届の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月17日
- 読了時間: 9分

朝の家は、きのうのはがきの匂いを、まだ少し持っていた。 紙の乾いた匂い。 乾いた匂いは、胸の奥を少しだけ固くする日がある。
ちゃぶ台の端の「まちばこ」は――今日は、空っぽじゃなかった。 小さい板の上に、返事のはがきが一枚、置いてある。 置いてあるだけで、箱が“来る場所”から“行く場所”へ変わる。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
父が縁側で、はがきを見ていた。 見るだけで、まだ触らない。 触らないのは怖いからじゃなく、順番のため。
父の懐から、丸い角の札が出てきて、ちゃぶ台の端にそっと置かれた。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
父が低く言った。
「……ま」
母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。
「今日は出しときな。……返事は、出したら届く。出さんと、箱の中で重くなるだに」
重くなる。 溜めた言葉の重さ。 溜めると、肩が上がる日がある。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父が、はがきをいったん置き布の上に置いた。 置いてから、両手で受けるように持つ。 掴まない。 掴まないと、胸が走らない。
「……切手、いるか」
父がぽつりと言った。
切手。 小さいのに、届くための鍵。
母が頷く。
「いるだに。……駅前の雑貨屋で買える。みきも一緒に行こ」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「行くなら端を歩け。……人の真ん中は腹が荒れる」
端。 逃げ道。 父は小さく頷いた。
「……端でいい」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 父が、自分で端を選べる。
鳴ったから、息。
――いき。
道は潮と砂と、どこか鉄の匂いが混ざっていた。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。 混ざるけれど、ちゃんと分かれる。
駅のほうへ近づくと、線路の音が先に来た。 遠いガタン。 遠いと、まだ息が入る。
――いき。
雑貨屋の前に、赤いポストが立っていた。 赤は派手なのに、朝の光だと少し眠った赤に見える。 眠った赤は、怒っていない赤だ。
父の足が、赤いポストの手前で止まった。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れた。
――いき。
雑貨屋の奥から、店のおじさんが顔を出した。
「兄さん。切手かい」
父の肩が、声でふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父は自分で息を吐いた。
ふう……。
「……一枚」
短い。 短いのに、ちゃんと届く声。
おじさんが小さい切手を一枚、台紙ごと差し出した。 紙の角が硬い。 硬いものは、いったん置きたくなる。
父は受け取る前に、台の上にある布――店の端切れ――をちらりと見た。 布があると、手が落ち着く。
父は切手を、いったん台の上に置いた。 置いてから、指で端を押さえて、受ける。
とん。
音が眠る。
「……ありがとう」
父は、言った。 昨日の「ありがとう」より、少しだけ迷いが少ない。 少ない迷いは、胸を軽くする。
店を出るとき、父は懐のま札を指で撫でた。 撫でて、間を作る。 間に、息。
――いき。
赤いポストのそばの木陰で、父ははがきを置き布の上に置いた。 布を敷いてから置く。 順番があると、手が荒れない。
父は切手の台紙から、切手をゆっくり剥がした。
ぴり。
薄い音。 薄い音は、胸を刺さない。
父の肩が少し動いて――止まる。 止まった「間」に、父は小さく言った。
「……紙の音だ」
名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
ふう……。
切手の裏を、父は舌で濡らした。 ちょっとだけ。 ちょっとだけ、は守り。
切手を、はがきの角へそっと置く。 押しつけない。 置いて、指の腹で撫でる。 撫でると、糸みたいに貼りつく。
幹夫は、切手が“届くための糸”に見えて、喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。
――いき。
父がぽつりと言った。
「……これで……届くか」
届く。 その言葉が、赤いポストの口を急に“口”らしく見せた。
父ははがきを持ったまま、ポストの前へ行く。 行って――すぐ入れない。 いちど、ま札に触れる。
ふう……。
「……ま」
父ははがきを、ポストの口へ差し込んだ。 差し込むと、紙が少し吸われる。 吸われると、戻せない感じがする。 戻せない感じは、怖い日がある。
父の指が止まった。 止まって、息を吐く。
ふう……。
それから、そっと押した。
すとん。
――次の瞬間、箱の奥で
こん。
金属の腹に当たる音がした。 硬い音。 硬いのに、短い音。
父の肩が跳ねかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父が、口の中で小さく言った。
「……箱の腹の音だ」
腹。 祖母の道。 “受ける腹”の音。
父は、ポストの赤い腹を一度だけ掌でそっと撫でた。 叩かない。 撫でる。 撫でると、硬いものも少しだけ丸く見える。
「……行った」
父が言った。 行った、は、出したの言い方。 出した、と言えると、胸が軽くなる。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
そのとき、駅のほうで、遠くの音が上がった。
うぉー……。
汽笛なのか、工場の合図なのか。 長い音は、胸の奥を探ってくる。 探られると、昔の硬いところが目を覚ます日がある。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まって、ま札に触れる。
ふう……。
父がぽつりと言った。
「……遠い音だ」
名前を置く。 置けると、長い音も少しだけ座る。
駅前の人が、誰かに言っていた。
「清水のほうじゃサイレン鳴ったらしいだに」
サイレン。 その言葉だけが、空気を少し冷たくした。
幹夫は思わず父を見た。 父の目が、一瞬だけ遠くへ行きかけて――戻る。 戻る前に、息。
――いき。
父が低く言った。
「……ここまでは……届かん」
届かん。 届かない音がある。 届かないのに、言葉だけ届くことがある。
父は、赤いポストを見て、もう一つ小さく言った。
「……でも……これは……届いてほしい」
“ほしい”が出た。 欲しい、は弱さじゃない。 願いの形。
幹夫は喉の奥が熱くなって、でも走らないように、息を入れた。
――いき。
