top of page

駿府城の廃櫓(はいろ)

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月13日
  • 読了時間: 6分

ree

暁生(あきお)は、大学を休みがちになっていた。その理由を問いただそうとする者は少なく、本人ですら自覚が曖昧だった。退屈な講義や友人関係の軋轢、薄っぺらい恋愛やバイト——そのすべてが、ある種の倦怠(けんたい)という曖昧な影に覆われていたからだ。彼は日々の中で、いつしか「生きている実感」というものを希求するようになっていた。それは、彼の身体の奥底をむしばむ、ある切望の裏返しでもあった。

 父は自衛官として厳格な秩序を重んじる男だった。幼い頃から、男とはいかにあるべきかを繰り返し説かれ、暁生はその言葉にうんざりしながらも、否応なく心のどこかで「武」に対する憧れを滲(にじ)ませて育ってきた。静岡の町を歩けば、徳川家康が築いたという駿府城跡をはじめ、「武」の名残を示す看板や石垣がそこここに目についた。しかし、その大半は観光向けの飾りであり、暁生にとってはむしろ興醒(きょうざ)めするだけの象徴でもあった。

 それでも、駿府城公園の奥深くへ入りこんだとき、苔(こけ)むした古い建物が人目から隠れるようにひっそりと佇(たたず)んでいるのを見つけたときは、奇妙な胸騒ぎを覚えた。そこは城の一角にありながら、案内板にも載らず、「廃櫓(はいろ)」と呼ばれているらしい。城としての機能を失い、修復の手も届かないまま、打ち捨てられた古い一棟。昼間でも薄暗く、誰も近寄らない。暁生はその建物に、言い知れぬ魅力を感じた。

 廃櫓への入口は木製の扉が朽ちかけており、鍵もかかっていなかった。扉を開けると、内部は埃(ほこり)が厚く積もり、剥(は)がれた壁紙や虫の死骸が散乱している。そこからかすかに立ちこめる黴(かび)くさい臭いが、暁生の鼻を突いた。しかし、その陰鬱(いんうつ)さにもかかわらず、部屋の隅々に漂う厳粛(げんしゅく)さが、彼を捉えて放さなかった。

 暗い廊下を進むと、柱や梁(はり)のつぎ目から風が抜けるのか、微妙に「ザッ」と耳に響く音がする。時折、刀の鞘(さや)が擦れるような、小さな息遣いのような音が、かすかに聴こえる気がした。最初は幻聴かと自分に言い聞かせていたが、通い詰めるうちに、その音は日増しに明晰(めいせき)になっていった。まるで見えぬ武者が刀を振るい、息を弾ませているかのように。暁生はその音に熱狂と恐怖を同時に感じ、自分の心身が細く研がれていくような、鋭利な感触を覚えていた。

 廃櫓の中で過ごす時間が増えるにつれ、暁生の周囲に起こる現実は薄い皮膜のように感じられはじめる。恋人とのメールのやり取りも煩わしく、雑談に興じるサークル仲間といると、頭の芯が鈍く痛んだ。彼らの言葉は空虚で、今の暁生にはまるで通じない。父からの連絡にはますます冷淡になり、家族の夕食の席でもほとんど口を開かなくなった。

 それに呼応するように、暁生の肉体は不思議な充実感を増していく。もともと父の影響で剣道を習っており、身体は引き締まっていたが、廃櫓に通うようになってから筋肉や皮膚の感覚が研ぎ澄まされるのを感じていた。あたかも内なる「武士」の心が開き、新たな血が身体を循環しはじめたようだった。毎日早朝に起きて、ランニングし、素振りを繰り返す。汗を流すたび、暁生の頬には奇妙な高揚(こうよう)が上気(じょうき)する。

 彼が廃櫓の奥で初めて“その影”を目にしたとき、足元の埃が揺らめき、光の加減がゆらめいたのかもしれない。気づくと、古びた鎧(よろい)姿をまとった武者のようなものが、柱の向こうに佇んでいた。面(おもて)のない白い頬のような部分だけが、かすかな月光を反射している。暁生は一瞬、呼吸が止まりかけたが、奇妙な親近感と崇高(すうこう)さを同時に感じ、恐怖よりも敬(うやま)いに近い感情を覚えた。

