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朝焼けの時刻表

※作中の列車番号・時刻はすべて架空です。

東海道新幹線は、夜明けを運ぶように走る。

東京駅十八番線に入ってきた白い車体は、まだ眠りきっていない街の光を窓に貼りつけていた。ホームには出張鞄を持つ男たち、修学旅行の列、片手に紙コップの珈琲を持つ女、泣きそうな幼児を抱いた母親。誰もがそれぞれの一日へ向かっている。

その朝、捜査一課の早瀬航は、いつものようにその風景を信じていた。

人は列車に乗る。

列車は時刻表どおりに走る。

東京から名古屋へ、名古屋から京都へ、京都から新大阪へ。

東海道新幹線とは、そういう巨大で正確な約束だった。

だが最初の死体が見つかったのは、午前七時四十二分、架空列車「ひかり六一号」の十一号車デッキだった。

被害者は瀬田幸彦、六十二歳。元運輸省技官。首都圏の安全審査に長く携わり、退官後は大手建設会社の顧問をしていた。死因は急性の外傷性ショック。凶器は見つからず、目撃者もいない。

ただ一つ、妙なものがあった。

瀬田の上着の内ポケットに、古い時刻表の切り抜きが入っていたのである。赤鉛筆で一本の線が引かれていた。

七時十九分、東京発。

七時三十二分、新横浜着。

七時三十三分、新横浜発。

七時四十二分、死亡推定時刻。

そして余白に、丁寧な楷書でこう書かれていた。

――警察は時刻表を読めない。

早瀬はその文字を見た瞬間、嫌なものを飲み込んだような気がした。

「挑発ですね」

隣でそう言ったのは、相棒の沢村悠介だった。三十二歳。真面目で、背筋が伸びていて、どんな現場でもまず被害者の靴を揃える男だった。

「犯人は、俺たちを見てる」

早瀬が言うと、沢村はホームの端を見た。

「でも、新幹線の中ですよ。見ている人間は多い。逃げ場も限られる。次は止められます」

その時、早瀬はうなずいた。

止められるはずだった。

だが事件は、そこから始まった。

二人目の被害者は、三週間後、名古屋駅近くのホテルで発見された。羽村京子、五十八歳。企業訴訟専門の弁護士だった。死亡推定時刻は午後二時十一分。犯人と目された日下部怜司という男には、その時刻、完璧なアリバイがあった。

日下部は東京駅から「こだま七四二号」に乗車していた。防犯カメラにも映っていた。乗車券の記録もある。名古屋で降りたところも確認されている。列車内販売員は「七号車の窓側で眠っていた男性」を見たと証言した。彼のスマートフォンの位置情報も、新幹線の移動経路をなぞっていた。

にもかかわらず、羽村の部屋には、また同じ筆跡の紙片が残されていた。

――約束どおりに走るものほど、裏切りやすい。

三人目は、京都。

四人目は、新横浜。

いずれも、東海道新幹線の時刻表を使えば、犯人が現場にいたはずがない事件だった。日下部怜司はすべての事件の前後で列車に乗っていた。改札記録、防犯カメラ、予約席、目撃証言、位置情報。その一つひとつが、警察の疑いを押し返した。

世論は爆発した。

テレビは連日、「新幹線連続殺人」と名づけて煽った。新聞の見出しは、日を追うごとに大きくなった。

警察はなぜ止められないのか。

時刻表に負けた捜査一課。

安全神話崩壊。

やがて犯人は、マスコミ各社に封筒を送りつけるようになった。中には必ず、東海道新幹線の架空のダイヤと、赤い線が一本。そして短い文。

――私は列車に乗っている。だから私は殺せない。

――私は殺している。だから警察は無力だ。

――次の日の出までに、また一人。

人々は新幹線を怖がり始めた。出張を取りやめる会社が出た。修学旅行の延期が相次いだ。ホームでは警備員が増え、アナウンスはいつもより硬くなり、乗客は互いの顔色をうかがった。

