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草薙剣の凪刃(なぎば)


 朝の草薙は、畦(あぜ)の一本いっぽんに薄い風の糸を張っていました。静鉄の小さな車体が銀の背びれで線路をすべり、有度山(うどやま)の肩は、雲の絆創膏を一枚だけ貼っています。八歳の幹夫は、露でしめった草むらにしゃがみ、カヤの茎を短く切って、小さな木の剣をこしらえていました。剣の影は地面でひとすじ細くのび、葉はそれに合わせて身をすこしだけ横にして見せます。

 そのとき、畦のほうから、薄い緑の封書がひらりと飛んで、幹夫の足もとに止まりました。紙は笹の葉の手ざわりで、極細の金いろの字が葉脈みたいに走っています。

 — 至急 神器調律所 草薙剣出張所  昨夜の熱風により、「草薙剣の凪刃(なぎば)」ひと筋ささくれ。  このままでは正午の暑(あつ)さが風に乗って暴れ、  町の影が切れます。  正午までに凪刃の綴(と)じを新調し、  有度山・風見の丘にある「剣の影」へ装着のこと。  
採取物:   
① 葉の縁(ふち)で立つ露の刃先(はさき)—「露刃(つゆば)の粒」ひとつ   
② 風が向きを替える一秒に地面に生まれる「凪の窪(くぼ)」ひとかけ   
③ 雲がほどけて光が降りはじめる「天(あま)の絲(いと)」ひとすじ  提出先:風見の丘 剣影(けんえい)留具(とめぐ)

「読み書き、上手だね」

 アザミの上から、胸の飾りが麦わらみたいに淡いヒバリが、ひとつぶれの音を落として降りました。背は畑の色、目は黒い鈴です。

「案内係のヒバリです。草薙の『薙』は、ほんとうは**凪(なぎ)**を生む手つき。きのうの熱で、その刃のやさしい縁(ふち)が毛羽立ってしまった。君、手伝ってくれる?」

 幹夫はうなずき、ポケットの白いハンカチと、ランドセルの余りひもを確かめました。

   *

 最初は「露刃」。茶畑のかげ、葉の縁が朝の光でうすく鋭(するど)くなるところで、露が一粒、刃先みたいに立っています。幹夫は息をとめ、白いハンカチの角で、そのきわの丸い冷たさをそっと受けとめました。布はひやりとして、糸目の間に透明の小さな刃がひとつ座りました。

「一本め、取れた」 ヒバリは胸をふくらませ、畦道のへりへ跳(は)ねます。「次は凪の窪。風がやめるとき、地面に小さなくぼみが生まれる」

 田の角で風がくるりと考えごとをやめ、草の穂先が同じ方へ一度だけ寝そろいました。その一秒の「やめる」の底に、ぬるくて静かな窪(くぼ)がたしかにあります。幹夫は余りひもで小さな輪を作り、その窪をひとかけすくい上げました。ひもはかるくふくらみ、指先に「落ち着け」の温度が移りました。

「二本め、良い凪だ」 ヒバリは有度山の肩を見上げ、空の裂け目を顎でさします。「最後は天の絲。雲がほどけて、光が糸になって降りる一瞬だよ」

 丘の背中で雲がひとすじ裂け、白い糸が空から地面へまっすぐ降りました。幹夫はハンカチの端を空中にそっと差し入れ、その糸を一本だけ受けとめます。布は一瞬だけ、鐘の余韻みたいに澄んで、また静かになりました。

   *

 風見の丘は、青い帯の背もたれみたいでした。草の斜面に「剣の影」が一本、午前の細い日で長くのびています。影の根もとには、小さな金の留(と)めがあり、ほんの少し口をあけていました。

「撚(よ)ろう」 ヒバリが空で小さく拍(はく)をとります。

 幹夫はひざにハンカチを広げ、「露刃」と「凪の窪」と「天の絲」を指先で合わせました。最初はそれぞれが別々の天気へ帰りたがりましたが、撚るたびに小さく「り」「ん」「り」と鳴って、やがて一本の凪刃の綴じになっていきます。よく見ると、綴じの中を、露の刃、地の窪、空の糸が三つ綾(あや)になって、ゆっくり流れていました。固くはないのに、折れません。冷たすぎず、熱をよくさます手ざわりです。

