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 朝の紙は、まだ夜の湿りを抱えていた。 ちゃぶ台の上の新聞紙が、端っこだけ少し反っている。 反った端は、風を待っているみたいに見える。 風が来ると、かさ、と鳴る。 鳴る前の紙は、静かだ。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 袋の中には、小さな紙片。 昨日、母が破れた障子を直したときの切れ端。 薄い。 薄いのに、ちゃんと白い。 白いのに、少しだけ米糊の匂いがする。

 ――いき。

 息を入れると、紙の端が胸の中で丸くなる。 紙は薄い。 薄いから、折れる。 薄いから、破れる。 でも薄いから、言葉を乗せられる。

 「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りが入った印。 困りは、言う前に角が立つから、箱で丸くする。

 母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。 刺さらないと、手が取れる。

 母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。

だいじな てがみかみ やぶれて よめなくなりそうよかったら みてください なかむら

 大事な手紙。 紙が破れると、字も破れる。 字が破れると、声が切れる。 声が切れると、胸の中で、言えなかった言葉が刺さることがある。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、中村さんの“よめなくなりそう”が胸に届いた音。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、いったん膝の上の布に置く。 置くと、手が急がない。 父は指の腹で紙の端を撫でた。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も破れにくい。

 父の目が「てがみ」「かみ」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。

 上がりかけて――止まった。

 止まった「間」に、父は懐へ触れて、丸い角のま札を撫でた。 撫でると、肩が上がりきらない。

 ふう……。

「……紙か」

 短い。 短いのに、白い場所が入っている。

 母が頷いた。

「うん。……紙は薄いだに。急ぐと破れる。……破れる前に、支えりゃええ」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「紙はな、弱いんじゃねえ。……薄いだけだ。……薄いものには、薄い手で触れろ」

 薄い手。 掴まない手。 押しこまない手。 幹夫の得意な、受ける手。

 父が納屋から古い和紙の切れ端と、小さな刷毛と、米糊の入った皿を出してきた。 米糊は、少し甘い匂いがする。 甘いのに、乾くと強い。 強いのに、塗りすぎると紙が重くなる。

「……みき坊。……紙は持ち上げるな。……下から受けろ。……掴むな」

 受ける手。 受ける手は、破れを広げない手。

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん」

 中村さんの家は、細い路地の奥だった。 朝の光が、軒の下で少しだけ遅くなる。 遅い光は、紙の白さに似ている。

 中村のおばさんが戸口に立っていた。 頬が少しこわばっている。 こわばりは、声より先に顔に出る。 手には、布に包んだもの。

「おはようだに……朝からすまんね。……これが……」

 布を開くと、手紙があった。 紙の真ん中に、細い破れ。 破れ目のそばで、字が少し離れかけている。 離れかけた字は、息を止めているみたいに見えた。

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父はすぐ「ええよ」と言わなかった。 まず、手紙を見た。 破れの長さ。 紙の湿り。 字の薄さ。 見ると、怖さが形になる。 形になると、手が荒れない。

 父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、父が口の中で言った。

「……破れだ」

 名前を置く。 置けると、怖さが全部にならない。

 ふう……。

 中村のおばさんが、小さく言った。

「……息子からの手紙だに。……何度も読んで……畳むところが……」

 何度も読んだ紙。 何度も開いて、何度も畳んで、何度も胸へ戻した紙。 折り目は、読みたい心の道。 道は使うと痩せる。

 父は手紙をいきなり持ち上げない。 布の上に置いたまま、指を少し浮かせて、破れのそばを見た。

「……ここ、字がある。……糊をつけすぎると、字が沈む」

 沈む。 字が沈むと、声も沈む。

 母が低く言った。

「当て紙を細くするだに。……広すぎると、手紙が重くなる」

 広すぎる助けは、紙を押しこむ。 細い助け。 少しの助け。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 ――いき。

