踏切の赤い脈動と、遠い港の灯(舞台:静岡市清水区 御門台)
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月26日
- 読了時間: 5分

幹夫青年は、御門台の駅を出て、線路ぞひの道をゆっくり歩いてゐました。 冬の空気は透明で、少し硬く、息を吐くと白い息がふうっと出て、街灯の白い光の中でいちど膨らみ、それから闇の方へほどけて消えました。
消えるのに、あたたかい。 幹夫は、また思ひました。
(ことばも、白い息みたいならいい。 出て、消えて、でも少しあたたかい。)
けれど幹夫の胸の中のことばは、息みたいに軽くありません。 冷えた小石みたいに角ばって、胸の奥でごろごろしてゐます。
――「遅い。」 ――「いまさら。」 ――「でも言はないと、もっと遅い。」
そんな見えない裁判官が、胸の中でこつこつ机を叩いてゐました。
そのとき、前の方で、踏切の棒が、すうっと降りるのが見えました。 つづいて赤い灯が、左右で交互に点滅をはじめました。
ぱっ。 ぱっ。 ぱっ。
赤い光は、夜の中でよく見えます。 よく見えるのに、威張りません。 ただ、正確に点滅してゐます。 その点滅が、幹夫には「灯」ではなく「脈(みゃく)」に見えました。
まるで踏切が、赤い心臓をふたつ持ってゐて、 その心臓で、夜の空気へ血を送ってゐるやうに。
踏切の鐘が鳴りました。
カン、カン、カン。
音は硬いのに、規則があるので不思議と怖くありません。 規則のある音は、世界の骨格みたいに人を落ち着かせます。 幹夫は棒の前で立ち止まり、線路の黒い二本の筋を見ました。 二本の筋は、夜の中へまっすぐ伸びて、どこかへつながってゐます。 つながってゐる、といふだけで、胸が少し軽くなりました。
赤い点滅が、もう一度。
ぱっ。 ぱっ。
幹夫はふいに、理科の授業のことを思ひ出しました。 光には波長があって、赤い光は波長が長い――先生がそんなことを言ったのを覚えてゐたのです。 波長が長いと、遠くまで届く。 だから遠くの合図には、赤い灯が使はれるのだ、と。
(遠くまで届く赤。)
その言葉が胸に落ちたとき、ふっと風が来ました。 風は見えません。けれど来たのが分かります。 なぜなら幹夫の白い息が、赤い灯の前でいちどだけ薄い桃色になって、斜めに引かれ、細い線になって消えたからです。
そして、風は匂ひも運んで来ました。 土の匂ひの下に、ほんの少し潮の匂ひ。 御門台は港そのものではないのに、清水の海の匂ひは、夜になると郵便みたいに届くことがあるのです。 幹夫はその潮の匂ひで、遠い方角に、小さな灯があるのを思ひ出しました。
(清水の港の灯。)
見えなくても、ある。 あるから、匂ひが来る。 あるから、赤い合図が必要になる。
赤い踏切の脈動と、港の灯は、どこかで同じ仕事をしてゐるのかもしれない。 ――「ここだよ」 ――「いまは待って」 ――「通っていいよ」 たったそれだけを、遠くまで届ける仕事。
踏切の向う側に、ランドセルの子どもがひとり立ってゐました。 子どもは手袋をはめてゐるのに、指先をこすりあはせて、落ち着かない顔をしてゐます。 その足元に、何かが落ちてゐました。 小さな鈴のついたキーホルダーです。 鈴が少しだけ転がって、線路のすぐそばで止まりました。
子どもは、それを取らうとして、一歩だけ前へ出かけました。 棒は降りてゐる。赤い灯は点滅してゐる。鐘も鳴ってゐる。 「だめ」の時間です。
幹夫の胸の裁判官が、すぐ机を叩きかけました。
――危ない。 ――関はるな。 ――面倒になる。
けれど、赤い光の脈動は、叱りではありませんでした。 脈動は合図です。 合図は、こちらの手を「正しく」動かすためにあるのです。
幹夫は、考へる前に言ってゐました。
「待って。いま、来る」
自分の声が出たことに、幹夫は少し驚きました。 でも驚きは、白い息みたいにすぐ消えました。 子どもは、びくっとして、それからこくりとうなづきました。 そのうなづきが、赤い点滅の間に、ちいさな「はい」を置いたみたいに見えました。
線路の向うの暗がりが、いちどだけ明るくなりました。 列車の灯です。 灯は近づき、音が先に来ました。
コトン、コトン、コトン。
夜の石の上を、正確な靴で歩いてくるやうな音。 列車はすうっと走り抜け、窓の中のあたたかい灯を短く並べて、すぐ闇へ消えました。 消えるのに、灯の列は目の奥に残ります。 それは、星座の残像みたいでした。
やがて鐘が止まり、棒がゆっくり上がりました。 赤い灯も消えました。 消える瞬間、幹夫の胸の中の「怖さ」の端っこも、いっしょに消える気がしました。
「いま」
幹夫が言ふと、子どもは前へ出ました。 でも、足が少し止まりました。 止まるのは、怖いからです。 怖いのは悪くありません。 怖いのは、合図を聞いてゐる証拠です。
幹夫は、踏切を渡りました。 渡って、鈴のついたキーホルダーを拾ひました。 拾ふと、鈴が小さく鳴りました。
ちりん。
短い音。 短いから、言ひ訳が入りこめません。 短い音は、ただ「あった」とだけ言って消えます。
幹夫は戻り、キーホルダーを子どもに渡しました。
「はい」
子どもは目を丸くして、それから白い息を吐きました。
「……ありがとう」
ありがとう、は、あたたかい灯です。 赤い脈動の灯とはちがって、胸の中で点く灯です。 幹夫は、いつもの癖で「いえ」と言ひかけました。 でも今日は、踏切の赤が教へたのです。
(届くものは、短くていい。)
幹夫は、ただ言ひました。
「よかった」
子どもは、にこっと笑ひ、走って行きました。 走って行く足音は、冬の舗道の上で短くはねて、すぐ遠くへ消えました。
幹夫は、踏切のところへ戻り、もう一度、線路を見ました。 赤い灯はもう点いてゐません。 けれど、赤い脈動の残像は、胸の中にまだあります。 遠くの港の灯も、見えないのに、匂ひで分かります。
(遠くまで届く赤。) (なら、ひとことだって届く。)
幹夫はポケットからスマホを出しました。 画面の白い光は正確で、少し厳しい。 けれど、さっきの赤い脈動と、鈴の「ちりん」と、潮の匂ひが、その白さに薄い“にじみ”を足してくれる気がしました。 にじむ白は叱りません。 にじむ白は、短いものを通します。
幹夫は長い文を書きませんでした。 踏切の赤も、点滅で十分でした。 港の灯も、小さな点で十分です。 なら、ことばも一行でいいのです。
幹夫は、たった一行だけ打ちました。
――「御門台の踏切。赤い点滅が港の灯みたいに遠くまで届く気がする。元気?」
送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、赤い脈動が夜の空気を通るみたいに、ことばが一本、外へ通ったのです。
幹夫青年は、御門台の踏切で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、赤い点滅を脈動と思ひ、合図を待ち、落ちた鈴を拾い、ひとこと送っただけです。 けれど、その“だけ”があると、夜はちゃんとあたたかい方へ進みます。 御門台の赤い灯は消えても、遠い港の灯と同じやうに、見えないところで「届く」を支へてゐるのでした。




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