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届の字

 面会の翌日、家の中の音は少しだけ「元に戻ったふり」をした。 鍋のふたは鳴るし、祖母は味噌を溶くし、母の針は布に入って出る。入って、出る。 けれど、音が戻ったふりをすればするほど、戻れないものの形がはっきりする日でもあった。

 ちゃぶ台の上には、昨日書いた紙の控えが重ねられていた。 父の名。 母の名。 続柄。 あの白い面会室で、声が折り目みたいに震えた瞬間――「みき坊」が届いた瞬間――そのあとに残った線。

 母は机を拭き終えると、布巾をたたんで、いちどだけ手のひらを見た。 針を持つ手。紙を揃える手。 揃えた指先が少し白い。白いのは冷たいからじゃない。力を入れているからだ。

 幹夫は上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに、痛くない。 痛くない重さは、胸の走りを少しだけ遅くしてくれる。

 昼前、鈴が鳴った。

 ちりん。

 細い音。 細いのに、胸の奥を先に叩く音。

 幹夫は立ち上がりかけて、止まった。 止まる。 止まれるのが、今日は少し偉かった。 昨日、会の字で「足が止まる」って覚えたからだ。止まれると、息が入る。

 母が立った。 立ち方が、ほんの少し遅い。 遅いのは迷いじゃない。迷いがあるのに、逃げない遅さだ。

 戸が開く。 光がいちど畳の影を揺らす。 紙の擦れる音がして、白い封筒が母の手に渡る。

 差出人――清水。役場。

 母の喉が、ほんの少し動いた。 幹夫はその動きを見てしまう。 見てしまうと、見なかったことにできない。 見なかったことにできないと、胸の中の警報が尖りそうになる。

 母は封筒をちゃぶ台に置かなかった。 控え帳の横へ、そっと置いた。落とさない置き方。飛ばさない置き方。 紙を紙のままにしておく置き方。

 祖母が台所から聞いた。

「来たか」

 母はすぐに答えず、封筒の口に指を入れた。 ぱき。 固い封筒は、開くときに「決める」音を出す。

 母は中の紙を取り出し、目を走らせた。 走って、止まって、また走って――止まったところで、息をひとつ入れた。

 まず、いき。

「……“届出”って書いてある」

 母が言った。 とどけで。 音が、口の中で柔らかく転がるのに、胸の奥では少し硬い。 紙の世界の言葉の音だ。

 母は紙の一行を指で押さえた。

「身元引受……届」

 引受。 引き受ける。 幹夫は、母が縫い箱の下の紙を“預かる”ときの指を思い出した。 引き受けるって、あの指の強さに似ている気がした。

 母は続けた。

「会った人を……家で引き受けます、って書いて出せって」

 家で。 その二文字が、幹夫の胸にすとんと落ちた。 家。畳。竈の匂い。縫い箱の影。 そこへ、あの白い部屋の男が――父かもしれない男が、来る、ということになる。

 来る。 来るのは嬉しいかもしれない。 でも来るのは怖い。 嬉しさと怖さが、同じ袋に入って、口の中でほどけない。

 祖母が鍋をかき回しながら言った。

「届出、ってのはな。言いっぱなしにせんってことだ。紙で、役場に“言う”」

 言う。 言の字。 証の字の左側。 言うと、残る。残ると、逃げにくい。 逃げにくいのは、怖いときもあるけど、迷子になりにくい。

 幹夫は、我慢できずに聞いた。

「……“とどけ”って、なに」

 母は鉛筆を取った。 竹を継いだ鉛筆。継ぎ目の硬さ。 母は新聞紙の裏を一枚広げ、ゆっくり書いた。

 届

「これが“とどく”の字」

 幹夫は目をこらした。 上に、屋根みたいな形。 下に、由――理由の由の形。

 母は上のところを指でなぞった。

「これな……家の中、みたいなもんだに」

 次に下をなぞる。

「こっちは、道すじ、みたいなもん。よし、って読むときもある」

 よし。 母が丸をつける「よし」。 “ここまで”の丸のよし。 由がよしに見えるのが、不思議に嬉しかった。

「家の中からな、道すじを通って……向こうへ届く」

 母は言って、少しだけ間を置いた。

「手が届く、って言うだろ。……あれと同じ」

 幹夫は、自分の手を見た。 小さい手。 港の柵には届かなかった手。 でも、紙なら届く。 紙なら、遠い清水へも届く。

 幹夫はぽつりと言った。

「サイレンは……届かなかったのに」

 言ってしまってから、胸がきゅっとした。 サイレンは家の中で固くなる言葉だ。 固くなると、母の眉間が固くなる気がして怖い。

 でも母は眉間を固くしなかった。 母は、息をひとつ入れてから、静かに言った。