 以降、暁生は現実世界との繋がりを断つかのごとく、廃櫓に身を置く時間を延ばしていった。深夜に忍び入り、月明かりの下で無言のまま瞑想(めいそう)する。そんなとき、かすかな金属音と武者の影が彼に近づき、やがて重々しい声なき声で「汝(なんじ)は何を求めるか」と問いかけるようだった。暁生は「美しい武士道、理想の“美”」を思い浮かべ、いつしか官能に近い快感を伴うほどの憧憬(しょうけい)を抱くようになっていた。

 ある日、ついに暁生は、廃櫓の最上階の小さな部屋で鎧を見つけた。古ぼけて錆(さび)つき、革紐(かわひも)もほつれている。だが、その存在感は無骨かつ艶(つや)やかな輝きを放っていた。意を決して袖を通してみると、驚くほどに自分の身体に合い、背筋を伸ばすと「真」の姿勢がしっくりきた。息が詰まるような圧迫感と同時に、それは暁生に陶酔(とうすい)する恍惚(こうこつ)をもたらした。

 翌朝、バイト先の仲間が暁生に声をかけたが、彼は返事すらしなかった。彼女との関係も、もう煩わしく感じるばかりだった。「自分には守るべきものがある。それは卑小(ひしょう)な日常などではなく、高貴なる“武”の魂だ」。いつしか暁生の心には、父の説いた武の姿を超えた、別種の狂おしい決意が宿っていた。

 そして、ある夜明け前——。 廃櫓の内部に、若者の力強い息遣いが響きわたる。暁生は鎧を纏(まと)い、かつて父に習った剣道の太刀筋を素手で振っていた。だが、その刀は実体を伴わない。ただ、虚空を斬る動きに独特の強烈な美が宿っていた。薄明(はくめい)が差しこむ窓から、街のはるかな灯(とも)りが微かに見える。 暁生の額から汗が流れ、頬を伝う。彼は廃櫓の中央で刀を振り下ろした瞬間、懐かしい血の香りとともに、武者の影が自分の背後に重なったのを感じた。 「これが究極の美……」 その刹那、屋根裏の方角から朝陽の光が激しく差しこみ、暗闇が一気に白日に晒される。まぶしさに目を細めた暁生は、空気が眩(まばゆ)い音を立てて弾けるのを感じ、刀の柄(つか)を握りしめた指先が、虚空の中で震えるのを意識した。

 気づけば、武者の影は消えていた。廃櫓の朽ちた梁(はり)や壁、埃まみれの床だけが無言のまま、淡い朝の光を浴びている。これまで彼が見た幻像は、すべて一瞬のうちに立ち去ったのか。暁生はしばらく佇み、うつろな瞳(ひとみ)で手元を見つめた。そこには刀などなかった。代わりに、冷たい血の気が引くような感覚だけが残っている。そして、どこか遠くで市街地の喧噪(けんそう)がはじまる音が聞こえてきた。 外へ出ると、初夏の太陽がすでに昇りはじめていた。湿った風が廃櫓の壁を撫で、桜の葉がちらほらと萌黄色(もえぎいろ)の光を反射している。まるで何事もなかったかのように町は動き出し、人々の暮らしが回転を続ける。 暁生は朧気(おぼろげ)な哀しみと解放感の入り混じった面持ちで、ぼんやりと廃櫓を振り返った。そこに今なお徳川家康の影が息づき、失われた武家の血と名誉が凝縮されたように息づいているのだろうか。だがもう、自らの心は何かを失ったかのごとく空っぽで、同時に限りなく透きとおったようでもあった。

 自分が何を求め、どこへ行こうとしていたのか。 ただ、いま暁生の耳には、朝のざわめきと共に、あの太刀筋の音と誰かの息遣いが、まだかすかに残響(ざんきょう)している。それが彼にとって、理想の“美”の幻影なのか、あるいは破滅の誘(いざな)いなのかは、まだわからなかった。

 廃櫓は静かに佇み、暁生を見送るかのようにその朽ちた扉を開け放したまま、さざめく風を受け止めている。それはまるで、いつか再び、青年の心を呼び寄せるための入口であるかのようにも見えた。彼は背を向けながら、一筋の朝陽のもとを歩きはじめる。 そうして、どこか遠い記憶の中で徳川家康の幻影が微笑(ほほえ)む。若者の肉体と精神の危うい均衡だけが、いま、陽光に滲む廃櫓の中でしんしんと脈打っていた。

 
 
 

コメント


bottom of page