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桜影(さくらかげ)の底にて ―昭和二十年・百合の歳月―

  • 山崎行政書士事務所
  • 3 日前
  • 読了時間: 7分
やまとの艦 しづみし海の あをき底 桜の影に 君を偲びぬ              ――綾瀬百合 昭和二十年四月七日

序章 花の約束(一月下旬)

 備後の川沿いの里。七十二年も経た今でこそ牧歌の風景に戻ったが、昭和二十年一月末――田畑は黒づみ、真冬の畦道でさえ防空壕への近路として鍬でならされていた。

 十七歳の綾瀬百合は、その畦道を兵站列車の汽笛を遠くに聞きながら歩いた。重ね着の上からも寒さが沁みる。 川縁(かわべり)の桜並木は裸木で、枝先に僅かな芽を光らせるばかり。しかし百合はそこに六月の花盛りを思い描いた。

 > 「兄さま――いえ、篤志さまが戻られたら、此処でお花見をいたしましょう。」

 独り言の形で呟く。半年前から“兄さま”ではなく名を呼ぶよう心に決めていたが、まだ舌が照れて震えた。

 家に戻ると、父は防空監視哨当番で不在、母は防空頭巾を繕っている。 百合は囲炉裏火で手を温めつつ、桐箱に収めた押し花を取り出した。五年前、十三歳の春、朝比奈篤志が軍学校へ去る朝に見送った時、篤志の軍帽にとまった最初の一片――それをそっと摘んで乾かしたものだ。花は色褪せながらも、駆け落ち寸前の若武者の顔立ちを映しているようで、百合を鼓動で満たした。

第一章 節分の豆(二月三日)

 午後、里に黒い雲が低く垂れ込めた。 空襲警報の回転サイレンが鳴り響き、百合は母の手を引いて裏山の防空壕へ走った。毬のような豆入りの紙袋が帯から弾け落ちる。今日は節分。家を出る寸前まで「鬼は外」と言いながら豆を煎っていた。

 壕の中は湿気で息苦しい。老人、子ども、婦女が膝を抱え、遠雷に似たB-29の爆音を聴く。七年前の日中戦争開戦時はまだ小学低学年だった百合も、今では敵機とエンジン音で識別できた。

 > 「栄養のあるものを母上に、と言われましたでしょう。今宵は豆御飯にして差しあげます。」

 誰ともなく語りかけると、壕の暗闇にほのかな安堵が灯った。しかし胸裏では別の鼓動が打つ――この音は、遠い艦の機関部で篤志が聴いているはずのタービンの拍動と、同じ拍子だろうか。

第二章 帰郷(三月十六日)

 雪解け水が光る午後、軍服姿の青年が駅から里道を歩く。

 朝比奈篤志、二十一歳。短い帰郷許可を得て、三年ぶりに故郷へ戻った。背丈は以前より高く、旧式の詰襟が肩幅に張り、靴音は凛と乾く。 庭先に立つ百合は、凍ったように微動だにできない。

「おかえりなさいませ――」

 ただこれだけで声はかすれた。篤志は軽く頭を下げ、帯刀のごとく脇に下げた風呂敷包みを差し出す。

「呉の街で手に入れた洋糖(キャラメル)だ。少し溶けているかもしれんが。」

 包みを受け取る指と指が紙越しに触れた。その瞬間、百合は幼い頃の遊び場――篤志の後を追って川に落ち、ずぶ濡れで篤志に背負われて帰った記憶――が霧のようによみがえり、頬に火が走った。

 夜、障子越しに語る声。篤志が父母たちに告げる。

「近く、大和に編入されます。」

 軍艦の名は家族の間を氷雨のように走った。祖父が「ついに大和を出すか」と低く呟き、囲炉裏の火がぱち、と弾ける。百合は膝の上で拳を握り、篤志の横顔を盗み見た。男らしい決意が刻まれているが、同時に強い孤独の翳りがあった。

第三章 夜桜未満(三月十八日)

 里の鎮守さまの境内で灯す和蝋燭が風に揺れた。戦時下で花見は禁じられていたが、村総代は「送別のささやかな祈願」と言って、若い兵士たちと家族数人だけのかがり火を許した。

 篤志と百合は石段の端に並んで腰を下ろす。まだ蕾の硬い桜の梢が澄む闇を細く切り分けていた。

「百合。君は……昔のままだな。」「兄さま――あ、いえ、篤志さまも、お変わりませず。」

 言い換える際に舌がもつれ、篤志が口元を和ませる。火の粉がさらりと舞い、二人の間に落ちた。

「この花が咲く頃、私はいないだろう。」

 彼は静かに言った。百合は声を失い、ただ大きくうなずいた。

 篤志は軍手のほつれを解き、百合の掌に小さな紙包みを置く。 開くと、薄桃色の押し花が一片、さらに小さく綺麗にアイロンがけされていた。

「私の軍帽に縫いつけてくれないか。」

 百合は針と糸を携えて来ていた。袖の影で震える糸を通し、軍帽の内側に桜の花を一針ずつ留めた。針を抜く刹那、篤志の脈が指先に触れ、百合は咄嗟に唇を結んだ。「ありがとう」と篤志が囁く。

 遠くで鳴る囃子の太鼓は、祝言ではなく戦別の鼓動を刻み続けた。

第四章 天一号命(四月六日)