「……届かんもんもある。風とか、山とか……いろんな“間”があって」

 間。門の中の日。 届かないのは、なかったことになるわけじゃない――幹夫はそうやって覚えてきた。

 母は続けた。

「でもな。届くもんもある」

 そして、幹夫を見た。

「昨日の“みき坊”は、届いたろ」

 幹夫の胸の奥が、熱くなった。 熱いのに、息ができる熱さだった。 届いた。 届いたって言えるものが、ひとつある。

 母は届出の紙をちゃぶ台に置き、枠を埋め始めた。 住所。氏名。続柄。 そして、引受の欄。

 母の鉛筆が、そこだけ少し遅くなる。 遅いのは迷いじゃない。 遅いのは、落とさないための遅さだ。

 空っぽの袖の男が戸口に来て、帽子を胸に押さえながら言った。

「……それ、出すなら、俺が持ってく」

 母は首を横に振った。

「私が出す」

 短い声。 短いのに、強い。 強いのは怒りじゃない。引き受ける強さだ。

 男は一度だけ頷いて、それ以上何も言わなかった。 言わない優しさは、家の匂いがした。

 母は最後の欄に署名して、印鑑の代わりに役場の指定の印の場所へ、拇印を押すように言われていた。 朱肉じゃなく、黒いインク。 指先に付く冷たい黒。

 母は指を押す前に、息をひとつ入れた。

 まず、いき。

 そして、押した。

 ぺた。

 音は小さい。 どん、ほど残る音じゃない。 でも、指先に残る黒が、残る音みたいだった。

 幹夫は思わず、自分の指先を見た。 何も付いていない指。 でも、縫い箱の下の紙を折る指。鉛筆を持つ指。 指は、小さくても届くことをする。

 午後、郵便局へ向かった。 風があったので、母は届出の封筒を腹んとこに入れ、上着を重ねた。 祖母の言い方どおり。腹は踏ん張る場所だ。

 窓口で母が封筒を出すと、局員が宛名を確かめて言った。

「役場宛てですね。……書留にしますか」

 母は迷わず頷いた。 迷わない頷きの中に、迷いが全部隠れている気がして、幹夫の胸がきゅっとした。

 切手。 朱肉。 そして――

 どん。

 今日も、残す音が鳴った。 残す音は怖いだけじゃない。 「届かせる」ための音だ。

 母は受領証を折り、控え帳の間に挟んだ。 挟むと、紙は飛ばない顔になる。 飛ばない顔が増えると、母の肩がほんの少し落ちた。

 外へ出ると、海の光が強かった。 照り返す光が眩しくて、目の奥が少し痛い。 痛いのに、今日はその痛さが嫌じゃなかった。 光は、届くものだからだ。

 幹夫は歩きながら、言った。

「届くって……走るのとも、違うね」

 母は少しだけ驚いた顔をして、それから小さく頷いた。

「うん。走るのは速だに。……届くのは、着く」

 着く。 その音が、胸の中で静かに座った。 着くなら、迷子じゃない。 迷子じゃないなら、まだ、は息ができる。

 夜。 幹夫は帳面を開いて、今日の字をいちど書いた。

 届

 上の屋根が少し歪んだ。 歪むと、字が子どもの顔になる。 でも下の由が入ると、字が「道すじ」を持つ顔になる。

 母はその横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名は「おかあちゃんへ」。

 > とどく って > みちすじ が できる ってことだね > みきぼう も とどいた

 最後に、小さく「届」。 丸をひとつ。 道すじが飛ばないように置く丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、明日への熱の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、母の字だった。

 > とどく は > て が のびる ことじゃない > て を のばしつづける こと > いき しながら > うん

 最後に、小さな丸。

 幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。

 手を伸ばしつづける。息をしながら。 サイレンは届かなかった。 でも、呼び方は届いた。 紙は届いた。 そして今日、届出も歩き出した。

 幹夫は上着のポケットの石を握って、冷たさを確かめた。 冷たいのに、重い。 重いのに、痛くない。

 届くために必要なのは、走る速さじゃなく――落とさない重さなのかもしれない。 そう思えるだけで、胸の奥の「まだ」が、少しだけ静かに息をした。

 
 
 

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