時刻表は、あの日で止まっていた
- 山崎行政書士事務所
- 5月17日
- 読了時間: 13分
※作中の列車番号・時刻・事件はすべて架空のものです。

一 七時四十二分
東京駅の朝は、人間ではなく時刻でできている。
七時三十六分、十四番線に「のぞみ」が入る。七時三十八分、清掃員が列車へ吸い込まれる。七時四十分、出張鞄を抱えた男たちが列をほどき、七時四十一分、ホームの電光掲示板が次の列車名へ切り替わる。
七時四十二分。
その数字を、佐伯怜司は最初、死体のそばで見た。
被害者は篠塚和彦、六十八歳。元神奈川県警刑事部長。退職後は鉄道関連会社の顧問をしていた。死体は東海道新幹線「のぞみ二〇三号」のグリーン車、十二号車の座席で発見された。眠っているように見えた、と車掌は言った。だが篠塚の右手は不自然に固く握られ、指の間には古い紙片が挟まっていた。
紙片は黄ばんでいた。薄く、乾いていて、指で折れば粉になりそうだった。
そこに印刷されていたのは、古い時刻表の一部だった。
こだま三一七号東京 七時四十二分新横浜 八時〇〇分小田原 八時十七分
若い捜査員の一人が首をかしげた。
「現在の東海道新幹線に、こんな列車はありません」
別の刑事が言った。
「犯人の挑発でしょう。鉄道マニアの愉快犯かもしれません」
佐伯は黙っていた。
紙片の隅には、小さな朱色の丸があった。印刷ではない。誰かが昔、ボールペンで囲んだものだ。
その丸の横に、さらに小さく日付が書かれていた。
平成九年十二月二日。
佐伯の喉の奥で、息が止まった。
その日付を、彼は知っていた。
知っているどころではない。二十九年間、忘れたふりをしていただけだった。
「佐伯管理官?」
部下の声に、佐伯は顔を上げた。
「……紙片を鑑識へ。指紋、繊維、インク、全部だ」
声は平静だった。自分でも驚くほど、刑事の声だった。
だが、胸の内側では別の声がしていた。
――そこから動かないでください。
若い頃の自分の声だった。
――すぐに警察官を向かわせます。
嘘だった。
あの日、佐伯は向かわなかった。
正確に言えば、向かうべき場所へ向かわなかった。
二 存在しない列車
二十九年前、佐伯怜司はまだ二十七歳だった。
神奈川県警本部の捜査一課に配属されたばかりで、自分の胸にある正義が、他人の胸にも同じ形で存在すると信じていた。命令は正しいものだと思っていた。手順を踏めば、真実へ近づけると思っていた。
平成九年十二月二日。
その朝、一本の電話があった。
通報者は女だった。名を遠野真理子と言った。声は震えていたが、言葉ははっきりしていた。
夫が死んだのは事故ではない。ある建設会社と県警幹部が、土地買収を巡る不正を隠している。証拠を持っている。子ども二人を連れて東海道新幹線に乗る。東京発七時四十二分の、こだま三一七号。小田原に八時十七分に着く。そこで保護してほしい。
佐伯は受話器を肩と顎で挟み、机上の時刻表をめくった。
そこに、こだま三一七号はなかった。
東京発七時四十二分の列車もなかった。
新横浜八時〇〇分も、小田原八時十七分も、当時の公式な時刻表には載っていなかった。
「奥さん、落ち着いてください。その列車は存在しません」
電話の向こうで、女が息を呑んだ。
「あります。紙に、そう書いてあるんです。夫が、これを見ろと」
「現在の時刻表にはありません」
「でも、あの人が……」
そこで、別の声が聞こえた。
子どもの声だった。
「お母さん、早く」
佐伯は一瞬、迷った。
通報者は混乱しているのかもしれない。あるいは罠かもしれない。県警幹部の名前を出している。相手が本物なら大事件だ。だが、列車が存在しないという事実は、佐伯の判断を強くした。
当時の上司、篠塚和彦は言った。
「虚言の可能性が高い。本命は大庭だ。横浜で張れ」
大庭亮介。建設会社の専務。遠野真理子の夫が死ぬ直前に会っていた人物だった。
佐伯は命令に従った。
それが、判断ミスだった。
遠野真理子はその日、小田原で保護されなかった。
夕方、熱海近くの山中で、彼女の娘、遠野結衣の遺体が見つかった。真理子本人は数日後、海沿いの廃倉庫で死亡して発見された。息子の透だけが、奇跡的に生きていた。だが彼は事件後、ほとんど言葉を失った。
