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第二十章 マイクの前の一拍

朝礼の日の朝は、家の音が少しだけ早い。祖母のやかんが鳴く前の気配が、いつもより早く台所に立ち上がる。湯気がまだ見えないのに、茶の匂いだけが先に沈む。沈む匂いは落ち着くはずなのに、今日は落ち着きすぎると逆に怖かった。

怖いのは、朝礼だからではない。呼ばれるからだ。呼ばれる、というのは名前が外へ出るということだ。掲示板の黒い文字みたいに、勝手に前へ出て、戻ってくる場所を探してしまう。

祖母が湯飲みを畳に置いた。底が小さく鳴る。

「水も飲んどき。体育館、暑いで」

体育館。その単語だけで、木の床の匂いが鼻に来た。ワックスの甘い匂いと、古い木の乾いた匂いと、夏の汗が混ざった匂い。匂いは、まだ家にいるのに、もう学校に連れていこうとする。

父は朝から言葉が少なかった。少ないというより、昨日の夕方からずっと何かを使い切ったままの静けさだった。箸を置いて立ち上がる背中が、畑へ向かう背中と同じ段取りの背中なのに、今日は少しだけ違って見える。違って見えるのは、幹夫のほうが勝手に意味を探してしまうからだ。

父が玄関へ向かいながら、背中越しに言った。

「……朝礼、だら」

確認の形をしている。でも、知っているから言っている言い方だった。知っている、というのは「見ている」と似ている。見ていると、胸が少しだけ狭くなる。

幹夫は湯飲みを両手で包んで、短く答えた。

「……うん」

苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みが、今日の「呼ばれる」のあとにも残るかどうか、まだ分からなかった。

学校へ向かう途中、しずてつの踏切が鳴る前の一拍が来た。止まれる時間。止まれるから考えてしまう時間。遮断機が下りる前、空気がほんの少しだけ張る。

今日は、その張りが胸の奥にもあった。鳴ってしまえば仕方ないのに、鳴る前は、止まれてしまう。止まれるから、余計な想像が増える。体育館の中で名前が呼ばれたとき、足はちゃんと前へ出るのか。手は震えないのか。声は沈まないのか。

電車が通り過ぎ、遮断機が上がる。幹夫は線路を渡って、学校へ向かった。歩く足はいつも通りのはずなのに、今日は足音が自分の耳にだけ大きい。大きい足音は、静かな自分を裏切るみたいで、少しだけ恥ずかしかった。

朝の教室は、すでに少し暑かった。窓が開いていて風が通るのに、風はぬるい。ぬるい風は「まだ本気じゃない夏」の顔をしている。誰かの制汗剤、弁当箱の匂い、消しゴムのゴムの匂い。匂いが重なると、言葉は薄くなる。薄い言葉は出しやすいのに、胸の奥まで届かない。

俊が机に座りながら言った。

「今日、呼ばれるんだろ?」

呼ばれる、という単語を他人の口から聞くと、輪郭が急に濃くなる。濃くなると、現実になる。現実は逃げ道を減らす。

幹夫は「うん」と言って、筆箱の位置を直した。直す動作は、心の中の段取りを整える動作に似ている。整えれば落ち着くはずなのに、整えるほど「始まる」気がした。

チャイムが鳴って、先生が入ってきて、いつもより短く言った。

「今日は朝礼。静かに並んで」

静かに、という命令は、いつも言われているのに、今日は違う意味を持っていた。静かに、は音の話のようで、心の話でもある。心を静かにしろ、と言われると、静かにできないものがあることだけがはっきりする。

体育館へ移動する廊下は、ワックスの匂いが濃かった。面談の日の匂い。同じ匂いなのに、今日は別の場所へ連れていく。匂いは、終わったことを終わらせないのが上手い。

体育館の扉を開けると、空気が一段だけ重かった。熱と匂いが混ざった空気。床の木の匂い。ワックス。汗。遠くで鳴るマイクの調整音。スピーカーが小さく「ッ」と息をする。鳴る前の一拍が、ここにもある。

