赤の大地(くに)――モスクワの冬の物語
- 山崎行政書士事務所
- 2月2日
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モスクワの冬は長く、そして厳しい。街路樹や建物の屋根を覆う雪が、一面を白く塗りつぶしている。広々とした通りでは自動車のタイヤがシャーベット状の雪を巻き上げ、視界がかすむときもある。その中でも、赤の広場(Красная площадь)だけはいつもと変わらぬ威厳を保っていた。
1. 赤の広場の朝 早朝、薄暗い空にわずかに青白い光が差し込むころ、広場の石畳はまだ人影もまばらだ。スパスカヤ塔(Спасская башня)の時計が7時を告げると、厳かな鐘の音が辺りに響く。 アリョーナという少女は、父の書店から少し離れた場所に立つ移動販売のワゴンで、温かな紅茶を求めて並んでいた。冬の冷気が頬を刺すが、彼女はそれほど気にしていない。毎日をこの広場から始めるのが、いつの間にか習慣になっていたからだ。ワゴンの老店主から、熱い紅茶を受け取り、氷のように冷えた指先を温める。ほっとした気持ちとともに、彼女は目の前に立ちはだかるクレムリンの壁を見つめた。
2. クレムリンと歴史の息吹 赤いレンガで造られたクレムリンの壁は、長い歴史を経てきた証人でもある。時代によって人々を守りもすれば、閉じ込めもしてきた。アリョーナの祖父がまだ若かったころ、この壁の向こうでは社会主義の理想と、現実の狭間で苦しむ人々の葛藤が渦巻いていたという。 祖父の話によると、当時のモスクワは品不足で、長い行列に並ぶのが日常だった。それでも、人々はチョコレートやパンを分け合いながら生き抜いた。 「モスクワはいつだって厳しい現実と、美しい夢の狭間で揺れている」 祖父の言葉を思い出すたび、アリョーナの胸には何とも言えぬ郷愁が広がる。
3. 歴史博物館と書店 紅茶を飲み終えると、アリョーナは国立歴史博物館の赤い外観を横目に、父の書店へ向かう。ショップの扉を開けると、乾いた紙の香りが鼻をくすぐった。壁一面に古今東西の書籍が並び、暖房の音が微かに響いている。 父はロシア文学や歴史書を好んで仕入れている。ゴーリキーやドストエフスキーの古びた装丁の本が、木製の棚にぎっしり詰められていた。 「おはよう、アリョーナ。今日は赤の広場、人は多かったかい?」 「いいえ、まだあまり。雪が強いから、みんな遅く出るみたい。」 こんな何気ない会話にも、父娘はモスクワという大地の息吹を共有しているような気がする。
4. 雪降る昼下がり 昼を過ぎても雪はやまない。道行く人々は分厚いコートに帽子をかぶり、マフラーを何重にも巻いている。アリョーナは父の代わりに店番をしながら、窓越しに人々の姿を観察する。 母親に手を引かれた子どもが、雪だまりに長靴を踏み入れて遊んでいる姿に、ふと微笑ましさを感じる。彼女自身も幼いころ、祖父と一緒に氷の上で転びながら遊んだ記憶が蘇る。いつの時代も、雪を踏む音は同じく「ぎゅっ、ぎゅっ」と聴こえるものだ。
5. 夕暮れのステンドグラス 冬のモスクワは暗くなるのが早い。遠くには聖ワシリイ大聖堂(Храм Василия Блаженного)のカラフルなタマネギ型ドームが見えている。夕暮れの薄紅色の空を背景に、その鮮やかな色彩がより一層際立つ。 気温はますます下がり、あたりは凍ったような静けさに包まれる。そんな中でも大聖堂の前では大道芸人が火吹き芸を披露し、観光客の笑い声が響く。歴史の厚みと人々の活気がせめぎ合い、不思議なバランスで街を成り立たせているようだ。
6. 夜の灯(ともしび) 日が沈むと、街灯やショップのネオンが雪面に反射して、不思議な輝きを放つ。アリョーナは書店を閉め、父と一緒に帰路へとついた。途中、彼女はどうしても立ち寄りたい場所があった。モスクワ川に架かる橋の上で、夜景を一望できるスポットだ。 そこには、大きなシャベルカーが道路脇の雪をかき分けている音が響く。アリョーナは少し寒そうに肩をすくめながらも、橋の欄干に寄りかかり、静かに街並みを見下ろす。黄金色に照らされたクレムリンの壁、かすかに雪化粧したドーム屋根、そしてずっと奥にはビジネス街の高層ビル群も見える。
7. モスクワの魂 静寂と喧騒が混在する夜のモスクワ。どこか無骨さと優雅さが同居しているように見える。祖父が言った「美しい夢と厳しい現実」がここにある。 「モスクワって、まるで巨大な絵画のようだね」 父がポツリとつぶやく。彼もアリョーナも、この街に生き、毎日を刻んでいる。 「そうだね。でも、すべてが一枚のキャンバスに描かれているのかもしれない」 アリョーナの言葉に父は笑い、二人はゆっくりと歩き出す。ガラス窓の灯が、彼らのシルエットを長く伸ばしながら、また消えていく。
エピローグ 冬のモスクワには、赤と白のコントラストが鮮明だ。雪の白、クレムリンの赤、そして人々の頬を染める寒さの紅。巨大な過去を抱えながらも、未来への一歩を踏み出す活力が、街のどこにでも感じられる。 アリョーナと父が橋を渡りきるころ、しんしんと降る雪は、一層夜の静寂を深めていく。その静けさの奥には、モスクワという街が脈打ち、時代とともに変わり続ける鼓動がたしかにあるのだ。
(了)





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