証拠とされた封筒は消えた。
事件は未解決となった。
佐伯は報告書にこう書いた。
「通報者は時刻を誤認していた可能性が高い」
その一文を打ったとき、彼は自分が正義の側にいると信じたかった。
混乱した通報。存在しない列車。上司の指示。捜査資源の限界。
そういう言葉を並べれば、罪悪感は少し薄まるはずだった。
だが、二十九年経っても薄まらなかった。
いま、篠塚和彦の死体のそばに置かれた古い時刻表は、その一文を黄ばんだ紙の上から睨み返していた。
三 古い紙片の列車
二人目の被害者が出たのは、篠塚の死から四日後だった。
名古屋駅に到着した下り「のぞみ」のデッキで、大庭亮介が死亡していた。七十一歳。かつて遠野真理子の夫が告発しようとしていた建設会社の元専務。
彼の胸ポケットにも、古い時刻表の切れ端が入っていた。
静岡 九時十四分
現在のダイヤとは一致しなかった。
捜査本部はざわついた。篠塚と大庭。二人は過去に同じ事件の周辺にいた。だが、遠野事件の資料は古く、しかも「未解決」のまま倉庫に眠っていた。若い刑事たちは、紙の束をめくりながら首をひねった。
「この時刻、何なんですかね。現在の列車には合いません。古い時刻表を使った暗号でしょうか」
佐伯は、押収された紙片を並べた。
東京七時四十二分。新横浜八時〇〇分。小田原八時十七分。静岡九時十四分。
点が線になった。
東海道を下る、古い「こだま三一七号」の停車時刻。
佐伯は捜査本部の白板に現在の「のぞみ二〇三号」の運行記録を書き込んだ。公式な乗客向け時刻表には載らない、通過地点の詳細な時刻。運行管理記録から取り寄せたものだった。
東京を出た現代の「のぞみ」は、七時四十二分にホームを離れ、八時十七分ごろ小田原付近を通過し、九時十四分ごろ静岡付近を走っていた。
若い刑事の一人が言った。
「古い列車が停まっていた時刻に、現在の列車が通過している……?」
佐伯は頷いた。
「犯人は現在のダイヤの上に、過去のダイヤを重ねている」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「昔、停まったはずの駅を、今の列車は停まらずに通過する。そこで人が死ぬ。犯人はそれを見せたいんだ」
「誰にですか」
佐伯は答えなかった。
本当は、分かっていた。
犯人は捜査本部を挑発しているのではない。
自分を呼んでいる。
古い時刻表を、佐伯怜司に読ませようとしている。
四 正義の側
三人目の被害者は、久世理香子だった。
名古屋市内のホテルで発見された。死因は窒息。枕元に置かれていた紙片には、こうあった。
浜松 九時四十六分
久世理香子は、二十九年前、小田原駅の売店で働いていた。遠野真理子を「一人で見た」と証言した女だった。その証言により、警察は真理子が子どもを連れていなかった可能性を検討し、保護対象を絞り損ねた。
当時、佐伯はその証言を疑わなかった。
いや、疑わなかったのではない。疑う余裕を自分に許さなかった。
捜査は忙しかった。上司は結論を急いでいた。新聞は県警不祥事の噂を追っていた。若い佐伯は、正義の側にいるために、正義の形をしたものへすがった。
公式な時刻表。
上司の命令。
証言調書。
整った報告書。
それらはすべて、彼に言い訳を与えた。
だが、人間の声だけが残った。
――あります。紙に、そう書いてあるんです。
遠野真理子の声。
――お母さん、早く。
子どもの声。
佐伯は夜、捜査本部を抜け出し、資料室へ行った。
古い段ボールを開けると、遠野事件のファイルが出てきた。紙は湿気を吸い、角が丸くなっていた。その中に、証拠品リストの写しがあった。
「被害者所持品 時刻表一冊」
だが現物はなかった。
紛失。
そう記されていた。
佐伯は椅子に座り込んだ。
時刻表は、あの日から消えていた。
いや、消されたのかもしれない。
篠塚が、大庭が、久世が、それぞれ遠野事件の線上にいた。三人とも、あの日の判断を歪める側にいた。
では、犯人は誰か。
遠野真理子の息子、透。
