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水は二度、死体を運ぶ

※以下は、登場人物・団体・事件のすべてを架空として描くフィクションです。

届出書の青い染み

静岡市葵区、七間町の古い雑居ビルの三階に、山崎行政書士事務所はあった。

一階には珈琲豆の店、二階には古書店。三階へ続く階段は、雨の日になると木の匂いが濃くなり、窓の外には駿府城公園の緑がかすかに見えた。事務所のドアには、控えめな金文字でこう書かれている。

山崎行政書士事務所許認可・環境法務・相続手続

山崎透は、朝の九時四十分、湯呑みに深蒸し茶を注いだところだった。

その日、静岡市には奇妙な雨が降っていた。春でも夏でもない、季節の境目を間違えたような冷たい雨だった。

「先生、十時のお客さま、少し早めに来られました」

補助者の望月咲が、受付から顔を出した。

二十七歳。髪を後ろでひとつに束ね、いつも淡い色のカーディガンを着ている。几帳面で、書類の端をそろえる指先にまで責任感がにじむ女性だった。

「水質汚濁防止法の届出の件?」

「はい。用宗の工場を買い取った会社さんです」

「通して」

咲がうなずいて戻る。

ほどなく入ってきた男は、雨に濡れていなかった。

傘も持っていない。コートの肩にも水滴ひとつない。なのに外は、窓を叩くほどの雨だった。

男は三十代半ばに見えた。細身で、眼鏡の奥の目がよく動く。だが、その動きは落ち着きのなさではない。室内の時計、複合機、書棚のラベル、咲のデスクの上に置かれた付箋の色まで、一瞬で計測しているようだった。

「株式会社アオイ・プロセスの久住と申します」

名刺には、久住怜司とあった。

山崎は名刺を受け取り、椅子を勧めた。

「ご相談内容は、特定施設の届出と伺っています」

「ええ。洗浄工程を追加する予定です。排水が出ますので、水質汚濁防止法に基づく届出が必要になるかと」

久住は、淡々と書類を差し出した。

図面、工程表、排水経路、使用薬品一覧。すべて整っていた。整いすぎていた。

行政書士の仕事は、依頼者の言葉と現実の隙間を見る仕事でもある。役所に提出する紙は、紙のままではない。そこには工場の匂い、現場の音、人間の焦り、隠したがる弱さが滲む。

だが、久住の書類にはそれがなかった。

まるで、まだ建っていない工場を、誰かが頭の中だけで設計したように無臭だった。

「現地確認は可能ですか」

山崎が尋ねると、久住はすぐに微笑んだ。

「もちろんです。ただ、先生には先にこちらを見ていただきたい」

久住は封筒を取り出した。

中には、古い届出書の写しが入っていた。前所有者が二十年前に提出したものらしい。端が黄ばみ、ところどころ文字が薄れている。

その最後のページ、事業場周辺図の海側に、青い染みがあった。

インクではない。

水彩のようでもない。

紙の繊維の奥から浮き出したような、濃い青。

咲が背後から覗き込み、小さく息を呑んだ。

青い染みは、人の手の形をしていた。

それも、幼い子どもの手の形に。

久住は山崎の反応を見ていた。

「古い倉庫で保管されていたものです。妙でしょう」

「湿気で色移りしたのかもしれません」

「先生は、そう思われますか」

「届出書としては、写しの状態より内容確認が重要です。前所有者の施設と現在計画している施設に差異があれば、必要な手続も変わります」

山崎は仕事の声を崩さなかった。

だが、胸の奥で何かが硬くなっていた。

久住はその硬さまで見抜いたように、ゆっくり言った。

「実は、もうひとつあります」

彼はスマートフォンを置いた。

画面には、暗い水路が映っていた。コンクリートの排水溝。夜。雨音。そして、水面に浮かぶ白いもの。

最初はビニール袋に見えた。

次に、髪だとわかった。

最後に、それが人間の頭部だとわかった。

咲が声を失った。

動画の終わりに、画面の外から声がした。

少年のように高く、老人のように乾いた声。

届出がなければ、水は記憶しない

動画はそこで途切れた。

山崎は久住を見た。

「これは、どこで撮影されたものですか」

久住は眼鏡を外し、布で拭いた。

「用宗の旧工場の排水路です。三日前の午前二時十二分」

「警察には」

「通報しました。ですが、死体は見つかりませんでした」

「見つからなかった?」

「ええ。水も、髪も、何も。映像だけです」

久住は眼鏡をかけ直した。

「だから、先生に依頼したいのです。届出書を作ってください。正確に。完璧に。でなければ、次は本物が流れます」

山崎は、久住の声に恐怖を聞かなかった。

そこにあったのは、恐怖ではない。

期待だった。

第二章 工場は呼吸していた

翌日、山崎と咲は用宗へ向かった。

海に近づくにつれ、雨の匂いが塩に変わっていく。旧工場は、国道から外れた細い道の先にあった。錆びた門扉、剥がれた看板、割れたガラス。かつて金属部品の洗浄をしていたという建屋は、長いあいだ眠っていた獣のように沈黙していた。

