届の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月3日
- 読了時間: 7分

「不明」を書いた紙は、ちゃぶ台の隅で乾いていた。 鉛筆の黒は、夜を越えると少しだけ落ち着いた顔になる。昨日の幹夫の手の震えも、朝の光の中では「線」に見えて、怖さの形が薄まる。
幹夫はその「不明」を見て、まだ少しだけ不思議だった。 分からない、の中に「明るい」が入っている。 分からないままでも、暗いだけじゃない――そう思ったのは、たぶん、昨日の夕焼けの赤が怖くなかったからだ。
台所から、鍋のふたが鳴った。 祖母が湯をよそぐ音。 その音に混ざって、母が封筒を触る、紙の擦れる音がした。
幹夫の胸の中の小さな警報が、丸く鳴った。 「見てしまうな」と言う音じゃない。 「気づいてしまったな」と言う音だ。
座敷の隅で、母が例の封筒を布から出していた。 角の潰れた茶色。 消印の丸。 四角い印――宛所不明。
母は封筒を開けなかった。 開けないまま、封筒の端を親指でなぞった。 なぞる動きは、貝殻の欠けを砂で丸めるみたいに、刺さらないようにする動きだった。
「母ちゃん」
幹夫が呼ぶと、母は封筒から目を離さずに返した。
「なに」
返事は短い。短いのに、ちゃんと届く。 縫い箱の下の「うん」みたいに。
「それ……どうするの」
母はしばらく黙って、封筒を布に包み直した。 包むとき、丁寧に。 丁寧に包むのは、捨てないためだ。
「……役場、行く」
母はそう言った。 役場。 幹夫はその言葉を、口の中で転がした。駅でも郵便局でもない、もうひとつの「紙の場所」。大人が行く、紙の場所。
祖母が台所から顔を出した。
「行ってきな。ついでに、芋の札も聞いてこい」
芋の札。配給の札。 札も紙だ。紙は家の中のものを決める。決めるのに、食べ物にならない。食べ物にならない紙が、家の中を動かす。
母は小さく頷いた。
「幹夫も、行くか」
母が言った。 幹夫の胸が、少しだけ跳ねた。 行く、という言葉には「見ていい」が混ざっている。見ていい、は、信じていい、に似ている。
「うん」
幹夫はすぐ答えてしまって、少しだけ恥ずかしくなった。 嬉しさが先に走ると、後から照れが追いかけてくる。
役場へ向かう道は、郵便局へ行く道より少しだけ内側だった。 海の匂いが薄くなって、代わりに土と木の匂いが増える。匂いが変わると、胸の中の警報の鳴り方も変わる。海のときは波みたいに、内側の道では、もっと小さく、針の音みたいに鳴る。
母は封筒を風呂敷に包んで、胸の前で抱えていた。 抱えているというより、落とさないように押さえている。落とさないように、というのは、なくさないように、ということと似ている。
役場の建物は、思ったより地味だった。 大きいのに、大きい顔をしていない。壁の板が日に焼けて、看板の字だけが少し黒い。幹夫は字を全部読めないのに、「役場」という形だけが分かった。形が分かると、胸が少しだけ落ち着く。
中へ入ると、紙の匂いがした。 郵便局の紙の匂いより、少し湿っている。紙が長くここにいる匂い。紙が動くんじゃなく、溜まっていく匂い。
机が並んでいて、人が座っている。 机の上に紙が積まれている。 紙の山は、波の山と違って崩れない。崩れないのが、かえって怖い。
母が窓口へ行くと、男の人が顔を上げた。 目の前の人の顔より、風呂敷を先に見た目だった。風呂敷を見る目は、「中身は何か」を先に知りたがる目だ。
「……すみません」
母の声は低かった。崩れないように置く声。 母は風呂敷を少し開いて、封筒を見せた。 男の人が封筒の印を見て、眉をほんの少しだけ動かした。
「宛所不明……」
男の人がそう言ってから、母の顔を見た。 母はその目を受け止めて、すぐに伏せた。伏せたのは弱さじゃない。余計なものを見せないための癖だ。
「……問い合わせ、できますか」
母が言った。 問い合せ。 問い、と合せ。 二つの言葉が重なると、紙の匂いがさらに濃くなる気がした。
男の人は引き出しから紙を取り出した。 紙は白い。真っ白じゃない白。 その白は、宛名欄の白に似ていた。空っぽの白。書くための白。
「こちら、記入してください」
母が紙を受け取るとき、指が少しだけ震えた。 震えは寒さじゃない。 書く、という行為が、また何かを決めてしまう震えだ。
母は机の端で、鉛筆を借りて書き始めた。 字を書く母の背中を見るのは、幹夫にとって少し不思議だった。母はいつも針で暮らしを縫う人なのに、紙の上では「名前」を縫う。縫う場所が違うだけで、指の力は同じだった。
幹夫は、机の端に押された赤い印を見た。 印。 丸じゃない。四角でもない。 「受付」と読めないのに、形だけで分かる気がした。受け取る、という字が入っている気がした。
男の人が、母の書いた紙を見て、何かを確認した。 そのあと、母に向かって言った。
