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返事

 返ってきた封筒は、押し入れの奥へ行った。 母が「預かる」と言ったときの声が、幹夫の胸の中にまだ残っている。残っているのに、その声の行き先が分からないまま、家の時間だけが普通に進んでいく。

 台所では祖母が鍋を洗っていた。水の音が、昨日より少し大きく聞こえる。大きいのは水が増えたからじゃない。胸の中が、静かじゃないからだ。

「幹夫、味噌、そこ置いといて」

 祖母が言った。 幹夫は「うん」と返した。返した声が、自分の耳に届く。届いて、消える。

 ――返す。

 昨日母が教えた「返」の字が、音になって頭の中を歩いた。 返るのは紙だけじゃない。声も返る。呼ばれたら返す。返さないと、呼ばれたままになる。呼ばれたままの空気は、痛い。

 幹夫は味噌の袋を棚に置きながら、祖母の背中を見た。祖母は何度も同じ皿を洗っているみたいに見える。洗っても洗っても、まだ洗うものが出てくる。家はそういうものだ。終わらないものを、終わらないまま続ける場所。

 座敷では母が縫い物をしていた。 針が布に入って、出て、また入る。針の音は、小さいのに確かだ。確かな音は、幹夫の胸の中の警報を少しだけ丸くする。

 母は顔を上げずに言った。

「幹夫、そこ、危ないで」

 縁側の包丁を指している。昨日、鉛筆を削った包丁。 幹夫は「うん」と返して、包丁を棚へ戻した。戻しながら、胸の奥がちくりとする。戻す、という動きが、返すに似ているからだ。

 返ってきた紙。 返ってきた丸い印。 あれは、どこへも届かなかった返り方だった。

 幹夫は、ふと思った。 届く返し方も、あるのではないか。

 針の音を聞いていると、母がときどき、祖母の声に「うん」と返すのが聞こえる。 大きな返事じゃない。胸の奥だけで返すみたいな、薄い返事。

「米、もう少し残っとるら?」

「……うん」

「味噌、湿らせんなよ」

「……うん」

 それは、サイレンみたいに命令しない。 汽笛みたいに急がせない。 ただ、「聞こえた」を返す音だ。

 幹夫はその「うん」を、見えないところで大事にしている感じがした。 返事は、返して終わりじゃない。返して、相手の胸の形を少しだけ支える。

 幹夫は上着の内ポケットに指を入れて、竹を継いだ鉛筆に触れた。 硬い。 硬さは、勇気に似ている。勇気は熱いものだと思っていたけれど、本当はこういう硬さなのかもしれない。

 幹夫は、新聞紙の裏を一枚持ってきて、畳の隅に座った。 白い面。真っ白じゃない白。 真っ白じゃないのが、ありがたかった。真っ白だと、書く前から「汚す」気がして怖い。

 鉛筆を持つ。 先は昨日より少し尖っている。母が夜のうちに削ってくれたのだと分かった。削り屑がどこにも落ちていない。母は、削り屑まで片づける。片づけるのは、怒りじゃなくて、守りだ。

 幹夫は紙の上に、封筒の形を描いた。四角。四角は落ち着く。 上に、宛名の場所。下に、自分の場所。母に教わったとおりの形。

 宛名のところで、手が止まった。 宛名がないと歩けない、と祖母が言った。 でも、この家の中なら――歩かせなくても届く。届く距離なら、宛名はなくてもいいのではないか。

 幹夫は小さく息を吐いて、宛名のところに書いた。

 > おかあちゃんへ

 ひらがなは、息に似ている。 息に似ているから、書くとき胸が苦しくならない。苦しくならないまま書けるのが、少し嬉しかった。

 次に、下のほうへ鉛筆を運ぶ。 なにを書く。 書きたいことはあるのに、言葉が形にならない。

 ――かえってきて。

 あの言葉を書いてしまったときの、胸の熱さが戻ってきた。 熱いのに、寒い。 熱いのに、恥ずかしい。

 幹夫は、書きかけて止めた。 止めると、鉛筆の先が紙の上で小さく震えた。震えは、字に出る。字に出ると、母に見られる気がする。見られるのが怖いわけじゃない。見られて、母の眉間が固くなるのが怖い。