久住は先に来ていた。

「中へどうぞ」

建屋の中は、外より寒かった。

床には古い排水溝が走り、ところどころに黒ずんだ跡がある。壁には、昔の作業標語が残っていた。

水を汚すな、心を汚すな

咲が小声で言った。

「嫌な標語ですね」

「昔は、正しい言葉だったんだろう」

山崎は懐中電灯で床を照らした。

排水溝は、建屋中央から南へ向かい、外の沈殿槽らしき構造物につながっている。届出書に添付された図面と一致していた。

一致しすぎていた。

山崎は足を止めた。

「久住さん。この排水経路、現況と図面が完全に一致していますね」

「問題ですか」

「二十年前の施設で、しかも長く使われていない。改修も補修もなく、ここまで一致するのは珍しい」

久住は微笑んだ。

「先生は疑い深い」

「行政書士ですから」

そのとき、咲が声を上げた。

「先生、これ……」

彼女は壁際の棚を指していた。

棚の上に、瓶が並んでいた。古い試料瓶だ。ラベルには日付と採水地点が書かれている。

平成十四年三月八日。排水口A。

平成十四年三月九日。沈殿槽。

平成十四年三月十日。外部水路。

二十年以上前の水。

その一本だけ、ラベルがなかった。

中の液体は透明に見えたが、懐中電灯を当てると、底に青い沈殿物が揺れた。

咲の顔色が変わった。

「昨日の書類の染みと同じ色です」

山崎が瓶に手を伸ばした瞬間、背後で金属音がした。

工場の奥からだった。

誰かがいる。

「久住さん、他に人は?」

「いません」

久住は即答した。

山崎は咲を自分の後ろに下がらせた。

奥の扉が、少しだけ開いている。

その隙間から、音が漏れた。

水音。

ぽたり、ぽたり。

古い工場の中で、水が落ちる音だけが異様に大きかった。

山崎は扉を開けた。

中は小さな分析室だった。机、割れたビーカー、古い測定機器。壁一面に貼られた紙は、黄ばんだ分析結果表だった。

その中央に、新しい紙が一枚だけ貼られていた。

白い紙に、黒い文字。

山崎透望月咲久住怜司

三人の名前の下に、数値が書かれていた。

pH、COD、BOD、窒素、リン、重金属。

いや、違う。

それは水質測定値の形式を借りた、別のものだった。

山崎透 罪悪感 7.4望月咲 恐怖 5.8久住怜司 退屈 0.0

最後の行に、赤い字でこうあった。

次の採水地点は、事務所。

咲が震える声で言った。

「誰が……」

久住は、貼り紙に近づき、楽しそうに眺めた。

「素晴らしい」

山崎は彼を見た。

「あなたが貼ったんですか」

「違います」

「では、誰が」

久住は答えなかった。

その代わり、分析室の隅を指差した。

そこに、古いロッカーがあった。

扉の隙間から、髪が出ていた。

長い黒髪。

山崎はゆっくり近づいた。咲が背後で息を殺す。久住は微笑みを消さない。

ロッカーの扉を開ける。

中には、マネキンの頭部が入っていた。

黒髪をかぶせられた、白いマネキン。

額に、青い手形が押されていた。

その口には、紙が詰め込まれている。

山崎が紙を引き抜くと、そこには一行だけ書かれていた。

届出書は、死者の戸籍である。

その瞬間、工場の外でサイレンが鳴った。

消防ではない。

警察でもない。

それは、津波避難訓練のサイレンに似ていた。だが、予定された訓練などない。

久住のスマートフォンが震えた。

彼は画面を見て、初めて表情を失った。

「……まさか」

山崎が覗く。

そこには、ライブ配信の通知が出ていた。

タイトルは、こうだった。

水質汚濁防止法違反者、第一号公開処分

画面には、山崎行政書士事務所が映っていた。

室内。

誰もいないはずの事務所。

デスクの上で、茶色い封筒が燃えていた。

第三章 燃えた依頼書

静岡市中心部へ戻る車中、咲は一言も話さなかった。

山崎もまた、言葉を選べずにいた。

自分たちの事務所が映っている。誰かが侵入している。封筒が燃えている。だが、その映像は本当に現在なのか。録画か。合成か。犯人は何を見せたいのか。

山崎は、信号待ちでスマートフォンを操作した。

ライブ配信はすでに消えていた。

代わりに、短い動画が匿名掲示板に拡散され始めていた。コメント欄には、面白がる言葉と、恐怖をあおる言葉が並ぶ。

行政書士事務所で何が燃えてる?水質汚濁防止法って何?死体動画と同じ犯人?山崎って誰?