整列して座る。膝を抱えるような体育座り。床は冷たくない。冷たくない床は、逃げ道がない。背中に汗がにじむと、シャツが貼りつく。貼りつく感覚は、清水の潮の膜と少し似ている。外側に薄く膜ができると、息が浅くなる。

校長の話が始まり、表彰の時間が来た。呼ばれる前の時間がいちばん長い。長いのに、一瞬で終わる。終わる瞬間だけは、止められない。

「校内文章コンクール、入選――」

名前が並ぶ。学年が呼ばれる。他人の名前は音として流れていく。流れていく音の中で、自分の番だけが急に立ち上がる。

「二年、――幹夫」

自分の名前が、体育館の天井に向かって放たれる。放たれた音は、戻ってくる。戻ってくる音は少し遅れて、自分の耳に当たる。遅れて当たる音は、茶の甘みみたいに残る。残るのに、甘くない。甘くない残り方をするのは、これが「みんなの中の自分」になる音だからだ。

幹夫は立ち上がった。立ち上がると、床の擦れる音がする。擦れる音は、体育館では大きい。大きい音は、視線を集める。集まった視線の中で、足が前へ出た。出たことが自分でも意外だった。意外なのに、足は止まらない。

壇上へ向かう途中、マイクの前で一拍、空気が止まった気がした。鳴る前の一拍。踏切の一拍。やかんの鳴く前の気配。全部が同じ種類の「始まる手前」だった。

賞状を受け取る。紙は思ったより厚い。厚い紙は、折り目がつきにくい。でも、ついた折り目は戻りにくい。紙の角が指に当たり、指先が現実を確かめる。校長の手は乾いていて、温度が少ない。温度が少ない握手は、儀式の手触りだった。

「おめでとう」

そう言われて、幹夫は頭を下げた。頭を下げると、目の前の床の木目が急に近くなる。木目は細かい。細かいものは、見ていると心が少し落ち着く。落ち着くと、呼吸が戻る。戻ると、声が出せる気がする。

でも幹夫は声を出さなかった。出さなかったのではなく、出すべき言葉が「ありがとうございます」だけだと分かっているのに、その言葉が体育館に似合わない気がした。体育館の中の「ありがとうございます」は、反響して大きくなりすぎる。大きくなりすぎると、言葉が自分から離れてしまう。

席に戻る途中、俊が小さく親指を立てた。その動きが軽くて、軽いから助かった。軽い合図は、言葉ほど反響しない。

朝礼が終わって教室に戻ると、教室はいつも通りの匂いをしていた。黒板の粉。柔軟剤。弁当箱。体育館の匂いより薄い。薄いぶん、現実が戻ってくる。

先生が幹夫の机の横に来て、声を小さくした。

「緊張した?」

幹夫は「うん」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。緊張した、と言うと、緊張した自分が確定してしまう気がした。確定すると、次も緊張することが決まってしまうみたいで怖い。代わりに、こう言った。

「……音が、大きかった」

先生は少し笑って頷いた。

「体育館はね。声も、足音も、大きくなる」

大きくなる。大きくなる、という言い方が、悪いことじゃないみたいに聞こえた。大きくなっても、壊れないものがあるのかもしれない。

放課後、賞状を筒に入れて持ち帰る。筒は軽い。軽いのに、肩にかけると存在感がある。存在感があるものは、他人に見つかる。見つかると、言葉が増える。

下駄箱の前で、別のクラスの男子が言った。

「それ、賞状?」

幹夫は「うん」とだけ言った。それ以上は言わなかった。言わないことで守れるものがある。守れるものは、まだ壊したくない。

外へ出ると、午後四時台の影が伸び始めていた。静岡の午後四時の影は、光より生活に近い顔をしている。帰る人の足を早くする影。影に押されるように、幹夫は歩いた。

しずてつの踏切が鳴る前の一拍が来た。今日は、その一拍が短かった。短いのではなく、こちらが身構えるのが遅れた。遅れたのに、転ばない。転ばない遅れがあることを、幹夫は少しずつ知っていく。

