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青い蜜柑の声

昭和二十八年の六月、静岡県庵原郡蒲原町のみかん畑は、雨の匂いを深く吸いこんで、山肌いちめんに青く光っていた。

駿河湾からあがってくる風は、まだ夏になりきらない塩の匂いを含み、葉の裏をくすぐっては、濡れた土の上へ小さな雫を落としていった。山の斜面に段々と続く石垣は、雨に洗われて黒く艶を帯び、その隙間からは、名も知らぬ草が細い首をのぞかせていた。

幹夫は十歳だった。

背は同じ年の子より少し低く、肩もまだ丸かったが、目だけはいつも何かを聞いているように澄んでいた。大人たちが「この子はぼんやりしている」と言う時、幹夫はたいてい、ぼんやりしているのではなかった。畑の中にひそむ音を聞いていたのである。

雨粒が葉に当たる音にも、強いものと弱いものがある。蜘蛛の巣にぶら下がる雫が重みに耐えかねて落ちる時には、ほんの少し、ため息に似た音がする。みかんの若い実が風に揺れる時、枝は小さく軋み、それはまるで、まだ声変わりをしていない少年が内緒話をしているようだった。

その朝、幹夫は祖父に言われて畑へ来ていた。

「大きゅう育てるにはな、いくつか落としてやらにゃならん」

祖父はそう言って、小指の先ほどの青いみかんを枝から摘み取ってみせた。摘果という仕事だった。たくさん実りすぎた果を減らして、残ったものを丈夫に育てる。幹夫にもそれは分かっていた。分かってはいたが、指先で青い実に触れるたび、胸の奥がちくりと痛んだ。

まだ生まれたばかりのような実である。

皮は固く、色は濃い青。けれど近づけると、かすかにみかんの匂いがした。冬の炬燵の上で食べる甘い匂いではない。もっと若く、少し青臭く、雨と葉と海風が混じったような匂いだった。

幹夫は掌にのせた小さな実を見つめた。

「おまえ、ほんとうは大きくなりたかっただろう」

そう呟くと、風がふいに止んだ。

畑の中が、しん、とした。

遠くを走る汽車の音も、湾の波音も、家々の鶏の声も、急に薄い紙の向こうへ遠ざかったようだった。幹夫は顔を上げた。雨雲の切れ間から細い光が差し、みかんの葉の一枚一枚が裏から灯されたように透けていた。

その時だった。

――大きくなることだけが、実ることではないよ。

声がした。

幹夫は息を止めた。誰かがいると思って、石垣の下をのぞき、道の方を見た。誰もいなかった。祖父は別の畝で、腰を曲げたまま黙々と枝を見ている。

――ここだよ。

声は、掌の中から聞こえた気がした。

幹夫は青いみかんを見た。小さな実は雨粒を一つまとい、そこに幹夫の顔が丸く歪んで映っていた。

「おまえが、しゃべったのか」

幹夫が小さく言うと、実は黙っていた。けれど黙っていることが、返事のようでもあった。

幹夫は急に怖くなった。怖いのに、その怖さは冷たいものではなかった。夜中に布団の中で聞く風の音のような、胸の奥をそっと広げる怖さだった。

みかんの木がざわめいた。

――わたしたちは、いつも話している。

今度は木の声だった。幹も、葉も、枝も、ひとつに混じった柔らかな声。年寄りのようでもあり、母のようでもあり、幹夫より幼い子どものようでもあった。

――雨が降れば雨に聞く。風が来れば風に聞く。土が乾けば土に尋ねる。人間だけが、ときどき聞こえなくなる。

幹夫は胸を押さえた。

聞こえなくなる。

その言葉は、幹夫の心の中にあった小さな石に触れた。

近ごろ、幹夫は自分の声が家の中で小さくなっていることを知っていた。父は清水の方へ働きに出る日が増え、帰ってくると黙って茶碗を持った。母は針仕事をしながら、よく窓の外を見ていた。祖父は畑の出来を気にし、祖母は「今年は雨がどうだろうねえ」と言った。

戦争が終わって何年もたつのに、大人たちの背中には、まだ何か重いものが乗っているようだった。幹夫はそれを見ていると、聞きたいことが喉の奥で眠ってしまう。

どうして父さんは笑わないのか。

どうして母さんは、夜、古い着物をほどきながら泣いているのか。

どうして小さなものは、大きなもののために落とされなければならないのか。

そのどれも、声にできなかった。

幹夫は青い実を握りしめないよう、そっと掌を丸めた。

「落とされたら、寂しくないのか」

木は雨の雫をこぼした。

――寂しいよ。

幹夫は驚いた。木は強いものだと思っていた。根を張り、幹を太らせ、毎年花を咲かせる。寂しさなど知らないものだと思っていた。

――けれど、寂しいからこそ、土に帰る。土は忘れない。落ちた実も、葉も、花びらも、みんな土の中でほどけて、また根に戻ってくる。別れることは、なくなることではないよ。