咲が膝の上で手を握りしめた。

「先生、私たち、狙われてるんですか」

「たぶん」

「どうして」

「届出書だ」

「ただの書類じゃないですか」

山崎はハンドルを握る手に力を込めた。

「ただの書類じゃない。行政に提出する書類は、現実を公に存在させるための入口だ。施設がある。排水が出る。薬品を使う。誰が責任を持つ。どこへ流す。そういうことを、社会に向かって宣言する」

「犯人は、それを利用してる?」

「あるいは、恨んでいる」

事務所に着くと、ドアは施錠されたままだった。

鍵に異常はない。窓も割れていない。

中に入ると、焼け焦げた臭いがした。

デスクの上に、燃え残った封筒があった。

しかし不思議なことに、火は机にも書類にも燃え移っていなかった。封筒だけが内側から焼かれたように黒くなっている。

咲が防犯カメラの映像を確認した。

「誰も入っていません」

「映像を改ざんされた?」

「可能性はあります。でも、この事務所のカメラはネットに繋いでません」

山崎は燃え残った封筒をピンセットで開いた。

中には、写真が一枚入っていた。

幼い女の子が、海辺で笑っている写真。

裏に名前が書かれていた。

藍沢真白 七歳

咲が口元を押さえた。

「子ども……」

山崎は、青い手形の染みを思い出した。

幼い手。

水に残る記憶。

その夜、山崎は過去の資料を調べた。

二十年前、用宗の旧工場周辺で何があったのか。

行政書士に捜査権はない。だが、行政の書類には、事件にならなかった現実の断片が眠っている。届出、許可、苦情、改善報告、廃止届。そこに人間の嘘が挟まると、紙は静かに重くなる。

