報の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月5日
- 読了時間: 7分

「配達済」の紙が控え帳に挟まってから、母の手は少しだけ落ち着いた。 落ち着いた、というより――落ち着いたふりが、上手になった。
針は布に入って、出る。 入って、出る。 祖母は鍋をかき回して、湯気を逃がす。 家はいつもどおりの顔をしているのに、どこか「待つ」だけが、机の下に座っている。
幹夫はその「待つ」を、数えることで抱えた。 控え帳の端の棒。一本ずつ増える、小さな印。 一本、二本、三本。 数えると、胸の中の警報が丸くなる。数は嘘をつかない。
その朝、縁側の光がいつもより白く、海の匂いが少し薄かった。 風が山から降りてきている匂い。 蒲原の空気が、海と山の間でゆっくり混ざるときの匂いだ。
そこへ、鈴が鳴った。
ちりん。
細い音。 細いのに、胸の奥まで届く音。 届く音は、いつも少し怖い。
「郵便でーす」
母が立った。 立ち上がり方が、ほんの少し遅い。 遅いのは迷っているからじゃない。迷っているのに、逃げない遅さだ。
戸が開く。 声が入る。 紙の擦れる音がする。
母が受け取ったのは、封筒だった。 白い封筒。端がぴしっとして、字がまっすぐで、紙が「役目」の顔をしている。 見るだけで、胸が一段固くなる顔。
母はその場で裏返し、目を走らせた。 走って、止まって、また走って―― 止まったところで、母の喉がほんの少し動いた。
その動きを幹夫は見てしまう。 見てしまうと、見なかったことにできない。 見なかったことにできないと、胸の中が熱くなるのに、口が冷たくなる。
母は封筒をちゃぶ台に置かなかった。 控え帳の横へ、そっと置いた。 落とさない置き方。飛ばさない置き方。 紙を紙のままにしておく置き方。
祖母が台所から聞いた。
「来たか」
母は、すぐには答えなかった。 封筒の口を指でなぞって、息をひとつ入れてから、ゆっくり開けた。
中の紙は一枚じゃなかった。 薄い紙が二枚。 薄いのに、重い顔。
母は一番上を読んだ。 読みながら、眉間が固くならないように、眉間の代わりに唇を結ぶ。 結ぶ口は、声を外へ出さない口だ。
読み終わると、母は息を吐いた。 軽くも重くもない息。 「終わった」じゃなくて、「次へ」の息だった。
「……何て」
幹夫が聞くと、母は紙の上の一行を指で押さえた。
「“報告”って書いてある」
ほう・こく。 音が二つ、畳の上へ落ちる。 落ちた音は、転がらずに止まった。止まる音は、続きを持っている。
幹夫は、その字の形を見た。 「告」はまだ分からない。 でも「報」のほうに、目が吸い寄せられた。
「母ちゃん、これ……」
幹夫が指さすと、母は小さく頷いた。
「報。……知らせる字だに」
母は新聞紙の裏を引き寄せて、ゆっくり書いた。
報
幹夫は、じっと見た。 左側に、見覚えのある形がある気がした。 母の指がそこをなぞる。
「ここ、“幸”が入っとるだろ」
幸。 しあわせ。 幹夫はその音だけで、胸が少しあたたかくなるのを感じた。 しあわせ、は家では大声にならない言葉だ。小声で置かれる言葉だ。
「報ってな……幸せの“幸”が入ってるのに」
母はそこで一度止まって、目を伏せた。 伏せた目は、折り畳まれた声の形をしていた。
「……幸せだけとは、限らん」
母はそう言って、指先を紙から離した。 離した指先が、ほんの少し震えた。 震えは寒さじゃない。期待が触れた震えだ。
祖母が台所から、淡々とした声で言った。
「ほいで、何だい」
母は紙へ戻って、もう一度読んだ。 読むときの目は、針穴に糸を通す目だ。外れないように、外れないように。
「……父ちゃんと似た人の記録が、ひとつあったって」
母の声は低い。倒れない低さ。 倒れない低さなのに、そこに小さな波が混じっていた。
「似た、って……」
幹夫が言うと、母は首を少しだけ傾けた。 傾け方が難しかった。 嬉しいだけでも、怖いだけでもない。
「名前と、生まれの年が……合いそうで、合いきれん」
合いそうで、合いきれん。 「合」の字を思い出す。答の下にいた合。 合う場所があれば答え、と母は言った。 けれど、合いきれないときは――答えはまだ途中だ。
母は紙を指でたどって、次の行を読んだ。
「……本人確認のために、写真があれば送れって」
写真。 その音が出た瞬間、幹夫の胸の中で、押し入れの暗さがひらいた。 襖の隙間。折り畳まれた写真。 母が声を出さなかった夜。
母は紙を畳み、畳み直し、結局畳まずに、しばらく掌の上に置いた。 紙を紙のままにしておくための置き方。 置き方が揺れると、胸が揺れる。
「……母ちゃん、写真……あるの」
幹夫が言うと、母は一瞬だけ幹夫を見た。 見方が、探る見方じゃない。叱る見方でもない。 見届ける見方だった。
「ある」