佐伯はその名を思い出したとき、胸の奥が冷たくなった。
事件後、透は親戚に引き取られ、姓を変えた。記録では、白井透。現在は鉄道史関連の資料修復を扱う会社で働いている。
古い時刻表に触れられる人間。
過去のダイヤを知る人間。
そして、佐伯を憎む理由を持つ人間。
部下が白井透の足取りを追った。すると奇妙なことが分かった。
白井は事件当日ごとに、東海道新幹線に乗っていた。だが、現在の時刻表だけを見れば、彼の移動は不自然だった。犯行現場に近づくには遅すぎ、離れるには早すぎる。
佐伯は白板の前に立ち、現代の列車の線に、古いこだま三一七号の停車時刻を書き重ねた。
二つの時刻表が重なった瞬間、白井透の動きは初めて一本の線になった。
彼は現在の「のぞみ」に乗っていた。
けれど、頭の中では過去の「こだま」に乗っていた。
停まらない駅を、停まった駅として扱い、通過する時間を、降りるべき時間として扱っていた。
犯人のトリックは、時刻表の違いだけではなかった。
佐伯の記憶そのものを、現在と過去の二枚のダイヤで挟み込むことだった。
二十九年前、佐伯は「現在の時刻表」を信じて、女の声を疑った。
今、犯人は「過去の時刻表」を突きつけて、佐伯にもう一度選ばせている。
紙を見るのか。
人を見るのか。
五 名古屋十時三十二分
最後の紙片は、佐伯の机に届いた。
封筒には差出人がなかった。中には古い時刻表の切れ端が一枚だけ入っていた。
名古屋 十時三十二分
その裏に、鉛筆で文字が書かれていた。
今度は、間違えないでください。
佐伯は時計を見た。
午前八時五十六分。
名古屋十時三十二分まで、まだ時間があった。
捜査本部は白井透の身柄確保に動いた。だが佐伯には分かっていた。これは逃走の合図ではない。終着駅の指定だ。
白井透は、佐伯に来てほしいのだ。
佐伯は東海道新幹線に乗った。
窓の外を、東京の街が流れていく。品川、新横浜、小田原。現在の「のぞみ」は、かつての「こだま」が停まった駅を次々と通過した。
小田原を過ぎるとき、佐伯は無意識に拳を握っていた。
八時十七分。
あの日、遠野真理子が待っていたはずの時刻。
そこには何もなかった。ホームも人影も、列車の中からは一瞬で後ろへ消えた。
佐伯は自分に言い聞かせた。
俺は刑事だ。
犯人を捕まえる。
それが今できる正義だ。
だが、別の声が言った。
それは、取り戻せなかったものの代わりにはならない。
名古屋駅に着くと、佐伯はホームの端へ向かった。十六号車側、人の流れから少し外れた場所に、白井透は立っていた。
痩せた男だった。
四十歳を過ぎているはずなのに、目だけが少年のままだった。二十九年前、警察署の廊下で毛布に包まれていた子どもの目を、佐伯は思い出した。
白井は笑わなかった。
「来たんですね」
「白井透……いや、遠野透」
男は少しだけ目を伏せた。
「その名前で呼ぶ人は、もういません」
「三人を殺したのか」
「はい」
あまりにも静かな返事だった。
佐伯は拳を握った。
「なぜ、時刻表を残した」
白井はホームの電光掲示板を見上げた。最新の列車案内が、青白く流れている。
「あなたに読んでほしかったからです」
「俺に?」
「警察でも、世間でもない。あなたにです。あの日、母の声を聞いたあなたに」
佐伯は言葉を失った。
白井は鞄から一冊の小さな時刻表を取り出した。表紙は破れ、ページの端は欠けていた。
「母が持っていたものです。証拠品から消えたはずの時刻表。篠塚が保管していました。自分の身を守るために。大庭から金を受け取っていたこと、久世に嘘の証言をさせたこと、その全部を記したメモと一緒に」
「篠塚が……」
「あなたは篠塚の命令に従った。大庭を追えと言われて、母を後回しにした」
佐伯の視界が揺れた。
「俺は……列車が存在しないと思った」
「ええ」
白井の声は穏やかだった。
「だから、あなたは一番憎かった」
佐伯は顔を上げた。
白井の目に、怒りだけではないものがあった。長い年月、凍ったまま割れずに残っていた悲しみがあった。