山崎は静岡県内の公開情報、古い新聞記事、業界資料、事務所に残る環境法務のスクラップをたどった。

午前三時。

咲がまだ事務所にいた。

「帰りなさいと言ったはずだ」

「帰れません。怖いからじゃありません。悔しいからです」

彼女は目を赤くしていた。

「女の子の写真を見せられて、怖がって終わりなんて嫌です。あの子が何者か、知りたいです」

山崎は黙って、もう一つの湯呑みに茶を注いだ。

「咲さん、これは危険な依頼かもしれない」

「先生は逃げますか」

「逃げたい」

彼女は驚いた顔をした。

山崎は苦笑した。

「本音だよ。私は探偵じゃない。行政書士だ。人が死ぬかもしれない事件を追うための訓練なんて受けていない」

「それでも、追うんですよね」

「届出書が使われているなら」

山崎は燃え残った封筒を見た。

「これは、私たちの仕事を侮辱している」

咲は少しだけ笑った。

「先生、怒ると静かになりますよね」

「うるさく怒る体力がないだけだ」

その瞬間、複合機が勝手に動き出した。

二人は同時に振り向いた。

用紙が一枚、吐き出される。

そこには、届出書の様式に似せた文書が印刷されていた。

特定死亡者設置届出書

届出者 山崎透施設名 山崎行政書士事務所排出先 安倍川使用物質 罪悪感、沈黙、偽善設置年月日 明日午前六時

咲の顔から血の気が引いた。

「午前六時……」

山崎は窓の外を見た。

雨はやんでいた。

街の暗闇の向こうで、安倍川が静かに流れている。

第四章 水底の少女

午前五時二十分。

山崎と咲は、安倍川の河川敷にいた。

警察には通報した。だが、具体的な場所がわからない。脅迫文書だけでは、広大な河川敷を即座に封鎖できない。山崎は自分の推理に賭けるしかなかった。

「排出先が安倍川。設置年月日が午前六時。犯人が水質汚濁防止法の言葉にこだわるなら、排水口、樋門、合流点……水が社会に出る場所を選ぶ」

咲はスマートフォンの地図を見ていた。

「用宗の工場から海へ流れるなら、安倍川じゃないですよね」

「だから、これは工場の現実じゃない。犯人の記憶の排水先だ」

「記憶の排水先?」

山崎は二十年前の記事を見せた。

そこには小さな地方記事があった。

安倍川河口付近で女児行方不明用宗在住の藍沢真白さん

咲の唇が震えた。

「この子……写真の」

「当時、事故として処理されたらしい。雨の後、川に近づいて流されたと」

「でも犯人は、そうじゃないと思っている」

「あるいは、知っている」

山崎はさらに資料を開いた。

二十年前、旧工場では排水設備の更新計画があった。しかし届出が遅れ、実際の設備変更時期との間に曖昧な空白がある。周辺住民から悪臭や着色水の苦情も出ていた。

「真白ちゃんの失踪と、工場の排水問題が重なっている」

咲が言った。

「その子が工場の何かを見た?」

「または、工場から流れた何かに巻き込まれた」

午前五時五十二分。

咲が突然、遠くを指差した。

「先生、あそこ!」

河川敷の古い排水樋門。コンクリートの陰に、青い布が揺れていた。

近づくと、それは子ども用のレインコートだった。

青いレインコート。

その下に、人形が置かれていた。

人形の胸には、心電図のような線が描かれている。線は途中で途切れ、そこから赤い糸が川へ伸びていた。

赤い糸の先をたどると、川岸の石の下に小さな防水ケースがあった。

中には、USBメモリ。

咲が言った。

「罠かもしれません」

「たぶん罠だ」

「それでも開けるんですか」

山崎はケースを握った。

「罠には、犯人の願望が入っている」

事務所に戻り、隔離した端末でUSBを開く。

ファイルは一つだけだった。

MASHIRO_LAST.mp4

映像は、二十年前のものに見えた。

粗い画質。工場の裏手。雨。青いレインコートの少女。少女は誰かに向かって言っている。

「お水、青いよ」

画面の奥で、大人の男が慌てて振り向く。

少女は続ける。

「おじさん、だめだよ。川のお魚、死んじゃうよ」

次の瞬間、映像が激しく揺れた。

怒鳴り声。

足音。

少女の悲鳴。

そして、画面は水の中に落ちた。

水面越しに、青いレインコートが遠ざかる。

映像の最後、誰かが言った。

「届出前なら、存在しない」

咲は泣いていた。

山崎も、しばらく声が出なかった。

その沈黙を破ったのは、電話だった。

久住怜司からだった。

「先生、映像をご覧になりましたね」

「あなたは何者ですか」

「依頼者です」

「嘘をつくな」

山崎の声は低かった。

「あなたは犯人を知っている」

電話の向こうで、久住が笑った。

「知っている、という言葉は曖昧ですね。私は彼を観察している」

「彼?」

「彼は天才です。人間の罪悪感を、法制度の形式で可視化している。届出書、測定値、排水経路。すべてが象徴であり、証拠であり、舞台装置です」

「人が死ぬかもしれない」

「すでに死んでいます。二十年前に」

「久住さん、あなたの目的は何だ」

沈黙。

それから久住は、冷えた声で言った。

「真白は、私の妹でした」

咲が顔を上げた。

山崎は電話を握りしめた。

「あなたが犯人を追っているのか」

「いいえ」

久住の声が近づいたように聞こえた。

「私は、犯人が完成するのを待っている」

電話が切れた。

第五章 知能指数のない怪物

久住怜司は、二十年前には藍沢怜司という名だった。

両親の離婚後、母方の姓である久住に変わった。妹、藍沢真白が失踪したとき、怜司は十四歳だった。

山崎は、久住について調べた。

大学では数理情報学を専攻。海外の研究機関に在籍した経歴がある。人工知能、行動予測、匿名ネットワーク、暗号化通信。表に出ている論文だけでも、彼が並外れて優秀であることは明らかだった。

