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第十章 写真の裏側

机の上から、紙がなくなると、白い場所が残る。白い場所は、何もないのに「ここにあった」を言う。言われると、手が勝手に探してしまう。探して、見つからないと、見つからなかったことが確かな形になる。

母に預けた原稿用紙は、今朝も戻ってこなかった。戻ってこないことは約束の中に入っているのに、幹夫(みきお)は起きてすぐ、自分の机の端を見た。クリアファイルの角が当たっていたはずの場所。そこだけ、畳より少し白く見える気がする。気がするだけで、本当に白いわけじゃない。けれど「気がする」くらいが、いちばん厄介だった。確かじゃないから、頭の中で何度も確かめてしまう。

台所では祖母が湯を沸かしていた。やかんの鳴く前の、ほんの小さな気配が部屋を動かす。湯気が立つ前に、茶の匂いが先に来る。茶の匂いは内側へ沈む匂いで、火薬の膜みたいに外側に貼りつく匂いとは違う。違うから、ようやく息が深くなる。

「幹夫、湯飲み、出しとき」

祖母はそう言って、畳に湯飲みを置いた。底が小さく鳴る。その音が、昨日父が原稿用紙を机に置いたときの静かさに似ていて、幹夫は一瞬だけ、胸の奥が小さく動いた。動いたのに、言葉にならない。言葉にならない動きは、たいてい長く残る。

「紙、預けたまんまかね」

祖母が、まるで天気の話みたいに言った。幹夫は湯飲みを両手で包み、熱を受け取ってから答えた。

「……うん。預けた」

祖母は「そっか」とだけ言って、湯を足した。足された湯は、言葉の続きを求めない。求めないから助かる。助かるのに、胸の奥の白い場所はまだ消えない。

学校は、いつも通りだった。窓から入る風はぬるく、黒板の粉の匂いに、誰かの柔軟剤が混ざる。教室の中は、毎日同じ顔をしているのに、昨日までの自分と今日の自分は同じじゃない。違うのに、違いは机の奥にしまわれたまま表に出ない。

昼休み、俊が窓際でアイスをかじりながら言った。

「昨日の帰り、国一やばかったらしいな。花火のあと」

幹夫は「うん」と言いかけて、飲み込んだ。国一の渋滞の匂いを思い出してしまったからだ。排気の熱。汗。どこかの屋台の甘い焦げ。火薬が遅れて喉に貼りつく感じ。思い出すと、原稿用紙の一行目が勝手に浮く。浮いた文字は、口から出る場所を探す。

出さなかった。出さないでいられるのは、教室がすぐ別の話題に流れる場所だからだ。流れる場所では、言葉は置き去りになりやすい。置き去りになりやすいぶん、救われることもある。

放課後、帰り道でしずてつの踏切が鳴った。鳴る前の一拍は、今日も来た。でもその一拍は、教室で紙が声になった日の一拍より、少しだけ短かった気がした。短いというより、こちらが身構えるのが遅れた。遅れたのに、転ばない。転ばない遅れがあることが、少し不思議だった。

家に帰ると、夕方の影が先に伸びていた。光はまだあるのに、影だけが急ぐ。影が急ぐとき、家の匂いが濃くなる。だしの匂い、畳の乾いた匂い、洗ったシャツの匂い。生活の匂いが、外側に貼りついた一日分をゆっくり剥がしていく。

居間で父がテレビをつけたまま、音量を一段下げた。いつもの動き。でも今日のその動きは、昨日より少しだけ“待っていた”みたいに見えた。

「……戻ったか」

父は振り向かずに言った。幹夫は靴を脱ぎながら「うん」と返した。返事は短い。短いのに、沈まない。

そのまま自分の部屋へ行こうとしたとき、背中越しに父の声がした。

「……幹夫」

名前だけ。呼ばれると、足が止まる。止まってしまうのは、呼ばれた重さのせいだ。

父が何かを持って立っていた。白い封筒ではない。クリアファイルでもない。透明なビニール袋に入った、少し古い写真の束だった。

「これ……あった」

父はそれだけ言って、幹夫の机の上に置いた。置き方が、湯飲みの底みたいに静かだった。静かに置くと、物は逃げない。逃げないぶん、見るしかなくなる。

父はそれ以上言わず、部屋の外へ戻っていった。足音が廊下で遠ざかり、台所から祖母の鍋の音がした。生活の音が、また戻ってくる。戻ってきた音の中で、幹夫の机の上の写真だけが、妙に現実味を持っていた。

