されました。読書好きの幹夫少年は図書委員の仕事を手伝って、本の貸し出しノートをつけたり、新しく入った児童書にいち早く目を通したりしていたかもしれません。

休み時間になると子ども達は校庭に飛び出し、ドッジボールや「ケイドロ(警察ごっこと泥棒ごっこ)」「馬跳び」などで元気いっぱいに遊びました。校庭の隅には鉄棒や雲梯(うんてい)もあり、逆上がりの練習をしたり登り棒に挑戦したりと、運動神経の良い子は人気者でした。幹夫少年も体を動かすことが得意だったので、クラスのリレー選手に選ばれたり、放課後は野球チームのエースとして町内の子と試合をしたことでしょう。女の子たちは教室で「あやとり」や紙折り(折り紙)をしたり、校庭の隅でゴム跳びをする姿も見られました。

学期末には大掃除が恒例行事です。木造校舎の教室では、終業式の前日に「1年間お世話になった教室をみんなで綺麗にしよう」と児童全員で拭き掃除を行いましたtakenaka-atorie.com。雑巾をバケツの水に浸して固く絞り、床に一直線に並んで競争で雑巾がけをします。窓枠によじ登って上の方まで磨く子もいて、みるみるうちにガラスがピカピカになりましたtakenaka-atorie.com。みんなで協力するとあっという間に教室中が綺麗になり、外を見ると校庭の桜の木に青々とした若葉が出て風にそよいでいましたtakenaka-atorie.com。こうした学校生活の一つひとつが、子ども達の心に豊かな思い出を刻み、幹夫少年の穏やかな人格形成にも影響を与えていったのです。


端午の節句と鯉のぼりの祝い方

一年の中でも、蒲原町の家々で賑やかな飾りが見られるのが5月5日の端午の節句(こどもの日)でした。男の子のいる各家庭では、節句が近づくと座敷や床の間に五月人形や武者人形、鎧兜などを飾りますcity.mishima.shizuoka.jp。幹夫少年の家でも、立派な兜飾りと刀、そして金太郎や桃太郎など勇ましい人形が飾り付けられ、家族は「元気に大きくなあれ」と願いを込めました。また、軒先には色鮮やかな幟旗(のぼりばた)や吹き流しを取り付け、節句の前日には菖蒲と蓬を束ねて軒下につるしました。邪気を払う香りの菖蒲と蓬は、古くから端午の節句に欠かせない魔除けでcity.mishima.shizuoka.jp、浴槽にも菖蒲を浮かべた「菖蒲湯」に家族で入って無病息災を祈りましたcity.mishima.shizuoka.jp

そして迎えた5月5日の朝、家族総出で鯉のぼりを掲げます。節句の鯉のぼりは、江戸時代に武家が男児の出世を願って始めた習慣で、滝を登って龍になるという中国の登竜門伝説にならったものですcity.mishima.shizuoka.jp。昭和20年代当時は、一つの竿に揚げる鯉のぼりは大きな黒い真鯉とやや小ぶりの赤い緋鯉の二匹が一般的でした。初期には真鯉一匹だけでしたが、明治後半から大正にかけて真鯉と緋鯉の対になり、当時は真鯉を父親、緋鯉を子どもに見立てていたそうですprecious.jp。幹夫少年の家でも、黒い真鯉と赤い緋鯉の鯉のぼりを竹竿の先に結び付けて庭先に立てました。風をはらんで大きく泳ぐ黒い鯉はお父さん、元気よく翻る赤い鯉は幹夫少年自身を象徴しているようでした(当時は母親を表す鯉は無く、緋鯉は子ども達の象徴でしたprecious.jp)。青空の下、色鮮やかな鯉のぼりが「屋根より高く」悠々と泳ぐ様子は壮観で、幹夫少年も誇らしい気持ちで見上げたことでしょう。町中のあちこちで鯉のぼりが翻り、風が吹くたびに勢いよくはためくさまは、まさに昭和の初夏を彩る風物詩でしたshizubi.jp

鯉のぼりを揚げた後は、家族でささやかなお祝い膳を囲みます。柏餅や粽(ちまき)は端午の節句に欠かせない伝統の菓子で、柏餅の柏の葉は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから子孫繁栄を願う縁起物とされcity.mishima.shizuoka.jp、粽は中国の故事に由来して邪気払いの意味がありますcity.mishima.shizuoka.jp。幹夫少年も柏の葉の良い香りの餅を頬張り、「おいしいね」と笑顔を見せました。五月人形にお神酒やちまきを供えて家族の健康を祈り、親戚や近所の人がお祝いに訪れることもありました。近所同士で「鯉のぼり立派ですね」「ありがとうございます、うちのも今年新調しまして…」などと会話が弾むのもこの時期です。こうして端午の節句は、戦後間もない時代にも子どもの成長を祝う微笑ましい行事として、町全体にほのぼのとした温かな雰囲気をもたらしていました。


四季折々に広がる穏やかな情景

昭和20年代の蒲原町では、季節の移ろいが生活と深く結びつき、美しい情景が日常を彩っていました。は桜の季節です。学校の校庭や川沿いの土手に桜の木があり、3月末から4月にかけて淡い桜色の花が咲き誇りました。満開の桜が風に散る頃には、子ども達が花びらを集めて「桜吹雪だ!」と舞わせて遊ぶ姿も見られます。田畑のあぜ道にはレンゲや菜の花が咲き、蝶々を追いかける子ども達の笑顔がありました。藤棚のある家では、藤の花房が垂れ下がり、端午の節句の頃には薄紫色の藤が庭を彩りますtakenaka-atorie.com。爽やかな春の風が吹き抜け、新学期を迎えた子ども達の胸には希望が満ちていました。