幹夫は足元を見た。

黒い土の上に、すでに摘み取られた青い実がいくつも転がっていた。雨に濡れ、小さく光っている。それは捨てられたもののようにも見えたが、今は少し違って見えた。畑の下で眠る小さな星のようだった。

その時、一匹の蝸牛が石垣をゆっくり上っているのに気づいた。殻に雨粒を背負い、銀色の道を引きながら、急ぐことなく進んでいる。

幹夫はしゃがんだ。

「おまえは、どこへ行くんだ」

蝸牛は答えなかった。けれど角を少し伸ばし、幹夫の方へ向けた。

――急ぐ者には見えない道がある。

それは蝸牛の声か、みかんの木の声か、あるいは雨の声か分からなかった。

幹夫は笑った。声を出して笑ったのは久しぶりだった。畑の空気が、その笑いを受け取って、葉の間にそっとしまったように思えた。

「幹夫、手が止まっとるぞ」

祖父の声がした。

幹夫は立ち上がった。祖父がこちらを見ていた。麦わら帽子の下の顔は日に焼け、目尻の皺には雨が溜まっていた。

「じいちゃん」

「なんだ」

「落としたみかんは、土に戻るんだよね」

祖父は少し眉を上げた。それから、幹夫の足元に転がる青い実を見て、ふっと笑った。

「そうだ。土が食べて、木がまた吸う。畑はそうやって生きとる」

「じゃあ、かわいそうなだけじゃないんだね」

祖父はしばらく黙った。幹夫の言葉の奥にあるものを探すように、ゆっくり瞬きをした。

「かわいそうと思うのは、悪いことじゃない」

祖父は言った。

「けんど、それだけで手を止めたら、残った実も弱うなる。かわいそうと思う手で、ちゃんと選んでやるんだ」

幹夫はその言葉を胸に入れた。

かわいそうと思う手で、ちゃんと選ぶ。

それは祖父が畑のことを言っているのに、畑のことだけではないようだった。父の沈黙も、母の涙も、幹夫自身の言えなかった言葉も、いつか何かの根に戻っていくのかもしれない。小さなものを落とすことと、小さなものを忘れることは、同じではないのかもしれない。

幹夫は枝に向き直った。

青い実が三つ、寄り添ってついていた。どれも同じように小さく、同じように雨粒を抱いている。幹夫は迷った。迷いながら、葉の向き、枝の太さ、実のつき方を見た。すると一本の枝が、かすかに重たそうに震えているのが分かった。

「ごめん」

幹夫はそう言って、一つを摘んだ。

ぷつり、という小さな音がした。

それは悲しい音だった。けれど同時に、どこか清らかな音でもあった。幹夫は摘んだ実を土の上へ置いた。投げ捨てることはしなかった。両手で包んで、根元の柔らかい土のところへそっと置いた。

雨が降り始めた。

今度の雨は細かく、銀の糸のようだった。みかんの葉は一斉に濡れ、畑全体が深い緑の息を吐いた。駿河湾の方は白く煙り、海と空の境目が消えていた。その向こうを汽車が走ったのだろう、遠くで汽笛が鳴った。

幹夫は顔を上げた。

雨は頬に当たり、首筋を伝い、シャツの襟を濡らした。冷たいはずなのに、なぜか温かかった。まるで畑じゅうの木々が、幹夫の小さな体に手を置いているようだった。

――聞こえているね。

声がした。

幹夫はうなずいた。

「聞こえてる」

今度は、声に出して言えた。

祖父が不思議そうに振り向いたが、幹夫は何も説明しなかった。説明しなくてもよいことが、この世にはあるのだと思った。雨に濡れた葉の匂い、土へ戻る青い実、蝸牛の銀の道、言葉にならない大人たちの悲しみ。それらは全部、幹夫の中で静かにつながり始めていた。

夕方になれば、母が囲炉裏のそばで味噌汁を温めているだろう。父はまた黙って帰ってくるかもしれない。祖母は濡れた手拭いを絞りながら、雨が多すぎるとこぼすかもしれない。

その時、幹夫は何かを言おうと思った。

大きな言葉でなくていい。

「今日、畑で蝸牛を見たよ」

それだけでもいい。

あるいは、父の湯呑みに茶を注ぐだけでもいい。母のほどいた糸を巻き取るだけでもいい。声にならないものにも、返事をすることはできるのだと、幹夫は知り始めていた。

雨の中、みかん畑は静かに揺れていた。

六月の青い実たちは、まだ酸っぱく、まだ小さく、まだ名もない未来の形をしていた。幹夫もまた、その中の一つだった。落ちるものの痛みを知り、残るものの重さを知り、それでも枝に吹く風を聞こうとする、小さな青い実だった。

やがて雨脚が弱まり、雲の切れ目から夕方の光が差した。光は葉の先の雫を一つずつ灯し、畑は無数の小さな灯籠をともしたように明るんだ。

幹夫は根元に置いた青いみかんに、もう一度そっと触れた。

「また会おうな」

そう言うと、土の中からかすかな温もりが返ってきた。

それは返事のようでもあり、これから幹夫が長い時間をかけて聞いていく、世界の最初の言葉のようでもあった。

 
 
 

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