だが、山崎が恐れたのは知能ではなかった。

知能は道具だ。

その道具を握る手が、何を失っているかが問題だった。

咲が言った。

「久住さんが犯人なんでしょうか」

「わからない」

「でも、妹さんの復讐なら」

「復讐にしては、他人を巻き込みすぎている。自分でやればいい」

「犯人を完成させるって、どういう意味でしょう」

山崎は壁に貼った相関図を見た。

旧工場。青い排水。真白の失踪。届出前なら存在しないという言葉。久住。匿名動画。事務所への侵入不能な放火。複合機の遠隔印刷。安倍川のUSB。

「久住は犯人を追っているんじゃない。犯人のゲームに参加している」

「ゲーム……」

「犯人は、真白ちゃんの死を二十年かけて物語にした。久住はその物語を見つけ、もっと精密にした」

咲は顔をしかめた。

「最低です」

「そうだ」

山崎は静かに言った。

「悲しみは、知能を与えられると怪物になることがある」

その午後、警察から連絡があった。

旧工場の沈殿槽から、人骨らしきものが見つかった。

少女のものではない。

成人男性。

死亡推定は、ごく最近。

山崎は言葉を失った。

死体動画は本物だったのか。

だが、死体は消えたはずではなかったのか。

警察の捜査員が事務所を訪れた。静岡県警の片桐警部補。四十代後半、声に砂利のようなざらつきがある男だった。

「山崎先生、あなた方はこれ以上、独自に動かないでください」

「承知しています」

「承知している顔じゃない」

「よく言われます」

片桐はため息をつき、咲の方を見た。

「あなたも危険です。犯人は見せることに快感を覚えている。恐怖を設計している」

咲はまっすぐ答えた。

「私たちは、見せられたものの意味を考えています」

「それが危ないんです。意味を追わせるのが犯人の手口だ」

片桐は山崎に封筒を渡した。

「沈殿槽の遺体、身元が出ました。旧工場の元設備担当、鳥羽正人。二十年前、排水設備の改修を担当していた人物です」

山崎の胸が鳴った。

鳥羽正人。

映像の中で、真白に「お水、青いよ」と言われた男。

「殺害されたんですか」

「まだ断定できません。ただし、遺体の口腔内から紙片が見つかりました」

片桐は言いづらそうに続けた。

「水質汚濁防止法の届出様式を切ったものです」

咲が目を閉じた。

山崎は、机の上の茶を見つめた。

水面が揺れていた。

自分の手が震えているのだと気づくまで、数秒かかった。

第六章 犯人からの依頼

その夜、山崎事務所に新しい依頼が届いた。

メールだった。

件名は、届出代理業務のご依頼

本文は短い。

山崎透先生私は特定施設を設置しました。排出水はすでに流れています。届出期限は、今夜二十四時。添付資料をご確認ください。不備があれば、望月咲を排出します。

咲は隣にいた。

山崎は、添付ファイルを開く前に彼女を見た。

「今日は帰りなさい」

「帰りません」

「これは命令です」

「雇用契約書には、命令に従うとは書いてあります。でも、先生が間違っているときは止めるとも、私は自分に書いてあります」

「強情だな」

「先生に似ました」

山崎は苦笑しかけたが、笑えなかった。

添付ファイルには、図面があった。

それは山崎事務所の見取り図だった。

そして、咲の自宅マンションの間取り図もあった。

咲の顔が白くなる。

さらに、写真が三枚。

一枚目。咲の郵便受け。

二枚目。咲の部屋の玄関ドア。

三枚目。咲が高校生の頃に撮った家族写真。

咲は椅子に座り込んだ。

「どうして……」

山崎は自分の中で、何かが切れる音を聞いた。

恐怖ではない。

怒りでもない。

もっと冷たいものだった。

「咲さん、警察に連絡。片桐さんにこのメールを転送して」

「先生は」

「私は添付資料を読む」

「こんなときに?」

「こんなときだからだ」

山崎は画面を見た。

犯人は、形式にこだわっている。届出書という形式、測定値という形式、排水経路という形式。

ならば、形式の中に嘘がある。

山崎は図面を読み込んだ。

事務所の見取り図。机の位置、書棚、複合機、窓。ほぼ正確。

だが、一点だけ違う。

給湯室の流し台の排水経路が、実際と異なっていた。

図面では、事務所内の排水がビル裏手の配管を通り、外部へ流れることになっている。

しかし実際には、このビルは古い改修をしており、給湯室の排水は隣室側の共用配管に合流している。

この違いを知っているのは、ビルの管理会社か、改修工事をした業者か、以前からこのビルに出入りしている人間。

山崎はふと、事務所の古い契約書を開いた。

ビル改修工事の記録。

施工業者の名前。

鳥羽設備工業

鳥羽正人の会社だった。

咲が震える声で言った。

「先生、犯人は鳥羽さんの関係者?」

「その可能性が高い」

「でも、鳥羽さんは殺されている」

「あるいは、裁かれた」

メールの送信元を解析しても、当然のように匿名化されていた。久住なら簡単にできるだろう。だが、山崎は別のことを考えていた。

犯人は久住ほど高度な技術を持つのか。

それとも、久住が技術を提供しているのか。

午後十一時二十二分。

片桐から連絡が入った。

「望月さんのマンション周辺に警官を配置しました。事務所にも向かわせています。山崎先生、もう動くな」

「犯人の図面に誤りがあります」

「何?」

山崎は説明した。

片桐の声が変わった。

「鳥羽設備工業の関係者を洗います」

「鳥羽正人の家族は」

「妻は十年前に死亡。息子が一人。鳥羽航。現在、所在不明」

咲が小さく言った。

「鳥羽航……」

山崎は彼女を見た。

「知っているのか」

「高校の同級生に、同じ名前の人がいました」

「どんな人だった」

咲は記憶を探るように目を細めた。

「頭がよくて、静かで、誰とも争わない。でも、何を考えているかわからない人でした。卒業式の日、私に言ったんです」

「何を」

咲の声がかすれた。

「『人間は、ちゃんと分類すれば悲しまなくて済む』って」

山崎は画面の届出書を見た。

知能指数マックスの犯人。

感情を分類し、恐怖を設計し、罪を様式化する男。

鳥羽航。

二十年前、父が隠した罪を、息子が届出しようとしている。

だが、なぜ今なのか。

なぜ山崎事務所なのか。

その答えは、午前零時ちょうどに届いた。

複合機がまた動き出した。

吐き出された紙には、こう書かれていた。

不備あり。望月咲を排出します。

同時に、咲のスマートフォンが鳴った。

画面には、非通知。

咲が震える手で出る。

「……もしもし」

スピーカーにした電話から、静かな男の声が流れた。

「望月さん、久しぶり」

咲は声を失った。

「鳥羽……くん?」

「君は、分類不能だった」

「何を言ってるの」

「だから、残した」

電話の向こうで、男が笑った。

「山崎先生。届出書には、代理人欄がありますよね。人は、自分の罪を他人に出してもらいたがる。父もそうでした。久住怜司もそうです。そして、あなたも」

山崎は言った。

「私は何を代理した」

「二十年前、あなたはまだ若い行政書士だった。旧工場の廃止届に関わっていますね」

山崎の呼吸が止まった。

咲がこちらを見る。

鳥羽航の声は、静かな水のように続いた。

「あなたは知らなかった。もちろん、知らなかった。けれど、あなたが作った書類で、工場はきれいに消えた。真白も、父の罪も、行政上はきれいに消えた」

山崎の視界が揺れた。

記憶が蘇る。

まだ独立したばかりの頃。下請けのような形で受けた廃止関係の書類。古い工場。前任者の資料。忙しさの中で、違和感を飲み込んだ。現地確認は形式的だった。依頼者の説明を信じた。