ビニール袋を開けると、古い紙の匂いがした。紙の匂いは茶の匂いとは違う。乾いていて、少しだけ甘くなくて、時間の色がする匂い。指先で一枚取り出す。角が少し丸くなっている。何度も触られた角だ。

そこには、安倍川の河原が写っていた。白い石。夜の黒。遠くの光。花火が、ちょうど上がった瞬間。画面の半分が白く滲んで、輪郭は崩れている。崩れているのに、あの夜の空気だけは分かる。火薬の匂いの前の、あの一拍。

写真の端に、小さく幹夫が写っていた。誰かの腕の中で、寝ている。寝ているから、花火を見上げていない。見上げなくても、光は頬に当たっている。抱えている腕は、母の腕だとすぐ分かった。腕の形が、記憶より先に分かってしまう。肩の傾き、手の添え方。落としたくないものを抱える抱え方。

その隣に、父が写っていた。若い。今より痩せていて、少しだけ笑っている。笑っているのに、目線は空じゃなくて、腕の中の幹夫のほうに落ちている。落ちている目線が、いまの父の沈黙と同じ種類に見えた。

写真の裏側に、ボールペンの字があった。薄れているのに、読める。

「帰り、国一、すごく混んだ」「抱えたら、軽くてこわかった」

母の字だった。昨日、メッセージで読んだ言葉と同じなのに、紙に書かれていると重さが違う。画面の文字は光る。でも紙の字は、光らない代わりに、触れた指先の温度で残る。

幹夫はその字を指でなぞらなかった。なぞったら、字が強くなる。強くなると、写真の裏側が“いま”になってしまう気がした。いまになったら、返事が要る。返事はまだ、写真の裏側には書けない。

それでも、胸の奥の白い場所が少しだけ埋まった。原稿用紙の白じゃない。机の白い跡でもない。別の白――花火の光が滲んだ白が、そこに座った。

夜、スマホが震えた。母からだった。

「預かった紙、ちゃんとしまってあるよ。 折り目、増やさないようにしてる」

増やさないように、という言い方が、母の指先の丁寧さと同じ匂いで来た。幹夫は机の上の写真を見た。増えた折り目。増えた痕。痕が増えるのは怖い。でも増えた痕がないと、分からないこともある。

幹夫は返信欄を開き、短く打った。

「写真、見つかった」

送信してから、写真をもう一度裏返した。母の字。国一。軽くてこわかった。その字の上に、父の指が一度触れたのかもしれない、と幹夫は思った。触れたかどうかは分からない。分からないままでも、父が“これ、あった”と言って机に置いたことだけは確かだ。

すぐに母から返信が来た。

「え……それ、まだあったんだ。 懐かしい。 ね、幹夫、その写真、今度会ったら見せて」

見せて、というのは“渡して”より軽い。軽いのに、ちゃんと手が必要な言葉だ。手が必要な言葉は、断ると痛む。断らなくても、胸が少し痛む。痛むのに、今日は逃げたくならなかった。

幹夫は、机の上の写真をビニール袋に戻し、ゆっくり封をした。封をすると、時間が閉じ込められる気がする。閉じ込めたくないのに、いまは閉じ込めたほうが壊れにくい。

返信は短く打った。

「うん。今度」

送信して、スマホを伏せる。暗い画面に、自分の目が映る。目はいつも通りなのに、どこか「渡す順番」を覚え始めた目をしていた。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど“写真の裏側”みたいに、言葉が置けない場所にだけ残る重さがあることを、その夜、指先だけがはっきり覚えていた。

 
 
 

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