伝の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月16日
- 読了時間: 9分

戸口の横の「置き布」は、朝の光を少しだけ吸って、白っぽく見えた。 白っぽい布は、冷たくない。 冷たくないと、手が先に落ち着く。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
息をひとつ入れた、そのとき。
とん、とん。
戸を叩く音。 大きくないのに、境目の音は胸に届きやすい。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
母が台所の境目から、急がせない声で言った。
「はーい」
戸が開くと、朝の潮の匂いに混じって、外の人の匂いが入ってきた。 外の人の匂いは、悪い匂いじゃない。 ただ、家の中の匂いじゃない。
戸口に立っていたのは、隣の家のおきぬさんだった。 手に、板みたいなものを抱えている。 板の上に紙。 紙の角が少し硬い。
「回覧板だに。……ごめんね、朝から」
回覧板。 その言葉だけで、幹夫の胸がちいさく鳴った。 “伝えるもの”が来た、という鳴り方。
鳴ったから、息。
――いき。
おきぬさんは、板を戸口の近くへ差し出して――置こうとして、いちど止まった。 止まったのは、置き布が見えたからだ。
「……ああ、ここに置いていい?」
母が頷く。
「うん。そこ、置き布だに。……布の上なら、がんって鳴らん」
おきぬさんは、板を布の上へ、そっと滑らせるように置いた。 とん。 音が小さい。 小さいと、父の肩も跳ねない。
父が縁側の端から、ぽつりと言った。
「……戸の音だ。……板の音だ」
名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
母が回覧板をめくった。 紙の擦れる音が、さら、と鳴る。 さら、は刺さらない。
母は声に出して全部は読まない。 “読む”が走ると、家の中の息が走る日があるのを知っているからだ。
母は短く、置くように言った。
「……今度の集まり、だに。隣組の……あと、配給のこと」
配給。 飯につながる言葉。 飯につながると、暮らしに戻れる。
でも、紙の端っこに、カタカナがひとつ、刺みたいに立っていた。
サイレン。
幹夫は目が止まって、喉の奥が熱くなった。 熱くなると走りそうだから、息をひとつ入れる。
――いき。
父も、その字のところで目が止まった。 止まって――目の奥が一瞬だけ遠くへ行きかける。 でも、父は息を吐いた。
ふう……。
「……書いてあるだけだ」
“だけ”。 その“だけ”が、今日の父の助けになっていた。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「紙は鳴らん。鳴るのは腹だに。……腹鳴ったら飯だ」
太い道の言葉が、家の真ん中を通る。
おきぬさんが、少し申し訳なさそうに言った。
「こっちじゃ届かんって分かっとるけどねぇ……“鳴ったら”の書き方、どこも同じだに」
父が、ぽつりと返した。
「……届かんでも……書くんだな」
書く。 伝える形。 紙の上の“伝える”。
おきぬさんは、母の顔を見て、声を落とした。
「兄さん、次、清水屋だら? ……回すの、お願いね」
母が頷く。
「うん。……回すだに」
回す。 輪になる。 輪は切れにくい。
おきぬさんが帰って、戸が閉まる。 戸が閉まる音が、小さく、ころん、と落ちた。
父が縁側の端で、息を吐いた。
ふう……。
「……伝えるもんが来ると……胸が忙しいな」
忙しい、という言い方が、幹夫の胸を少しだけ撫でた。 怖い、だけじゃない。 忙しい、は暮らしの言葉だ。
幹夫は袋を押さえて、口の中で言った。
――いき。
昼前。 母は回覧板を便りの箱の横に、いったん置いた。 置く。 投げない。 落とさない。 置くと、紙の“急ぎ”が眠る。
母が言った。
「父ちゃん、清水屋まで回してくれる?」
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父はすぐに返事をしなかった。 間がある。 その間は、逃げじゃなくて、入口を探す間だ。
父が、ふう、と息を吐いてから、ぽつりと言った。
「……みき坊、いっしょに行くか」
いっしょに。 その言葉が、回覧板の紙より先に、幹夫の胸へ届いた。
鳴ったから、息。
――いき。
「うん」
母が、急がせない声で言った。
「じゃあ、置き布の上で持ってけ。……板、硬いでな」
父は回覧板を手に取る前に、置き布へいちど置いた。 置いてから、持つ。 “持つ”の前に“置く”があると、手が荒くならない。
父は板を抱えた。 抱えるのに、ぎゅっとしない。 逃げない程度に、そっと。
幹夫は父の横へ立って、首の袋を押さえた。
――いき。
外へ出ると、道の匂いがした。 潮と、砂と、どこか鉄の匂い。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。
清水屋の前で、父の足が止まった。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れた。
――いき。
父が戸を叩く。
とん、とん。
自分の手で出す音は、少しだけ扱える。 でも、それでも胸が動く日がある。
戸が開いて、清水屋のおばさんが顔を出した。
「あら、回覧板だに。……ご苦労さん」
父は板を差し出すとき、いちど言った。
「……布、ありますか」
清水屋のおばさんは目を丸くして、それから笑った。 笑いは刃じゃない。
「あるある。……最近みんな布だに。ええことだ」
清水屋のおばさんが、戸口に小さな布を広げてくれた。 父は回覧板を、その布の上にそっと置いた。
とん。
音が眠る。
父がぽつりと言った。
「……伝えるもんは……置いて渡す」
清水屋のおばさんが頷いた。
「そうだに。……投げると、心も投げるでな」
心も投げる。 その言葉が、幹夫の胸の奥にすとん、と座った。
帰り道、父がぽつりと言った。
「……俺、伝えるの……怖かった」
幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖る日がある。 だから、間。
――いき。
「……うん。……でも父ちゃん、いま、置けた」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……置けたら……伝えられるな」
置けたら伝えられる。 今日の道の言葉になった。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