 四月六日早暁。百合は駅の見送りに立った。汽笛、号令、軍帽を上げる影の列。

 篤志は隊列の最後尾で振り返り、帽の庇にそっと触れた。桜の花片が縫われた位置を示すように。百合は防寒襟巻から手を出し、軽く振る。声は出さない。声にすれば嗚咽になると知っていた。

 「あの日を合図に文を出す」と篤志は事前に約束した。 その“あの日”とは七日――沖縄へ突入する予定の前線日だった。

 百合は改札口の外で膝を折り、去りゆく列車の車輪音がすっかり消えるまで土を見つめていた。土は冷え、唇は乾き切っていた。

第五章 四月七日の影

 朝。百合は母と畑の芋苗を植えていた。南から強い風が吹き、空がざわめく。昼過ぎ、遠い雲が爆ぜるように紫を帯びた。村の無線分隊が「沖縄近海にて大規模海戦」とだけ報じる。

 夕闇。百合は防空壕の入り口に独り立ち、呆けたように西の空を見た。太陽は鉛色に沈み、光の線が海を示すように水平に伸びている。

 何かが胸中で崩壊する音――それが篤志の乗艦沈没の暗い予感であると、言葉にしたくなかった。 夜半、防空監視の若者が走って来て叫ぶ。

「大和が……沈んだらしい!」

 その叫びは村の中空で破裂し、風に散った。百合は耳を塞いだ。大和など幾隻もの艦名を口にしてきた彼らでさえ、信じ難い報せだった。

 百合は走った。裏山の防空壕へも戸籍係の詰所へも行かず、村外れの桜並木へ――篤志と歩いた散策路。まだ開かぬ蕾が闇の中で固まっている。百合はその幹に額を強くあて、声なく嗚咽した。

 やがて膝を折り、裾を濡らしながら、草の上に紙を広げた。震える手で筆を取り、短歌をしたためる。

やまとの艦 しづみし海の あをき底 桜の影に 君を偲びぬ

 涙が墨を滲ませ、草に吸われた。

第六章 夏の廃墟(八月)

 七月下旬、軍司令部は正式発表を遅らせていたが、八月に入ると戦艦大和の沈没は誰もが知る事実となった。 百合の元へは九月に入るまで公文書は届かず、七月末に届いたのは一通の軍友会経由の便り――篤志の最期を見たという兵による走り書きだ。

「機関兵曹アサヒナ、魚雷貫通時まで持ち場を離れず、手に桜の布片を握りしを見たり。轟沈前、機関室へ海水なだれこみ、確認とれず。」

 七月、広島は原爆により壊滅した。百合の里は爆心地から遠く、直接の被害はなかったが、赤い雲が西空を覆い、夜昼なく燃えた。八月十五日、玉音放送。父は土蔵のラジオの前で正座し、母はすすり泣き、百合は音が遠くなるのを感じた。戦争が終わるのだという実感より、“これで篤志は本当に還らない”という確証だけが胸を貫いた。

第七章 秋、その刹那の光

 九月五日、海軍省より戦死公報が届いた。

 > 「朝比奈篤志 広島県呉鎮守府所属 昭和二十年四月七日 沖縄方面海上戦闘ニ於テ戦死」

 これで名実ともに未亡人となったのだ、と百合は思った。まだ祝言も挙げず、指にも環(ゆびわ)ひとつ無い未亡人――だが体の奥に篤志の気配が深く刺さり、抜けぬままになっている。

 霜降(しもふ)る頃、彼岸花が川土手に燃え立つ。百合は花の合間を歩きながら、ふと気づく。赤一色に染まる花野なのに、遠い水平線の底で揺れる“青い海”を自分は重ねてしまう。  青と赤――戦艦が沈む海と、彼岸花の血の色――。その対極の色彩が重なった時、自身の中で春の桜が再び蘇った。花弁は白磁のように儚く、しかし決して濁らない。

終章 凍てつく芽(十二月)

 十二月、最初の雪が降った夜。百合は囲炉裏端で押し花の桜を再び取り出した。燃える炭火の朱を浴びても花はなお薄桃で、縫い目の糸が焦げ茶に固まっている。

 百合は母の裁縫箱から白絹の端切れを出し、花を包む小袋を縫う。袋の表には細い糸で一句を刺繍した。

桜影 深きあをみに しづみゐし 恋も眠らむ 春をまちつつ

 袋を胸の襟元に縫い付け、自らの鼓動で温める。 外では空襲警報もなく、暗い空に雪が静かに降る。あれほど轟いた砲声や爆撃音が終わったことに、耳が戸惑いを覚えていた。

 百合はそっと息を吐く。手の平にかつての感触――針を抜く刹那、篤志の脈動を感じたあの夜の微熱――が残っている。

 > 「兄さま、恋しき兄さま。わたくしは今、生きております。それがあなたからの最後の命令でございましょう。」

 簷(のき)から落ちる雫の音が、遠く陸奥湾のさざ波に似ていた。

あとがき

 昭和二十年という一年は、百合にとって幼馴染との最後の再会・別離・喪失、そして終戦という濁流を一身に浴びた歳だった。 しかし同時に、桜の押し花一片が魂の錨となり、彼女はそれを胸に縫いとめて生き延びた。来たる四月七日ごとに百合が詠む和歌の原点は、この歳末の白い静けさ――沈黙の雪の中、胸の袋に触れた微かな温み、その一瞬にある。

 やがて昭和は遠ざかり、平成・令和へと時代が移っても、百合の胸には青き海底の桜影が揺れ続ける。そこに眠る“君”を偲びながら、彼女は次の春を待つ。

 
 
 

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