いや、信じたかった。

あのとき、自分は若く、仕事を失うのが怖かった。

「先生?」

咲の声が遠い。

鳥羽航が言った。

「今度は、正しく届出してください。あなた自身を」

電話が切れた。

山崎は、初めて自分がこの事件の外側にいないことを知った。

第七章 山崎透の不備

朝が来なかったような夜だった。

事務所の蛍光灯は白すぎて、咲の顔を病人のように見せた。

「先生、二十年前のこと、本当なんですか」

山崎は答えるのに時間がかかった。

「旧工場の廃止に関する書類に、関わったことがある」

「真白ちゃんの事件を知っていたんですか」

「知らなかった」

咲は黙った。

山崎は続けた。

「でも、違和感はあった。排水設備の記録に抜けがあった。苦情の記録も見た。私は依頼者に確認した。問題ないと言われた。そこで止めた」

「それは……」

「法的には、私は直接の犯人じゃない。たぶん責任も問われない」

山崎は笑おうとして失敗した。

「でも、人としては、不備ありだ」

咲は泣きそうな顔で怒った。

「先生が全部背負うのは違います」

「そう言ってくれる人がいるから、人は生きていられるんだろうな」

「茶化さないでください」

「茶化していない」

山崎は、二十年前の自分を思い出していた。

独立したばかり。事務所の家賃を払うだけで精一杯。行政手続の正確さに誇りを持ちながら、現場を見る勇気を持てなかった自分。

書類は現実を消すこともある。

その恐ろしさを、彼は知っていたはずなのに。

片桐から電話が入った。

「鳥羽航の足取りを確認しました。彼は十年前から海外を転々としていた。帰国後、環境測定会社、設備会社、データ解析会社を渡り歩いています。高度なネットワーク技術もある。久住怜司とも接触していた」

「久住はどこに」

「所在不明です」

「鳥羽の目的は?」

「あなたに罪を認めさせることか、久住を巻き込んだ復讐か、あるいはその両方だ」

山崎は、壁の相関図を見た。

だが、何かが合わない。

鳥羽航が父の罪を暴こうとしているなら、なぜ父を殺したのか。父を殺すなら、なぜ久住を巻き込むのか。久住は妹を失った被害者遺族だ。普通なら共闘する相手だ。

咲が言った。

「先生、久住さんは『犯人が完成するのを待っている』と言いましたよね」

「ああ」

「鳥羽航が犯人なら、久住さんは何を待っているんでしょう」

山崎は顔を上げた。

「完成……」

犯人が完成する。

罪が完成する。

届出が完成する。

山崎は、メールの添付資料をもう一度見た。

図面の誤り。給湯室の排水経路。

本当に誤りか?

犯人ほど精密な男が、そんな初歩的な間違いをするか?

山崎は事務所の床を見た。

給湯室。流し台。共用配管。

このビルの改修をしたのは鳥羽設備工業。鳥羽航なら、本当の配管を知っていてもおかしくない。

つまり、図面の誤りは誤りではない。

誘導だ。

「咲さん、給湯室から離れて」

山崎が叫んだ瞬間、床下から音がした。

水音ではない。

空気が抜ける音。

次に、甘い臭いがした。

咲が咳き込む。

山崎は彼女の腕を掴み、廊下へ引きずるように出た。

「片桐さん! 事務所内にガスか薬品が!」

電話の向こうで片桐が怒鳴る。

山崎は咲を階段へ押し出した。

だが、そのとき背後で複合機が動いた。

火災報知器が鳴り響く中、紙が一枚吐き出される。

山崎は反射的に見てしまった。

排出開始。採水者、久住怜司。地点、山崎行政書士事務所地下。

地下?