やがて梅雨を経て訪れるは、生命力にあふれた季節です。昼間はミンミンゼミやアブラゼミの声がかしましく、子ども達は虫取り網を持って木登りに挑戦しました。入道雲がもくもくと湧く青空の下、海辺では海水浴を楽しむ子もいます。夕方になると涼しい風が吹き、浴衣に着替えた子ども達が近所の神社の境内に集まって盆踊りの輪に加わりました。太鼓や笛の音に合わせて踊る大人たちを真似て、子ども達も見よう見まねで踊ります。夜には提灯や裸電球に照らされた露店が並び、綿菓子や金魚すくいに興奮しました。手持ち花火の線香花火を囲んで、パチパチと火花が落ちるのを静かに見守るひとときには、家族の穏やかな団欒があります。七夕の夜(旧暦の七夕は8月でした)には梅雨明けの星空に天の川がくっきりと見えtrialpark-kambara.jp、幹夫少年も「天の川って本当に川みたいだ」と驚きながら星空を眺めたかもしれません。

になると、夏の暑さが嘘のように和らぎ、田んぼは黄金色に輝きます。稲刈りの時期、農家では稲束を天日干しする「はざ掛け」の風景が広がり、夕陽に照らされた田園風景は郷愁を誘いました。町のあちこちの家では軒下に柿を吊るして干し柿作りをする光景も見られ、橙色の柿が秋の日差しに揺れています。小学校では秋の大運動会が一大行事でした。町内の人々が見物に訪れ、紅白に分かれて徒競走や玉入れ、綱引きなどに子ども達が全力で挑みます。幹夫少年もリレーでバトンをつなぎ、ゴールのテープを切った瞬間、校庭が割れんばかりの拍手に包まれました。夕方、運動会で頑張った子ども達をねぎらって、母親たちはたくさんのおにぎりや里芋の煮っころがしなど手料理を振る舞います。夜には虫の音が涼しく響き、縁側で祖父母が団子とお茶を手に中秋の名月を愛でる様子も見られました。「十五夜お月さん、まんまるで綺麗だねぇ」と家族で月を見上げる穏やかな時間が流れました。

そして木枯らしが吹き始める、蒲原町は比較的温暖な土地柄ですが、山沿いや朝晩には霜が降りることもあります。寒い朝、子ども達は地面にできた霜柱をザクザクと踏んで、その感触を楽しみました。年の瀬が近づくと、餅つきのための石臼と杵が引っ張り出されますtrialpark-kambara.jp。近所総出で臼を囲み、「よいしょ!よいしょ!」のかけ声とともに餅をつきました。つきたての餅はあんこやきな粉をまぶしてその場で頬張り、子ども達は熱々でもちもちの食感に大喜びです。お正月になると、男の子は凧揚げや独楽回しに、女の子は羽根つき遊びに興じました。親戚が集まるとカルタ大会が始まり、「坊主めくり」や百人一首で歓声が上がります。火鉢で手を温めつつみかんを食べ、福笑いで初笑いをする――昭和の正月ならではのほのぼのとした光景が展開されました。夜はこたつで丸くなりながら、祖父母から昔話を聞かせてもらうのも冬の楽しみです。蒲原町では雪はめったに積もりませんが、まれにうっすら雪化粧する朝には子ども達が小さな雪だるまを作ったり、雪合戦ならぬ霜合戦で遊んだりと大はしゃぎしました。

このように、昭和20年代の蒲原町には四季折々の情景と行事が当たり前のように溶け込み、人々の暮らしを彩っていました。当時の幹夫少年の日常には、満開の桜とともに始業式を迎え、新緑の校庭で友と汗を流し、鯉のぼりが泳ぐ青空に夢を描き、蝉時雨の下で夏休みを駆け回り、紅葉の風に乗って運動会に燃え、炬燵のぬくもりの中で家族の笑顔に包まれる――そんな温かく穏やかな情景が確かに存在していたのです。現代から振り返ると質素ではありますが、人と季節のつながりが豊かで、心に染み入るような昭和の原風景が、蒲原町には広がっていたことでしょう。幹夫少年を主人公にした物語でも、こうした情景描写を散りばめることで、読者に昭和のほのぼのとした空気感と郷愁を感じてもらえるに違いありません。

参考文献・資料:蒲原宿の郷土文化に関する聞き取りtrialpark-kambara.jp、三島市郷土資料館『歴史の小箱』city.mishima.shizuoka.jpcity.mishima.shizuoka.jpcity.mishima.shizuoka.jp、昭和館デジタルアーカイブ戦後の生活city.chuo.lg.jp、静岡市美術館 端午の節句展示資料shizubi.jp昭和期の子ども遊びに関する記録city.mishima.shizuoka.jptakenaka-atorie.comtakenaka-atorie.com、淡路島写真館(昭和30年代の写真)city.minamiawaji.hyogo.jpcity.minamiawaji.hyogo.jp、Precious.jp「鯉のぼりの歴史」precious.jpなど。

 
 
 

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