正確さは、恐怖になった。

早瀬は毎晩、捜査本部の白板の前に立った。東京、品川、新横浜、小田原、熱海、三島、新富士、静岡、掛川、浜松、豊橋、三河安城、名古屋、岐阜羽島、米原、京都、新大阪。

駅名を線で結び、列車番号を書き込み、乗り換え可能な時刻を赤で囲んだ。だが犯人の姿は見えない。

沢村は不眠の目で言った。

「早瀬さん。時刻表は嘘をつかない。でも、犯人が嘘をつかせてるんです」

「どうやって」

「それが、まだ」

その「まだ」が、二人の最後の会話になった。

五人目の事件の夜、沢村は単独で名古屋へ向かった。

被害者は小柳涼子、四十九歳。建設会社の元経理部長。彼女は事件の直前、警察に匿名で電話をしていた。

「昔のことを話します」

それだけ言って、電話は切れた。

小柳は翌朝、名古屋駅のホーム下にある職員通路で発見された。即死ではなかったらしい。指先には血がついていた。彼女は死ぬ前に、バッグから取り出したレシートの裏に、震える字で何かを書き残していた。

ムコウ 57

それだけだった。

「向こう、五十七?」

捜査員の一人が首をひねった。

「向こう側に五十七番ロッカーがあるとか?」

別の者が言った。

「五十七号車なんてないでしょう」

沢村はそのメモを長い間見つめていた。そして夜、早瀬の携帯に電話をかけてきた。

「先輩、たぶん線じゃないです」

背後で、名古屋駅のアナウンスが鳴っていた。

「何がだ」

「時刻表です。俺たちはずっと線で見てた。でもホームは――」

そこで雑音が入った。

「沢村?」

「向かいです。向かいの――」

通話は切れた。

次に早瀬が沢村を見たのは、病院の白いベッドの上だった。

沢村は名古屋駅のホームで何者かと接触し、階段付近で倒れていた。胸に深い傷があった。防犯カメラは人波に遮られ、犯人の顔を映していなかった。

早瀬が病室に駆け込んだ時、沢村はまだ息をしていた。

「早瀬さん」

「しゃべるな」

「ホームは……線じゃない」

「わかった。もういい」

「面です」

沢村はわずかに笑った。

「すみません。先に、見つけたのに」

「謝るな」

「朝って、嫌ですね」

「嫌じゃない。お前、朝は好きだったろ」

「そうでしたっけ」

「そうだよ」

沢村は目を閉じた。

「じゃあ……また、昇りますね」

それが最後だった。

沢村の死で、世論の怒りは警察へ向かった。

殺人犯に刑事まで殺された。

警察は何をしている。

無力。

無能。

無駄。

早瀬はその言葉を、毎朝の新聞で見た。見なくても、耳の奥で鳴っていた。

沢村の机には、彼が途中まで整理していた資料が残っていた。小柳涼子の経歴。瀬田、羽村、他の被害者たちとの接点。十四年前、神奈川県内の工事現場で起きた火災事故。死者二名。うち一人は当時十七歳の少女、日下部陽菜。

事故は作業員の過失として処理されていた。だが当時の書類には不自然な空白があった。安全審査を通した瀬田。会社側を弁護した羽村。保険処理を急がせた者。帳簿を改ざんした疑いのある小柳。

そして、死亡した少女の兄。

日下部怜司。

彼は当時二十一歳だった。鉄道雑誌に時刻表の読み解き記事を投稿する、無名の青年だった。妹を失い、母を失い、父は後を追うように亡くなった。

早瀬は十四年前の捜査記録に、自分の名前を見つけた。

現場補助。

若い刑事だった早瀬は、その火災を事故として処理する捜査に加わっていた。異議を唱えなかった。疑問を持つ時間すらなかった。上司の結論に従い、次の事件へ向かった。

その紙を持つ手が震えた。

「俺たちが、あいつを作ったのか」

誰も答えなかった。

その夜、早瀬は東京駅へ行った。

捜査のためではない。逃げるように、だった。

終電近いホームには、疲れた人間ばかりがいた。スーツケースを引く男、眠った子どもを抱く母親、ベンチで靴紐を結び直す学生。どの顔にも、それぞれ帰る場所があるように見えた。