「篠塚や大庭は悪人です。母を殺した側です。憎めば済みました。でも、あなたは違う。あなたは正義の側にいた。正しい手順を踏み、正しい時刻表を見て、正しい報告書を書いた。その正しさで、母を見捨てた」
佐伯は何も言えなかった。
白井は続けた。
「僕は、あなたに思い出してほしかった。あの日の時刻表を。母が嘘をついていなかったことを。あなたが間違えたことを」
「そのために、人を殺したのか」
「殺さなければ、誰も読みませんでした」
「そんなことはない」
言ってから、佐伯はその言葉が弱いことを知った。
遠野事件のファイルは二十九年間、倉庫に眠っていた。佐伯自身、胸の底に押し込めていた。白井透が三人を殺すまで、誰も古い時刻表を開かなかった。
白井は静かに笑った。
「あなたは今度こそ来てくれた」
佐伯は一歩近づいた。
「透、もう終わりだ」
「終わりません。母の時間は、あそこで止まったままです。妹の時間も」
「それでも、お前を逮捕する」
「分かっています」
白井は両手を差し出した。
その仕草は、逃げる者のものではなかった。
佐伯は手錠をかけた。
金属の音が、ホームの喧騒の中でひどく小さく響いた。
十時三十二分。
電光掲示板が次の列車を示した。
名古屋駅に現代の新幹線が滑り込み、ドアが開いた。人々が降り、人々が乗った。誰も、古い時刻表の終着駅に立つ二人を見ていなかった。
白井は手錠をかけられたまま、佐伯を見た。
「刑事さん」
その呼び方に、佐伯は胸を突かれた。
「母は、あなたを信じていました」
佐伯は目を閉じた。
二十九年前の電話の声が、耳の奥で蘇った。
――小田原に、八時十七分に。
――子どもだけでも。
佐伯は小さく言った。
「すまなかった」
白井は答えなかった。
その沈黙が、赦しではないことを佐伯は知っていた。
六 止まったままの時刻
事件は解決した。
そう報道された。
東海道新幹線連続殺人事件の犯人、白井透逮捕。過去の未解決事件との関連。元警察幹部と建設会社の癒着。証拠隠滅。虚偽証言。二十九年前の遠野真理子殺害事件は再捜査となった。
佐伯怜司は報告書を書き直した。
「通報者は時刻を誤認していた可能性が高い」
かつて自分が書いた一文を、彼は赤線で消した。
新しい報告書には、こう書いた。
「捜査側は通報内容を十分に検証せず、保護機会を逸した」
たった一文だった。
それでも、その一文を書くのに二十九年かかった。
白井透の供述により、篠塚、大庭、久世が遠野事件に関与していたことは明らかになった。だが、真理子は戻らなかった。結衣も戻らなかった。殺された三人も、殺した白井透の人生も、元には戻らなかった。
逮捕の達成感はなかった。
正義が勝ったという感覚もなかった。
あったのは、空白だけだった。
ある夜、佐伯は東京駅のホームに立った。
電光掲示板には、現在の東海道新幹線の時刻が正確に流れていた。何分発、何号車、自由席、指定席、グリーン車。世界は秒単位で動き続けている。
佐伯はポケットから一枚の複写を取り出した。
古い時刻表。
こだま三一七号。
東京七時四十二分。
新横浜八時〇〇分。
小田原八時十七分。
静岡九時十四分。
浜松九時四十六分。
名古屋十時三十二分。
その列車はもう走っていない。
その時刻に停まる列車もない。
けれど、佐伯の中では、まだ走っていた。
ホームの向こうから、白い車体が光を連れて近づいてきた。現代の新幹線は滑らかに減速し、何事もなかったように停まった。
佐伯は目を閉じた。
あの日、自分は正義の側にいると信じた。
だが正義の側にいるということは、間違えないという意味ではなかった。誰かの声を聞き逃さないということだった。紙に印刷された時刻ではなく、その時刻に助けを待っている人間を見ることだった。
列車のドアが開いた。
人々が乗り込んでいく。
佐伯は乗らなかった。
ただ、古い時刻表を握りしめたまま、ホームに立っていた。
世界の時刻表は、今日も更新される。
だが、取り戻せない時間だけは、どの列車にも乗らない。
佐伯怜司の中で、時刻表は、あの日で止まっていた。





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