母は短く言った。 短いのに、そこに長い時間がくっついている。
「……手、洗ってこい」
母が言った。 その言い方は、砂糖の皿の前と同じだった。 大事なものに触れる前の声。
幹夫は裏口で手を洗った。 水が指の間を走る。冷たい。 冷たいのに、指先だけが熱い。熱いのは、怖いからだ。
拭いて、戻ると、母は押し入れの奥へ手を入れていた。 箱ではない。 布でもない。 紙よりも薄い、何かを探す手つき。
母が取り出したのは、小さな封筒だった。 封筒の紙は黄ばんで、角が丸い。 丸い角は、長く生きた角だ。
母はその封筒を、ちゃぶ台の上に置かなかった。 畳の上に、そっと置いた。 畳の上は、落としても音が出にくい。音を立てないための場所。
母は封筒を開けて、中から一枚の写真を出した。 写真は、小さかった。 小さいのに、部屋の空気を一気に変えた。
紙の上に、男の顔があった。 まだ会ったことのない顔。 でも、知らない顔じゃない気がした。
母は写真の端を押さえながら、幹夫のほうへ少しだけ向けた。 見せる、というより――逃がさないために、置く。
「……父ちゃん」
母が言った。 声は小さい。 小さいのに、声の中に海が入っている気がした。潮の匂いじゃなく、深さのほうの海。
幹夫は写真を見た。 男の目は、笑っているのに、どこか遠い。 眉は少し濃くて、口元がやわらかい。 そのやわらかさが、幹夫の胸をきゅっとした。やわらかいものほど、消えそうに見えるからだ。
幹夫は、写真の端に指を置いた。 置いただけ。撫でない。 撫でると、落ちる気がした。落ちるのは紙だけじゃなく、気持ちも落ちる気がした。
母が、ぽつりと言った。
「……似とる」
何に、とは言わなかった。 言わないのに、幹夫は分かった。 幹夫の目の形。耳の形。 母が毎日見ている、幹夫の中の「誰か」。
幹夫は喉の奥が熱くなって、声が出なかった。 代わりに、息をひとつ入れた。 母が教えてくれた「まず いき」の息。
母は写真の裏を返した。 裏には鉛筆の字があった。 幹夫には読めない。けれど、字の並びが「住所」の匂いをしていた。 宛名のない便りの白が、胸の中でふっと開いた。
「これ……送るだか」
幹夫が言うと、母の指が写真の端を、ほんの少し強く押さえた。 強く押さえるのは、落としたくないから。 落としたくないのに、手は離さなければいけない。
「そのままは、送らん」
母は言った。 言い方が、崩れない言い方だった。
「焼き増し、して……写しを送る」
焼き増し。 幹夫はその言葉を、口の中で転がした。 増える、という音は、少しだけ救いだった。 たった一枚しかないものが、増える。増えるなら、失くしても全部にはならない。
母は写真を封筒に戻す前に、もう一度だけ幹夫に向けた。 幹夫は、目を離さずに見た。 見ているだけで、胸の中に新しい折り目がつく気がした。 折り目がつけば、風に飛ばされにくい。
母は写真を封筒へ戻し、封筒を布で包んだ。 包み方が、線香の包み方と似ていた。丁寧で、音を立てない。
祖母が鍋をかき回しながら言った。
「報せ、ってのはな……来たら来たで、また腹ぁきまるで」
腹がきまる。 その言い方が、幹夫には少し怖かった。 怖いのに、どこか頼もしい。腹がきまると、手が震えても手が動くからだ。
母は小さく頷き、新聞紙の裏にもう一度「報」を書いた。 さっきより少しだけ太い線。 太いのに、乱暴じゃない。
「幹夫」
母が言った。
「これ、覚えとけ。……報」
幹夫は頷いた。 頷いたあと、鉛筆を取り、母の「報」を真似して書いた。 左の「幸」が、少しよろけた。 よろけても、幸は幸の顔をしていた。 よろけた幸が、幹夫の胸と似ていて、少しだけ落ち着いた。
母はその横に、小さな丸をひとつ描いた。 消印の丸じゃない。 受領証の丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。
夜、幹夫は自分の帳面を開いて、「問」と「答」と「報」を並べた。 門の中の口。竹の上の合。幸の入った報。
並べると、字が少しずつ、家の中の音になっていく気がした。 問いかける音。 息を入れて答える音。 そして、怖さも嬉しさも一緒に運んでくる報せの音。
布団に入る直前、母がそっと言った。
「明日、清水まで行く。……写真、焼いてもらう」
清水。 港の汽笛。迎えの輪。違う、の喉の動き。 いろんなものが一気に胸に来て、幹夫は息をひとつ入れた。
「うん」
声で返す「うん」はすぐ消える。 でも今日は、消えるのが怖くなかった。 写真の男の目が、紙の向こうでちゃんと残っている気がしたからだ。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、紙の上の「報」は届いた。 幸の入った字が、まだ途中の家の中で、折り目を増やしながら、そっと息をさせていた。




コメント