このビルに地下などない。

そう思った瞬間、山崎は思い出した。

古い図面。

このビルには、戦後すぐに造られた地下貯水槽があった。今は埋められたと説明されていた。だが、完全には埋められていないかもしれない。

「咲さん、外へ!」

「先生は!」

「久住が下にいる!」

咲は泣きながら首を振った。

「一人で行かないでください!」

山崎は彼女の肩を掴んだ。

「君を守りたいんじゃない。君に、私が戻る理由でいてほしい」

咲の目から涙が落ちた。

「戻ってください」

「はい」

その返事は、届出書の署名より重かった。

第八章 地下貯水槽

古いビルの裏手に、錆びた鉄扉があった。

山崎は管理会社から預かっていた非常用鍵を使い、扉を開けた。中は狭い階段だった。湿った空気が上がってくる。

懐中電灯の光の先に、地下空間が広がっていた。

かつての貯水槽。

天井は低く、壁は水で黒ずんでいる。中央に浅い水が溜まり、ケーブルとチューブが蛇のように這っていた。

その奥に、久住怜司が座っていた。

椅子に縛られている。

顔に血はない。だが、生きていた。

彼の前には、ノートパソコンと小型ポンプ、透明なタンク。タンクの中には青い液体が揺れている。

「山崎先生……遅いですよ」

久住がかすれた声で言った。

「鳥羽航はどこです」

「ここにはいません」

「あなたを囮にした?」

「いいえ」

久住は笑った。

「私が、彼を囮にしました」

山崎は足を止めた。

「どういう意味だ」

「鳥羽航は天才です。感情を数式化し、人間の行動を予測し、恐怖の効果を最大化する。ですが彼には欠点があった」

「欠点?」

「父親を憎みきれなかった」

久住の目が、暗闇で光った。

「だから私が、完成させた」

地下空間の奥で、スピーカーが鳴った。

鳥羽航の声が流れる。

「久住……やめろ。これは違う」

その声は、電話で聞いた冷静な声とは違っていた。

震えていた。

久住は笑った。

「山崎先生、あなたは鳥羽航を犯人だと思っていた。警察もそう思っている。彼はたしかに脅迫文を書き、動画を作り、父を追い詰めた。ですが、鳥羽正人を殺したのは私です」

山崎は息を呑んだ。

「真白の復讐か」

「復讐?」

久住は首を傾げた。

「そんな温かい言葉で呼ばないでください。復讐には愛があります。私には、もうそれがない」

山崎の背後で、階段から足音がした。

片桐だった。銃を構え、慎重に降りてくる。

久住は続けた。

「妹が死んだとき、私は世界を理解しました。人間は謝らない。組織は認めない。書類は消す。法律は遅い。ならば、罪を美しく設計する必要がある」

「鳥羽航を利用したんですね」

「彼は父の罪を暴きたかった。私は彼に道具を与えた。匿名化、配信、偽装侵入、遠隔操作。彼は自分がゲームの主催者だと思っていた」

「違った」

「ええ。彼は駒でした。そして先生、あなたも」

久住は山崎を見た。

「あなたが二十年前の廃止書類に関わっていたことを知ったとき、私は震えました。偶然が、神の筆跡に見えた。だから依頼しました。あなた自身に、あなたの罪を再提出させるために」