「……届くよ。……切手、つけた」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……ああ。……信じる」
信じる。 信の字の夜が、ここで息をした。
帰り道、ちゃぶ台の「まちばこ」が、ふと頭に浮かんだ。 待つ箱。 でも今日は、送った。 待つ箱の役目が、少しだけ変わった気がした。
幹夫はぽつりと言った。
「……父ちゃん。ポストも……まちばこ、だね」
父が首を傾げた。
「……ポストが?」
幹夫は息をひとつ入れてから言った。
――いき。
「……うん。……手紙、待ってる箱。……来る箱。……行く箱」
父は少し間を置いて、ほんの少しだけ笑った。
「……そうだな。……あっちは、街のまちばこだ」
街のまちばこ。 その言い方が、幹夫の胸をふわっとさせた。
夕方。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
届
幹夫はその字を見た瞬間、赤いポストの口と、箱の腹の「こん」と、父の「行った」が一緒に浮かんだ。
母は上の形を指でなぞった。
「ここ、しかばね、って言う字の形だに。……でも、見ようによっちゃ、背中を丸めた人にも見えるだら」
背中を丸めた人。 父の背中。 でも、今日は走らなかった背中。
母は下の形をなぞった。
「こっちは由(ゆう)だに。……理由の由。道筋の由」
道筋。 返の字の道。 信の字の言葉の道。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「届くってのはな……体の中の思いが、道筋を見つけて外へ出る字だに。手紙も、返事も、ありがとうも。……道筋があれば届く。道筋がなけりゃ、届かん」
届かん。 さっきのサイレン。 届くものと、届かないもの。
母は続けた。
「でもな、届かんもんを責めんでええ。風で変わる音もある。距離で薄れる声もある。……それでも、届くように工夫できるもんもあるだに。布、ま、息。切手。道具は道だに」
道具は道。 父が今日、道を一つ増やした。
父が新聞紙の「届」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、届くって……走ることだと思ってた」
母は否定しない。 低く言った。
「走らんでも届く。……置いて、待てば届くこともあるだに。ポストみたいに」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「届けば飯がうまい。……届かんでも飯食え。腹が土台だに」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……置いて待つ……それ、好きだ」
好きだ。 父の“好き”が、今日も丸い。
幹夫は鉛筆を握った。 届を書く。
一回目の「届」は、上が詰まって、字が窮屈な顔になった。 窮屈だと、届く道が細く見える。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「窮屈ならな……由の道を太らせりゃええ。届く道を広げる。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「届」は、由が少し座って、字が“通れる顔”になった。 通れると、届く。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「届」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……ポストの口が閉まるみてぇだな。……ちゃんと入った、って」
母が小さく頷いた。
「うん。……入ったら、あとは待つだに。待つのも届くの一部だに」
母は「届」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、消印の丸みたいに見えた。
夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
きってかったはがきぽすと にいれたこん って おとかた うごいた けどま して息 していれたとどく と いい届みちしんじるいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……届くの、待つの……こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、ポストが待ってくれる」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……街のまちばこ……助かるな」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「助かるだに。……ひとりで抱えんでええ。箱にも、道にも、頼ればええ」
祖母が淡々と言う。
「頼れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 届く明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
とどく ってみちすじ が あってそと に でる じ なんだねきょうぼくたちぽすと にはがき いれたこん って おとでもとうちゃんま して息 していれたとどく と いいいき
最後に、小さく「届」。 丸をひとつ。 消印の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えはポストの「こん」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
届 はみちすじ を みつけてそと へ でるおいて まつ の も 届くうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうぽすとこん って なったびく した けどま して息 していれたとどく ってしんじた届 って じすこしむね が ひろい
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――切手の台紙の小さな切れ端。 角が丸く切ってあって刺さらない。 そこに、父の震える字で小さく、
とどく
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその紙片を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
届く。 出して、置いて、待つ。 届かない音があっても、届く言葉がある。 道具と息で、道を太くする。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、赤い箱の腹に落ちた一枚のはがきは届く道へ乗った。 届くほうを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、誰かの胸へ届く“道筋”を、そっと手の中で確かめていた。





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