早瀬は十八番線の端に立ち、レールの闇を見下ろした。

沢村の声がした気がした。

ホームは線じゃない。

面です。

その時、隣で幼い女の子が言った。

「お母さん、さっき先に出たこだま、どうしてまだ向こうにいるの?」

母親が笑って答えた。

「こだまは途中の駅で、のぞみに抜かれるの。先に出ても、遅い列車は待つことがあるんだよ」

「じゃあ、降りてもまた追いつける?」

「え?」

「先に出たのに待ってるなら、ほかのに乗って、また戻れるの?」

母親は困ったように笑った。

「そんなことしないでしょ。危ないもの」

早瀬は振り向いた。

少女は何気なく、アイスクリームのカップを握っていた。母親は発車案内板を見上げている。ただの会話だった。ホームの隅に落ちて、すぐに誰にも忘れられるような会話。

だが早瀬の中で、白板の線が一斉にほどけた。

東京から名古屋へ伸びる一本の線。

犯人の乗った列車。

被害者の乗った列車。

それらを早瀬たちは、ずっと横へ進む線として見ていた。

だが実際のホームでは、列車は向かい合う。

同じ時刻に、別の列車の扉が開く。

遅い列車は駅で待ち、速い列車に抜かれる。

先に出た列車に、あとから追いつくことができる。

早瀬は小柳のメモを思い出した。

ムコウ 57

向こう。

五十七秒。

向かいの列車の扉が開いていた時間。

沢村の言葉。

ホームは面です。

翌朝、早瀬は捜査本部の白板を全部消した。

誰もが息をのんだ。

「何をしてるんですか」

若い刑事が言った。

早瀬は答えず、駅名をもう一度書いた。ただし、今度は横の線ではなく、ホームの形で書いた。上り、下り、待避線、対向ホーム。到着時刻と発車時刻。扉が開いている秒数。追い抜きのために停車する列車。向かいに停まる列車。

日下部怜司は、犯行時、列車に乗っていた。

それは嘘ではなかった。

だが、同じ列車に乗り続けていたわけではない。

彼は遅い列車に乗る。防犯カメラに映る。荷物とスマートフォンを席に残す。車内販売員や乗客には、帽子を目深にかぶった男が眠っているように見せる。駅に着く。向かいに別の列車が停まる。扉が開く。五十七秒。

日下部は人波に紛れて向かいの列車へ移る。

そこで被害者に接触する。

次の駅で降りる。

さらに速い列車に乗る。

途中で遅い列車を追い抜く。

待避駅で、もとの列車に戻る。

出発地と到着地の記録は正しい。席には荷物がある。スマートフォンは移動し続ける。証言者は「眠っていた男」を見る。だがその中身は、途中で何度も入れ替わっている。

完璧な時刻表アリバイではなかった。

完璧に見えるよう、時刻表の「面」を使ったアリバイだった。

「小柳涼子は気づいたんだ」

早瀬は言った。

「日下部が向かいの列車から来たことに。だから五十七秒と書いた。沢村も同じところまで来ていた」

室内が静まり返った。

早瀬は沢村の机から、彼の黒い手帳を取った。最後のページには、震えた鉛筆の跡でこう書かれていた。

線を見るな。扉を見ろ。

早瀬は顔を上げた。

「次で終わらせる」

犯人から最後の封筒が届いたのは、その日の午後だった。

中には、朝焼けの写真が一枚入っていた。東海道新幹線の車窓から撮ったものらしい。地平線の上に、赤い光が滲んでいた。

裏にはこう書かれていた。

――明日、日の出とともに、最後の無力が死ぬ。

早瀬はすぐに意味を理解した。

最後の標的は、自分だ。

日下部は、十四年前の捜査に関わった刑事を殺すつもりだった。警察の無力を、最も象徴的な形で晒すために。

翌朝、早瀬は東京駅に立った。

始発のホームには、まだ夜の冷たさが残っていた。警備は表向き通常どおり。だが私服捜査員が、ホームの柱ごとに配置されていた。監視しているのは改札ではない。乗車口でもない。

