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水辺

霧の朝は、音の輪郭から先に消えていく。

小さな町の外れでバスを降りたとき、空はまだ明るくなりきっていなかった。青とも灰ともつかない薄い膜が空全体に張りついて、遠くのものほど輪郭を失い、近くのものだけが冷たく鮮明だった。息を吸うと、鼻の奥がつんと痛む。吐いた息は白く膨らんで、霧の中へ溶けるように消えていった。自分がここにいる証拠さえ、すぐに掻き消される気がして、少しだけ心細い。

森へ入る道は、車がすれ違えないほど細い。両脇の木々は葉を落とし、黒い枝が空に向かって細い血管みたいに伸びている。その枝の上には、夜のうちに降った雪がところどころ残り、白い塊が不規則にぶら下がっていた。雪は“積もる”というより“貼りつく”感じだった。霜と雪が混ざった粒が、枝の節目や樹皮の割れ目に噛み込んで、森全体が薄く粉をふった菓子みたいに見える。

歩くたび、足元の雪がきゅ、と鳴る。湿っていない、乾いた音。靴底が地面の硬さを拾って、微妙に滑る。怖いほどではない。でも、油断すると足を取られる、その予感だけがずっとついてくる。冬の森は優しい顔をしながら、常に「気をつけろ」と言ってくる。

霧は木々の間に溜まり、視線を数十メートル先で止める。遠くに見えるはずの道の続きは白く霞んで、まるで森の中に何かを隠しているようだ。私はその“隠されている感じ”に、妙な安心を覚えてしまった。全部が見えてしまう場所より、見えない部分がある場所の方が、自分の心の居場所を作りやすい。旅に出た理由を、誰にも説明しなくていい気がする。

ふと、雪が降り始めた。大粒ではない。細かい粉が、空から静かに落ちてくる。風がないから、雪は斜めにならず、真っすぐに落ちる。落ちるというより、沈んでくる。まつ毛に触れると、ちいさな冷たさが刺さってすぐ溶けた。頬に当たると、湿った点になり、それが冷たいまま残る。マフラーの繊維に触れた雪は溶けず、白い粒としてしばらく居座る。生き物みたいに、布の上で息を潜めている。

森を抜ける気配がしたのは、木々の密度が少しだけ薄くなったときだった。枝の絡まり方がほどけ、目の前の白が広がる。雪の下から、微かな水の匂いが立ち上がってくる。冷たい金属みたいな匂い。湿った土と枯れた草の匂い。音が戻ってきた。どこかで水が動いている、あの低い気配。

木立の切れ目に出ると、そこは森の縁――水辺だった。

目の前には、静かな水面が広がっていた。湖なのか、川のふくらみなのか、判別がつかないほど穏やかで、けれど“止まってはいない”とわかる微かなうねりがある。霧が水面の上を薄く這い、遠景はすべて溶けて、世界の端がぼやけていた。水の色は黒に近い青で、空の薄さをそのまま吸い込んだような鈍い光を返している。

そして、水面に向かって一本の桟橋が伸びていた。

木の桟橋の上には、誰にも踏まれていない雪が、きれいに一枚乗っている。新しい紙みたいにまっさらで、端の木の縁だけが薄い線として見える。桟橋の先には、短い支柱が二本立ち、上に雪帽子をかぶっている。そこだけが、霧の中の“出口”みたいに見えた。私は一歩、足を置くのをためらった。踏んだ瞬間、この無垢な白が崩れてしまうのが惜しい。けれど、旅はいつもそうだ。美しいままの景色は、触れなければ自分のものにならない。

両脇には葦が群れていた。枯れた葦は金茶色で、先端がほつれ、風がないのにわずかに揺れている。葦の根元には薄い氷が張り、氷の縁がひび割れて黒い水が覗く。水が動くたび、氷がかすかに擦れて、しゃり、と小さな音がした。雪の森は静かすぎるのに、水辺の静けさは“生きている”。その違いが、肌に触れるようにわかる。