「こちらは、“届出”になります。県のほうへ回しますので……返事が来たら連絡します」
届出。 届く、の「届」。 幹夫は胸が小さく跳ねた。
サイレンは届かなかった。 でも、届くという言葉がここにある。 届く、は音だけじゃないのかもしれない。
「……届く、って?」
幹夫が小さく口にすると、母が書く手を止めた。 止めた時間が、ひと呼吸ぶん長い。
母は幹夫を見て、少しだけ困った顔をした。 困ったのは、答えがないからじゃない。答えがありすぎるからだ。
「……届くは、…手ぇが届く、の届く」
母はそう言って、幹夫の肩に触れた。 触れる指が、優しい。 届くは、触れることに似ている。
「それから、こういう紙の“届”もある。……出したって、知らせるやつ」
知らせる。 サイレンは知らせる音だ。 でも、紙の届は、叫ばない。静かに知らせる。
母は書き終えて、紙を窓口へ出した。 男の人が赤い印を、どん、と押した。
どん。
郵便局の消印の音と似ているのに、違う。 消すためじゃない。受け取った、と残す音だ。
幹夫の胸の中の警報が、少しだけ静かになった。 「返ってきた」の痛さの隣に、「受け取った」の音が置かれたからだ。
母は封筒を風呂敷に戻して、深く頭を下げた。 頭を下げる背中が、さっきより少しだけ軽く見えた。軽いのは、希望じゃない。荷物を一瞬、机に預けた軽さだ。
帰り道、風が少し弱くなっていた。 弱くなると、海の匂いがまた戻ってくる。匂いが戻ると、町が町の顔を取り戻す。役場の紙の匂いが、鼻の奥から少しずつ引いていく。
「母ちゃん」
幹夫が呼ぶと、母は「なに」と返した。 返事の声が、いつもより柔らかい。柔らかい声は、胸を急がせない。
「届出、したら……届く?」
幹夫は、言葉を選ばずに聞いた。 届く、という字が胸に残ってしまったからだ。
母は少しだけ黙って、空を見た。 空を見る目は、いつも答えの代わりに広さを持ってくる目だ。
「……届くかもしれん。届かんかもしれん」
母は正直に言った。 正直さは痛いのに、痛いからこそ嘘じゃない。
「でもな」
母はそこで止まって、幹夫の手を軽く握り直した。 握り直しは、返し縫いみたいだった。一回戻って、また進む握り直し。
「出さんと、絶対届かん」
その言葉は、幹夫の胸にまっすぐ落ちた。 出す。 出さないと、届かない。 届かないサイレンの代わりに、母はこうやって紙を出しているのだと思った。
家に戻ると、祖母が「どうだった」と聞いた。 母は「届、出してきた」とだけ言った。 祖母は「ほう」と頷いて、芋の皮を剥く手を止めなかった。止めない手が、家を家にしている。
その夜、母はちゃぶ台に新聞紙の裏を広げた。 鉛筆を出し、幹夫の前に置いた。竹を継いだ鉛筆の重さが、今日は少しだけ頼もしい。
「今日はな、さっきの“届”を書く」
母はそう言って、ゆっくり字を書いた。
届。
上に屋根みたいな形。下に田んぼみたいな形。 幹夫にはそう見えた。
「これ、屋根の下に“由”って書く。……由は、理由の由だに」
理由。 理由という言葉は大人の言葉だ。 でも母の指先が紙の上で動くと、難しい言葉も、ただの線になる。線になると、怖くなくなる。
幹夫は真似をした。 一画目、二画目。 途中で線がよろけた。 よろけたところで、胸の中の警報がちくりと鳴った。
「ええ。転んでもいい」
母が言った。 転ぶのが悪いことじゃない、と言ってくれる声があると、線は少しだけまっすぐになる。
幹夫はもう一度書いた。 今度は、少しだけ形が「届」になった気がした。
「……届く?」
幹夫がぽつりと言うと、母は小さく笑った。笑いは薄い。湯気みたいな笑い。
「届くよ。……この字は、届く字だに」
届く字。 幹夫はその言い方が嬉しくて、でもすぐ胸がきゅっとした。 届く字があるなら、届かないものもある。届かないものの影が、届く字の横に座ってしまう。
母は、幹夫の書いた「届」の隣に、小さな丸をひとつ描いた。 消印の丸じゃない。受け付けの印でもない。 ただ、「ここまで」と言う丸。
「今日は、ここまで。……明日、また」
母が言った。 明日。 「不明」の中にいた「明」が、ふっと顔を出した気がした。
幹夫は紙を丁寧に畳んで、内ポケットに入れた。 鉛筆の硬さの隣に、届の字が座る。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 でも今日、母は役場に「届」を出した。 紙は叫ばない。 それでも、出したという事実は、どん、という音でちゃんと残った。
幹夫はその残り方が、少しだけ好きだった。 大きな音じゃないのに、消えない残り方。 残るものがあると、明日を置く場所ができる。 幹夫は、その場所を胸の内ポケットの中にそっと作って、眠りへ戻っていった。




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