 父が和紙の切れ端を細く裂いた。 切るんじゃなくて、裂く。 繊維の道に沿って、すう、と裂く。 裂けた端は、はさみの端より柔らかい。 柔らかい端は、手紙に馴染む。

「……みき坊。……この端、見ろ。……毛がある。……毛が紙をつなぐ」

 毛。 紙の毛。 紙は、ほんとうに薄い糸の集まりみたいだ。

 父が刷毛に糊を少しつけた。 少し。 ほんの少し。 刷毛の先から、余った糊を皿の縁に落とす。 落とすと、重くならない。

 父の肩が、ふっと上がりかける。 手紙の字のそば。 失敗できない場所。

 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、幹夫は小さく言った。

「……ま」

 父が、ふう、と吐いた。

 ふう……。

「……ま」

 父も言えた。 言えると、刷毛が刷毛のままで座る。 急がない刷毛になる。

 すう。 糊が細く置かれた。 父は当て紙を、破れの裏へそっと置いた。 押さない。 叩かない。 ただ、置く。

 母が、乾いた布を上からかぶせた。 布の上から、指の腹でそっと撫でる。 撫でると、紙が落ち着く。 落ち着くと、破れが広がらない。

 中村のおばさんが、息を止めて見ていた。 息を止めると、胸が硬くなる。 硬くなる前に、幹夫は小さく言った。

 ――いき。

「……乾くまで……待つ」

 おばさんの目が、少しだけ柔らかくなった。

「……待つ、か」

 待つ。 紙は、糊が乾くまで待つ。 待つあいだに、破れたところが、もう一度つながる。

 父は手紙の上に、薄い板を置いた。 重すぎない板。 軽すぎない板。 ちょうどいい重さで、紙を座らせる。

「……押しつぶすんじゃない。……座らせる」

 座らせる。 その言葉が、戸口の空気を少し静かにした。

 しばらくして、板を外した。 手紙の破れは、そこにまだあった。 消えてはいない。 でも、広がらない。 字は読める。 声はつながっている。

 中村のおばさんの肩が、すとん、と落ちた。

「……読める……」

 読める。 その二文字が、家の中を温めた。 紙の上の小さな字が、もう一度、人の声になった。

 父はすぐ「よかった」と急がない。 一度頷いて、言葉を置いた。

「……うん。……破れは残る。……でも、声は切れん」

 声は切れん。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 ――いき。

 中村のおばさんは、手紙を胸に当てた。 当てるけれど、ぎゅっとしない。 紙がまた苦しくならないように、そっと。

「……ありがとう。……紙って、薄いのに……こんなに重いだね」

 父が短く頷いた。

「……うん。……薄いから、重い」

 学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、紙の白さを少しだけ尖らせる。 先生が黒板に、大きく字を書いた。

 紙

 きゅっ、きゅっ。

「今日は“かみ”の紙。読めるな」

 教室が声を出す。

「かみ!」

 声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。

 ――いき。

 先生が字の左を指でなぞった。

「左は糸へんだ。紙はな、細い繊維が集まってできている。糸みたいなものが重なって、薄い一枚になる」

 糸。 つながるもの。 切れると困るもの。 でも、細いから結べるもの。

 先生が右を指でなぞった。

「右は氏という形だ。音を助けるところでもある。――字の中で、糸が支えて、音が座る」

 音が座る。 手紙の字。 読める声。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 ――いき。

 先生は半紙を一枚、みんなに見せた。 白い紙。 教室の光を受けて、少し透けている。

「紙は薄い。だから破れる。だが、薄いからこそ、字が乗る。絵が乗る。知らせが乗る。――人の心も乗る」

 先生は半紙の端を少し折った。

「折り目を大事にしろ。何度も折ると弱る。でも、折り目があるから、しまえる。持って歩ける。届けられる」

 届けられる。 中村さんの手紙。 息子さんの声。 紙は、遠い声を家へ連れてくる。

 先生が少し声を落として言った。

「それからな、紙を粗末にするな。今は紙も貴重だ。だが、貴重だから怖がって使わんのも違う。大事に使え。大事に直せ。――破れたら、破れたところを見て、少し助ける」

 少し助ける。 父の細い当て紙。 糊の少し。 待つ時間。 全部が、紙の字の中へ入っていく。

 休み時間、正夫が小声で言った。

「みきぼー、今日、紙なおしたの?」

 幹夫はすぐ答えず、息を入れてから言った。

 ――いき。

「……手紙。……破れて……字が切れそうで……父ちゃんと、裏から……少し」

 正夫が目を丸くする。

「破れたの、消えた?」

 幹夫は小さく首を振った。 振る前に、息。

 ――いき。

「……消えん。……でも……読める」

 正夫が、少し真面目な顔になった。

「そっか。……読めるなら、いいな」

 夕方。 家の中に煮物の匂いが戻ってきたころ、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 紙

 幹夫はその字を見た瞬間、中村さんの手紙と、細く裂いた和紙と、先生の半紙が一緒に浮かんだ。 浮かぶと、胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 母が左をなぞった。