伝
幹夫はその字を見た瞬間、置き布の上の回覧板を思い出した。 硬い板でも、布の上なら刺さらない。 刺さらないと、渡せる。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは人だに。……ひと」
人。 おきぬさん。 清水屋。 父。 幹夫。
母は右側をなぞった。
「こっちは“云う”みたいな形だに。言う、ってこと。……昔は“傳”ってもっと複雑だったけど、今はこの形で“つたえる”」
つたえる。 口で言う。 紙で回す。 手で渡す。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「伝えるってのはな……人が、言葉やしらせを手から手へ渡す字だに。投げるんじゃない。置いて、渡す」
置いて、渡す。 九十四の“置”が、ここへ戻ってきた。
母は続けた。
「それとな、伝えるときは“間”が要る。……受け皿と同じ。いったん置けば、相手の胸に刺さらん」
刺さらん。 父の肩が少しだけ落ちた。
父が新聞紙の「伝」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、伝令って言葉、嫌いだった」
伝令。 戦の匂いがする言葉。 父の胸の奥の硬いところに触れる言葉。
母は否定しなかった。 低く言った。
「うん。……でも“伝える”は、戦じゃなくてもあるだに。飯ができた、って伝える。燕が戻った、って伝える。……みきの“いき”も、父ちゃんに伝わる」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……伝えるのを……戦から取り戻す、か」
取り戻す。 戻る。 返の匂い。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「取り戻したら飯がうまい。……伝えるなら飯のあとだに」
幹夫は鉛筆を握った。 人を書いて、右を書く。
一回目の「伝」は、右が詰まって、字が息苦しい顔になった。 息苦しいと、胸がきゅっとする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「詰まったらな……人を太らせりゃええ。伝えるのは、人の温度だに。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「伝」は、少し丸い顔になった。 丸いと、渡せる字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「伝」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……渡した手が離れる感じがするな」
離れる。 離れると、抱え込まない。 抱え込まないと、潰れない。
母は「伝」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、回覧板の判の丸みたいに見えた。
夜。 戸口の置き布の上に、今夜は何もない。 でも、布がそこにあるだけで、明日も置ける気がする。
父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
かいらんばんこわかったでもぬの の うえ に おけたおいたらわたせたつたえる っておく って こと だなみきぼういき つたわったいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……伝えるって……相手の胸を考えるんだな」
幹夫は返事を急がなかった。 間を置く。
――いき。
「……うん。……刺さらないように、置く」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……刺さらん伝え方……覚えたい」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「覚えりゃええ。……今日みたいに。布、箱、皿。場所があれば、伝えられるだに」
祖母が淡々と言う。
「場所がありゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 伝えられる明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
つたえる ってひと が ことば をて から て へ わたす って こと なんだねきょうかいらんばん きたとうちゃん こわかった けどぬの の うえ に おいてしみずや に わたせたささらない ようにおくいき
最後に、小さく「伝」。 丸をひとつ。 判の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは“サイレン”の字の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
つたえる はひと が ことば を わたすなげんおいて わたすま と いきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうかいらんばんちょい こわかったでもおけたわたせたおまえ の いき がつたわったすこしおれ も つたえられた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――置き布の端を切った、小さな布の切れ端。 角が丸く縫ってある。刺さらない角。 その布のすみに、父の震える字で小さく、
つたえ
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその布の切れ端を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
伝える。 投げない。 置いて渡す。 相手の胸に刺さらないように、息と間を連れていく。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、布の上で眠った回覧板の“伝える”は届いた。 届いたやわらかい渡し方を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、言葉と暮らしを、そっと手から手へ渡していった。





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