私は桟橋に足を乗せた。雪は思ったよりしっかりしていて、沈み込む感触のあと、木の硬さが足裏に返ってくる。きゅ、と乾いた音。足跡がひとつ、雪の上に刻まれた。その瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。きれいなものを汚した痛みではない。自分がこの風景の中に“混ざった”痛みだ。よそ者のまま眺めているより、風景の一部になってしまった方が、怖くもあり、嬉しくもある。

桟橋を少し進むと、視界の向こうに、霧の中から一本の塔が浮かび上がっているのが見えた。背の高い、四角い塔。窓の並びが規則的で、どこか人の手の匂いがする。自然の静けさの向こうに、人工物が突き刺さるように立っている。その姿が妙に孤独で、私は目を離せなかった。森と水と雪の世界の中に、ひとつだけ“過去の仕事”が残っている。捨てられたのか、見捨てられたのか、ただ時代が通り過ぎたのか。どれでもいいのに、考えずにはいられない。

霧が濃くなると、塔の輪郭はまた薄くなり、存在が遠のく。逆に、桟橋の白と、目の前の水の黒さが際立つ。白と黒の間に立っていると、自分の心の中にも同じコントラストがある気がした。忘れたいのに忘れられないもの。前へ進みたいのに進めないもの。そんなものを抱えたまま、私は霧の中の旅を続けてきたのだと思う。

雪はまだ降っていた。粒は小さく、降り方は一定で、まるで時間そのものが静かに落ちてくるようだった。肩に落ちた雪が溶け、コートの生地が少し重くなる。手袋の指先は冷え、スマホを取り出す気にもなれない。写真を撮れば、今見ているものを持ち帰れる気がするのに、今日は撮りたくなかった。レンズの中に閉じ込めた途端、この静けさが“ただの絵”になってしまう気がした。私はただ、目で見て、耳で聞いて、皮膚で感じて、身体の中にそのまま沈めておきたかった。

桟橋の先で立ち止まる。水面が小さく揺れ、岸辺の氷がかすかに鳴る。葦の茎がこすれ合い、乾いた擦過音がする。霧の奥では、何も起きていないようで、確実に世界が動いている。私はその動きを見ているうちに、不思議と呼吸が深くなっていくのを感じた。都会にいるときの浅い呼吸――急ぎ、追われ、考え続けるための呼吸――が、ここでは必要ない。ここにいるだけで、身体が勝手に「大丈夫だ」と言い始める。

それでも、心の底に沈んでいたものが、霧に溶けてなくなるわけではない。ただ、雪がそれを薄く覆ってくれる。葦がそれを隠してくれる。水がそれを引き受けてくれる。そういう“他者の優しさ”が、この場所にはある気がした。人の優しさではなく、自然が持つ、冷たくて公平な優しさ。誰の事情も聞かず、誰も特別扱いせず、それでも等しく包む白。

私は踵を返し、桟橋をゆっくり戻った。自分の足跡が一本の線になって、白い面を分けている。来た道と戻る道が同じでも、景色はもう同じではない。踏んだ雪は元に戻らない。けれど、それでいい。旅も人生も、たぶんそういうものだ。まっさらな白に戻れない代わりに、一本の線が残る。その線が、自分が確かにここにいた証になる。

森の縁に戻ると、木々の黒い幹が再び近づいてきた。枝の上の雪が少しだけ増えて、さっきより白が濃い。霧は相変わらず世界を柔らかくし、遠くを隠している。私はその隠されている部分に、もう不安を感じなかった。見えない先があることは、終わりが決まっていないことでもある。霧の中には、まだ歩ける余地がある。

雪は静かに降り続ける。森も、水辺も、塔も、誰にも説明しなくていいまま、淡く白に沈んでいく。私はその中を、足跡だけを残しながら、ゆっくりと歩き出した。


 
 
 

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