「ここ、糸だに。……細いものが集まって、紙になる。細いものは、ひとつだと切れる。集まると、受ける」

 母が右をなぞった。

「こっちは氏だに。……音の場所。紙は、声を乗せる場所だに」

 声を乗せる場所。 白いところに、黒い字。 紙は黙っているのに、人の声を持っている。

 父が縁側の端で、ま札を撫でてぽつりと言った。

「……紙、こわいな。……破れるで」

 母は否定しない。 低く言う。

「うん。……でも破れるのは、弱いからだけじゃないだに。何度も読まれたから。何度も開かれたから。……大事にされた跡だに」

 大事にされた跡。 破れが、少しだけ違って見える。 痛みだけじゃない。 通ってきた時間の印。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「破れを恥じるな。……破れを広げるな。……当て紙をしろ。腹にもな」

 腹にも。 胸にも、当て紙。 刺さりそうなところへ、薄い助けを置く。

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……今日、糊をつけすぎそうになった。……みき坊の『ま』で……止まった。……助かった」

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 紙を書く。

 一回目の「紙」は、糸へんが強く出て、右の形が詰まってしまった。 詰まった字は、折り目が苦しそうに見える。

「ええ」

 母が言った。 転んでもいい「ええ」。

「詰まりそうならな……糸のあいだを残せ。紙は薄い。薄い字は、息が要るだに」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「紙」は、糸へんが静かに立って、右の形に白い余地ができた。 白い余地があると、字が紙になる。 何かを書けそうな紙になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「紙」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の払いの前で、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、払いを置いた。

「……白いところが……残るな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……白いところがあるから、声が乗るだに」

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。

けさ なかむら の てがみかみ やぶれて よめなくなりそうこわいうら から ほそい かみ あてたのり は すこしおしつぶさんまって かわかしたやぶれ は のこったでも こえ は きれん紙 は うすいうすい から こえ が のるいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……俺の胸にも……破れがある日がある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも……少し当てると……広がらん」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……少し、って……紙みたいだな」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「好きって言えりゃ、紙が座るだに。……紙は薄い。だから丁寧に触れる。人も同じだに」

 祖母が淡々と言う。

「丁寧に触れりゃ飯がうまい。……うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 紙に書ける明日。 破れても、当て紙でつながる明日。

 翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。 小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、二つと、ひとつ。

 一枚目、中村さんの字。

てがみ よめたなんども よめるやぶれ ある でも こわくないありがとう

 最後に、小さな丸。

 二枚目、母の字。

紙 は うすいうすい から こえ が のるやぶれたら すこし あてろおしこむな うん

 最後に、丸。

 三つ目は、紙じゃなく――いや、紙だった。 けれど、ただの紙ではなかった。 細く裂いた和紙を、三枚重ねて、端に小さな糸で留めてある。 白い紙束。 薄いのに、破れにくい。 その横に、父の震える字で小さく、

うすい

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその紙束を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 紙。 糸のような細いものが集まって、一枚になる。 薄いから破れる。 薄いから声が乗る。 破れたら、少しの当て紙をする。 押しこまず、糊を少し、間を少し、待つ時間を少し。

 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど紙の破れる音は、小さくても胸に届く。 その音の前に、父の「ふう」と、幹夫の「ま」と、母の薄い糊は届いた。 届いた“少しの白さ”が、手紙の声も、胸の破れも、切らせなかった。

 幹夫は紙束を袋へ戻し、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 今日も、紙の字みたいに。 薄く、白く、声を乗せられる余地を残して――そっと胸の中へ、破れない静けさを座らせていった。

 
 
 

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