片桐が言った。

「久住、もう終わりだ」

久住は穏やかに首を振った。

「終わりではありません。届出書には、受理が必要です」

彼は顎でパソコンを示した。

画面には、ライブ配信の待機画面が映っていた。

タイトルは、

水は二度、死体を運ぶ

配信開始まで、三分。

タンクの青い液体は、ポンプにつながっている。ポンプの先は、地下貯水槽の排水管へ伸びていた。

山崎は気づいた。

これは毒物かもしれない。あるいは、そう見せかけたものかもしれない。だが、配信されればどうなる。街は恐怖に包まれる。行政への不信、過去の事件、模倣犯、混乱。

久住の目的は、誰かを殺すことだけではない。

社会の水面に、消えない染みを作ることだ。

山崎は言った。

「真白さんは、そんなことを望まない」

久住の表情が変わった。

初めて、怒りが見えた。

「妹を語るな」

「語ります。あなたが彼女を装置にしたからです」

「黙れ」

「真白さんは、青い水を見て『だめだよ』と言った。魚が死ぬと心配した。七歳の子が、世界を守ろうとした」

久住の呼吸が荒くなる。

山崎は一歩近づいた。

「あなたは何を守っている」

久住は答えなかった。

「妹の記憶ですか。自分の悲しみですか。それとも、悲しみすら感じられなくなった自分の空白ですか」

「黙れ!」

久住が叫んだ。

その瞬間、パソコンの画面が切り替わった。

配信が始まった。

だが映っていたのは、地下貯水槽ではなかった。

山崎事務所の受付だった。

そこに、咲が立っていた。

彼女はカメラに向かって、震えながらもはっきり言った。

「この配信を見ている方へ。私は望月咲です。山崎行政書士事務所の補助者です。いま流されようとしている映像は、恐怖を利用して人を支配するためのものです」

久住の目が見開かれた。

「なぜ……」

咲は続けた。

「水質汚濁防止法の届出は、罪を飾るためのものではありません。水を守るためのものです。人が見えないところで流したものに、責任を持つためのものです」

山崎は理解した。

咲が、事務所の複合機とカメラの回線を逆利用したのだ。犯人に侵入された経路を、彼女が片桐の部下と一緒にたどり、配信先を差し替えた。

久住が呆然と画面を見ている。

咲は涙をこらえながら言った。

「藍沢真白さんのことを、私たちは忘れません。でも、あなたの憎しみの舞台にはしません」

画面に、真白の写真が映る。

笑っている七歳の少女。

久住は、声を失った。

そのとき、地下空間の奥から男が飛び出してきた。

鳥羽航だった。

痩せた男。目の下に深い影。手にはナイフではなく、古いビデオカメラを握っていた。

「久住!」

彼は久住に掴みかかった。

「真白ちゃんを利用したのは、お前だ! 父を殺したのも、お前だ!」

片桐が叫ぶ。

「動くな!」

だが、久住は笑った。

鳥羽の腕が久住の体に触れた瞬間、ポンプが作動した。

青い液体が管を走る。

山崎は考えるより先に動いた。

配管の接続部に飛びつき、全体重をかけて引き抜く。

青い液体が床に噴き出した。

酸の臭いはしない。

刺激臭もない。

ただ、鮮烈な青。

絵の具のような、海の底のような青が、地下貯水槽の床を一瞬で染めた。

久住が笑った。

「毒ではありませんよ、先生」

山崎は青い水の中で顔を上げた。

久住は囁いた。

「ただの染料です。恐怖は、成分ではなく文脈でできている」

片桐が久住を取り押さえた。

鳥羽航は、青い水の中に膝をついて泣いていた。

「僕は……父を殺すつもりじゃなかった。真白ちゃんに謝りたかっただけなんだ。父にも、本当のことを言わせたかった。でも、久住が……」

山崎は、何も言えなかった。

青い水が靴に染み込んでいた。

水は冷たかった。

だが、なぜかその冷たさに、真白という少女の小さな手の温度を想像した。

第九章 想定外の受理印

事件は終わったように見えた。

久住怜司は逮捕された。鳥羽航も、脅迫や偽計業務妨害などの容疑で取り調べを受けることになった。鳥羽正人殺害については、久住の関与が濃厚となった。

旧工場の沈殿槽からは、二十年前の排水隠蔽に関する証拠も見つかった。真白の死については、改めて捜査されることになった。

だが、山崎の中で事件は終わらなかった。

彼は自分の職印を見つめるたび、二十年前の廃止書類を思い出した。

咲は、何も言わずに彼の隣で仕事を続けた。

ある朝、彼女が茶を淹れながら言った。

「先生、辞めるつもりですか」

山崎は驚いた。

「顔に出ている?」

「はい。ものすごく」

「行政書士として、私は失格かもしれない」

咲は湯呑みを置いた。

「先生は、不備のある人です」

「容赦ないな」

「でも、不備を補正できる人です」

山崎は言葉を失った。

咲は続けた。

「完璧な人が人を救うとは限りません。自分の間違いを見られる人が、誰かの間違いを止められることもあります」

「咲さん」

「だから、辞めないでください。少なくとも、私が一人前になるまでは」

山崎は久しぶりに笑った。

「それは長くかかりそうだ」

「今の発言、労働環境的に問題があります」

「撤回します」

二人が笑った、そのときだった。

郵便受けが鳴った。

咲が封筒を持ってくる。

差出人はない。

山崎の体がこわばる。

封筒の中には、一枚の紙が入っていた。

古い届出書の写し。

二十年前のもの。

青い手形のある、あのページだった。

しかし、その手形の下に、新しい文字が書き加えられていた。

受理

赤い印影。

日付は、二十年前ではない。

今日の日付だった。

咲が震える声で言った。

「誰が……」

山崎は、印影を見た。

役所の受理印ではない。

子どものおもちゃのような、少し歪んだ印だった。

その横に、小さなひらがなが書かれていた。

みたよ

山崎は椅子に座り込んだ。

恐怖ではなかった。

むしろ、胸の奥に静かな温かさが広がっていく。

咲が泣きそうな顔で笑った。

「真白ちゃん、でしょうか」

山崎は首を振った。

「わからない」

「先生らしくないですね」

「わからないことを、わからないと言うのも仕事だ」

窓の外で、雨が降り始めた。

静岡の街に、細い雨が落ちていく。

排水溝を伝い、川へ流れ、やがて海へ出る。

水は何でも運ぶ。

汚れも、罪も、嘘も、記憶も。

だが、すべてを消すわけではない。

ときに水は、二十年もの沈黙を越えて、小さな声を運んでくる。

だめだよ。

その声を聞くために、人は書類を作るのかもしれない。

隠すためではなく、見つめるために。

山崎は、赤い「受理」の印を見つめた。

そして静かに、職印を机の上に置いた。

「咲さん」

「はい」

「用宗の工場跡地について、正式な調査請求の準備をしよう」

咲は涙を拭き、力強くうなずいた。

「はい、先生」

その日、山崎行政書士事務所の窓辺には、青い染みのついた古い届出書が置かれた。

誰かを責めるためではない。

誰かを忘れないために。

雨は午後には上がった。

雲の切れ間から差した光が、紙の上の青を照らした。

それはもう、恐怖の色ではなかった。

海の色だった。

 
 
 

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