「さ、装着。固すぎず、ゆるすぎず」

 幹夫は深呼吸をして、綴じ糸を剣の影の留具にそっと掛けました。綴じはひと呼吸して、短く「り」と鳴り、影と草と風にすっとなじみます。次の瞬間、斜面をのぼっていた熱の息は丸く座り、草の先はかすかに笑い、風は刃でなくの背で町へ下りました。遠くの洗濯物は影をちょうどにたたみ、犬のあくびは半分でやみ、信号機は赤でも青でもない透明の一秒をひとつだけはさみます。

 ヒバリは高く小さく輪を描きました。「できた。『薙(な)ぐ』ってね、ほんとうは『**凪(なぎ)**にする』ってこと。きみの手は、たしかに剣だったよ」

「剣?」 幹夫は自分の指を見ました。泥の線と露の光。「うん。斬(き)らないで、座る場所をつくる剣さ」

 ヒバリは胸の麦わらをちょっとたて、前へひと歩き。小さな切手をくちばしで差し出しました。切手は透明で、葉の形の小さな刃がうすく描かれ、中央に極細の綴じ糸が一本通っています。

「『凪刃』の切手。きみの一日の熱が暴れだしたら、胸の地図に貼ってごらん。『ただいま』が、ちゃんとを連れて出てくる」

   *

 帰り道、幹夫は土手の上で、お弁当の梅おにぎりをひとつ食べました。口の中で海が小さく笑い、舌の上でさっきの天の絲が、氷砂糖の角みたいに一度だけきらりとしました。丘の背の剣の影は、見えない綴じで静かに結ばれ、草の面(おもて)は午前のひかりをすなおに受けています。

 家の門をくぐって、幹夫は声を丸くして言いました。「ただいま」

 その「ただいま」は、いましがた凪刃をいちど通ってきたみたいに、ひかりと風のあいだでちょうどでした。台所からの「おかえり」は今日の涼しさで返ってきて、味噌汁の湯気は柱の木目をまっすぐのぼります。胸の中の切手がいちどだけ淡く光り、見えない細い刃が、心の前でそっと水平になった気がしました。

 正午。町はほんの短い時間だけ、深呼吸を覚えました。畑のかかしは帽子を押さえ、線路のきらめきは角を一つ丸め、屋根の上の影は自分の席を確かめます。遠くの海は青の底で音を一度だけ低くし、有度山の肩は、雲の絆創膏をもう一枚だけ軽く押さえました。

 夕方。草は昼の話をやわらかくたたんで土へ返し、風は剣の鞘(さや)へ静かに戻りました。綴じ糸は最後の一渡りをやさしく受けて、短く「り」と鳴ります。空は薄い茜(あかね)で刃の背を染め、雀の隊列は、凪いだ道を迷わず帰っていきました。

 夜。草薙の空は、葉の影で星をとめ、遠くの港は桜色の豆をいくつか点(とも)しました。幹夫が枕に頭をのせると、胸の凪刃が小さく呼吸し、昔話の遠い頁(ページ)が「すっ」と一度だけめくられました。むかし雲を束ねて刃にしたひとのこと、火が追ってきたとき、草を薙いで風を呼んだこと——それらが今夜は、斬らずに座らせる剣の話として、静かに胸の中で並びます。

 — 露の刃  凪の窪  天の絲  それらを撚って細い綴じにすれば、  今日の風は、  ちゃんとになって君の胸を通る。

 朝。畦はまた新しい風の糸を静かに張りました。幹夫は靴ひもを結び直し、胸の切手の冷たさをひとつ吸いこんで、ゆっくり学校へ向かいました。背中のどこかで、小さな草薙の凪刃が、きょう最初の「ほどよい風」を静かに指していました。

 
 
 

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