 幹夫は、いちばん小さい言葉にした。 いちばん小さい言葉なら、母の胸を刺さない気がした。

 > ありがと

 最後の「う」は書けなかった。 書けなかったというより、書かないでおいた。 「ありがとう」と書くと、ちゃんとした言葉になりすぎて、善いことをしたみたいで恥ずかしい。幹夫の「ありがと」は、手のひらの温度みたいに、曖昧なほうがいい。

 幹夫は、名前を書いた。

 > みきお

 漢字の「幹夫」じゃない。ひらがなの「みきお」。 ひらがなのほうが、いまの自分に近い気がした。まだ、木の幹ほど固くないから。

 紙を折り畳む。 丁寧に。 折り目がつくと、紙が「預かれる形」になる。母がそうしていた。祖母もそうしていた。丁寧に折り畳むのは、飛んでいかせないためだ。

 幹夫は、消印の丸を思い出して、紙の隅に小さな丸を描いた。 消すためじゃない丸。残すための丸。 丸を描くと、少しだけ胸が落ち着いた。

 それを、母の縫い物の横にそっと置いた。 置くとき、音を立てない。音を立てると「渡した」になってしまう。渡した、にすると照れが勝つ。幹夫は照れに負けたくなかった。

 母はすぐ気づかなかった。 針の音が続く。 布の擦れる音が続く。 祖母が鍋を置く音がする。

 しばらくして、針の音が止まった。

 幹夫は、息を止めた。 止めると、心臓だけがうるさい。

 母の指が、紙に触れる。 触れて、折り目を確かめるみたいに端を押さえる。 紙を開く音は小さかった。小さいのに、幹夫の胸の奥まで届いた。

 母は読んだ。 読んで、何も言わなかった。

 何も言わないのが、いちばん怖い返事だと幹夫は思った。 返ってきた封筒のときの、あの「何も言わない」に似ている気がして、胸の中の警報が尖る。

 けれど母は、紙を乱暴に畳まなかった。 丁寧に折り直した。 折り直して、縫い箱の下にそっと入れた。入れたとき、箱が鳴らないように手首を少しだけ浮かせた。

 それだけで、幹夫は分かった気がした。 預かった。 捨ててはいない。 どこかへ返してしまったわけでもない。

 母は縫い物を再開した。 針が入って、出る。 入って、出る。

 幹夫は、自分の胸の奥を確かめた。 警報は鳴っている。けれど、尖っていない。波みたいに、寄せて返す鳴り方になっている。

 夜、布団に入ってから、幹夫は眠れなかった。 眠れないのは不安だからじゃない。返事が欲しいからだ。 返事、と言っても、大きな言葉じゃなくていい。母の「うん」みたいな、薄い返事でいい。

 隣の部屋で、布が擦れる音がした。母が寝返りを打った音。 その音は「うん」でも「ありがと」でもない。 でも――「いる」が分かる音だった。

 幹夫は、胸の内ポケットの鉛筆に触れた。 硬い。 硬さがあれば、明日も書ける。明日も返せる。返して、返されるかもしれない。

 そのとき、ふっと気づいた。

 母は、紙を返してくれなかった。 けれど、紙を返す代わりに、鉛筆を削ってくれたのだ。

 削って、使える形にして、幹夫の手に戻してくれた。 それは、母の返事の仕方だった。 声じゃない返事。紙じゃない返事。 暮らしの中に隠して返す返事。

 幹夫はその返事が、少しだけ嬉しくて、少しだけ切なかった。 嬉しいのは届いたから。 切ないのは、返事がいつも折り畳まれているからだ。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 でも、返事は届く。 届く返事の形は、声だけじゃない。針の音でも、削った鉛筆の先でも、縫い箱の下へ丁寧にしまう手つきでもいい。

 幹夫は、目を閉じた。 胸の奥の音に、そっと言った。

 ――うん。

 それは誰に呼ばれた返事でもないのに、幹夫の中ではちゃんと、明日へ返っていく音だった。

 
 
 

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