家に着くと、祖母のやかんが鳴く直前の気配がした。湯気が立つ前の揺れ。踏切の一拍と似ているのに、ここでは怖くない。続きが分かるからだ。湯が沸いて、茶が淹れられて、苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。

「おかえり」

祖母の声。幹夫は「ただいま」と返し、賞状の筒をそっと机の上に置いた。置く音は小さい。小さいのに、置いたことが分かる。置いた場所が、今日から少しだけ“今日の場所”になるからだ。

納屋のほうから麻ひもの擦れる音がした。父が茶袋の口を縛っている。土と機械油と茶の青さが混ざった匂い。混ざった匂いは、どこにも属さないのに、ここだけの匂いだった。

幹夫は納屋の入口で一度止まり、息を整えるふりをした。ふりでもいい。ふりがあると、口が動く。

「……父ちゃん」

父は振り向かずに「ん」と返した。短い返事。短い返事は、続きを待つ返事だ。

幹夫は筒を差し出した。

「……これ」

それだけ。でも差し出す動作には、体育館の床の音も、マイクの一拍も、呼ばれた自分の名前も、全部入ってしまう。

父は筒を受け取って、少しだけ重そうに見えた。重いのは筒の重さじゃない。受け取ったものの“外側”に、学校の匂いがついているからだ。

父は筒の蓋を開け、賞状を少しだけ抜いて見た。紙が擦れる音。白い紙に、黒い文字。そして金の縁取りが、ほんの少しだけ光る。

父は長く見なかった。長く見ると、言葉が要る。言葉が要る場面を、父はまだうまく持てない。持てないから、短くする。短くすることが父の誠実さでもある。

父は筒を戻し、ぽつりと言った。

「……呼ばれたか」

確認の形。でも、知っている形。

幹夫は頷いた。

「……うん。名前、言われた」

父の手が、茶袋の上で一瞬止まった。止まって、また動く。止まった時間は短い。短いのに、わざと作った間に見える。

父は前を見たまま言った。

「……よかったな」

よかったな。父の口から、その言葉が出たことに、幹夫の胸の奥が小さく動いた。動いたのに、痛くない。痛くない動きは、受け取れる動きだった。

幹夫は「ありがとう」と言うべきだったのかもしれない。でも口から出たのは、もう少し短い音だった。

「……うん」

その「うん」は沈まなかった。沈まないうんがあることを、少しずつ覚えていく。

夜、スマホが震えた。母からだった。

「朝礼、呼ばれたんだね。先生から聞いた。 おめでとう。 幹夫の声、沈まなかった?」

沈む、という単語が出ると、駿河湾の夜の黒が頭に浮かぶ。声が沈む場所。沈んでしまう気がする場所。でも今日は、体育館の天井が浮かんだ。声が反響して戻ってくる場所。

幹夫は返信欄を開いて、短く打った。

「沈まなかった。たぶん」

送信して、スマホを伏せる。暗い画面に映る自分の目は、朝より少しだけ「戻ってきた音」を知っている目をしていた。

台所から祖母の声が飛ぶ。

「茶ぁ飲め。冷めんうちに」

幹夫は湯飲みを両手で包んだ。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みは、体育館で呼ばれた名前の残り方と少し似ていた。呼ばれた瞬間には何も変わらないのに、家の湯気の中で、ようやく胸の奥に効いてくる。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど、マイクの前の一拍を越えても倒れなかった足の裏に――世界の重さは一気には来ない、少しずつ足場になる重さだということを、その夜、指先だけが確かに覚えていた。

 
 
 

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