向かいの扉。

待避する列車。

追い抜く列車。

「こだま七四二号」が入線した。

早瀬は七号車に乗った。窓側の席に座る。隣の席には、沢村の古い手帳を置いた。

発車ベルが鳴った。

ドアが閉まる。

列車が動き出す。

車窓の外で、東京のビル群が後ろへ滑った。品川、新横浜。空は少しずつ明るくなっていく。

小田原で、列車は待避のため停車した。

向かいのホームに、「ひかり六一号」が入ってきた。

扉が開く。

五十七秒。

早瀬は席を立たなかった。

だが窓の反射に、一人の男が映った。

グレーの帽子。黒いコート。右手に小さな革の鞄。

日下部怜司。

彼は早瀬の車両から降りたわけではなかった。隣の号車から、人波とともにホームへ出た。そして何食わぬ顔で、向かいの「ひかり六一号」へ乗り込もうとした。

その瞬間、ホームの両端から私服捜査員が動いた。

日下部は振り返った。

早瀬もデッキへ出た。

二人の目が合った。

「やっと読みましたか、時刻表を」

日下部は静かに言った。

その声には怒りがあった。悲しみではない。悲しみが燃え尽きた後に残る、黒い灰のような怒りだった。

「時刻表じゃない」

早瀬は言った。

「人間を見た」

日下部は笑った。

「十四年前にも、そうしていれば」

その言葉は、早瀬の胸を刺した。

「そうだ」

早瀬は逃げなかった。

「俺たちは見なかった。お前の妹を。お前の家族を。書類の中の死者にした。俺もその一人だ」

日下部の目がわずかに揺れた。

「謝れば、戻るんですか」

「戻らない」

「なら、意味がない」

「意味がないからって、他人を殺していいわけじゃない」

「警察がそれを言うんですか」

「言う。言わなきゃいけない。遅すぎても」

日下部は革の鞄を握り直した。

ホームに発車ベルが鳴る。向かいの「ひかり六一号」の扉が閉まりかける。捜査員が距離を詰める。

日下部は一瞬、走ろうとした。

だがその進路に、沢村の後輩だった若い刑事が立ちはだかった。沢村がいつもしていたように、背筋を伸ばして。

日下部は止まった。

早瀬は言った。

「もう列車は出ない」

日下部はゆっくりと笑った。

「陽は昇りますよ、刑事さん。何をしても」

「そうだ」

早瀬はうなずいた。

「だから俺たちは、暗いところに残ったものを見つける」

日下部の鞄が床に落ちた。

手錠の音は、列車の発車音にかき消された。

その瞬間、東の空から朝日が差した。

白い車体が、まぶしく光った。

事件は終わった。

だが、終わったからといって、失われたものが戻るわけではなかった。

沢村は帰らない。小柳涼子も、瀬田も、羽村も、日下部陽菜も帰らない。十四年前に見過ごされた声も、取り返せない。

捜査本部が解散した日、早瀬は沢村の墓へ行った。

墓石の前に、缶コーヒーを二本置いた。沢村は甘いものが好きだったから、片方は砂糖入りにした。

「お前が見つけたんだ」

風が吹いた。

早瀬はポケットから、あのレシートの写しを取り出した。

ムコウ 57

小さな字だった。死の間際、人が世界に残した、あまりにも小さな抵抗だった。

それが、真相への道になった。

それが、誰かを救った。

早瀬は空を見上げた。

雲の切れ間から、淡い光が落ちていた。朝はもう過ぎていたが、光はまだそこにあった。

「沢村」

早瀬は言った。

「朝は嫌じゃないな」

返事はなかった。

それでも、遠くで列車の音がした。

街は動き出していた。人々はまた駅へ向かい、ホームに立ち、誰かのもとへ帰り、どこかへ旅立つ。恐怖は消えない。喪失も消えない。怒りも、虚しさも、きっと消えない。

だが、消えないものを抱えたまま、人は次の一歩を選ぶ。

時刻表には載らない遅れがある。

戻れない駅がある。

それでも列車は走る。

それでも、陽はまた昇る。

 
 
 

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